「なにもかんがえなくていい」
高校に上がってから、一人息子が頻繁に佐々原生央を泊まらせるようになったことを、彼女はそれほど重く受け止めているわけではなかった。
息子と生央は幼稚園の頃からの幼馴染、頼りないところばかり目立つが、息子の高校進学にはずいぶん力になってくれたようだし、まあ、しょっちゅうやってきて食費と光熱費水道費を齧り取って行くことにはいい気分もしないのだが、あれぐらいのころにはそういう、なんでも話せる友達というのがいたっていい。
どうせそう何年もしないうちに、どっちかに彼女が出来て、なんとなく離れていく。同性の友達なんてそんなものだ。
だけどさ、そもそも……、と彼女はジャスミンティーを淹れながら思うのである。
佐々原生央の存在には、正直苦労させられたという実感が、彼女にはあるのだ。
だって、あれは確か三年生だか四年生だかだったと思うけれど、生央が学校でお漏らしをしたとかで、それでいじめられているからとかいう理由で、律有人は何をムキになったのかわからないが、先生に刃向かって別のクラスに授業を受けに行ったとかで……。
結果的に彼女は学校に謝りに行かされたのだ。
自分の腹を痛めて産んだ息子のことですから、ハイハイご迷惑をおかけしましたって頭を下げることぐらいなんでもありゃしませんけども、どうしてヨソサマの家の子供の、もう自分で「トイレに行きたいです」ぐらい言えなきゃおかしいような歳の子の粗相の始末が私のところまで巡ってこなきゃならなかったのよ。
いまも佐々原生央が泊まりに来るたびに、いい歳をしてオネショでもされたらどうしようという懸念を抱いているほどなのだ。
今日も律有人はあの子を連れてくるんだろうか? うっすらとした憂鬱を拭うために、彼女は北口の商店街に最近できた「たんぽぽ」とかいう店で買ってきたクッキーを開ける。
無添加、手作りだとかで、星型やハート型のクッキーが透明なフィルムパックに入れて販売されていて、これだけ入って二百円ならば安いと思う。店の内装はなんだか幼稚園みたいで気に食わないのだが、味は別に悪くない。結果として、このところ彼女は優雅なティータイムにそれを一袋食べるのがほぼ日課になっている。
テレビを点ける。ワイドショーはつまらない。ただ今日は、彼女の好きな星川聖弥が出ていた。聖弥は十代から二十代の頃は「セブンミニッツ」というグループでアイドルをやっていたが、「セブン」の解散後、しばらく見なくなったと思っていたら、ここ最近は情報番組のコメンテイターとして引っ張りだこだ。
「世界から愛されるこの国の人たちが、これからも誇りを失わずに生きていけるように……」
聖弥の言葉はいつだって彼女の胸を打つ。四十近くのはずだが若々しく、どこか可愛らしさも残している。聖弥には、他の知識人も一目置いているようだし、普段は下品なお笑い芸人も「いやあほんま、聖弥くんの言う通りやで。なんで頑張ってる総理の足を引っ張るようなことを言うやつがおるんやろうなぁ、日本の恥やでほんま」なんて全面的に聖弥の言葉を支持する。頭が悪くても、それぐらいの判断は出来るということだろう。でも、もっと静かにしなさいよ、聖弥がまだ喋ってるじゃないの。
「……だから、アップデートが必要だと思うんですよね、憲法」
聖弥は爽やかな顔で言った。
「やっぱり憲法っていうのは……、国の形、理想を語るものだと、僕は思うんで……。総理っていうのは、国のリーダーなわけで、僕らを代表する人なわけですよね。だから、支持する人はもちろん、しない人も、選挙で、……ね、民主主義のルールに基づいて選ばれたのが総理なんですから、みんなで支えていかなきゃいけないんですよ……。そういう意味ではね、それを、可能にする……、みんなが同じ方向に、一致団結して歩いていけるような、そういう憲法っていうものを、やっぱり考えていかなきゃいけない時期に来てるんじゃないかなぁって、僕は思うんですよね。日本に生まれたことを誇りに思う日本人として、日本人のための政治をしていってもらうためにもね」
ジャスミンティーを啜って、「ほんとそうだわ」と呟く彼女の声を掻き消すように、お笑い芸人の「ほんまそうやでぇ」という声が重なった。
日本人のための政治、日本人のための国、日本人のための街。
夫に言われて意識するようになったが、確かに北口の外国人は明らかに増えた。今日なんて、彼女が結局実現しなかったパート先候補の筆頭だったドラッグストアでストック用の風邪薬を買おうとして入ったら、白衣を着ているのが外国人だったのだ。たかだか風邪薬を一個買うぐらいなのに、あれこれと訊かれることとなって、「あの、いつもこれ使ってるので」と彼女がかろうじて愛想笑いを浮かべても、「いえ、決まりですので」と言うばかり。日本人的な「察する力」みたいなのが備わっていないんだろうかと思いながら、そこから先は「ハイハイ、ハイハイ」と頷くだけで終わらせた。ああいう接客はやめた方がよい、と店長を見付けてアドバイスをしてやろうかと思ったが、その外国人の白衣の人間の名札に「店長」と書かれていて、虚をつかれた思いがした。
薬なんて、人の命に関わるものじゃない。そういうものを売るお店の舵取りを外国人にやらせちゃっていいのかしら。彼女は、自分があの店で働いていたら、あの外国人の部下になってこき使われる世界線を想像して、身震いしそうになった。
「では、次の話題です、依然として緊迫の続く中東情勢について……」
三時になろうとしていた。
中東という場所は、彼女にはあまりに遠すぎた。ケーブルテレビに切り替えて、韓流ドラマを見る。
韓国ならすぐ近くである。
さっきの、聖弥の言葉がまだ耳に残っていた。
憲法改正の発議、というものが、もうすぐ行われるという。
賛成と反対と、国民が投票をするのである。どっちの意見の方が多いのだろう? 彼女は憲法改正案なるものを読んだことはないが、おそらく賛成のほうが多いのだろう。それがはっきりしているならば、私もすんなりと投票することが出来る。迷う必要はない、聖弥が賛成であることは明らかだから。
やっぱり韓国の人たちは身体がいいわねぇ。
あちらの国は、確か兵役があるんだったわね。だから精神的にも肉体的にも逞しいのよ。兵役って言ったって、要するに集団生活で筋トレするぐらいのものなんだから、日本でもやればいいのに。
ああでも、そうか、いま憲法はそういうことはしちゃいけないって言ってるんだっけ。
だったら、そうね、やっぱり改正するべきだわ。
律有人も、一ヶ月か二ヶ月、自衛隊に行って、ちょっと鍛えてもらえばいいのよ。あの生央くんはちょっとしっかりめにね。そしたら二人とも、ちょっとは男らしくなれるんじゃない?
そんな考えの半ばから、彼女の頭の中は次第に「晩ごはん何にしようかしら」という考えで占められていく。彼女だけではない、誰もが忙しく日々の暮らしに追われている。思考や想像にコストを払うなんて悠長なことはしていられないのだ。
憲法改正に関する国民投票の投票権は、満十八歳以上と定められている。
彼女には投票権があり、彼女の息子と、彼女の息子が大切に思う者たちには、ない。彼女から時間と経済の豊かさを奪った人間が考えた憲法の案に、彼女は迷いなく賛成の票を投じるだろう。
きっと憲法は、どんなものであれ、彼女にこう言うことを許すはずだ。
「こんなはずじゃなかった」
これは、未来の話。
自分の頭で考えることはおろか、想像することすらしなくなった人々が巻き起こす雪崩に巻き込まれて死ぬことを、その瞬間まで気付かないのが幸せだと思って今を生きるこの国の人々の、未来の話。




