第36話 怪物
咄嗟にルシアの前に動いた体が、空から延びてきた闇につかまる。
徐々に空の闇に引きずり込まれていた俺から見えたのは、こちらに必死に手を伸ばしているルシアだった。
自由になる右手をルシアの方に伸ばす。
あと少しだ、あと少し。
ルシアの手が触れた。
「レネを放してよ!」
ルシアがそう叫んだ途端まばゆい光が放たれ、闇の力が弱くなった。
突然弱まった力に二人とも体勢を崩し、俺とルシアは後ろに倒れ込んだ。
「ルシア! 大丈夫か!」
声をかけると、ルシアが身じろぎ、目を開けた。
良かった無事のようだとほっと胸をなでおろす。
ルシアも無事を実感したようでにこりと笑った。
その瞬間、全ての時が止まったようだった。
波の音なんて聞こえなくなった。
目の前にいた少女の波打つ金色の髪はキラキラ輝き、鮮やかな緑色の瞳は吸い込まれるほど美しいと思った。
常闇の国で生まれた俺はこれほど輝くものも、鮮やかなものも初めてだった。
うわー、きれいだなー。
ルシアの緑色の瞳を見ているとなぜか長老のことを思い出した。
昔、まだ小さな子供だった頃。
俺はいつもジェーダの所に行っていた。
ジェーダの家には長老と呼ばれる滅多に笑顔を見せない偏屈な爺さんがいて、いつも長々とこの世界の物語を話した。
当然小さな子供だった俺やジェーダには難しくて途中で飽きて他の遊びを始める。
それでも長老はずっと話し続けていた。
少し話が理解できるようになり、言葉を話すようになると、俺は長老の語る物語を度々止めた。
長老が「照り付ける光で海をまぶしくさせた」と言えば、「海はまぶしくなんかない」と言うし、「青々とした緑の美しい森」と言えば「結局森って青と緑どっち?」なんて質問をした。
その度に長老は、「だー! 少しは黙って聞いとらんか。まずはそういう世界もあるんだと想像してみぃ。美しいじゃろうが!」と嘆いた。
その時だけは一方的に語るだけだった長老と通い合った気がして、俺は余計に何度も物語を止めたがった。
そんな俺も時が経てば、少しは大人になって長老の語る物語を最後まで聞いていられるようになった。
俺とジェーダが最も心惹かれたのが最後の英雄マキレスだ。
この英雄は桁外れに強かった。
人食い竜や海の怪物もたった一人で倒し、人々を守った。
小さな子供だった俺らはそんな英雄になりたいと憧れながら長老の話を聞いたものだ。
俺らが英雄マキレスになりきって、人食い竜を倒す遊びをしたりしていると、長老は「物語にそんな変な叫び声や掛け声なんかないわっ!」と怒ったし、俺は俺で「いいんだよ。俺が英雄になる時はこんな風に倒す」なんて言い返したりもした。
目もあんまり開かず、ずっと寝たきり状態になっても、長老は起きている時はずっと呪文のように物語を語り続けた。
メモリーである長老は、自分が死んで頭の中にある数多くの物語が無くなることを惜しんでいた。
俺とジェーダはメモリーじゃない。
それでも長老は一つでも多くの物語を語り継ぎたいと俺らに必死で話した。
俺はその長老の痛々しい姿にもう物語が面白いとは思えなくなっていたけれど、それこそ使命のようにずっとずっと長老の隣で長老の口から出てくる言葉を聞いていた。
今は俺らに口うるさくあの場面が抜けているだの、語り方がへたくそだのと文句を言う長老はもういない。
ただ長老が語ってくれた物語の中の不思議な世界の情景はざわりと俺の心に残っている。
煌めく海面、緑の森、朝の光に目を細めること……。
そんなきっと物語上はそれほど大事ではない言葉が、想像することも、自身の経験に重ね合わせることもできずに、ただただその言葉のまま頭に残っている。
だってそんな海の煌めきも、森の色も見たことがなかったし、まぶしさに目を細めた経験もなかったから。
ルシアの瞳を覗き込む。これが森の緑なんだろうか。
海のきらめきってこういうルシアの髪のような色なんだろうか……。
頭に残っていた言葉と目の前の色がかちりとはまるような気がした。
これがもしも森の緑で、海のきらめきなら、確かに長老がいつか言っていたように美しい。そう思った。
ふいにルシアが口を開いた。
「まぶしい。これが空なの?」
それでやっと俺は、まだルシアの上に乗ったままなことに気づく。
ルシアの上からどいて、起き上がろうとするルシアに手を貸した。
二人してぼんやり空を眺める。
生まれた時から、ずっとあった闇がどこにもなかった。
白い。これがまぶしさか?
「闇から……でたのか。それとも闇を晴らした?」
「本当はこんなに明るいのね。あれっ、チリーは? チリー!」
「お、俺様……ここ」
ルシアが焦ったようにチリーを呼べばルシアの背後から弱弱しい声がする。
二人で覗き込んでみると、何がどうなったのかわからないがチリーが食料袋の中に入り込んでいた。
よれよれになっているのは、さっき倒れ込んだ時に俺らの下敷きになったからかもしれない。
「大丈夫か?」
「俺様、強い。ダイジョブ」
大丈夫と言いつつ、よれよれなチリーをルシアが袋から出してやる。
俺が後ろからその様子を見ていると、足元にルシアのネックレスが落ちていた。
海に落ちてなくてよかったと拾った時、突然空が陰った。
再び闇に取り込まれたのかと、急いで空を見上げると、そこには大きな影があった。
二階建ての建物くらいあろうかという体長、見たこともない長い首。
何の生物かもわからなかった。
「なんだよ、あれ」
ルシアとチリーは俺のつぶやきでやっと気が付いたらしい。
一人と一羽は下から徐々に顔をあげ、そのでかさを認識すると絶叫した。
「ぎゃぁぁぁ! むぐっ」
「気づかれる! とにかく逃げるぞ!」
急いでネックレスをポケットの奥へ突っ込み、ルシアの口をふさぐ。
予備のオールを渡せば、コクコクと頷き必死に漕ぎ始めた。
ゆらり影が動き、白い空からぬっと怪物の顔が出る。
「ぎゃぁぁぁ!」
「叫ぶな! 急ぐぞ!」
「アレは叫ぶなという方が無理じゃない!?」
怪物と目があい、フリーズしていた手を再び動かして全速で逃げる。
俺とルシアが必死にオールをこいでいる間、チリーは「やばいよ、やばいよ!」「こっち来るよ!」「もう終わりだー! 助けてー」と甲高い声で絶えず叫んだり、鳥の声で鳴いたりしている。
その声にさらに焦って、オールをこぐスピードを上げる。
もっと、もっとだ!
ルシアも漕いでくれたからか結構速いスピードが出ている。
これなら逃げ切れるだろうか。
ふいにしゃべり続けていたチリーの声がピタリと止んだ。
「迎え、来た……」
不吉なことを言うチリーをちらりと見れば、チリーは空をじっと見つめていた。
大丈夫か?
「何言ってんだ、チリー!」
まだ死んでない、だからあきらめるなという気持ちで声を張り上げた。
ルシアはもうヘロヘロになっていて、息も絶え絶えでオールを漕いでいる。
俺だけで漕いでも、さっきのようなスピードにはならないだろう。
どうすれば、どうすればいい?
「ちがう! 助けに来る! もう大丈夫!」
チリーが嬉しそうに大声を出した。
意味が分からず、チリーの視線を追って空を見上げる。
大きな怪物のさらに上、一つの影が見えた。
アレは……でかい鳥なのか?




