二人の願う未来
日本国憲法
第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
◯
五月も下旬に差し掛かった、土曜日の夜。
「じゃあね、また月曜日に」
「ばいばい」
浅川駅で相馬と、西浅川駅で鈴江と別れ、律有人と生央は二人きりになった。もっとも、家までそう長い距離があるわけでもない。
だから、二人が最短距離の道ではなく真っ暗な川ぞいの道に出たのは、二人きりで少しおしゃべりをしたいという、そんなシンプルな思いが共通したからだ。
夜の川面は真っ暗だ。かなり間延びした感覚でぽつり、ぽつりと道路を照らす街灯がある。それがかえって、水際の冷たい暗さを見る者に意識させるようだった。
季節は春から初夏に移りかわろうとする中、長袖だとちょっと暑い、けど半袖一枚だとちょっと肌寒く感じられる風が吹き渡る。二人はベンチに腰を下ろし、今日一日ずっと別々なところにあった手を繋ぎ合わせた。
「かっこよかったな、立川」
律有人の素直な言葉に、生央が頷く。同時に、微笑む気配を感じ取ることができた。
「ね」
「すごいよな、同い歳で、あんな……、大人に混じって、普通にプロやってんだもんな……」
サッカーチームの編成システムについては、律有人も生央も詳しくない。ただ確かなことは、今夜多摩スタジアムで行われた試合はプロのリーグ戦であったということで、高校生の立川泰雅はそのフィールドで、選手としてプレーをしたということなのである。
一点ビハインドの後半二十分からピッチに立った立川は、優れたスピードをいかんなく発揮して左サイドを駆け上がり何度も前線へボールを供給したし、自らドリブルで切り込んで決定的なシーンを演出した。激しいスライディングにも崩れずゴールを目掛けて走る彼の姿を見て、……あ、これはかなわん、という感想を、律有人は抱いたのだった。
だって、なんかもう、違いすぎる。
「ああいうやつが、いるんだなぁ。野球で言えば、メジャー行ってピッチャーやりながらホームランばかすか打つみたいな。元々の作りが俺らとは違うような、特別なやつが……」
残念ながら試合には敗れてしまったが、出場した二十五分あまり、ずっと走り続けた同級生の姿を遠くから見て、律有人は誇らしい気持ちでいっぱいだった。競い合おうとは思わない、比べようとも思わない、だから「かなわん」なのだ。
生央は律有人の言葉を否定しなかった。
「そうだね。僕なんて二分続けて走れるかどうかだし、ドリブルやろうとしてボールの上に乗っちゃって思いっきりコケたことあるし」
「まあ、俺もヘディングしようとして顔ぶって鼻血出したことある」
「しかも立川くんは字も上手い。習字やってたなんて知らなかったよね」
昔から「サッカーばっかじゃなくて、なんかこう、えー、頭のいい、みたいな」……文化的な? 「そうそれ、そういうのやれって親父に言われて」毛筆をやるようになった。海外の遠征先に筆と墨と硯と紙を持って行って、一筆したためたものを渡すと、ずいぶん喜ばれるそうである。
人は見かけによらないし、天は二物を与えるのである。律有人は字が下手であり、実は生央はもっと字が汚いのである。
「でも、律有人だってすごい」
生央が付け加えた。
「俺のどこが……」
「だって」
ぎゅ、と指に力が籠る。
「律有人がいなかったら、今日みんなでサッカー観に行くなんてことにはなってないよね」
グループワークが終わって、席替えがあっても、打ち解けた五人は学校でもそれ以外の場所でも連絡を取り合っている。そもそも同じ教室の、近くの席でいるわけだから、先週の試験前も、みんなで勉強会をやったし、立川がベンチに入って、ひょっとしたら出場機会があるかもしれないという今日の試合、みんなで応援に行くということもすんなり決まった。
律有人は自身の趣味を打ち明けた。特に相馬あたりに嫌がられるかなと思ったけれど、彼女はすんなりと律有人の勧めたアニメを次々見たし、鈴江は「あたしは昔っから『リル&リリー』が好き」と老舗女児向けコンテンツを毎週日曜早起きして欠かさず見ていることを平然とカミングアウトした。アニメやラノベの、時には際どい領域についての話を、女子としているという事実にのぼせて、話しながら鼻血を噴いてしまった律有人なのである。
未来のことはわからない、けれど、友達。
「……でも俺、最初でめっちゃ下手こいたじゃん」
考えなしに排外的な主張をして、鈴江を怒らせてしまった。もうずいぶん前のことのようだが、一ヶ月と少ししか経っていない。
「完璧な人なんていないよ。立川くんだって、サッカーや習字は得意でも、苦手なことはいっぱいあるって言ってたし、人はそれぞれ違う。違うけど、繋がれるってことを、律有人は自分の行動で示したんだよ」
「行動ねぇ……」
正直なところ、あんまりピンと来ないのである。
憲法について右往左往していたあの時間。憲法をいろんな角度から矯めつ眇めつしているつもりだったが、気付いてみればいろいろなものの見方に影響が出ている。これまでぼんやりとしか見えていなかったこと、複雑すぎて見ようともしなかったことを、最初から無視するのではなく、まずは想像するというところから始めるようになった。のみならず、わからなければとりあえずまあ、インターネットで一回は調べてみよう、調べたのを忘れちゃったらもったいないからメモしておこう……、ぐらいのことが習慣付いている。
ただこれは、自分だけではないだろうと思うのだ。生央なんて最初からそれが出来ていたに違いない。
「みんな、律有人を見て『やるぞ』って気持ちになったんだよ。鈴江さんと仲直りして、仲良しになって、相馬さんとはすごく建設的な話をした。律有人が素直に、すごく丁寧にみんなと接して、みんな律有人のこと好きになって、友達になったんだ。誰でも出来ることじゃない、自信持っていいと思う」
それは、お世辞ではないのだろう。事実として律有人は、生央の瞳に灯る敬意の光を捉えている。
だが、律有人が独りの力で、ひとりでに変わったわけではないことは、言うまでもない。
生央がいなかったら、鈴江と仲直りは出来ていなかっただろうし、相馬との間の溝を埋めることも出来なかっただろう。そもそもグループワークなんてめんどくせえなぁと、たいして身を入れずやって、AIにそれらしいものを作ってもらってはいおしまい、で済ませてしまっていた公算が高い。
生央は、それを律有人の頑張りだと言ってくれる。
「そうなのかなぁ……」
嬉しいけれど、律有人は納得はしない。
だって、律有人に力を与えてくれたのは生央である。
彼が自分への思いを秘めて ずっと抱えて来たことを知ったとき、律有人に出来たのは、彼を一人の人間としてその見詰め、彼の笑顔でいられる世界を彼以上の強さで願い、できればそのための仕事をすることだけだと気付いた。
仮令、誰かからはお花畑だとか机上の空論だとか笑われることになろうとも、崇高なる理想を突き詰めてそこへの道を探すことを、律有人はきっと、これからもやめないだろう。
生央が語った想像力の形。この世界のどこにでも自分の想像の泡があるのだとすれば、生央と二人でその「どこか」へ行ったとき、あらゆる出会いが歓迎できるものであることを願うことは自然だった。一番近くにいるパートナーと、顔も見たこともない遠くの誰かとを、同じぐらいに大事に思えたならば、世界はきっと、誰にとってもそんなに悪いものではありえない。
「みんな」
生央が言った。
「なんとなく、でいいからさ。僕みたい……、僕らみたいな人、そうじゃない人、みんなが平等に、全部が全部わかんなくても、でも、仲良く出来たら、いいよね」
きっとそれは不可能ではないと律有人は思う。想像力を働かせるというコストを省くような真似さえしなければ。
仲間と一緒に楽しく過ごす、こんな日が、やがてまた来る。隣に座った恋人と手を繋いで語らう時間が、繰り返し、繰り返し、……優しく和やかで、傷付けられることを案じなくてもいい世界であってくれたなら。
そんな静かな願いを二人で重ねて、彼らはこの国で生きていく。




