17 断罪回避
正直に言えば、あの男爵令嬢がどうなろうと知ったことではなかった。シグリッドの意向に従って即座に王都へ送り返すことが仕える立場としても最も妥当な処置といえる。
だが、村人たちとマチルダとの間に決定的な認識の齟齬が生じているのも、また事実であった。
そもそも王侯貴族が日常的に農民へ交じって鍬を振るうなど、これまでのトーマスにとっても考えも及ばぬ話だった。彼らはあくまで治世を司る為政者であり、自ら鍬を持つのではなく民を導くために知恵を絞るものだ。それこそがトーマス自身も生徒たちに教えてきた貴族のあるべき姿であった。
村人たちも以前まではそれを当然として受け入れていたはずだったのに、良くも悪くもシグリッドがその既成概念を粉々に打ち砕いてしまった。付き従うトーマスはさておき、あの動く贅肉ことゼイニークまでもが畑で脂汗を流すようになったのも要因の一つだろう。
その異様な光景を日常として受け入れた村人たちは、この村では貴賤に囚われず人は働くものであると考えるようになっていた。
型にはまらぬこの村での新たな生活の様式を、王都で暮らすマチルダが知るはずもなく。貴族である以上は既成概念にとらわれていてもある程度は仕方のない話であろう。
——これはあくまで教育係としての職務を踏まえての進言だ。断じて、私情で助け舟を出すような意図はない。
そもそもマチルダに対して私情を挟むほどの思い入れも皆無であるのだが。
「恐れながらシグリッド様。この娘が約束を破り、他者へ仕事を押しつけたことを擁護するつもりは毛頭ございません。ですが我々も、彼女に深く説明することなく仕事へ放り込んでしまったのもまた事実。せめて一度、何ならできるのかを確かめてから判断なさっても遅くはないかと」
シグリッドの双眸が、すうっと細められた。
センセーと呼び慕ういつもの柔和な顔ではない。その射抜くような視線をトーマスも真正面から受け止めた。
「……そっか。センセーがそう言うなら、きっとそうなんだろうね」
しばしの沈黙の後、独り言のように呟いて、シグリッドは納得したように小さく頷いた。
「……ねぇ、君。どうしてもこの村に残りたいならみんなと同じように働いてもらわないと困る。それは理解してもらえたかな?」
「は、はい……。でも、私、農作業なんてやったことがなくて……」
「うん、俺も最初はそうだったけどさ。やってみると案外楽しいよ。虫はちょっと嫌だけどね」
畑で這い回る虫を見つけては騒ぎ立てる王子の姿を思い出し、トーマスは僅かに口角を緩めた。そのたびにアルフレッドが呆れた顔で駆除していたが、それもまた、この村でよく見られるようになった日常の光景であった。
「なにも畑仕事だけが仕事ではありますまい。王都で何を学んできたのか、まずは本人に聞いてみてはいかがでしょう」
「……それもそうだね。俺、ちょっと意固地になってたかも。……へへっ、さっすがセンセー! 締めるところはびしっと締めてくれるんだもんね」
声音が柔らかくなり、シグリッドはいつもの快活な笑顔を見せた。彼はマチルダへと向き直り「何が得意なの?」と声をかける。
あまりにも鮮やかな切り替えにマチルダは戸惑いを見せながらも、必死に視線を彷徨わせている。やがて、消え入りそうな声で「……刺繍なら、少しは」と零した。
「刺繍かぁ! 俺はあんま詳しくないけど……あ、コースターとか作ってもらえると助かるかも。ターニャさんも針仕事はできるんだよね?」
「は、はい。簡単な縫い物でしたら一通りは」
「じゃあ二人でさ、何か一枚作ってみてくれない? 上手くいったらランチョンマットとかエプロンも欲しいから……そうなると人手がちょっと足りないか……」
溢れ出すアイデアを口にしながら、シグリッドはくるりと村人たちへ振り返った。
「はーい、他に裁縫が得意な人はいないかな?」
静まり返っていた村人たちが顔を見合わせ、おずおずと数人が挙手した。その中には腰の曲がった老婆のみならず、線の細い青年の姿もある。
「おい、お前は力仕事が嫌なだけだろ! 男のくせに情けないぞ!」
「ち、違うよ! ただ、得意な人って聞かれたから、つい……」
「いいじゃん、得意なら。他にはいないかな? 性別も年齢も関係ありませーん」
気まずそうに肩を竦めていた青年は驚いたようにシグリッドを見返し、それからおずおずと挙げた手をもう一度伸ばした。
シグリッドはそのまま流れるように指揮を執り始める。
「材料は……そうだな。古い布や衣類をリメイクして使ってくれて構わないからさ。君も、王都で流行っている柄とか知ってるものがあれば教えてくんない?」
すっかり小さくなっていたマチルダの顔をシグリッドが優しく覗き込む。彼女は涙に濡れた目で彼を見上げて小さく頷いた。
「おっけー。別に完璧じゃなくても構わないんだ。でもまた誰かに押し付けようとしたら今度こそ帰ってもらうよ。これでどうかな?」
明確な条件が示されたからだろうか、少なくとも正面から反対する声は上がらなかった。
「張り切って仕事を代わってあげてたお兄さんたちも、他の人に押しつけた分の穴埋めはちゃんと頼むよ。……それと、俺もごめんね。話を聞くのが遅くなっちゃって。今度からは揉める前に俺かセンセーに相談してくれると嬉しいな」
「……何か、村の者たちに申し上げることはないのですか?」
呆然と立ち尽くしていたマチルダに、トーマスが静かに促す。彼女ははっと我に返ると、両手を前で揃えて深く頭を下げた。
それはかつて厳しく仕込まれたであろう、貴族としての教育を受けた者の所作であった。
「……ごめんなさい。私、分からないことばかりですけれど……もう一度、ちゃんと頑張ります。だから仲間に入れてもらえたら嬉しいです」
どこまでが本心かは知れぬ。これまでの言動を思えば即座に叩きだしても良い場面だったかもしれない。
だが、まだ頭を下げたままの彼女の横顔は、これまでに見たことのない決意が滲むものだった。
「……ふん! いつまた泣き言を漏らすか分かったもんじゃないがな!」
「お、お前が言うなよ豚野郎! お前だって最初は『これ以上働けない』って泣きついていただろうが!」
「したり顔しやがって……こっちに来い! 今日からまた、みっちりしごいてやるからな!」
憎まれ口を叩いたゼイニークが屈強な若者たちに引きずられていく。その滑稽な光景に誰からともなく笑いが漏れ、張り詰めた空気はわずかに緩んだものの、納得していない顔も少なくない。認めてもらえるかどうかは、これからの彼女の誠意次第といえよう。
「あの……本当に、ごめんなさい。同性に舐められてはいけないと、母から厳しく言い聞かされていたんです……」
「なかなか苛烈な教育方針なのですね……。ですが、構いませんよ。これから少しずつ馴染んでいただければ」
「まったく、ターニャは甘いんだから! ……ほら、あんたもいつまでもぐずぐずしないの。糸と針がいるんでしょ? やるっていうなら道具くらいは貸すわ」
先ほどまで激しい不満を露わにしていた女がぶっきらぼうにマチルダへ声をかけた。マチルダはびくりと肩を震わせながらも、「分かったわよ」と生意気な口調を崩さぬまま大人しくその後を追っていく。
広場から人影が消え、再び静寂が戻り始める。その背を見送っていたシグリッドに、トーマスは歩み寄った。
「……シグリッド様。見事に場を収められましたな」
「いや、センセーのおかげかな。俺は追い出そうとしたわけだから」
「それもまた一つの選択であったことに違いありません。それで……今晩、少々お時間をいただけないでしょうか」
「うん、もちろん。……どうしたの、センセー。ずいぶんと真面目な顔じゃん」
「ずっと目を逸らしておりましたが、ようやく向き合う覚悟ができました。改めて、大事なお話をさせていただきたく存じます」
胸の内に燻り続けていた正体不明の違和感。目まぐるしい日々に追われて直視することを避けてきたその『何か』に、今こそ向き合うべき時だろう。
シグリッドもその言葉の重みを察した様子であったが、「オーケイ」と、いつものようにニコリと笑った。




