07 新たな一日
改革初日を終えた翌朝。停滞していたアラピカ村に、昨日までとは異なるざわめきが生まれていた。
村の広場には備蓄の中から運び出された穀物や野菜が並べられ、女たちが朝食の準備を進めている。シグリッドの提案により、これから農園で働く者へ簡単な食事を用意することになったのだ。
『あれは雨季を越えるための備蓄なのですぞ! 人気取りにしては些かやり過ぎではありませんか!』
昨夜、ゼイニークが上げた悲鳴に近い抗議は、シグリッドの「いーからいーから」という軽い一言によって呆気なく封殺された。
『分かってるって。だから全部使うわけじゃないし、古い分から先に出してるでしょ? それに腹が減っては戦はできぬって言うじゃん? 何をするにも、まずはお腹を満たさないとさ』
『限度があると申しておるのです! あんな味の分からぬ連中には、そこらへんの草でも食わせておけばよろしい!』
『うわぁ、リアルでそんな台詞が聞けるなんて思わなかった! 凄いねゼイニークさん、悪役の極みって感じ。ま、ここは一つ領主命令ってことでよろー』
正式な領主の命とあっては、もはや名ばかりの共同領主に逆らえるはずもない。
そうして村の若者たちの手も借りて、食材の運び出しが行われたのだった。
広場には子どもたちの快活な笑い声が響き、稜線を越えた朝日が村を照らし始めている。
だが、その喧騒から隔絶された場所がたった一箇所だけ存在した。——館の奥、ゼイニークの私室である。
広場に姿を見せなかったゼイニークの様子を窺いにトーマスが足を運ぶと、そこには働かざる肉の塊が寝台に横たわっていた。
「……おはようございます、ゼイニーク殿。日はすでに登っておりますぞ」
返答はない。耳を塞いで現実を拒絶しているのか、あるいは年甲斐もなく拗ねているのか。
「皆、早朝から精を出しております。昨日のシグリッド様のお言葉をお忘れではありますまい」
「……ふん、戯言を。これ以上あの王子の気まぐれに付き合わされては身がもたぬわ」
ようやく口を開いたゼイニークは、呪詛を吐き捨てるようにそう言った。
「気まぐれなどではありますまい。シグリッド様は、すでに農園にお出ましです」
「どうせこの僻地でお遊びに興じておられるだけだろう。領政ごっこに一時の熱を上げているだけで、いずれ飽きるに違いない。だいたい私がわざわざ泥にまみれに行く必要などどこにあるというのだ」
薄暗い部屋の中で、布団にくるまったままの塊が大きな欠伸を一つ漏らす。
「私は今日一日、寝て過ごさせてもらう。もはやこの村がどうなろうと私の知ったことではないのでな」
……これが、かつて王都で財政に携わった男の末路であるか。
トーマスは静かに嘆息し、説得を諦めることにした。ゼイニークはこれで邪魔者がいなくなったとせいせいしているのかもしれない。王子もすぐに飽き、再び自分にとっての平穏が戻ると。そう高を括っているのかも。
だが、その浅はかな目論見は予期せぬ形で瓦解することとなった。
トーマスが再び外出の支度を整え終えた頃、館の前に農園へ向かう若者たちが姿を現したのだ。
窓から覗き見れば、先頭にアルフレッド、ほかにも鍬や籠を手にした若者たちが並んでいる。
「領主様ぁ! 本日のご指導、よろしくお願いいたしまーす!」
門前から響く皮肉たっぷりの怒声に、トーマスは思わず苦笑いを噛み殺した。
本来であれば衛兵の出番であるのだが、なんとゼイニークは数名の使用人を置くのみで私兵を有していなかった。どうやら王都での不正を弁済したことで資金も底を突いていたらしい。この館も前領主から引き継いだもので、もはや張りぼてに過ぎないものだった。
もっとも、仮に私兵がいたとしても同じだったかもしれない。以前の村人たちなら領主の館を囲むなど考えもしなかっただろうが、その権威はシグリッドの登場によって揺らいでいる。
「言っておきますけどね。出てくるまで帰るつもりはありませんからね」
「中で待たせてもらってもいいんですよ。俺らは食材運びを終えたばかりなんで、絨毯を汚しちまうかもしれませんけど!」
流石にそれは嫌だったのか、ややあって重い扉が開き、ようやくゼイニークが姿を現した。上着を羽織り、背筋を伸ばして往時の威厳を装うが、そのメッキはすでに剥げ落ちかけている。
「貴様ら、何のつもりだ! 貴族に対する礼儀を弁えぬか!」
「うるせぇ豚! その綺麗なおべべを汚したくなけりゃとっとと着替えて来いって言ってんだよ!」
「本物の領主様が汗水垂らして働いてんのに、お情けで置いてもらってる居候が寝てるなんていいご身分ですねぇ?」
剥き出しの嘲弄を浴び、ゼイニークは顔を真っ赤に染めあげた。何か言い返そうと口を震わせるが、村人たちの視線は氷のように冷たい。ゼイニークが農園に居たところでなんの役にも立たぬだろうに。それでも彼らは望んでいるのだろう。かつてこの地の絶対的な支配者が泥にまみれる姿を。
押し黙ったまま立ち尽くすゼイニークの前に、アルフレッドが一歩進み出る。
「おら、とっとと行くぞ。無駄飯食らいはこの村にいらねーんだろ? 領主様?」
その一言が、決定打となった。
観念したゼイニークはよろよろとした足取りで村人たちによって館の外へと引きずり出されていく。その惨めな背中を見送る使用人へ、トーマスは静かに命じた。
「着替えを持ってきなさい。……あの上等な服も売れば相応の金になる。泥で汚すには惜しいでしょう」
*
朝の光が差し始めた農園の外れでは、仮設の日除けを支える柱を立てるために固く締まった土を崩す作業が始まっていた。
立ち尽くすゼイニークに差し出されたのは使い古された一本の農具だ。刃は欠け、柄は長年の使用で黒ずみ、ところどころささくれ立っている。
「……これを、どうしろと」
「耕すんですよ、領主様。今日は体験入門ってことで、軽くでいいんでね」
そう告げた若者の瞳にはもはや怒りすら宿っていない。ただ淡々と、貴族の成れの果てである生き物を観察するようなまなざしだ。
周囲の視線が突き刺さる。ゼイニークは屈辱に身を震わせながら麻の作業服に袖を通した。使用人から手渡された粗末な生地が肌を擦るたび、彼は不快そうに顔を歪める。
そしてぎこちない足取りで、手にした農具を土へと突き立てた。
——刃は、通らない。
固く締まった土に跳ね返されて腕に鈍い衝撃が走ったのだろう。ゼイニークは手首を振り、痛みに顔を顰めた。
もう一度、角度を変えて振り下ろす。だがやはり土を穿つには至らない。
「こ、こんな刃の欠けた鍬で耕せるものか! 嫌がらせもたいがいにしろ!」
「新しいのを何度も頼みましたよ。領主様に。手持ちで何とかしろって言ったのはアンタじゃないですか」
そのやりとりに思い当たることがあったのか、渋々とゼイニークは作業に戻る。何度か空虚な動作を繰り返すうちに、額には汗が滲み、服には泥が跳ねた。みるみるうちに彼の全身は茶褐色の汚れに染まっていく。
誰も手を貸そうとはしなかった。この光景を目にしていれば止めたかもしれないシグリッドも、今は広場で別の作業に没頭しているという。だからただ一人、彼の背後に佇むトーマスだけがその無様な奮闘を黙して見守っていた。
何度目かの試みで、ようやく鍬の刃が僅かに土へ食い込んだ。固い土の塊がほんの少しだけ崩れる。
ゼイニークの額から大粒の汗が一筋、泥の付いた頬を伝い落ちた。
これまで暑さに喘いで流してきた脂汗とは違う。自らの腕で土を起こそうとして流した、初めての汗だった。




