ぼくのかんがえた条文
鈴江にあんなふうに言われてしまったものだから、律有人はすっかり「憲法をつくる」という課題に対して後ろ向きになってしまったところである。
相馬が送ってきた「日本国憲法」「与党・民友党による改憲案」へのリンクも、まだ踏んでいない。もっとも、開いて目を通したところで理解できるとも思われない。
夕食後、ベッドの上でぼんやりとショート動画を見ていたら、突如としてサッカーの試合の動画が現れて、思わず親指が止まる。
サッカーに、ただの一度も興味を抱いたことはないのに、どこか外国らしいグラウンドでプレーするプレイヤーの映像、……色合いから想像するに、多分、日本代表の。
自身より屈強なディフェンダーの反則上等のボディコンタクトにも屈さずに突破して、そのまま見事にゴールを決めた彼に画面が寄る。
思わず「あっ」と声が出た。
立川泰雅だった。
どこかのコアなサッカーファンがアップしたショート動画、「日本の未来を担うかもしれない」とのテロップが添えられている。今日、自分のすぐ右前で、何も考えていない顔をしていた、というか、鈴江がヒートアップするころには密やかに居眠りをこいていた男なのに。反射的に浮かんだうっすらとした反感が、嫉妬以外のなにものでもないことには、律有人だって気付いている。
律有人には、この立川みたいに既に輝きを放っているわけではない。生央や相馬のように頭がいいわけでもない。
律有人はただのオタクである。いや、どちらかというとよくないタイプのオタクである。レヴィルヴィアみたいな金髪幼女に弱いタイプの、道義的には問題がある内心を、具体的に表現することを崇高な意志の力で留めているタイプの。客観視されたとき、自分に大した価値があるとも思われないが、主観的にはやっぱり人生という物語の主人公であって、自分には無限の可能性が備わっているに違いないと信じている、その程度の、普通の人間である。
そんな人間に「憲法をつくる」なんて無理に決まっている。
そんな人間でも「憲法をつくる」ことに携わればちょっといい感じかもしれない。
二つの相反する考えが同時に律有人の中に浮かんだ。ちょっといいアイディアとして言えそうなことは、授業であれなんであれ、「憲法について考える」ということについては、立川みたいな人間と自分が同じスタートラインに立っているという受け止めである。オタクであろうとサッカー選手(どうやら先ほどのは中学生時代の彼が、代表として出場した国際試合でのものだったようである)であろうと、「憲法」との距離は等しい。そこに触れようと手を伸ばすことを試みざるを得ない律有人と、「サッカー選手だから」という明快な理由を得て一歩引いたところに自分を置いた立川を比べたら、自分の方がちょっといいんじゃないか……、なんてことまで考える。
「けどまあ、具体的にどうしようとか……、そういうんじゃなくて……」
スマートフォンを枕元に転がして、天井を見上げる。
昼間、どうして鈴江はあんなに怒ったんだろう……?
もちろん、不当に怒らせるようなことを自分が言ってしまったのだとすれば、それは謝らなければいけないし、反省しなければいけないとも思う、……律有人はこんな風に、謙虚なオタクである。しかし今日の自分の発言を反芻してみても、律有人には答えに辿り着くことはできないどころか、なんだかかえって、むらむらと腹が立ってくる気さえしてくるのだった。
俺間違ったこと言ってたかなぁ?
外国人が増えたせいで治安が悪くなって、犯罪も増えてるという話をよく聞く。外国人のことにばっかり気を取られて、この国の人間に目が行かなくなってしまうなんてどう考えても本末転倒。憲法を創るならば日本人による日本人のための憲法であるべきなのだから、日本に対して迷惑を掛けるような外国人については、相馬の言葉を借りるなら「制限」を掛けてもいいんじゃないか……。
放っていたスマートフォンを掴み直して、
「外国人 移民 犯罪 法律 憲法」
思いつくままに検索ワードを放り込んでみる……。
律有人たち「B班」の憲法づくりの焦点は、相馬の挙げた「緊急時対策」の整備に絞られそうだった。
というのは、グループでのやり取りで積極的な発言をしたのが相馬だけだったからだ。
相馬はコロナ禍を現行憲法の元で実際になされた対応と、と緊急時対策の条項を付け加えた憲法を仮に考えたときの対応とを併記し、どれほどの差が生じるかを、四人の中へ見事に浸透させた。
「現行憲法においては、ああした事態に十分対応することは出来なかった。政府からなされたのは実質的には『お願い』で、法的な拘束力のあるものではなく、国民の良心に委ねられるところが大きかった。結果的に、外出の自粛もされず、初期の抑え込みに失敗することとなった」
ああしたウイルス禍においては、初期の対応の迅速さが医療逼迫を防ぐために最も重要なのだという相馬の主張は、律有人にも理解できるものだった。
五人のうち、生央と鈴江はコロナウイルスに感染した経験があった。立川は「ああいうことがまたあったら、試合とか大会とか全部おじゃんになるんだろうか」と文字から憂鬱さの滲むようなメッセージを送ってきた。班として「つくる」憲法の方向性が定まった瞬間だった。
「でも、律有人はいいの?」
なまぬるい風の吹く火曜日の帰り道、生央に問われた。浅川という地名の由来になっている、市内を南北に流れる川沿いの、ジョギングコースにもなっている築堤の上が二人の通学路である。背後の高台に浅川高校の校舎が聳え、ゆるく流れる川に縋るようにグラウンドが配されているが、平日の夕方は無人だった。
「この間の、授業のときに言ってた、外国人の……」
ひょっとしたら生央には、「鈴江さんに怒られたから引っ込めたんだろうな」と思われているのかもしれない、と律有人は想像した。
まさか。
「お前こそ、なんだっけ、ええと」
「あの話は……」
ゆるく微笑んで、生央は首を振った。
「やっぱり、民法でなんとかなる話だと思った」
どんな話だったっけ、と律有人は記憶を掘り返す。何せ、自分と関係のある話題とは思っていなかったし、生央があんな風に社会で起きている出来事を自分の身に重ねて想像することがあるとも思っていなかったのである。
そうだ、同性同士の結婚に、憲法改正が必要かという話。
「僕は、憲法で明文化しちゃうのがいいと思ったんだ。いまの憲法のままだと、パートナーと結婚できなくて困ってる人たちがいて、……仮に結婚できるようになったとして、困る人が減るだけだよ。それなら、変えちゃって、喜ぶ人が増えたほうがいいでしょって、そう思ったんだけど」
その優しい考え方は、律有人にも容易く同意出来るものだった。
あまり公言することでもないなと思っているから口にはしないけれど、百合だって美味しくいただける偏見のない人間であるという自認が律有人にもあった。BLも、まあ、見ていないところでやってくれる分には……。
「それにこの間も話したけど、たぶんもうすぐ最高裁の判決が出るんだ。それからでも遅くないかなって思って……、だから僕のは今回はいいや」
生央がそうした結論に至るまでの経緯を、どこまで理解しているか、自分でもわかっていないなりに、
「よく考えてるんだな」
と言うことは律有人にも上手に出来るのだった。
「俺も、一応は考えてみた。……軽くだけどな」
このまま進んだら、二人の家への分かれ道まであと三分と掛からない。律有人が立ち止まり、土手に腰を下ろすと、生央もちょこんと隣に収まった。
「委員長が言いたいのって、要するに俺らの暮らしを守るってことだろ」
うん、と生央が同意の首肯をした。
「コロナのときは、……俺ら小学生だったけどさ、俺らの立場だと、遠足がなくなったとか、授業が自習になったとか、そういうのだったけど、あれから六年か、おんなじようなことがまた起きたら? 世界の形がいきなり変わっちゃうような出来事が起きたら? それは普通に、めちゃめちゃ困るよな?」
うん、と生央が生真面目に頷く。生央は膝を抱えて座り、まっすぐに律有人の目を見て、唇を真一文字に結んで言葉を待っている。グループでいるときにはあんなにしどろもどろな口調になってしまう律有人は、生央と二人きりでいるときにはなんだかとても凛々しい男として自信満々に振る舞うことが出来るのだった。それは生央の頷くタイミングが抜群で、律有人の言葉を引き出すのが上手いことも影響していようが……。
「でも、そういうことは起きる。起きて欲しくないなって思ってても起きちゃうもんだ。ウイルスだけじゃなくて、日本だったら地震とかな、台風の被害も年々酷くなってるしあと、富士山の噴火とか……」
「あ、あんまり怖いこと言わないでよ」
「ああ、俺も普通に怖いよ。怖いけど、でも、現実に起こりうることで、そういうときの備えってのはしっかりしておかなきゃいけないんだ。委員長が言ってんのはそういうことだ」
うん……、と不安そうな表情を浮かべて生央が頷く。
その顔だ、と律有人は思った。生央は、自分の身体の小さなことを知っている、自分が弱そうに見えることを知っている、だからこそ一層、その振る舞いが弱くなる。縮こまれば一層小さく見えて、害意を持つ人間から意地悪をされるリスクは上がる。
律有人は残念ながら、彼を暴力から物理的に守ってやれるほど強い男ではない、……肉体的にも精神的にも。
であるならば、法律、その最上級品種である憲法によって、生央のような者であっても守られたなら。
「アクシデント、……地震や災害が起きたときに怖いのはなんだろうって考えたとき、委員長は『人だ』って考えてるんだよな」
眼鏡の奥の目を丸くして、
「そうだね」
と生央は同意してくれた。
「確かにそうだ。みんながパニックになったり、バラバラな行動をしちゃうとまずいから、一時的に行動を制限しよう……、それが『お願い』だと意味がないから、きちんと決めようってことを、相馬さんは言ってたんだ」
そこには少なからずの感心が滲んでいたような気がする。律有人自身も自分がそこに辿り着いていることを誇りに思っていて、だから生央の表情は律有人を快楽の沼に沈める。
すっ、と短く息を吸って、律有人は大いに力を込めて言うことを選んだ。
「だからこそ、外国人参政権については慎重にならざるを得ないんだ」
このとき、律有人は生まれて初めて「慎重にならざるを得ない」という言い回しを口に乗せた。不慣れなもので、噛んでしまいそうで、しかし単に「やりたくない」というだけの言葉を、「慎重に」「ならざるを得ない」に二層のシュガーコーティングを施すのはなかなかいいものである。
具体的には、パッと口に放り込まれたばかりではエグ味や苦味は感じられないはずなのである。
「……ん、ええと、どういうこと?」
生央は舌の上に糖衣錠を乗せて、律有人に問うた。その想定をしていなかったわけではないので、律有人は落ち着いて言葉を並べることに専心する。
「緊急時に優先的に守られるべきはなんだ? 言うまでもなく、それは国民の安全だ。トリアージっていうのがあるだろう、同じ日本人同士でも緊急事態においては優先順位が付けられることになる。つまりそれぐらい、ある意味ではドライに考えなきゃいけない。もちろん全員仲良く平等にっていうのは理想だけど、机上の空論の域を出ない。俺は緊急事態になったとき、自分の家族とか、お前とか、つまり自分が大事だなって思う人間たちが、外国人より後回しにされて助かる命を助けられなくなるような事態は避けたい。そうならないために、憲法だって緊急時を念頭に置いて考えて、組み立てていかなきゃいけない」
自分の言葉が、かなりに威力を持つものであるという実感が、律有人にはあるのだった。緊急時、あるいは緊急事態、……誰もが避けたく思うけれどきっと必ず来てしまうそのときに、臆することなく向き合って、必要なもの、優先すべきもの、……守りたいという切ない思いを叶えるための、創憲案。
これほど真摯で共感を得られるものはないと律有人は思ったのである。
……もっとも、律有人一人でこれほどのものを組み立てられるわけもなく、「改憲 外国人 参政権 etc」といった検索ワードで引っかかった言説をパッチワークしたものでしかないのであるが。
「だから、外国人に区別なく参政権を与えることについては、避けた方がいい。……緊急事態に日本人を蔑ろにして外国人ばかり優遇するような状況は避けるべきだからな。でももちろん、全部の外国人を排除するというわけじゃない。そうではなくて、国の緊急事態において、日本人に対して協力的であること、……それは平時から『いい外国人』って評価されるべきことだな、それが証明された外国人については、参政権を認める。日本に住む日本人が、安心・安全に暮らせるためには、そうしなければならないんだ」
どうしてこれぐらいのことを、これぐらい堂々と、生央以外の連中に言うことが出来ないのだろう? まあ、それが出来るようであればそもそも「嵯峨律有人」でさえない、何か別人である。とはいえ明日の「公共」の授業では相馬と立川、そして鈴江にいまの「創憲案」を披露するつもりである。
採用となるか、はたまた却下されるか……。【民主主義の大原則】として、多数決が採られることになるだろう。条文提案者の律有人は参加せず、……立川はいてもいなくても同じだから棄権だろう。
言うまでもなく相馬は賛成するはずだ。だって律有人の条文は、彼女が持ち出した緊急事態対応の条文に添えて強化する効果を持つものだから。
そして、生央が自分の提案に賛意を示さないはずがない。つまり、鈴江が仮に反対したとしても、この創憲案は賛成多数で可決されることになる。
「えー……と……」
生央はいつからか、膝を抱えていた手を解いて、だらんと足を前に投げ出していた。彼の前髪に、夕陽が当たって、眉間に皺が寄っているのは、きっとそれが眩しいからだろう。
「……律有人、あした、……今の話を、みんなにするの?」
「そうだけど」
「そうなんだ……」
「一度通して口に出して言う機会があってよかったよ。いきなりだと、やっぱり上手く言えなかったかもしれないし、……その、緊張するとかじゃないからな、いくら俺だってあんな少人数の同級生相手に緊張なんかするもんか」
「それは、うん、わかってるけど……」
なにか、釈然としない、煮え切らない。生央は幾度か口を開けては閉じる。やがて彼は曖昧に笑って、
「……律有人は、そういう憲法が本当に必要だと思って、きっといっぱい、すごくたくさん、考えたんだよね」
と言った。その言葉は律有人に向けたものというよりは、なんだか生央自身の耳に言い聞かせるもののように感じられた。彼が再び膝を抱えた、その肘の内側に籠らせるような、言葉の向きだったからだろうか?
「何かわからないことあったか? なんなら、詳しく説明するけど」
生央は、困った微笑みのまま首を振って、
「律有人がそれでいいなら、僕もそれでいいよ」
と言った。要するに律有人が一番欲しかったのは、その言葉だったのだ。
翌日、「公共」の授業、再び出来上がった机の輪、相馬の「緊急事態において国民の安全を保障するための条文」は、……彼女がもう既に立派に文法の整った「条文」を完成させていた上に、グループラインでも散々ヴォリューミーな説明があったもので、採決の必要もなかった。厳密には、非の打ちどころがないというよりは、それを探すための手間を省きたいというのが正直なところだったかもしれないが……。
その創憲案が可決されたタイミングで、律有人は「実は、俺も考えたことがあってさ」と、たいしたことではないという装いで肩を竦めながら、「緊急事態以下略」に付帯するものとして外国人参政権を制限付きで認める条文を披露した。
「ふざっけんなよお前!」
教室中に、鈴江の怒鳴り声が響き渡った。
律有人は生まれて初めて、女子から面罵されることとなったのである。




