22 幕間2
——それは、レイバンがアラピカへ到着するより少し前のこと。
「……なんだ、ルッツ。こんな昼間からそんなものを飲みおって」
部屋に入るなり嫌そうに顔をしかめたのは、モリガンだ。彼は眠気覚ましのコフィの匂いを嫌っていたからそれも仕方のない反応だろう。
しかし文句を言われたルッツは机に肘をついて頭を抱え、目の前のカップになみなみと注がれた漆黒の液体を睨みつけていた。
「違うんです、これじゃないんです。断じてこんな泥水ではなかったはずなのに……!」
器から立ち上っているのは鼻が曲がりそうな焦げ臭さ。意を決して口をつけてみれば、内臓が拒絶しそうな鋭い酸味が舌を刺した。王都の文官たちが徹夜のお供に好んで——いや、涙目を浮かべながら無理やり胃へと流し込んでいるあの『眠気覚ましのコフィの薬』そのものの味わいである。
眠気に苛まれた夜にはこれを有難がって飲んでいたものだが今のルッツが求めているのはこれではない。苛烈な日差しが降り注ぐアラピカ村で、あの元馬鹿王子——もとい、シグリッドの手から渡されたあのコフィだ。
舌や喉を刺すような不快な苦味はなく、ほのかな甘みを伴った穏やかな味わいと澄み切った後味。滞在中に何度となく飲ませてもらったものだが、からんと氷が音を立てていた涼やかさと、あの鼻腔をくすぐる豊かな香りがどうしても忘れられないでいた。
あの味がもう一度飲みたい。その欲求に突き動かされるがままにルッツは厨房から道具を拝借し、試行錯誤を繰り返していた。豆を自らゴリゴリとすり潰してみたり、王都で最高級とされる茶葉を淹れるかのように丁寧に湯を注いでみたり。シグリッドから聞いた通り、挽いた豆を冷水へ一晩浸してもみた。挽き方を変え、豆と水の量も調整した。
が、そうして出来上がったのはどう見ても魔女の劇薬であった。
「やっぱり、薬用に焼き切ったこの豆からじゃ駄目なのか……?」
ぶつぶつと分析を繰り返すルッツ。モリガンはそれを一瞥するや無言で窓を開け放つ。そしてルッツの目の前のカップを奪い取るように手にすると、あろうことかどぼどぼと窓の外へと廃棄した。「へぁ?!」と思わず素っ頓狂な悲鳴を上げてしまう。
「何するんですか! お高いんですよ、これ!」
「お嬢様がこれを嫌っているのはよく知っているだろうが。しばらく立ち寄らぬとはいえ、匂いを残すわけにはいかん」
「それはそうなんですけどもぉ……!」
ルッツが男爵令嬢もどきをアラピカに運んでいる間に、セリカはマーシャルとの婚約が正式に決定していた。婚約披露も兼ねた国内外の要人との会合へ赴く機会が増えているようで、王城内に用意されたこの部屋に戻れる日は多くない。
『あの馬鹿王子からもやっと解放されたのですから、しばらくはのんびりさせていただきますわ!』
解放感に満ち溢れた顔でそんなことを言っていた気もするが、またすぐに眠る時間を極限まで削った忙しい日々が始まってしまったようである。
アラピカから戻ったというのに肝心の主が不在なのではどうしようもなく。仕方がないからモリガンを待つ間にコフィの再現に勤しんでいただけだというのに、あんまりな仕打ちだ。
「それで。遊んでいる暇があったら報告を」
「ええと……デイズ家の小娘は無事送り届けてきましたよ。道中、尻が痛いだの退屈だの、煩いったらありゃしませんでしたけどね」
「ふむ。マチルダと対面したシグリッドの反応は?」
「うーん、絆されるか怒り狂うかだと思ってたんですけどね。なんやかんやで受け入れたみたいです。ただ、心は残っていなかった様子でした」
前回訪れた時よりも心なしか空気が明るくなっていたアラピカ村。長旅で疲れた馬を休ませるという名目でルッツは数日間留まっていた。もちろん馬のためだけではない。マチルダの来訪に対し、シグリッドがどのような反応を示すのか見届けるためである。
当のシグリッドは抱きつかんばかりの勢いで駆け寄ったマチルダを華麗に躱し、アラピカから追い出す素振りも見せていた。あのお目付け役の取り成しで場は収まったようだが——そんなことよりもルッツの関心事はあのコフィにあった。
「いったいどんな方法で淹れたんだ……? いや、やっぱり薬の状態からどうこうしようとしてもダメなのか……?」
たかが嗜好品の一つにここまで執着したことなどなかった。任務以外のことが頭から離れなくなるなど、これまでの人生ではほとんどなかったのだ。感情を切り離す術だってとっくに身につけていたはずなのに。もしかしたら魅了の薬でも盛られていたんじゃないかと疑いたくなるほどに、あのコフィのことが頭から離れない。
「まったく……お嬢様がいないからといって腑抜けているんじゃない」
「仕事はしてんだからいいじゃないですか。それで、そちらこそどうなんですか? シグリッド派は虫の息だって聞きましたけど」
廃嫡騒動以前より水面下で繰り広げられていた派閥間の政争。シグリッドの自爆で一応のおさまりは見せているものの、このまますんなりとマーシャル派の天下となるものなのだろうか?
「元より支持者は少なく、国王陛下お一人の後ろ盾で保っていた派閥だ。陛下自ら廃嫡を決めた時点で息の根を留められたも同然だろう」
「それでもマーシャル派の一部がきな臭い動きを見せてるんですよね? 俺のほかにもアラピカへ向かう隠密を見かけましたよ」
「派閥は一枚岩ではない。廃嫡撤回の芽を、今のうちに完全に摘んでおきたい強硬派もいるのだろう」
強硬派が警戒するのも分からないではない。ルッツが王城で目にしたシグリッドは傲慢の権化といっても差し支えなく、あんなのの婚約者に選ばれてしまったセリカに対して心の底から同情していたものだ。
けれども。アラピカで会話したシグリッドは全く違う様相であった。話し方も、顔つきも、その振る舞いも。
反省したのか、何かを企んでいるのか。判断に悩むところだが、もし王都でも今のように振る舞えていたのなら、あれほどまでに人心を失い孤立することもなかっただろうに、とつい思ってしまう。
そんな不思議な魅力をアラピカにいる彼は兼ね備えていたのだ。……決して、あのコフィで取りこまれたわけではない。そう、決して。
「…………」
「どうした。何か懸念でもあるのか」
「そうですねぇ……ちょっと気になることがいくつかあるんですよ。お嬢もいないし、ちょいとまたアラピカに行ってきますね!」
「あんな何日もかかるようなところに自ら行くとは、物好きな奴だな。だいたいそんな何度も行っては怪しまれるのではないか?」
「今度は商人か何かに変装していきますよ。どうせ俺の顔なんか覚えちゃいないでしょうし、なんでも商人を招き入れる予定みたいなんで」
その商人もそろそろアラピカへ辿り着く頃だろう。もしもシグリッドが御者に扮したルッツにしたように、その商人にもコフィを振る舞っていたとしたら——あの村は、少なくとも商人がわざわざ立ち寄るだけの価値を持ち始めることになるはずだ。
あの隠密が単なる監視役なのか、それとも別の命を帯びているのかも確かめておく必要がある。
もちろん、コフィはそのついでだ。あくまで、ついでである。
「……前回の監視命令はまだ継続中ですよね? なら今度は小間物商にでも扮して、もう一度様子を探ってきます!」
「勝手に決めるな。お嬢様が戻り次第、許可を取る」
「じゃあ、その間に変装と荷の準備を進めておきますよ」
ルッツは部屋を勢いよく飛び出した。すぐにでも商人として潜り込む準備を始めるために。
「……なんなんだ、あいつは」
背後から呆けた声が聞こえてきた気もしたが、気持ちはもう辺境の村へと向いていた。




