19 偽りの王子と教育係
窓辺から外を眺める彼の横顔にはどこか儚いものがあった。そのままふっと消えてしまいそうな、そんな錯覚すら抱かせるほどに。
だからこそトーマスは彼が口を開くより先に声を上げてしまっていた。教育係としては品位に欠ける行動である。それでも言わずにはいられなかった。
「無理に語る必要はございません。ご自身の意思で悪意をもってシグリッド様のお身体を奪ったわけではない。それが分かっただけで十分でございます」
それが真実であることなどこれまでの言動から分かってはいた。それでもどうしても、一度は確かめずにはいられなかったのだ。
正体の知れぬままでは、いつまで経っても『主君』として心から仰ぐことができなかったから。
その意図が伝わったのか、紫呉は困ったように、けれどどこか安心したように笑った。
「ごめんね。俺、自分語りってあんまり好きじゃないんだよね。サムいっていうかさ。でもまあ、親のことはほんと気にしなくていいよ。下手したらアイツの方が気に入られてるかもしれないしね」
「それはそれで……なかなかのものでございますね。とにかく、貴方のその知識や能力は異世界のものであると。そしてこの国や誰かを害する意図もないと、その理解でよろしいでしょうか」
小さく咳払いをして、話題を逸らすように言葉を継いだトーマスに、紫呉と名乗った青年が肩を竦めて答える。
「そんな凄い知識は持ってないよ。むしろ俺の方こそセンセーに色々教えてもらってるくらいだしね。それに能力っていっても特殊なものはなんも持っちゃいないと思うけど……チートを期待されても困るから、そのへんはちゃんと分かっておいてもらえると助かるな」
日本という世界で生きていた彼の過去については結局ほとんど聞けなかった。本人が触れられたくなさそうにしているのを感じたから、トーマスもそれ以上は何も問わなかった。
「……ま、そーゆーわけなんだけどさ。俺、どうなるのかな? 王子を騙った罪とかに問われちゃったりする?」
騙るも何も、中身が入れ替わったなどという荒唐無稽な話を信じる者などほとんどいないだろう。それを証明する手段もなければ、これまでにそんな例は聞いたこともない。おそらく大半の者はシグリッドが廃嫡のショックで精神に異常をきたしたと考えるか、あるいは都合よく「心を入れ替えたのだ」と好意的に受け取るに違いない。
「ご心配には及びません。あなたがご自身で言いふらしでもしない限り、その正体が明るみに出ることはないでしょう」
「あ、ほんと? いや〜、処刑とかされたらさすがに勘弁だから良かったよ。……センセーも、こんな話信じてくれてありがとね」
「信じたというより、信じざるを得なかった——というのが、正直なところでございます。元のシグリッド様とは何もかもが違いますから。だからこそ……いつかは戻られてしまうのが、惜しいですね」
「あはは、そう言ってくれると嬉しいな。俺は別にこの世界で生きていってもいいんだけどさ……でも、やっぱ駄目だよね。俺がこのまま居座っちゃうのはフェアじゃないっていうか。だから、アイツのためにも今のうちに頑張っとかないとね」
本来のシグリッドが再びこの世界に戻ってくるその時のために、彼はこのアラピカ村という場所で土壌を築いてやるのだという。自分の居場所を奪ったかもしれない相手のために帰る場所まで整えようというだなんて。お人好しという言葉だけで片づけるにはあまりにも理解しがたい思考である。
「で、俺はどうしたらいいと思う? みんなにちゃんと説明した方がいいかな?」
「いえ。伏せておくのが賢明でしょう。幸いにしてこの村の者たちは元のシグリッド様を知りません。無用な混乱を招くのは避けた方がよろしいかと」
「そっか。……うん、そうだね。おとーさん、すごく溺愛してたらしいからさ。なんか俺、乗っ取っちゃったみたいで申し訳ないなって思ってたんだよね」
おとーさん、とはシグリッドの父王のことだろう。亡き王妃の忘れ形見として甘やかし続け、彼の増長を止められなかった最大の要因の一つである。
とはいえ、いまやシグリッドは廃嫡された身。王都に戻れる見込みは極めて薄く、父子の再会が叶う可能性は限りなく低かった。
「真相を知れば発狂されるやもしれません。こちらもあえて伝える必要はないでしょう」
「オッケー。……はぁ、なんか話したらスッキリしちゃった。とりあえずアイツのためにも、当面の目的はこのアラピカ村を『カフェ』にすることかな」
「左様でございますな。しかし、まだまだ課題は山積みかと」
「うん。……俺が向こうで世話になってたじーちゃんがさ。小さな喫茶店やってたんだ。完全地域密着型の、儲け度外視の個人経営。コーヒーの淹れ方とか、豆の種類とか、焙煎で味が変わることとか。最低限のことはじーちゃんから教わったんだ」
ベッドに身体を預けながら、どこか誇らしげに語るその様子は年相応の青年そのものに見える。
「親がいなくてもさ、そこに行けば近所のおっちゃんやおばちゃんがいて、みんな笑ってて……。俺にとっては気楽に過ごせる居場所だったんだよね。だからこの村も、そういう温かい場所にしたいんだ。……あ、もちろん利益が出る形でね? だからスタバが目標なんだよね~」
「素晴らしい志かと存じます。微力ながら、このトーマスも全力でお支えいたしましょう」
「いいの? もう王子じゃないって分かったんだし、センセーも教育係やめたいんじゃない?」
「いいえ。貴方が何者であろうと教えるべきことは山ほどございますので。この村にいる間、貴方はシグリッド様です。そして私はこれまでどおり教育係でございます」
「そっか。じゃあ、これからもよろしくね。センセー」
どこか安堵したような表情。もしかすると彼なりにずっと不安を抱えていたのかもしれない。それを今日トーマスに打ち明けたことで少しは心が軽くなったのかも。
「……そういえばさ、ゼイニークさんが手紙出した商人って、そろそろ来る頃だよね?」
「ええ。隣国を回った後に到着すると申しておりましたから、近々この村に姿を見せるはずですな」
その言葉に、紫呉はパッと顔を輝かせた。
「よっし! ついにバナナの苗が手に入るぞー! これでコフィの木を日差しから守れるよね。砂糖も欲しいし、乳を手に入れる方法も商人に相談してみたいな」
「相手は足元を見る悪徳商人とのこと。村の資金も限られておりますが、大丈夫でしょうか?」
「んー、まあなんとかなるっしょ! ゼイニークさんにもきっちり交渉で働いてもらうし!」
よほど疲れていたのか、これからの展望を語る声は徐々に間延びしていき——やがてぽつりと、つぶやく。
「あー……でも、店長にも世話になってたのになぁ。アイツ、無断欠勤とかやらかしてバ先クビになってたらどーしよ……」
……どうやら本当の心配の種は、向こうの世界で好き勝手していそうなシグリッドのことらしい。
貴族の概念がないという世界であの傲慢王子が思うがままに歩いているのだとしたら。想像するだけでトーマスも胃が縮む思いだ。おそらくシグリッドもその異世界とやらで、相応の苦労をしているに違いないが——。
やがて、静かな寝息が部屋に満ちていく。
その規則的な音を聞きながらトーマスはシグリッドの話を振り返っていた。
とはいっても、彼の本当の名を知った今もトーマスが教育係であることに変わりはない。少なくとも当人が教育係などもう必要ないと言い出すその日までは、これまでどおり彼の傍にいるつもりだ。
上に立つ者は身体が資本。ようやく疑念を晴らしたトーマスもまた、今夜はよく眠れそうだった。




