第四話 日常の始まり
スマートフォンが鳴き声を上げている。
それがアラームの音だとは直ぐに判って、私は画面を操作してその喧しい音を止めた。そして、微睡みの中で昨日のことが思い起こされた。
楽しかったなぁ。アイちゃん、可愛かった。
そんな感想が、止め処なく流れては子守唄のように響いている。
河原で転びそうになった私を受け止めてくれて、スーパーでハンバーガーを食べた際には、口元に付いたソースを拭いてくれた。展望台で手を握ってくれていたのは……あれ、私が心配だったから? はしゃいで柵を乗り越えて落ちていかないか心配だったから?
あれ……私って、めっちゃ子供っぽくなかった?
布団を跳ね除けて、勢いよく起き上がった。そして、うつ伏せになって枕に顔を埋める。
恥ずかしい! めっちゃ恥ずかしいことをしていた!
思い起こせば顔から火が吹き出しそうな醜態の数々。その時楽しかった思い出っていつもそうだ。気持ちよく歌っていたのに、他人から見れば音痴だった、とか。自分で見つけたゲームの攻略法が、実はかなりの回り道だった、とか。楽しかった思い出は、当時に鋭利な凶器となる。
「あー、なんか一気に目が覚めた」
せめてもの救いは、アイちゃん――相川愛の席が隣ではなかったことか。もしも席が隣だとしたら、とてもじゃないけど正気で授業なんて受けられない。
記念すべき初授業。異世界問題は棚上げするとして、先ずは真面目に授業を受けないと、そもそも進学できなくなるのでは? なんて問題もある。
必要な教科書の類は、昨日のうちに鞄に入れてある。予算の関係上、タブレットを使用した授業はなさそうだから、どうしても荷物が多くなりそうで、ちょっと憂鬱。
そんな中途半端な所に、やっぱり違和感が? 異世界っぽい? でも、それがこの世界の当たり前だとしたら、それは異世界であるという証拠になり得るのか。シエルの言葉が頭の中で踊っている。
分からないことを棚上げできるのは、きっと人間の良いところだ。堂々巡りでは、一歩も進めないのだし。
「気持ち、切り替えよ〜」
伸びをして、布団から起き上がる。病院ぐらしではずっとベッド暮らしだったから、畳の上に布団を敷いて寝るというのは新鮮で。無駄にゴロゴロしたくなって。昨日は無駄にスマートフォンを弄くって、無駄に布団の感触を楽しんで無駄な時間を過ごして睡眠時間がちょっと足りない。
「朝ごはんにシリアルを食べる。これもちょっと、憧れだったんだよねぇ」
部屋を出て、廊下を進む。L字の階段を下りる。二階はシンプルな構造で、突き当たりには物置。庭側に二部屋。私は奥の部屋を寝室にしていて、手前の部屋はゲストルームにでもしようと思っている。足りなければ、寝室で布団を敷いて雑魚寝もできる。そのために、ベッドを入れるのは諦めた。
弁当はどうしよう。スーパーで買っておいた菓子パンでも持っていこうか。
そんな事を考えながら、朝の準備は着々と進んでいく。お母さん、お父さん。私はなんとか、やっていけそうです。
「アユ。おはよー」
「あ、おはよう」
分かれ道を曲がると、背後から声が掛けられた。既に聞き覚えのある声になっていたことが、なんだか嬉しくて。私は笑顔で振り返った。
昨日の醜態は、どこかに吹っ飛んで消え去った。
「今日ってさ、一時間目から数学でしょ〜。アタシ、数学って苦手。数字がページの割合を多くを占めていると、なんだか頭が痛くなってくる」
「私も」
「現金を使えば、お釣りがどうとかって考えて数字が身近になるって、昨日に痛感したよ〜。キャッシュレスだと画面すら見ないもんなぁ」
「そう? 私は残金がどうとかって心配になって、会計の時はいつもドキドキしてる」
「そういうとこ、なんかかわゆい。アタシって大雑把だからなぁ」
登校時の笑顔。
一時間目が終われば急転直下。
トボトボと私の席の下へ足を運んだ彼女の姿は、痛々しいほど惨めだった。
「全然分からん」
「私も。名嘉さんは、すっごくスラスラノートに書いていたけど」
「数学は得意だから」
「羨ましい〜。眼鏡? ねぇ、眼鏡がそうさせているの?」
「伊達眼鏡でも掛けてみたら?」
「真剣に検討してみる」
その後も一般的な高等学校の授業が、おそらく続く。高校なんて通ったことがないから、少なくとも私には、どんなものが一般的なのか分からないし。ただ、そのことから、ここが異世界だと導き出すことは難しそうだということは分かったかな。
ふと思い出す。同じ数学を用いて考えることができるのなら、たとえ宇宙人とでもコミュニケーションが取れる。なんて話を聞いたことがあるような、ないようなうろ覚え。
だから、それだけではここが異世界だと断定はできない、のかな?
ちらりと、シエルに目を向ける。頬杖をついて外を眺めていた彼女の視線とぶつかった。
「みんな、質問の回答を見たのかしら」
あっ……。
いち早く動いたのは、その言葉を隣で、彼女の目の前で聞いていた名嘉だった。
教卓へ近寄って、中から日誌を引き出してページを捲る。私も側に寄り、なんだなんだとみんなの視線を引き寄せる。「あ、忘れてた」と、男子の誰かが言った。
「杏仁新太。なぁんか、偽名みたいな名前」
問いかけた名前は、しっかりと答えられていた。男子の数人が「どんな字だ?」と日誌を覗き込み、「杏仁」「杏仁豆腐みたいだな」「じゃあ杏仁先生だ」と笑った。
教卓に集まらなかった生徒は、特に興味はないのだろう。思い思いに昼食を広げていて、相川はサンドイッチを咥えながらやってくる。
「次の質問、何がいいと思う?」
名嘉の問い掛けに、教卓を去ろうとした男子の一人がこう言った。
「何でもいいぜ。任せるわ。昨日、男子全員で集まって話したんだけど、俺らはこの一年を、普通に楽しむことにした。質問は、気になることを思いついた人が書けばいいよ」
「ちょっと、そういう相談はみんなが居るところでしなさいよ。そのグループのリーダーは誰? 林田、あなた?」
がっしりとした体格のいい男子生徒。緊張もあって、自己紹介の殆どを覚えていなかったことに私は気がついた。
あの時は妙なプレッシャーを与えてくれたものね、と相川を睨むと、キョトンとした表情を見せる。これは勝手な恨みなので、悪しからず。
「ま、そんな感じ。女子の代表も決めてさ、二人っきりで話し合おうぜ?」
近寄って、肩に腕を回そうとする。ツンとしてその腕を振り払った名嘉は、日誌にサラサラっと文字を書き込んだ。
「なら、適当に書かせてもらいます。答えられない質問はあるか、あるならどんな質問なのか。事後承諾だけど、何か異論はあります?」
何もなし! と元気な声が教室に響いた。
たったの一日だけど、自然とグループが出来上がっているようだ。男子のグループ。これは十人という大所帯なので、数日すれば細分化されるのだろう。
女子のグループは三つに分かれる雰囲気がある。龍崎と吉田の廊下側縦並びコンビ。どうやら共通の趣味が発覚したようで、休み時間の度に笑い声が響いていた。そして孤高の一匹狼、シエル。彼女は我関せずと言ったように、涼しげに、おにぎりを頬張っていた。
そして、私たちのグループ。
「カナちゃん、大変そうだねぇ」
「あなたの距離の詰め方、驚異的ね。まぁ、良いのだけど」
「それより、名嘉さん、もしかして昨日の図書館での話、聞いていたの?」
「ええ、悪いと思ったけれど、興味深い話だったから、少しだけ。あと、叶でいいわ。カナでも」
「ふふーん、アユは頭がいいでしょ?」
「なにそれ。自慢するなら自分のことをしなさいよ。明日の質問、あなたが考えてみたら?」
「質問ねぇ……。先生のタイプとか? いやーん、アタシって言われたらどうしよ!」
「先手を取られるに一票」
「あ、私もそっちに乗りたい」
「え、どゆこと?」
つまり、それは無回答になりそうな予感、と言うことで。
「それよりも、私、質問したいことがあるんだけど」
「あら、そうなの? ごめんなさい、書いてしまって」
「いや、急ぐことではないんだけどね。例えば、この一周目で株なんかの動きを見たとして、次の週でその傾向を見て売買をする。そしてそのまま異世界である証明をしたら、上手いことお金を稼げるのかなぁ、って。それはありなのかどうか」
暫しの無言。
「うちのアユ、頭いいでしょ」
「惜しいことをしたわね。すっごく気になってきた」
結局のところ、質問は大事ということで。




