第8話:黒い泉
空気が、重い。
息を吸うたびに、胸の奥がざらつく。
「……来る」
ユノは、小さくつぶやく。
黒い魔獣が、一歩ずつ近づいてくる。
ずるり、と。
その体から、黒いものがこぼれ落ちる。
地面に触れるたび、草が枯れていく。
「……」
ユノの手は、震えていた。
怖い。
今までで、一番。
それでも——
目は逸らさない。
「……助ける」
言葉にする。
逃げないために。
その瞬間。
どん、と。
狼が一歩前に出た。
ユノを庇うように。
「……だいじょうぶ」
ユノは、その背に手を当てる。
少しだけ、力が伝わる。
「いっしょにやる」
狼の耳が、わずかに動く。
理解したのかはわからない。
でも——
その場を離れない。
黒い魔獣が、さらに近づく。
輪郭が、はっきりしてくる。
大きな体。
でも、本来の姿はもうわからない。
全部、黒に覆われている。
そして。
その奥から、かすかな声のようなものがした。
「……っ」
ユノは、目を見開く。
聞こえた。
気のせいじゃない。
苦しんでいる。
「……やっぱり」
確信する。
「まだ、残ってる」
本当のその子が。
中に、いる。
「……出す」
ぎゅっと、薬を握る。
そして、走る。
「……っ!」
自分でも驚くくらい、足が動いた。
怖いのに。
でも、それより早く。
体が動いていた。
黒い魔獣が、腕を振るう。
重い風が、地面をえぐる。
「……!」
間一髪で、避ける。
土が跳ねる。
でも、止まらない。
「……ここ!」
一番、黒が濃い場所。
そこに向かって——
薬を叩き込む。
ばしゃっ、と。
液体が弾ける。
同時に——
じゅううっ、と。
強い音が響いた。
黒い霧が、大きく揺れる。
今までよりも、強く。
「……やっぱり効く!」
ユノの声が、わずかに強くなる。
でも——
その瞬間。
ぐあああああっ——!
低く、歪んだ声が響いた。
魔獣が大きく暴れる。
「……っ!」
体が吹き飛ばされる。
地面を転がる。
「……いた……」
でも、立つ。
すぐに。
止まったら、終わる。
狼が、魔獣に飛びかかる。
正面からぶつかる。
黒と灰色が、ぶつかり合う。
「……だめ!」
ユノは叫ぶ。
「倒しちゃだめ!」
狼は、動きを止めない。
でも——
噛みつかない。
押さえつけるだけ。
動きを止めるために。
「……ありがとう」
ユノは、息を整える。
そして、もう一度走る。
今度は、もっと深く。
魔獣のすぐ近くまで。
「……お願い!」
精霊たちに手を伸ばす。
「全部、貸して!」
光が、一気に集まる。
怖いのに。
それでも、逃げない。
ユノの手の中で、光が強くなる。
「……これで」
もう一度、薬を作る。
その場で、混ぜる。
精霊の光を、全部乗せる。
淡い緑が、強く輝く。
「……いくよ」
小さくつぶやく。
そして——
魔獣の胸へ、手を伸ばす。
黒い霧が、抵抗するように揺れる。
でも——
「……そこ」
迷わない。
一番深い場所。
そこに、手を入れるように。
薬と光を、流し込む。
瞬間。
ばちん、と。
なにかが弾けた。
黒い霧が、内側から暴れる。
引きずり出されるように。
「……出て!」
ユノは叫ぶ。
引く。
引く。
全力で。
指先が震える。
でも、離さない。
すると——
ずるり、と。
大きな黒い塊が、浮かび上がった。
「……っ」
今までで、一番大きい。
重い。
逃げようとする。
精霊の光が、それを押さえる。
「……あと、少し!」
ユノは、力を込める。
そのとき。
黒の奥で、何かが光った。
「……!」
それは、小さな、本来の色。
ほんの一瞬だけ見えた。
「……いる」
ユノの声が、震える。
「まだ、いる!」
だから——
「……離さない!」
ぎゅっと、引く。
全ての力で。
小さな体で。
それでも——
絶対に、手放さない。




