堕ちていく
律有人はこれっぽっちも納得が行っていなかった。
実際的にどうだったかということはさておき、あれは暴力であったし、自分が味わったのは謂れのない屈辱でもあった。鈴江のせいでこの日の「公共」の授業より後、律有人は好奇の視線に晒されて教室にいなければいけなかったのである。
不当……。
という言葉以外で自分の立ち位置をどう説明すればいいのかも、律有人にはわからなかったが、もう少しだけ解像度の高い目を持っているらしい生央が隣を歩いていたことは幸運だったかもしれない。
「……あのね、律有人」
昨日と同じ河原の築堤に上がったところで、生央が言った。彼は律有人の不機嫌を察して、学校からここまでずっと、一歩半後ろを黙って歩いていただけだったのだ。
「鈴江さんのことを、悪く思っちゃダメだよ」
「は?」
思わず、鋭い声を上げて振り返ってしまった。生央がきゅっと肩を縮ませるのを見てしまったから、それ以上言葉を発することはしなかったけれど。
「……なんでだよ。お前だって俺の案に賛成しただろ」
「……うん。したよ。したから、僕にも責任があると思って……」
責任、という言葉に、律有人はたじろぐ。
「律有人が考えて、言ったアイディアだから、僕はどんなものだったとしても賛成はするよ。でも、そのアイディアで傷つく人がいるかもしれないものだってことはわかってたわけだから、……僕にも責任がある」
生央の言っていることが、律有人には理解できなかった。
律有人が納得いっていないのは、民主主義的な議論の場で、こっちの人権を無視してあんな風に罵られたことであるが、そこに生央が責任を感じるというのは、よくわからない。
「それはだって、民主主義だから」
小さな声で生央は言って、立ち止まった。今日もジョギングコースを行き来する人の影は見えない。
「先週、鈴江さん、全然興味ないし難しいことわからないって言ってたよね。でも、律有人が外国人参政権に反対って言ったとき、すごく反応してた」
確かにそうだった。
見た目がギャルで強そうだから最初から苦手意識があったけれど、あのリアクションがあって、はっきりと「あ、俺こいつダメだ」という感覚を律有人は抱いたのである。
「あのとき、僕思ったんだ。もしかしたら鈴江さんの身近に、日本に住む外国人の人がいるのかな。友達、幼馴染とか、……ひょっとしたらご家族、それか……、鈴江さん自身」
「……は?」
同じ響きの言葉であるが、先ほどよりもヴォリュームは随分落ちた。
「外国人の気持ちに共感できる人のリアクションだなって思ったんだ。僕らが想像するよりもずっと、ずっと、外国にルーツがある人って、苦労してると思うし、……特に最近は、ひどいことを言う人も増えてる。日本が一番、とか」
それのどこが悪いんだ、と律有人は訝しんだ。律有人が創憲の条文を考えるに当たって見たあれこれの主張のうち、一番「そうだよな」と思ったのが、それであった。現実、そういう主張はいま、日本においてもはや少数派とは言えない。一定程度の支持を得るものとして立派に確立されている。
「一番ってことは、二番、三番、……順番を付けるってことだよね」
律有人は反射的に、生央の言葉に同意しそうになった。しかし、やがて導き出されるのが、さすがに同意しかねる二文字の単語であることに素早く気付いて、反論を試みる。
「そう……、そうとは限らないだろ」
「そうかな。……そうだとしてさ、律有人が言った、『いい外国人』って、どんな人?」
どうしてそんなことを訊かれているのか、律有人は察しがつかなかった。
「そんなの……、お前、そりゃ、『いい外国人』は『いい外国人』に決まってるだろ」
「それは、誰が決めるの?」
「それは、日本人が」
「そう。……じゃあ、ええと、律有人。例えばだけど、身体にハンディキャップのある人、僕らと同じようには動けない人については、どう? 緊急事態になったときには、そういう人たちのことを、僕らはどうすればいいんだろう」
「……身体に障害がある人と外国人とは違うだろ。ここで言ってる外国人っていうのは、その、身体は普通に動けてさ……」
「外国から来た人で、日本で働いてるうちに怪我とか病気とかでそういう障害を抱えることになってしまった人もいるかもしれないし、日本で結婚して子供が産まれて、……でもそのお子さんがそういう病気に罹ってしまうことだってありうるでしょう?」
「そんな……、それを全部拾ってかなきゃいけないのかよ?」
生央は、困ったように微笑んでいる、どこかしら悲しげな笑みにも見えるもので、思いもよらぬ反論に立ちかかった心の棘は、案外すんなりと萎えてしまった。
「律有人の言った『外国人』のことを、『マイノリティ』って言い換えることを、許してもらってもいい?」
ちょっと考えて、……まあそうか、と律有人は頷いた。日本は大多数の日本人のためにこそあるべき国であり、そこにおいて優先されるのは日本人である、……多数決、民主主義の鉄則。
「じゃあ、いいマイノリティと、悪いマイノリティって、誰が決めるの?」
「それは……」
「マジョリティ、多数派の人たちが決めるんだよね」
「それは……、だって、そうだろ」
「どういう基準で?」
「それは……」
「いいか悪いか。でも、その『いい』か『悪いか』は、そのマイノリティ一人ひとりで決められるものじゃないよね、……病気や、ルーツって、そういうものだよ」
生央の言葉は静かだった、静かで、優しい声だった。
「でもって、その人たち自身の在り方を、その人たちじゃない誰かが決めて、順番を付けてっていうのは、やっちゃいけないことだと思う……、差別って言われるものだと思うんだ」
使われて困ると思っていた二文字の単語を、生央に言われてしまって、律有人はしばし、言葉からはぐれる。
律有人には納得し難い、理解し難い、そして想像し難い理由で、生央は「マイノリティ」の側への配慮を訴えているらしかった。そして彼はまた、鈴江の激烈な反対の意志表示に、理解を示しているらしかった。
生央のことはだいたいなんでも知っているつもりでいた。生央が思い出したくないぐらい恥ずかしいことだって律有人は覚えていたし、それは逆も然り、……律有人がロリコンであることを知っているのは生央だけで、生央はその秘密を自分の秘密同様に大事にしてくれている。
いま目の前にいるのは、生央の顔をして、生央の声をして、でも、見たことのない男の姿だった。
「どうして……」
何か、自分には見えないところにある何かに、生央が掴まっている気がして、律有人は彼の足元を見た。入学式の日から履いているスニーカーはまだぴかぴかだ。桜の花の萼が、赤く、静かに散らばる上に、生央が立っている。
「……多数派にいたい、多数派のフリをしてたい、だって、みんなといっしょの方がいいって思うのは、普通のことだと思うんだ。僕もそうしようと思ってたし、……だって僕には、鈴江さんみたいにあんな大きな声で何かを言うことは出来ない。僕は弱虫だし……、律有人がいなかったらきっといまごろ高校生にだってなれてないし」
ちくりと、胸が痛んだ。
二人がまだ、小学四年生だったときのことである。
その年、初めて律有人と生央は、クラスが分かれた。
律有人は、少なくとも当時は、友達に困ったことはなかった。けれど生央は、いつも律有人の後ろをついて歩いていたもので、律有人のいない新しいクラスに上手く馴染むことができなかったのである。律有人も毎日毎休み時間ごとに生央の様子を見てやるわけにもいかず、疎遠にならざるをえないタイミングはどうしてもあった。
そんな中で、事件は起きた。
あれはきっと、誰に訊いてもなんとなく、ぼんやりと、そういう「空気」だったという答えが返ってくるように思うのだ。
身体が小さくて、気が弱くて、いつも自信なさそうで、でも勉強はちゃんと出来て成績はいい方の生央。
そういう男子に対しては、少々不当な扱いをしてやってもいいのだ。
意地悪をしてやっても、ちょっとぐらいなら許されるし、その基準を決めるのはおれたちの方。それが嫌なら「嫌」って言えばいい、……けれど、生央は言わない、言わないことをすでに知られている。生央は「僕はそういうのされるととても嫌だ」と言うことができない。
そういう言葉を知らない外国人と同じ。
……佐々原くんは嫌って言いませんでした、だから嫌がっていないと思っていたんです、ぼくたちは悪くありません……。
生央は休み時間にトイレで意地悪をされて、用を足すことが出来なかった。その結果として、廊下で失禁する羽目になったのだ。でも、佐々原くんは何も言わなかったんです、ぼくらにわかる言葉を言わなかったなら、それは、そんな気持ちはないのといっしょだと思ったんです。
生央は翌日から学校に来なくなった。それは生央に唯一可能な意思表示だったはずだ。しかし、それに対してすら、共感する者はいなかった。
律有人を除いては。そして、律有人と同じく生央のことを可愛がって来た仲良し数名を除いては。
律有人たちは何日も続けて放課後に生央の家に足を運んだ。はじめの数日は生央に会うことすら叶わなかったが、次第に根負けした生央と顔を合わせることが出来るようになった。律有人たちは全員で何度も、生央がもう二度と嫌な思いをしないように取り計らうことを約束した。
そして、事件から三週間後、生央の登校が再開された日から、律有人たちの戦いは始まった。自分の教室から机と椅子を持ってきて、生央のクラスに勝手に並べて授業を受けるという暴挙に出たのである。当然生央のクラスの担任と律有人たちのクラスの担任は大いに怒り、二人は反乱分子として極めて不当な扱いを受けることとなったが、決して屈することなく、廊下に引っ張り出されても変わるがわる生央の様子を伺い、……至極穏当な帰結として、彼らは全員両親たちの観察下に置かれることとなった。中には小遣いを減らされるという憂き目に遭う者もいた、……律有人がそうである。
しかし中には志ある親を持つ者もいて、その人物がPTA会長を務めたこともある者であったため、担任や加害児童たちの責任を問う流れが生じ、そして……。
遂に生央は、自力で登校出来るようになった。加害児童たちからの意地悪はその後も続いたようだが、授業時間以外は律有人たちの誰かが常にそばにいたし、生央のクラスにおいても生央に限らず誰に対しても意地悪なんてするもんではないという妥当な考えが児童たちの間に浸透するまでにはそれほど時間も掛からなかった。
このことを思い出してしまえば、律有人も自らの考えに固執することは出来なくなる。自分が生央をいじめていた連中と同じ刃を携えて、誰かに向けていることが自覚出来てしまったから。
「僕ね、律有人って、人のことを思いやれる人なんだって思ってる。誰かの気持ちを想像して、痛みに共感して、傷付けられる側に付く人なんだって思ってる」
ずっと、生央は困りながら喋っていた。ブレザーの裾をいじったり、カバンの紐を強く握ったり。
勇気を出して彼が言っていることが判る。だって、身体も気が小さな生央なのだ。そんな彼は、幼馴染である律有人に向けて意見を述べるときにさえ、緊張と無縁でいることが出来ないことを、……言葉でそう告げられたわけでなくとも、律有人は想像する。
「律有人はさ、僕よりいっぱい本とか、漫画とか読んでて、アニメも見てて。きっと律有人の好きなそういうお話には、傷む人が出てきて、でも、優しいヒーローがそういう傷む人を、痛みから助けてあげるんだろうって思う。だから律有人は人よりも、人の痛みや苦しみに敏感なんだろうって思ってる。今も思ってるよ。そういう感性って、磨かなきゃいけないものだと思うし、……だから僕より律有人の方が、ずっと強くて優しいはずなんだ」
生央が言う、律有人の読んだ「本」はラノベである。そして生央が言った通り、それがまあ、ロリコン的目的で手に取るものであっても大半は、自分の同化したい、……つまり共感・支持できる主人公であることは確かだ。
不当であったり、傲慢であったりする主人公は稀だ。なぜって、読者が共感できないから、……そうなりたいとも思わないから。
あるいは、そうなりたいと思わなくたって、そもそもそういうものだから。
律有人はまだ、自分が「そう」であるとも思わないのだった。
生央も想像をしただろう、律有人の中にある物が、重い音を、軋む音を立てながら動くところを。
唇を、二度、躊躇うように開けて、閉じてを繰り返して、
「僕だって、マイノリティだよ」
と生央は言った。
「え……」
「僕は、マイノリティなんだ。昔から、ずっとそう。気付いた時から、ずっとそう」
小さくて弱い身体、だけれど、健康ではあるはずだ。めしをあまり食わない、というのは、言ってしまえばまだ成長期が来ていないからであると見做せばよいのであって。
「僕は、自分と同じ身体の形をした人が好きなの」
生央の微笑みは、……ごめんね、と謝るときの形をしていた、そういう言葉を発する口の形をしていた。ひょっとしたら、本当に彼は「ごめんね」と言ったのかもしれない。
彼は本当に悲しそうに、申し訳なさそうに謝るように、
「僕は律有人が好きなんだ」
この言葉を聞き逃していたら、どうなっていただろう?
聞き取ることが出来なかったら、自分の人生はどんなものになっていただろう?
律有人は生央の足元を見た。彼のスニーカーは舗装された道の上に立っている。いくつも散らばる桜の萼、しっかり結んだ紐を、ちょっと隠してしまう、スラックスの裾。
俺はどこに立っている?
見下ろした足元にぽっかり穴が空いているような気がした。ベースがない、地盤がない、自分の身体が未熟な魂を抱えたまま、深い暗闇へと落下していくような錯覚に、律有人は陥った。




