16 男爵令嬢マチルダ
幼い頃からマチルダは猫可愛がりされて育ってきた。
それも当然のことだ。だって自分はこの世界で一番可愛いのだから。
確かに男爵家という身分そのものは低かったけれど、そんなことは些細な問題に過ぎなかった。むしろ身分の低さは親しみやすさに繋がっていたようで、男たちはみな競うように「可愛い」「愛らしい」とマチルダに甘美な賞賛を捧げた。
そんな日々を過ごす中で、彼女は世の理というものを理解した。
——可愛いは正義だ、と。
だからアラピカ村に降り立ったあの日、諸手を挙げて歓迎してくれると信じていたシグリッドから冷ややかな視線を向けられた時は流石に動揺を隠せなかった。
きっと怒っているのだろう。あの日、彼を置いて真っ先に逃げ出してしまったのは事実だから。
でも、それも仕方のないこと。嘘を吐いたつもりなんてない。ただほんの少しだけ話を盛っただけ。それをさらに大仰に膨らませたのはシグリッドなのだから、自分に責任はないはずだ。
それに婚約破棄なんて大それたこと、してくれなくて良かったのに。
「可愛いよ」と愛を囁いてくれて、美味しいものをご馳走してくれて。時折贅沢な贈り物をくれればそれで十分満足だったのに。
だって王妃様なんて面倒くさそうじゃない?
そんな割に合わない役回りは、あの氷のように冷たい女に任せてしまえばいい。自分はただ愛されて、甘やかされて、優雅に生きていたい。ただそれだけで良かったのだ。
シグリッドのことは、確かに好きだった。際限なく甘やかしてくれるしいつだって褒めてくれたから。
だから自分も田舎に追いやられると聞いた時、ここへ来ればまた元通りに彼が愛を囁いてくれるだろうと、そう考えた。
可愛い自分が縋ればすぐに許してくれるはず。それは驕りなどでは決してなく、これまでの人生が教えてくれた成功体験に基づく確信であった。
実際、母親は一連の騒動に激昂していたが、父親は塞ぎ込むマチルダを憐れんでくれた。田舎の領地行きを提案してきたのも、これ以上王都で肩身の狭い思いはさせたくまいという親心に違いない。
もちろんそんなところに行くのはまっぴらごめんだったから、「シグリッド様のところがいい」と駄々をこねたら驚かせてしまったか。
「ああマチルダ。お前は本当にアラピカに行くつもりなのか? あそこは何もない地だと聞くが……」
「シグリッドさまが温かく迎えてくださるから大丈夫よ、お父様。……私、頑張ってくるね」
自信はあった。辺境だろうと可愛い自分なら手厚く迎えられるはずだと。村人たちは自分を慕い、王女のように遇してくれる。そう信じて疑わなかった。だからすっかりやつれてしまった父親を置いてこの不毛の地まで来たのだ。
実際、すべて思い描いた通りに進んだ。村の男たちは簡単にマチルダにのぼせ上がった。
男さえ御してしまえば女の嫉妬など取るに足らない。トーマスやゼイニークはマチルダを嫌ったが、所詮はシグリッドの家臣に過ぎない。
これで自分の立場は安泰。
……だった、はずなのに。
「うん、帰ってくれるかな?」
その一言がシグリッドの口から放たれた瞬間、マチルダの愛らしい頬がひくりと引き攣った。
*
騒ぎを聞きつけてシグリッドが作業場に現れた時、マチルダは涙を滲ませながら彼に縋り付いた。
周囲の視線がどれほど刺々しくても関係なかった。だって彼らはただの平民。かたや自分は男爵令嬢。しかもついさっき教育係が嫌味たっぷりに語っていた通り、自分とシグリッドは不滅の愛を誓い合った仲なのだ。
だからきっとすぐに庇ってくれる。
そう甘い夢を見ていたマチルダに対し、シグリッドはにこりと笑って言い放った。
「俺さ、クラッシャーってマジで許せないんだよね。前にいたサークルはこういう贔屓や恋愛沙汰で潰れちゃったし、バ先でも仕事押し付ける人のせいで空気が悪くなっちゃったし。それに正直……君の相手をしてる余裕はないんだよね。だから悪いんだけどさ、帰ってくんない?」
言っている意味の半分も理解できなかった。けれども、歓迎されていないということだけは嫌というほどに伝わってきた。
陽光のような笑顔の裏に潜む、冷たい拒絶。それに当てられたように今まで囃し立てていた男たちは一斉に口を閉ざし、女たちもすっかり気勢を削がれた様子で黙り込んだ。
「で、でも……。だって、私のこと、可愛いって言ってくれたじゃないですか……!」
「うん。一般的に見て可愛いとは思うよ。でも、場を荒らすのとは話が別だよね?」
「別って……私に、本気で泥だらけになって働けってことですか? ……女なのに? 貴族なのに??」
「うん。そう言ったよね? 君もやる気を見せてくれたはずだけど?」
首を傾げるシグリッド。その何気ない仕草にマチルダは何も返せなかった。
あんなもの、単なる冗談だと思っていた。人目があるから口ではそう言いながらも陰でマチルダを遇してくれると、そう信じて疑わなかったのだ。
——この人は、誰? 本当に、あのシグリッドさまなの?
ここに来てようやくマチルダは気づいてしまった。
目の前にいるのはかつて自分を盲目的に愛してくれた男ではないのだと。
傲慢で、無神経で、子供っぽくて。けれどどこか繊細で、劣等感に押し潰されそうになりながらも虚勢を張って生きていた人。
マチルダの知るシグリッドはそんな男だったはずなのに。いま目の前に立っているのは全く別の存在であった。
「センセー、御者さんに帰り支度をするよう伝えてもらえる? あ、帰る前に冷たいアイスコフィを飲んでもらってね」
「御意に。直ちに手配いたしましょう」
「ゼイニークさん、それまで彼女は部屋でゆっくり休んでもらって。何もしないでもらっていいから。ね?」
「かしこまりました。そのように使用人たちにも申し伝えておきます」
シグリッドは淡々とマチルダを村から送り返す手配を進めていく。その声は軽やかで、なんの躊躇もなく、そして一片の容赦もない。申し開きの隙すら与えられることはなく、当然の流れのように物事を進める彼にトーマスもゼイニークもただただ恭しく頭を下げている。
「ま、待ってください……! や、やります。私、ちゃんと働きますから……ここに置いてください……!」
「え〜。この間もそう言ってたよね? で、今こうなってるわけじゃん? それで信じてくれっていうのは……ちょっと無理があるかなぁ」
「どうしてそんな冷たいことを言うんですかぁ……! 私、本当に謝りますから……! あの時逃げたのは間違いだったって、今は心から反省してるんです……!」
「いや、それに関してはわりと本気でどうでもいいかな。それに謝る相手は俺じゃないよね?」
困ったように頭を掻きながら、シグリッドはさっさと村人たちへの聞き取りに移っていく。
女たちの切実な訴えには神妙に耳を傾け、男たちの気まずげな言い訳には苦笑を浮かべて軽く叱咤する。
平民を相手にあれほど細やかに気を配っているのに、泣いて縋る自分には一瞥もくれない。
その徹底した無関心さが、何よりも痛かった。
「あ、あの……恐れながら、発言をお許しいただけますか」
排斥の空気が場を支配する中、おずおずと口を開いたのは、ターニャだった。
「もちろんだよ。ターニャさんも色々押し付けられてたんでしょ? どう思う? 帰ってもらった方がいいかな。それとも、もうちょっと様子を見る?」
「確かに嫌な思いもいたしましたし、このままでよいとは思いませんけれど……。王都のお嬢様ですから、いきなり働けと言われても受け入れがたかったのではないでしょうか……?」
「でも、シグリッド様は率先してやってくださっているじゃないの!」
若い娘が不満げに声を荒らげた。それに続いて「そうだそうだ」と同調の声が波紋のように広がっていく。
このままではあの日と同じだ。あの日と同じように公衆の面前で罵倒されて、馬鹿にされて、それで——。
「……それは、シグリッド様だからです。私が申し上げるのも何ですが、この御方は例外として扱っていただきたい」
その殺伐とした空気に一石を投じたのは、敵対していると思っていた教育係のトーマスであった。




