ギャルと委員長とサッカー脳筋といじめられっ子とオタクと国民の課題
嵯峨律有人は、嵯峨律有人自身の努力によってこの浅川高校に合格したのである!
……などとは、とても言えない。
もちろん努力の賜ではあろうけれど、自分一人の力では決してなかった。
合格発表の掲示板に自分の番号を見付けたときには、たちまち視界が潤んでしまって、手元の受験票と何度も確かめたいのにそれが上手く出来なくて、代わりに、推薦で合格を決めていた生央が見てくれようとするのだけれど、
「どうしよう……、どうしよう僕も見えない……」
生央も困惑の声を上げているのだ。なんでだよ、と見れば、彼は両目からぽろぽろと涙を溢していたのだ。
「よかったぁ、よかったねぇ律有人、よかったよぉ……」
律有人はこのとき初めて、生央が昨夜ほとんど眠れていなかったに違いないことに気付いた。かくして幼稚園の年少さんからの幼馴染である二人は、小学校中学校に続いて高校においても同じ空間に、前後で存在することとなったのである。
「えっと、……さっ、さ、佐々原生央です。りゅ、さ嵯峨くんと同じ、雪ノ木中学から来ました」
五つの机をくっつけて向かい合ったグループの、かりそめの「仲間」に向けて、自己紹介する。こういうときの生央はとても頼りないことを知っている律有人は毎度のように心配になるのだ。
B班の他のメンバー四名は、女子が二人と男子が一人。
五人で机を並べるにあたって生央と他の三人が四角を作った関係で、律有人はいわゆるお誕生日席になってしまった。あまりこういう役を担いたくはないのだが、……そして、明らかに適任者が他にいるのだが、
「ええと……、じゃあ」
いきおい、司会進行のような立場になってしまっているもので、律有人から見て生央の奥に座った女子へ、遠慮がちに振る。
彼女は上手く出来ていた。
「鈴江ミカ」
長く伸びた人工的な爪、瞳そのものが膨らんでいるように見えるカラーコンタクト、日に焼けた肌にカフェオレ色の髪、……しっかりとメイクをしているからだろう、すぐ手前の生央と比べると、大人と子供のような印象の違いがある。鈴江は左手のぷっくりした爪を右手の人差し指の腹でいとおしげに一撫でして、
「えー、なんか、中学とか言うの」
視線を律有人に向けた。律有人は「いえあの」とみっともなく慌てふためいてから、
「……もしよければ」
と促したが、鈴江は手元に視線を戻した。
律有人が愛するタイプの女ではなかった。高校生であるという時点で律有人の「ストライクゾーン」からは外れる。つまり、現実世界には律有人の好きになる女はいないのである。律有人のことを好きになった女がいて、そういう女ならばまあ、二次元幼女ほどではないにせよ価値を見出せないこともなかろうから、選択肢に入れてやってもよい……、という冷静な判断力が備わっている律有人である。
「じゃあ……、ええと」
視線を向けた。眼鏡のレンズ越しの、鋭い視線とぶつかる。本当ならばこの位置に、彼女が座っているべきなのだ。だって彼女、
「相馬愛梨です。館町第三中学から来ました。よろしくお願いします」
相馬愛梨は、委員長なので。
いるいる、委員長、こういうタイプがなるんだよな、と思って納得してしまうのは安易だろうか? しかし、クラス顔合わせの翌日、委員に立候補して、無投票で選出された黒髪ストレート眼鏡の相馬を見て、「あー、いるいる……」という感慨に耽ったのは決して律有人だけではなかったはずだ。こういう女子は、クラス委員、風紀委員、とにかく「委員」という称号がよく似合うし、具体的にリーダー的役職に就いていなくとも「委員長」と呼ばれがちなのである。
ただ、それは遠目に眺めていれば十分なのであって、折り目正しく着こなした制服の尖ったところが、おいそれと触れれば指に刺さるんではないかと思うほどに鋭いことがわかる距離感で向き合うのは、できれば遠慮願いたい。
そういう意味では、律有人から見たとき相馬の手前に、がっしりとした身体が存在してくれることには多少のありがたみがある。
「じゃあ、あの、最後……」
しかし同時に、律有人はこういうタイプの人間もあまり得意ではない。
「立川泰雅、大和田中学から。そんで、多摩アルプスFCユース」
多摩アルプスFCはサッカーチームである。
近年になってJ1昇格、そこそこの善戦をしている……、とのこと。身体を動かすことはあまり好きではなく、サッカーにも興味はない律有人であるが、中学のときに多摩アルプススタジアムのスタンドから地元チームを応援するという学校行事があって、試合を見たことはある。
ユース、というのは要するにプロチームの下部組織だろう。つまりこの、身体に厚みがあって、机と椅子がやや窮屈な印象に映る男は、高校生でありながら同時にプロサッカープレイヤーであるということなのだ。短く刈り込んだ頭に、肌は鈴江とは異なるベクトルの、……つまり正真正銘太陽に焼かれたことによる日焼けの色。首など、生央の胴とどっちが太いだろうというレベル。そうした肉体の壁が、相馬の存在感を上手いことディフェンスしてくれているのだが、
「あのさぁ、……えーと、さ……さ……」
こういうタイプも律有人の得意ではない。
「嵯峨」
「嵯峨くんか。あんまでかい声じゃ言えないんだけど」
太い首をきゅっと縮ませて、立川は声をひそめる。
「俺、練習とか結構あって、ぶっちゃけあんま参加できない。来週普通に試合だしさ」
「えっ……」
「だから悪いんだけど、さっきあの先生が言ってた放課後にーとかそれ以外の時間にーとかってやつ、不参加で」
「えっ……、あ、でも」
「あたしも」
鈴江が爪を指で撫ぜつつ言う。「バイトとかあるし、いても、どうせ役立たないと思うし」
立川と鈴江が相次いで自分にそうした意見を表明したのは、恐らく「委員長」に赦しを乞うよりも自分を取り込んでしまうほうが容易いという判断あってのことだろう。
それはとても合理的だ。律有人の同意を取り付ければ、生央が一緒についてくることもまた、想像に難くないはずである。
つまり、多数決。
尖った襟から伸びる白い両手の指を、相馬が組むと同時に、溜め息が聴こえた。
「……そもそも、『議論』が必要なことだとは思わないのだけど」
定規、いや、金尺のような声だ。硬くてまっすぐで、それでぶつととても痛い。
「鈴江さんと立川くんは、何か『こういう憲法がいい』みたいなのはあるの?」
「こういう……」
鈴江がぼやっとした声で呟く。
「『欲しい憲法』って言い換えてもいいかもしれないけど」
「欲しい……、欲しい憲法……?」
ハタで聴いていて、すごいこと訊いてるな、なんて律有人は思わずにはいられなかった。今日これまで一度だって考えたことのない質問である。問いを向ける相馬にどの程度の意図や意識があるのかは判然としないが、訊かれた鈴江は一応、「えー……?」と考え込み、頭を左右に動かす。そのたびに、彼女のカフェオレ色、……いや、ああいう色の毛の犬がいるな、柴犬色の髪がふわふわと揺れた。
他の机がどういうやり取りをしているのかは、計り知れない。橋立は教卓の向こうに立って、じっと瞑目している。
「あー……、じゃー、めんどくさくないのがいい」
頭を振って考え込んだすえに出てきた結論を、律有人はバカにできない。全くの同意見である。相馬ははっきりと鼻白むが、何か出掛かった言葉を止めて、自身の左へと目をやる。
「……俺? いや俺は……、別になぁ」
立川は大きな肩を竦めた。そういう答えが返ってくることは想定内だったのだろう、相馬はすぐに、斜向かいの生央に顔を向けた。生央は怖がるように肩を引き、しかし同時に頬を紅く染めて、
「ぼ、僕は、……みん、みん……」
突如として季節外れの蝉になった。
「んみ、民法、そう、民法を……、変える、みたいなのを、考えてみたら、どうかなって、思う……、おもみ、思いました」
一度、相馬の指が開いて、また結ばれた。
「いまは、憲法の話を」
「はいそうですすみません」
きゅ、と生央が小さくなった。もともと小さいのに、更にコンパクトになろうとする。生央が口にした「民法」というもの、まあ存在自体は知っているが、具体的にどんなことが書かれているのかを知らないのは、鈴江と立川だけでなく、律有人も同じである。生央がどういう考えを持っていまの発言をしたのかは、幼馴染であっても律有人にはまったく計り知れない。色々な話をこれまで生央として来たけれど、「今日は憲法について語ろう」なんて機会はただの一度もなかったのだ。
「ミンポーってなに」
鈴江がやっといじり回していた爪から手を離して言った。彼女がずっと触れていた左手の中指のぷっくりとした爪は青く、淡いピンク色の破片のようなものが混入して見える。
「民法、っていうのは……、えと、人とか、会社とかそういう、僕らのしていいこととかダメなこととかが、全部書かれてる法律」
生央の勇気を、律有人は認めてやりたい。女子から「可愛い」「可愛い可愛い」と褒められて撫ぜられたりハグされたり物理的に持ち上げられたりするたびに、どうしていいかわからなくて青ざめているのが生央なのだ。今もスラックスの太腿あたりをぎゅっと握りながら、震えた声で言う。
「それは、憲法とは違うのか」
立川に脅すつもりもないのだろうが、とにかく身体のサイズ感がまるで違うもので、生央はますます縮こまる。
「けん、えと、憲法は……」
「憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法と刑事訴訟法」
たんたんたんたんたたん、冷たいステンレスのブロックを並べるみたいに相馬が言った。
「その六つを合わせて、『六法』と言うの。民法はそのなかの一つ。いま佐々原くんが言ったように、私たち個人の暮らし、あるいは法人の行動について規定されている法律が民法」
「ねー、法律って憲法?」
鈴江が無垢な瞳で訊く。相馬の白い鼻がもっと白くなるのを見た気がして、
「憲法っていうのは、あの、一番上でしょ」
思わず律有人は言ってしまった。声を上擦らせて、早口に。
「だからその、憲法は『国の最高ナンチャラ』で、民法とか他のは法律だからその下なんじゃないの。確か、そうだった気がする」
鈴江が「へー」と呟き、相馬が溜め息まじりに「最高法規」と修正する。生央が、少しだけ微笑んでこちらを見た。
どう言うわけか、ここで少し、相馬の声が優しくなった。
「憲法と民法の関係で言うと……、いま話題なのは、結婚の問題」
律有人としてはあまり考えたくないのだが、いまの律有人の喋り方が滑稽だったからだろうか? もちろん律有人は自分がオタクであり、一歩間違えれば「キモい」と言われかねない存在であることも理解しているし、気にしてもいる。
一歩間違えれば、というのはつまり、四月から火曜夜十一時半からやっている異世界もののアニメ『勇者として世界を救ったら八つの大陸の八人の女王から求婚されました。』のヒロインのうちの一人レヴィルヴィアにいまめちゃめちゃハマっていて、一人称が「わらわ」で語尾が「のじゃ」の金髪幼女で偉そうなのだが主人公と初めて顔を合わせた日の夜にベッドに忍び込んでくるというけしからぬ積極性を併せ持つ彼女の二次創作イラストを拾い集めてスマートフォンの中の「非表示」フォルダにがっつりしまい込んでいることを知られたなら、というぐらいのもの。
現実世界の幼女に指一本触れようなどとは思わないがいいじゃないか二次元なんだから! 俺はちゃんと現実を見て生きている! そういうもんを規制しようとする連中のほうこそごっちゃにしてやがるんだ、俺は生まれ変わったならレヴィのネグリジェになりたい!
……なお、律有人がこういう嗜好の持ち主であることを知っているのは生央だけだ。迂闊にも、非表示フォルダの中身を眺めてニヤニヤしているところを目撃されてしまったのであるが、生央は「本物に手ぇ出したりしないでね……?」と引きつった顔で言ったぐらい、口外はしないでいてくれる。
現実のテーブルの上では、相馬がAIに訊ねながら、憲法と民法の関係、とりわけ結婚についての問題をまとめているところだった。
曰く、
「憲法では同性同士の結婚を認めているのかどうか、……解釈が分かれるところ。つまり、『憲法で認められていないのだから同性婚は認めるべきではない』という考え方ね。でもそれが人権の侵害にあたるのか、……平たく言うと、正しいのかどうかってことが、ずっと裁判で争われていて、いま、最高裁まで行っている」
そういう議論が行われていることは、律有人も知っていた。ただ、どのみち他人の話だ。
「憲法の改正が必要っていう主張をする人たちがいて、でも、民法だけ改正すれば大丈夫って言ってる人たちもいるみたい」
相馬は手元のAIがまとめた情報を読み上げて、ディスプレイを向かいの二人に見せる。
まだ緊張が解けず、頬を紅くかたくして、生央は頷いた。
「そう、そうなんですけど、でも、最近では民法だけでどうにかできるっていう、そういう考えのほうが、主流になってるって聴きました」
自分の幼馴染が「委員長」と対等な知的レベルにあることが、律有人にはなんとなく誇らしく、鼻が高い気がする。
こいつ、そんなことに興味持って生きていたのか。自分とは関係のない人の幸せを願ったことなんて一度もないもので、律有人はごく素朴な感動を生央に抱いた。
立派なやつだ、ということはずっと思っている。
もとより身体の小ささや気の弱さでいじめられがちな生央であるが、律有人がギリギリ滑り込んだこの高校が彼にとっての「滑り止め」だったことからも明らかな通り、聡明で、心優しい。そして彼が「可愛い」とほめそやされるのは、身体が小さいことばかりが理由ではない。幼くも整った目鼻立ちに隠し切れない優美さがあるのだ。だからもうちょっと自信を持って胸を張っていればいいのに、いつも背中を丸めてこじんまりとしている……。
「嵯峨くん」
相馬の顔が急にこちらへ向いた。鈴江、立川、そして生央とそれぞれ憲法というものについてのスタンスを述べたすえに自分もどんな立場にいるかを表明せよと言うのだ。
「え、え、いや、俺は」
大急ぎで、言葉を探す。それが自分の中に元からあったものだとは思わない。どこかで目か耳にしたものを、さも自分の意見であるかのように並べて取り繕うだけだ。
「俺は、アップデートが必要じゃないかって思うなぁ。その、ね、だって、八十年以上前のものなわけでしょ? だったらその、いい加減時代に合わないもんも出て来てるわけで、一度ゼロベースで考えてみて。でもさ、全部イチからっていうのは難しいでしょ。だから、残すとこは残して、みたいな?」
はぁ、と相馬が呆れたように嘆息する。
「具体的には?」
「ぐた、具体的には、……その」
そんなもの、あるわけがない。
なくったっていいだろう。
これから考えていこうという、その機会のためのグループワークなのだから。
「え、あの、じゃあ、相馬さんはどんなふうに考えてるのかなって、聞かせてもらってもいい?」
笑顔を引き攣らせたまま、捻り出したのがそんな問い掛けだった。相馬は表情を変えずに、
「アップデートが必要っていうのは、全面的に賛成」
と相馬は言った。
「八十年も経てば、社会の状況も変わるわ。特に問題だと思うのは、過度の自由、過度の権利」
「カドノ……?」
鈴江が首を傾げる。立川は、多分もう聞いていない。
「でも、自由って大事なことじゃない……? その、思想や、表現は、自由でなくっちゃ……」
そっと、生央が異を唱える。生央としてはだいぶ頑張った結果である。
「それはそう。でも、過度なものであるべきではない。いま求められているのはスピード感、……決断力のあるリーダーが古くなった価値観をどんどん刷新していかなきゃいけない。そのためには、今の憲法をベースにするとしても、……例えば、コロナのころのことは覚えてると思うけど、あのときは対策が後手に回ってしまったから感染が広まってしまった。そもそも国会がもっと強く国民の移動を制限して自粛を呼びかけることが出来ていれば、医療がパンクするほど感染が拡大することだってなかった……」
立板に水の口舌に、律有人は圧倒されていた。
中に詰まっているものが自分と全然違うと察さざるを得ない。だから律有人にできるのは、彼女が喋っている間に、自分の中にある雑多な考えのうちまともなものを、憲法と絡めた主張としてでっち上げることだ。
「だから、そういう事態には、国の側が明確に国民の権利を一時的に制限する、……あくまで『一時的に』だけど、でも、そういうエッセンスを加えるのが必要だと思う」
独演会を切り上げて、さあ、どう、と相馬の視線が改めて律有人に向く。
「俺は……、ええと、俺は、じゃあ……」
頭に浮かんでいたのは、ここ数年たびたびSNSで目にしていた言説である。
「……外国人の話、えっと、移民の外国人が増えて、それで治安が悪くなってる、みたいな。それだけじゃなくて、外国人に……、さん……、参政権? をあげるのかどうするのか、みたいな話」
誰かが、身じろぎをした。けれど、誰が動いたのかは判らなかった。相馬の視線から逃れるために俯き加減に喋っていたので。
「嵯峨くんは、それには反対なの?」
やっと、簡単な問いが向けられた。イエスかノーで答えればよい。
「反対。その、だってさ、日本人だけでもいま、不景気だ金がないんだって言ってるとこに、どうして外国人のためにっていう、そういう気はする。憲法でそれがどうなってるかは、ごめん、不勉強でわかんないけど」
律有人はそこで腰を引いた。あくまで、俺が言えるのはそこまでです、責任も取れません、という意思表示。そうであっても、鈴江や立川みたいに完全な責任転嫁を表明するよりはマシだろうと思ったのだ。
だから、
「日本人が日本人のために、いい政治をするの?」
という声が不意の方向から飛んできたことには、正直驚いた。生央の右隣、鈴江が無表情に問いを突きつけて来たのである。
「え、だって……」
「日本人って、そんなに頭いいっけ」
ぐっと顎を引いた律有人に、鈴江は勢い付いて言葉を繋げる。
「日本人が頭よくって、日本人だけでなんでも上手くやれるっていうんならそうすればいいのに、それじゃ上手くいかないって話だから、移民入れてるんじゃない? ね、いいんちょ違う?」
相馬がやや面食らった様子で、こくんと頷く。目を丸くすると案外可愛らしい横顔であるが、いまはそれを吟味している余裕はない。
「なのに、政治には参加するなってのはおかしくない? だって、なんだっけ、あの、ほら、選挙行くかどうか……」
投票率、とAIのように相馬が助け舟を出す。
「そうだ、投票率、その率が低いのに、でも外国人は選挙に来るなとか口出しするなっていうのは、矛盾してると思うけど」
律有人は、指先が冷たくなるような感覚を味わっていた。ろくに親しくもないギャルから、いきなり面と向かって自分の(大したものではないとはいえ)考えを真っ向から否定されることになるなどとは全く予想もしていなかったことで、……律有人は自分の顔がいま、何色をしているのかお判らなくなっていた。
「あ、あの、あの、はい、鈴江さん、あの」
鼓舞するように何度も前置きをしてから、生央が手を挙げた。その右手は鈴江から律有人を守る、か細いけれど確かな防波堤だった。
鈴江がぐっと言葉を飲み込む。
「あの、……あのね、りゅ、嵯峨くんは、そこまでのことを思ってたわけじゃなくって、あの、ほんとはそこまで考えてたわけでもなくって」
ちら、と生央が律有人に目を向けた。ごめんね、と書いてあった。
「移民については賛否両論あるし、憲法でそういうことを書くのも含めて、議論していったらいいんじゃないかなって、その、さっきの結婚についての、……結婚については、えっと……」
水面に顔を上げるように、生央が相馬を見た。相馬ははっとした顔になって、すぐにスマートフォンを操作して答える、
「憲法、第二十四条」
「そ、その、二十四条に書かれてるだけだと不十分かもって考える人がいるから、民法だけじゃなくて、憲法も変えたほうがいいんじゃないかって、そういう議論が起きるんだと思うし、……だから、その、……めんどくさくないのがどんなのか、考えていくのも必要なんじゃないかなって……」
今にも泣き出しそうな顔で、でも、狡猾に鈴江の言葉を引用して生央は彼女の熱を冷まし、議論の場に引き摺り込んでしまった。律有人に向かって身を乗り出していた鈴江は、深呼吸を一つして、「ごめん」と、これは律有人に向けて言ったのだろう。律有人は「いや、ごめん、あの、うん」とぼそぼそ応じるのがやっと。頬が熱かった。
相馬がふうっと息を吐き、
「……佐々原くんの言う通りね。何か一つの意見があったら、それに対抗する意見が出てくる。それを擦り合わせて、私たちの憲法を作る、……作らなきゃいけない」
周りを見回せば、どのテーブルも、議論が噛み合わない、そもそも議論が始まりさえしていない、及び腰……、与えられた課題を持て余して、浮かない顔が並んでいる。
生徒たちに無理難題を押し付けた橋立は立ったまま眠っているかのように、教壇に両手をついて身動きもしないが、時計が授業時間残り五分を指したタイミングで、パッと目を開くなり、ぱむ、とと手を叩いて注目を促した。
「いかがでしょう、いい刺激になったのではないでしょうか。脳の、通常使わない部分を使うというのは、活性化に繋がります。この短い時間でみなさんは人生で初めて、憲法と向き合い、……成績のためとはいえ、ひとまず当事者になってしまいました」
なんとも言えない複雑な空気が教室に流れていた。素直に受け止めてしまうのが癪だ、と思ったのは、律有人だけではなかったはずである。
「ぜひ、その意識で憲法について考えてみてください。出来れば一度ぐらいは原稿の憲法と、改正案とされているものにも目を通して頂けたらと思います、……そのほうが、スムーズに憲法を創ることが出来るでしょうしね。では、ちょっと早いですが、本日はここまでといたしましょう。班ごとに連絡先を交換しておいて、ぜひ活発な議論が行われることを期待していますよ」
ぺこり、頭を下げて、橋立は教室を出て行った。律有人だけではない、五つの島の生徒たちは、なんだか離れ小島に取り残されたような気持ちになって、でも各班一人はリーダーシップを発揮するものがいるようで、ぶつぶつと低い声で連絡先の交換を行う。
律有人のメッセージアプリに、初めて生央以外の同級生の名前が加わった。




