第12話 【閑話】幸せのスープ
「ただいま」
「どうだった? 支払待ってもらえた?」
扉を開けると同時に妻が奥から飛んでくる。
「いや、話も聞いてもらえなかったよ」
「そんな……。これからどうしたら良いっていうの?」
妻は近くの椅子に座って顔を覆ってしまった。
そんな妻の横を通り過ぎ、工房に向かう。
ボウルや粉を出していると、妻が叫ぶ。
「こんな時にパンだなんて! 私たち、店を取られたのよ!」
ここで親父の代からずっとパン屋を営んできた。
賃料を払い、良い粉を仕入れ、腕に磨きをかけ、大儲けとはいかないまでも、近所の人たちから愛される良い店になったと思う。
少しずつお金を貯め、ゆくゆくはこのお店を買い取れたら……と思っていた。
それがどうしてこんなことになったのか。
人生が転換するのはあっという間だった。
昨日もいつもと同じように朝早く起き、忙しくパンを作っては売り、作っては売り、六の鐘が鳴るころに店を閉めた。
閉店直後に扉が開く。やってきたのは、この店の大家だった。
「悪いが、この店を売ることにしたよ」
「そんな急に!」
「悪いな。こっちも物入りなんだ」
そんなことを急に言われても、俺らはどうなる? 店がなければパンも売れない。
「ならば俺らに売ってくれ!」
そう言って返ってきた金額は俺らには到底届かない額だった。
今日は売るのを待ってもらおうと大家に交渉に行った。
月の収入を計算し、妻と月々の支払額を決め、それを持って交渉に行ったのだ。
だが待っていたのは、「もう売った。月末までに退去してくれ」という言葉だけ。
「月末までってあと一週間しかないじゃないか」
そう抗議すれども、決定は覆らない。
大家の横暴、これから先の不安、妻になんといえばいいのか……。
突然降ってわいた悲劇に神殿前広場で途方に暮れていた時、あの子にあった。
「お兄さん、元気ない?」
正直、こっちは今大変なんだからどっかに行ってくれと思った。
それがなぜだか、いつの間にかあの子のペースにのせられてスープ屋の前まで来ていた。
「あのね、おばさん。私ここのスープ飲んで幸せな気持ちになったの。だからあのお兄さんも幸せにしてあげて。美味しいもの食べると幸せだから」
その言葉を聞いて力が抜けたのか、俺は笑っていた。
店を奪われたばかりだというのに、何を笑っているんだろう。
「はい兄ちゃん。何があったかは知らないけど、とにかくうちのスープ飲んで元気だしな!」
そう言って手渡されたスープに口を付ける。温かい。
あの子もこのスープ屋も俺の事情なんか知らない。
解決方法を教えてくれたわけでもない。
それなのに、店のことはもういいかと思っている自分がいた。
家に帰り、交渉の結果を伝えると予想通り妻は絶望した。
突然店を続けられなくなったのだから、その気持ちはわかる。
妻は言う。
「あぁ、もうこれからどうやって生きていけばいいの? これならいっそ今あるお金で輝教に……」
「まぁ、待って。まだ俺たちにだって幸せはある」
俺だってさっきまでは絶望しかなかった。
でも今は違う。
油を温め、作った生地を絞り出す。
昔お袋が時々作ってくれた発酵不要の揚げパンだ。
毎日売れ残りのパンがおやつだったことに、文句を言っていたら作ってくれた。
ジャムをとろりとかけたのが最高にうまい。
皿の上に出し、妻の前に置く。
「さぁ、食べよう。どんな時だって美味しいものを食べると幸せになるんだ」
「なによ」
最初妻はそう言ったけれど、食べ終わって「おいしかったわ」と言った妻の口角は少し上がっていた。
そうだ。美味しいは幸せだ。




