26 ツケの清算
風の音がいつもより強いとは思っていた。雷鳴も絶え間なく轟いていると。
このアラピカへ移り住んでから幾度となく雨季を越えてきたが、これほど荒れた夜は珍しい。
それでもすっかり寝入っていたのだが——。
ドンドンと、無遠慮に私室の扉を叩かれて流石のゼイニークも目を覚ました。窓を見れば外はまだ暗く、雨が地面を叩く音が響いている。くぐもった声で返事を返せば、昔からの従者が薄く扉を開いた。
「こんな時間になにごとだ……喧しいではないか……」
「お休みのところ申し訳ございません、ゼイニーク様。火急の知らせということで商人から報告を受けまして……」
「……商人だと? 時間を改めさせろ、いくらなんでも非常識ではないか」
そもそもこれまでに取引のあった商人は雨季には寄りつかないし、レイバンの紹介だとしても勇み足が過ぎる。
たまに旅人や流れ者が訪れることもあるため村には閑古鳥が鳴きっぱなしの簡易宿を用意しているが、そちらを案内するよう伝えると、彼は困ったように首を振った。
「その商人が言うには、厩の馬がひどく騒いだため外へ出たところ、農園の下方に水が溢れ始めているのが見えたとのことです」
「……なんだと?!」
一気に眠気も吹き飛んで飛び起きる。もしかしたらこの大雨で排水路に問題が起こったのかもしれない。ゼイニークは手早く着替えを済ませながら、従者に次々と指示を飛ばした。
「承知しました。シグリッド様にもお声がけしてまいります」
「うむ。——ああ、いや、待て。シグリッド様は体調を崩されている。だがしかし……ううむ……」
「……いかがいたしましょうか」
「……仕方あるまい。トーマス殿だけ首尾よく呼びだしてくれ。シグリッド様には決して知られてはならんぞ」
昨夜、風邪を引いて早めに床に就いたと報告は受けていた。彼が体調を崩すことはめったにないことで、トーマスもマチルダも他の使用人たちでさえもやたらと気を揉んでいたか。
村で唯一の医者は風邪だと診断し、過労がたたったのだろうと渋い顔をしていた。シグリッドの性質上、農園の危機だなんて耳にしたら体調不良を押してでも駆けつけてしまうに違いない。
「絶対に、シグリッド様には伝えぬように」
「かしこまりました」
恭しく礼をした従者が足早に部屋を出ていく。
マチルダがこの豪雨の農園で役に立つとも思えぬのでひとまず放っておいてよいだろう。トーマスを待つ時間も惜しい。まずは先に様子を見てくるべきだ。
そう目算を立てたゼイニークは、フード付きの外套を纏うや館から飛び出した。
「——違う、上じゃねぇ! 下だ、下で詰まってやがるんだ!」
豪雨が降りしきる中ようやく到着すると、既に異変を察知して駆けつけていたのか、若者たちの中心で陣頭指揮を執るアルフレッドの姿があった。
下、という言葉に促されるようにゼイニークは視線を向ける。まだ夜明け前の暗闇の中ではよく分からなかったが、目を凝らしていると、雷光が一瞬だけ斜面を白く照らした。その光の中で、下方に広がった黒い水面が不気味に揺れているのが見えた。
「これはどうしたことだ! どこかで水が詰まっておるのか?!」
「クソッ、何を他人事みたいに言ってやがるんだよ! お前のせいだろうが! 下降部ほど排水路の幅は広げる必要があるっつったのに、一本でも多く植えろって馬鹿なことを言いやがるから!」
若者の一人から暴言を受けてゼイニークは激しく動揺した。言った。確かに言った覚えがある。少しでも収穫を増やすために、わずかな作付け地も無駄にしてはならぬと——。
「ゼイニーク殿、ご状況は」
息を切らしたトーマスもやってきた。その姿が彼一人であることに心の中で安堵していると、アルフレッドが斜面の下を指差した。
「土と葉っぱが排水路を塞いじまってる。すぐに取り除かないと、水が溜まる一方だ」
「想定外の雨量だった、ということですか」
「それもそうだし、たぶん上を切り拓き過ぎたんだ。土砂の心配もある、そっちにも手を回さないとまずい」
下に溜まる水を放置するだけでもコフィの木が根腐れを起こすかもしれないのに、上から土砂まで流れ込んできたら農園は全滅だ。
せっかく村人総出でここまで手塩にかけて育て上げた、この村の貴重な収入源——いや、この村の希望となるものが——。
「アイツは何してんだよ、まだ来ねぇのか?」
「シグリッド様ならば風邪を引いて休んでおいでです。こんなところに連れ出すわけには参りません」
「マジかよ……。肝心な時に寝込みやがって!」
苛立ちを隠しきれない様子のアルフレッドは舌打ちをひとつ打ったが、すぐに気持ちを切り替えたように続々と集まる男たちに指示を出した。
「女どもには土嚢を作らせろ! 斜面上部の崩れかけた土手へ追加で積むんだ! 他の連中は俺に続いてくれ! 今すぐ詰まってるものを根こそぎ取らねぇとまずいからな!」
「わ、私も行く!」
常の自分なら絶対に考えられぬことだった。だというのに、身体は考えるより先に動いていた。「あ、おい!」とアルフレッドの引き留める声も聞かずに斜面を滑り落ちるように駆け下りる。
上等な外套が赤土の泥にまみれ、じっとりと水を吸って重くなる。だが、今のゼイニークにはそんなことを気にする余裕もなかった。
農園の一番下へと辿り着くと、そこはすでに泥の池と化していた。排水口へ近づくにつれて水は太ももまで深くなっていく。足元の泥は不安定で、少しでも踏み外せば流されかねない。水に浸かったコフィの若木たちが豪雨に打たれ、雷鳴に震えるように葉を揺らしていた。
「冷たっ……なんて量だ……!」
泥水に足を踏み入れたゼイニークは歯の根を鳴らした。冷気と水圧が容赦なく身体へ襲いかかり、立っているだけでも体力を奪われていく。すぐ傍らではアルフレッドや若者たちが鍬を手に、激しく流れる水の中で必死に何かを突き崩そうとしていた。
「おい、どこが詰まっているのだ!?」
「うるせぇぞ豚! 今お前の相手してる場合じゃねぇんだよ!」
「いいから教えろ! この農園は、皆でようやく育て直したアラピカの希望なのだぞ!」
轟く雷鳴に負けじと声を張り上げる。その必死な剣幕に気圧されたのか、アルフレッドは顔を泥まみれにしながら水没した溝の先を指差した。
「あそこだよ! 排水路が農園の外の川へ流れ込む、一番狭い出口だ! 上から流れてきた大枝が横向きに引っかかって、そこへ落ち葉と赤土が溜まってやがるんだ!」
一際激しい稲妻が夜空を白く裂いた。一瞬だけ白く照らされたその場所を見て、ゼイニークは絶望に胸を突かれる。そこは確かにかつての自分が無理に狭めさせた場所だった。泥をさらい、土手を補修しただけで備えたつもりになっていたが、そもそもの構造に無理があったのだ。
——自分の無知が、欲が、怠慢が、巡り巡ってこの農園を殺そうとしている。
せっかくこの村が息を吹き返そうとしているのに。シグリッドが道を示し、村人たちが育て始めた未来を、自分の過去の過ちが踏みにじろうとしている。
「ええい、どけ! 私が、やる」
「ば、馬鹿が! せめて縄をつけろ!」
気づけばゼイニークは道具も持たずに、泥水に浸かりながら水を掻き分けて排水口へと突き進んでいた。
「おい、正気か!? こんなの人の力じゃ——」
「黙れ! これは私がケチったツケだ! ならば、私が責任を持たねばならんのだ!!」
ぬかるむ底に足を踏ん張り、ゼイニークは詰まりの核となっている大枝を両手で強く掴んだ。
爪の間へ泥が入り込み、木のささくれが指先へ痛みを伴って突き刺さる。
しかしそれ以上に激しい自責の念が彼を強く突き動かしていた。




