13 招かれざる来訪者
この狭い村において噂は風よりも速く駆け抜ける。ましてや王都からご令嬢がやってきたともなれば、村人たちが興味津々で遠巻きに見守るのも無理はない。
そんな好奇の視線を一身に受けながら、子どもに手を引かれたシグリッドがのんびりと姿を現した。その姿を認めた瞬間、桃色の衣装に身を包んだ令嬢が両手を合わせて大きく身体をくねらせる。
「シグリッドさまっ! ようやく、ようやくお会いできましたわ……!」
潤んだ瞳を輝かせたかと思ったら、彼女は一直線にシグリッドへと飛びついた。
桃色の塊がふわっと彼の胸元に収まる。
シグリッドはやんわりと両手で押し返した。
「えーっと……」
視線を泳がせたかと思えば、「あっ、そうか!」と彼はぽんと手を打った。
「マチルダちゃん……だったよね? うわぁ、こんなところまでどうしたの?」
「マチルダ……ちゃん……? あの、ええと……本当に、シグリッドさまで間違いありませんわよね……?」
「いちおう?」
どこか要領を得ない返答に、マチルダと呼ばれた令嬢は呆然と立ち尽くした。困惑を隠せぬ様子であたりを見回し——ふと、冷たい視線を送るトーマスと目が合った。
「あなた! 確かシグリッドさまの教育係の方よね? 口うるさくて古臭くて、マナーにやたらと厳しいと噂の!」
「……いかにも。貴女は確か——シグリッド様と深めた真実の愛とやらを、窮地に陥るや否や即座に捨て去ったお方でありましたな。今さら何のご用で? まさかその愛を拾い集めに追いかけてきたわけではありませんよね?」
ちくりと刺すような皮肉にマチルダは一瞬だけ怯んだが、すぐに気を取り直したように両手を大きく広げ、芝居がかった身振りで語り出した。
「あの醜聞が国中に広まってお母様も大層お怒りになられて……。私、田舎の領地に送り返されるところだったんです。でもどうせ田舎に行くのならシグリッドさまのお側が良いと思いまして。だから……来ちゃいました!」
「へぇ、すごい行動力じゃん! それに、来てくれて嬉しいよ」
シグリッドは素直に喜んでいる。またもや毒婦に籠絡されるのでは……とトーマスは内心で身構えたが、シグリッドはマチルダの横を素通りし、こちらの様子をちらちらと伺っていた若い御者へ歩み寄った。
「遠くからありがとう。せっかくだしさ、コフィでも飲んでいかない?」
「え? 俺ですか?」
突然のご指名だ。御者が驚くのも無理はないだろう。
放置されたマチルダはといえば信じられないものを見る目でその背中を眺めていたが、縋るように瞳を潤ませた。
「シ、シグリッドさま……まさか、私のことを怒っていらっしゃるの……?」
「え? 別に怒ってないけど、なんで?」
きょとんとした顔で首を傾げたシグリッドは、ふと合点がいったように「ああ」と声を上げた。
「ごめんごめん。今はこの人と話したいんだよね。君も長旅で疲れてるでしょ? ゼイニークさん、使ってない部屋を一つ貸してあげてくんない?」
「なっ、なぜ私の館にこのような得体の知れぬ小娘を……!」
「厳密には領主の館ですので、今やシグリッド様の持ち物でございます」
またこの男は己の立場を失念しているのか。トーマスが釘を刺すように訂正すると、ゼイニークは舌打ちと共にぷるんと顎を震わせた。
「承知いたしました……。ええい、小娘! さっさと来い!」
「ひぃっ! シグリッドさま、助けてください! こんな男と二人きりだなんて何をされるか分かったものじゃありません!」
「何を勘違いしておるのだ! 貴様のような小娘に興味など微塵もないわ!」
「あ、あの……。お嬢様もお一人では心細いでしょうから、私が同行いたしましょうか……?」
助け舟を出したのはターニャだ。以前の痩せこけた姿に比べれば顔色もよくなり、頬にもわずかに肉が戻り始めている。
「そうしてちょうだい! こんなデブとずっと一緒だなんて無理よ、無理!」
「口の利き方に気を付けろ小娘! 私はアラピカの共同領主であるぞ!」
「だからそれはあくまでも温情で、真の領主はシグリッド様でございます。……喧しいからさっさと連れて行くがよろしい」
トーマスが追い払うように手を振って促すと、ターニャを間に挟んだ三人は館の方へと移動していった。その背中が遠ざかってもなおぎゃあぎゃあと騒がしい声が響いていたが、ターニャなら上手く取りなしてくれるだろう。
それよりも、だ。
シグリッドはすでに寄合所の一角で、鍛冶職人に作らせた抽出器具を並べていた。
招かれた御者が興味深そうに覗き込むと、彼は我が子の自慢でもするかのように語り出す。
「お兄さん、コフィは飲んだことある?」
「え、ええ。眠気を飛ばしたい時に、王都でたまに」
「そうなんだ? センセー、王都で出されるコフィは苦いんだよね?」
「ここのものよりも更に苦味が強うございます。砂糖を入れるか、山羊か牛の乳を混ぜねばとても飲めたものではない、という者が多いですね」
「まぁ、眠気覚ましですしねぇ。苦くてなんぼですよ」
トーマスの説明に御者が同意すると、シグリッドは「なるほどねー」と一人で得心がいったように頷いた。王都に出回る輸入品は特に苦味の強いものが多く、薬と割り切らねば喉を通らぬ代物であった。
「じゃあさ、これ飲んで感想を聞かせてほしいんだよね」
シグリッドは瓶から黒褐色の液体をカップに注ぐと、ぱちんと指を鳴らした。ぽちゃんと澄んだ氷が空中から落ちて、カラン、と涼やかな音が響く。顔を近づけた御者は目を細めながらその漆黒の液体を不思議そうに眺めている。
「……熱くないのですか?」
「うん、水出し。じっくり一晩かけて抽出して氷で冷やしてるから、苦みはかなり控えめなはずだよ。はい、一口どうぞ」
冷たくとも、コフィ特有の芳しい香りは損なわれていない。しばし香りを楽しんだ御者は、ためらいなくカップを傾けて——ごくり、と喉を鳴らした。
「ああ、本当だ。いつものコフィとは比べものにならないほど苦味が穏やかだ。むしろ……ほのかに甘みがあるような……?」
「この辺で採れる樹液を煮詰めたシロップを少しだけ混ぜてあるんだ。蜂蜜は手に入らなくてさ。……で、どう? 火照った身体も冷えるし、なんか疲れが取れる感じ、しない?」
食い気味に身を乗り出すシグリッドに、御者は苦笑を浮かべながら手元のコフィに目線を落とした。
「すぐに効いてくるかは分かりませんが……。後を引く味ですね。こんなのは初めてです」
「おいしい?」
「ええ、とても」
その言葉に、シグリッドはふわっと満面の笑みを咲かせた。その笑顔を真正面から受けた御者は面食らったような顔をしている。
「でしょ? これ、ここでしか飲めないんだ。ぜひまた遊びに来てよ!」
「いやぁ……。さすがに用もないのに何度も来るような場所では……」
「んー、じゃあ近くを通りかかったら是非来てよ。その頃にはもっと美味しくなってるはずだからさ!」
悪戯っぽくウインクを添えて言われた御者は曖昧に笑いながらもカップを口に運ぶ手を止めない。
やがて空になった器を名残惜しげに眺めた。
「……王都に卸すおつもりは? これ、流行ると思いますよ」
「それがさー、この村はちっちゃいから、そんなに大量には作れないんだよね。だから外に出すつもりはないんだ。つまり、お兄さんはすっごいレアな体験をしたんだよ?」
軽い口調ながらも、その希少性をきっちりと印象付けるあたりは抜け目がない。
「それは光栄です」と御者は笑い、差し出された「おかわりいる?」の言葉に、今度は迷うことなく深く頷いた。




