08 悪辣領主ゼイニーク
——こんなはずではなかったのに。
若者たちの監視の下、午前中は死に物狂いで土を耕した。暑さで倒れる寸前だと泣き言を漏らせば「じゃあ広場でカロリーナカローテの皮でも剥いていろ」と吐き捨てられ、追い払われるように広場の炊き出し班に回された。
「あれ? ゼイニークさん、偉いじゃん。どうせ寝てると思ったのに」
一連の出来事を知らぬ様子のシグリッドは、ゼイニークの姿を見るや無邪気な笑顔を向けた。てっきりこの王子の差し金だと思ったのだが、彼はどことなく嬉しそうにうんうんと頷いている。
「村人による幼稚な嫌がらせですよ。私を引きずり落とすことが喜ばしくて仕方がない様子だ」
「いやまぁ、多少は自業自得だろうから仕方ないんじゃない?」
あっさりと切り捨てられる。王族相手ということも忘れて舌打ちをしそうになってしまったが——。
「とはいっても、村のためにって気持ちはあったんだよね? でもやり方が無茶だし、ろくに説明もしなかったんじゃ理解は得られないでしょ」
また軽く返されると思ったのに。苦笑を交えたその言葉にゼイニークは虚を突かれたようにたじろいだ。
「村のためにやったと、どうしてそう思うのですか」
「借りた名簿にしっかり書き込みがあったからそう思っただけ。ま、これからはちゃんと話し合ってうまくやっていこうよ。……さて、あっちの氷も溶けちゃったかな。ちょっと補充行ってくるから、こっちはよろしく~」
そう言うとシグリッドは軽い足取りで農園へと向かってしまった。仕方なく、どこかおぼつかない足取りで女たちが集う炊き出し場へと足を向ける。
「まあまあ、領主さ——ゼイニーク様がお手伝いくださるんですかぁ?」
女たちの訝しげな視線が突き刺さる。逃げ出そうにも若者衆が遠巻きに目を光らせている。こんなことは私の仕事ではないと声を大にしたところで、「シグリッド様もさっき皮剥きしてくれてたよ?」と子どもにまであしらわれてしまえば、黙って従うほかない。
もはやこうなっては共同領主という立場はシグリッドからの温情に過ぎず、彼を傀儡に据えようという目論見も予想外の言動の数々の前に無残に砕け散った。村人の前で鍬を振るうという辱めまで受けたのだ。今のゼイニークには抗う気力も残っていなかった。
「……カロリーナカローテは、どうやって剥くのだ」
「ええと……まずはこの包丁で、頭を落としてですね……」
遠慮がちに説明を始める女に従い不器用に手を動かす。だが、刃こぼれした包丁は驚くほど扱いづらい。何度もあらぬ方向へ滑らせては、分厚くて丸っこい指先に小さな傷を作ってしまう。
「——ええい、忌々しい! なぜ私がこのような屈辱を味わわねばならんのだ!」
「なによ偉そうに。領主じゃなくなったらただの贅肉の塊のくせに……」
「女、聞こえているぞ! 私はシグリッド様から共同領主となるよう仰せつかっているのだ! 平民如きと一緒にするな!」
「ふん、きっと王子様はあんたの不正の証拠でも探してるんだよ! それが済んだらお払い箱さ!」
威勢のいい女に一喝され、ゼイニークは言葉を詰まらせた。
これまでは領主という盾があった。だから何を言おうと誰一人として歯向かう者などいなかった。貴族というだけで平民を圧倒できるのが世の理であったし、事実、ゼイニークがこれまで見てきた貴族たちはどれほど清廉な顔をしていても、腹の内では民草を家畜同然にしか見ていなかったのだ。
だというのに。この村にやってきたあの王子は平民に交じって泥にまみれ、あろうことか太陽のような笑顔を向けていた。腐っても王族である男があのような姿を見せるなんて、正気の沙汰とは思えない。
現状への怒りと、包丁を握る己の無様さへの情けなさに身体が自然と震えだす。
いっそ怒鳴り散らしてこの場から立ち去ってやろうか。
そんな暗い衝動のまま包丁を握る手に力を込めた瞬間、肉厚な手の甲へ、そっと誰かの手が触れた。
「あの……もう少しゆっくりでも大丈夫ですよ。それだけ切っていただければ十分です」
手際の悪さに呆れ顔の他の女たちを余所に、最初に包丁の扱いを教えた女だけが穏やかな表情を向けてくる。ターニャと名乗ったその女は鳥の骨のように痩せぎすで、黒々と陽に焼けていて、お世辞にも華やかとは言えぬ村の女の一人であった。
「初めてなんですもの。無理のない範囲でお願いいたします」
このような女にまで気を遣われるとは、そこまで落ちぶれてしまったのか。ゼイニークはダンッ、と力任せに包丁を振り下ろした。
——元々、ゼイニークは代々王家に仕える貴族の出であった。
華々しい功績こそなかったが数字と実務には強く、与えられた政務を卒なくこなしてきた。無難に勤め上げれば王都での出世も約束されていたはずだったのだ。
だが、娶った女が悪かった。
目上の家との婚姻ゆえ、婚家の要求には逆らえない。妻は贅沢の限りを尽くし、義理の父母には金をたかられ、ゼイニークはその欲望を満たすために多額の金を必要とした。
底の抜けた器のように減り続ける資産に焦燥が募る日々。財政官という立場を利用して国庫に手をつけるまでにそう時間はかからなかった。
不正はあっけなく露見した。婚家に搾取されていた事情を酌量され処分はアラピカへの左遷に留まったが、妻はついてこなかった。もう用はないとばかりに離縁状だけが届いた。
その日のことを思い出しながら、ゼイニークは無意識に包丁を振り下ろしていた。どん、とどん、と不揃いな音がまな板の上で続く。
意識はまた、過去へと引きずられていく。
——失意の中、このアラピカ村へ赴いた当初はやり直そうという気概もあった。成果を上げれば王都へ返り咲ける。そんな希望も抱いていた。
だが、何もかもがうまくいかない。前領主に虐げられてきた村人たちは貴族というだけでゼイニークを嫌い、何を提案しても裏があるのではないかと疑った。成果を焦るほど声は荒くなり、命令は高圧的になっていった。
厭われてなお好かれようなどとは思わない。貴族と平民が相容れることなどやはりあり得ないのだから。
税収が上がらぬなら力ずくで働かせる。歯向かうならば脅して従わせればいい。
そうして得られたものは悪辣領主という不名誉な称号と、ストレスによる暴食で肥え太った醜い身体だけ。いつしか村人が飢えようが知ったことではないと思うようになり、財を蓄えねばならないという強迫観念だけが影のようについてまわっていた。
「……まあ、ありがとうございます。おかげさまで助かりました」
——すっかり没頭していたようだ。刻んでいた手を止めると、まな板の上には不揃いのカロリーナカローテが散乱していた。お世辞にも見栄えのするものではないが、ターニャはそれを丁寧に寄せ集めると煮え立つ鍋の中へぼとぼとと落とした。
「お疲れでしょう。もうじきお昼休憩ですから、少し休まれてはいかがですか」
やはり遠慮がちに声をかけてくる女。それを鬱陶しげに見守る他の女たち。かつての妻とはまるで異なる穏やかさを持つ女を前にして、ゼイニークは困惑するしかなかった。
領主の座を完全に追われた暁には、村人からそれなりの仕打ちを受けるだろうと。
頭の片隅ではそれも自業自得だと分かっていた。それなのに。
「……よい。それよりも、他に切るものはあるのか」
ぼそりと漏らした言葉に、ターニャは「まあ」と声を弾ませ、嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃあ今度はこちらのチポラーニョをお願いできますか? ……ああ、その前に指に軟膏を塗りましょう。小さな傷ができていますよ」
「ターニャ! そんなに甘やかすんじゃないよ!」
「まあまあ……。せっかく手伝ってくださっているのですから、せめてこれくらいは」
手際よく軟膏を塗られた後、再び包丁を握ったゼイニークはチポラーニョへと刃を立てた。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
——どうして、涙があふれ出るのか。
その理由は、彼自身にもまだ分からないでいた。




