09 熱い手のひら返し
働き方改革なる試みが本格的に動き出した。
長年の習慣は容易には抜けぬものなのか、早朝のまだ暗いうちから農園へ姿を見せる者もいたが、入り口で待ち構えていたシグリッドに笑顔で追い返された。
「せめて五分前行動でおねがいしまーす」
にんまりと笑いながら追い立てられれば村人たちも苦笑して引き下がるほかない。
トーマスはといえば、農園の様子はシグリッドとアルフレッドたちに任せ、館の書庫に籠もってコフィに関する文献を漁る日々であった。
そしてコフィの育て方についてある程度の道筋が経ったところで、シグリッドは新たな指示を出した。
「摘むときなんだけどさ、赤く熟した実だけを選んでほしいんだよね」
「熟した実だけですと……? コフィに必要なのは中身の種です。青かろうが黒かろうがどうでもよいではありませんか」
ゼイニークがすかさず口を挟んでくる。シグリッドは苦笑を漏らしながら軽く首を振った。
「それだと変な味になるらしいんだよね。未熟なのまで混ぜこぜにしたら、本来のコフィの良さが台無しになっちゃうんだって」
「ふむ……それは王都の栽培士から得た知識でございますか?」
「いや? 縦動画?」
「…………たて?」
「うん。まぁこれ以上不味くしようもないんだからさ、まずはやってみよ!」
言われるがままに彼らは作業を始めたが、その手つきには依然として戸惑いが滲んでどこかぎこちない。「量こそが正義」と叩き込まれてきた彼らにとって実を枝に残す行為は、自ら成果を捨てる暴挙に等しかったのかもしれない。
「これでは収穫量が激減するだけではありませんか?」
「収穫量はね。でもほら、量より質って言うじゃん? てかそもそもさ。今までは量を採ることばっかりで美味しく飲む方法なんて誰も試してなかったんでしょ?」
「……眠気覚ましの薬としてであれば、味など考えなくても良かったのです」
痛いところを突かれたようにゼイニークは吐き捨てた。
元々この地では別の農作物を育てていたという。だが、コフィの価値に目をつけたゼイニークが強引に改作を命じたのだ。それでいて碌な知識も持ち合わせずに適当な収穫を繰り返していたのだから、品質に難があって当然であった。
村人にしてみれば、急な方針転換を求められたばかりかシグリッドの提唱するやり方が正しいのかも分からぬ中での作業だ。戸惑うのも仕方ないだろう。
当のシグリッドはといえば、周囲の疑念などどこ吹く風。村人たちの輪に加わって楽しげに手を動かしていた。
「そうそう、その色! 上手いじゃん! 次はあっちの木もやってみよっか?」
午前の短い時間だけ手伝っている子どもたちにも声をかけ、まるで遊戯に興じるかのように農園に快活な声を響かせる。その姿は貴族の——ましてや王族のそれとはあまりにもかけ離れていた。
午前中の収穫を終えた広場で、シグリッドは次なる指示を飛ばした。
「よし、じゃあ次はこれを洗ってみよっか」
村人たちが一粒ずつ丁寧に摘み取った、決して多くはない赤い実。それを彼は躊躇なく水で満たした大きな桶へと投入させた。
「み、実を洗うのでございますか……?」
一人の老人の震える声が、全員の疑念を代弁した。
この男は本気で村を救う気があるのか、あるいは何もかもを気まぐれに壊したいだけなのか。
どこか張り詰めた沈黙の中、シグリッドの視線を受けたトーマスが重々しく頷いた。
「傷んだ実は水に浮きやすいのです。だからまずは水に入れ、浮いてきた実を除きます。その後で果肉を剥ぎ、取り出した種を一晩水に浸して発酵させる。種の周りに残った粘りが落ちやすくなり、余計な雑味を減らせましょう」
「さっすがセンセー、頼りになるぅ。俺が視たやつだとそのへんはカットされちゃってたんだよね~」
シグリッドの持つ断片的な謎の知識を、裏付けを取るようにトーマスが文献で埋める。少なくともこれまでのやり方よりも理にかなっているはずだった。
「ま、そういうわけだからまずはやってみようよ。失敗しても誰も怒んないんだからさ」
彼らは言われるがままに実を水に浸し、水に浮いた実を選り分け、果肉を剥いで、中から薄黄色の種を取り出していった。それはまるで泥の中から砂金を拾い上げるような光景であった。
——十日余り後。十分に乾燥させて表面の硬い殻と薄皮を取り除いた種を前に、シグリッドは「第二段階だね」と不敵に笑った。
いよいよ焙煎である。
彼は村唯一の鍛冶職人から受け取った蓋付きの金属籠を持ち出した。古い籠へ取っ手を付け、熾火の上で回せるよう改造したものだ。
これまでは大鍋へ種を放り込み、焚き火にかけて黒くなるまで煎るだけだったそうだ。だが今回は、炎の上ではなく静かに熱を蓄えた熾火を用意させている。
「センセー、火の魔法が使えるって言ってたよね?」
「多少の心得がある程度です。あまり期待されては困りますが」
「それじゃあ火加減の調整だけお願いしていい? 俺、こっち回すから」
トーマスが己の扱える火魔法で熾火の調整をする傍ら、シグリッドは籠の取っ手を握り、ゆっくりと回し始めた。熱が強くなりすぎれば熾火を散らし、弱まれば魔法で小さな炎を足す。籠の中では種が絶えず転がり、カラカラと乾いた心地よい音を立てている。
やがて、村に常時漂っていたあの酸っぱい焦げ臭とは全く質の異なる、甘く香ばしい匂いがふわりと立ち上った。焼きたてのパンのようでもあり、肥沃な大地の恵みのようでもある、人を惹きつけてやまない豊かな芳香が。
その香りに誘われるように、他の場所で作業をしていた村人たちが一人、また一人と姿を現し始めた。さらには遠目に見守っていたゼイニークまでもが、鼻をひくつかせながらふらふらと寄ってくる。
「うん、いい音がしてきた。……もうすぐだ」
シグリッドが人差し指を唇に当てると、周りの者たちも耳を澄ます。籠の中から、パチ、パチ、と爆ぜるような音が響き始めた。
籠を開くと、中の種は美しい栗色に輝く宝玉へと変貌を遂げていた。いっそう濃くなった香りが辺りを満たしていく。
「これがコフィの『豆』、ね。でも、大事なのはここからなんだよねー」
彼は悪戯っぽく笑い、こう続けた。
「熱いお湯で淹れる『ドリップ』と、一晩かけてじっくり抽出する『水出し』。さて、どっちから試そうか?」
村人たちが困惑したように顔を見合わせる。意味不明な呪文としか思えないのだろう。
「うーん、分かんないか。じゃあまずはドリップからいってみよう!」
手際よく準備を整えたシグリッドが豆を石臼で挽き始めた。粉になった瞬間に香りの密度はさらに増し、広場全体を包み込む。彼はその粉を麻布を敷いた漏斗に入れ、ゆっくりと湯を注いだ。
「見てるだけでも楽しくない?」
熱い湯気と共に黒褐色の液体がぽたり、ぽたりと器へ滴り落ちる。それはまるでコフィの魂を一滴ずつ抽出しているかのような、荘厳な儀式のようにも見えた。
出来上がった液体をシグリッドは一番近くにいた老人に差し出す。老人は恐る恐るそれを口にした。
次の瞬間、彼の目が驚愕に大きく見開かれる。
「こ、これは……苦くない。いや、苦味はあるが、なんと心地よいのだ。それに、これまで嗅いだこともないほど芳しい……!」
その言葉を皮切りに次々と村人が杯を口にする。誰もが目を見張り、感嘆の声がさざ波のように広がっていく。
「ふふん。でも、本命はこっちだよ。昨日から仕込んでおいたんだ」
彼が指し示した大きな甕の中では、前日に粗く挽いたコフィの豆が冷たい水へ浸されていた。乾燥を終えた種の一部だけを使い、シグリッドとトーマスは試験的に焙煎を済ませていたのだ。火加減も時間も手探りだったが、水出し用の一甕を仕込む程度の豆は確保できていた。
彼は液体を目の詰まった麻布で丁寧に漉し取った。指を鳴らして空中からたっぷりの氷を生み出し、そこへ落とし入れるとカラン、と涼やかな音が響き、漆黒の——言うなればアイスコフィが完成した。
シグリッドはそれを一人の青年に手渡した。青年はおっかなびっくり冷たい液体を口に運ぶと喉をごくりと鳴らし、叫んだ。
「苦いのに……あとから甘みが残る!」
あの苦くて不味いものでしかなかったコフィが、甘い? まるで信じられないと言わんばかりに周囲が顔を見合わせる。
トーマスも改めて口にしてみた。細かな粉までは取り切れなかったのか、口に含むと僅かなざらつきが舌に残る。まだまだ改良の余地はあろうが、これまで王都で口にしてきた煮出しただけのコフィとは比べものにならないほど雑味は少なかった。
人垣の後ろで呆然としていたゼイニークも、誘われるように氷の浮かんだ杯を手にした。彼は猜疑に満ちた目で液体を睨み、やがて、意を決して一息に飲み込む。
——刹那。ずっと強張っていた彼の顔が緩んだ。
「……なん、ということだ……」
喉を潤す冷たさ。鼻を抜ける至高の香り。そして、果実の残り香のような淡い甘み。
ゼイニークの脳内でとてつもない欲望の算盤が弾け飛んだ——ように見えた。
「こ、これを……これを王都で売れば! 莫大な……いや、国一番の富が手に入るぞ!!」
彼は血走った目で杯を握りしめると、震える声で絶叫した。
「シ、シグリッド様! 私も明日から、いや今すぐにでも農園に顔を出しますぞ! この奇跡のコフィを、一粒たりとも無駄にはできませぬッ!!」
「うんうん、頑張ってね」
喜びに沸く村人たちの横をゼイニークが鍬を担いで駆け抜けていく。
その背中を見送りながら笑う『何か』を、トーマスは静かに見つめていた。




