12 違和感
……慣れぬ農作業に加え、記録や調整に追われた一日の疲れゆえか。
トーマスは心地よい微睡みの中にいたが、耳に微かな囁き声が届いて重たい瞼を持ち上げた。
この客室を使っているのは主従二人だけのはずである。だが静まり返った部屋の中では、誰かと親密に語らうような声が確かに鼓膜を震わせた。
「だからさぁ~。一回くらい顔を出しておきなって。もう誰も君に怒っちゃいないよ。きっとさ」
——ついに、誰もいない虚空に向かって話しかけ始めたか……。
以前よりお喋りな性格になったとは思っていたが、まさか真夜中にまで及ぶとは。トーマスは寝返りを打つふりをして、薄く目を開く。
薄手のカーテンの隙間から差し込む青白い月明かりが室内を幽かに照らしている。窓の外は深い静寂に包まれており、夜明けまではまだ間がありそうだ。その薄暗い部屋の中で、寝台の上に胡坐をかいたシグリッドがじっと虚空を見つめていた。
夜更けに止まらぬ、とりとめのない独り言。無理がたたって精神にも支障が出始めたのではなかろうか。
不慣れな辺境生活に加え、コフィの品質改善に向けて奔走してきた毎日だ。村のあちこちを巡っては眩しい笑顔で「お疲れさまでーす!」と声を振りまく彼の姿に、働きすぎではないかと危惧していたところではあった。
なんと声をかけたものかと迷っている間も、彼は旧知の友人を諭すような優しい声色で言葉を紡ぎ続けていた。
「うん、そうだよね。それはお父さんが悪いと思うよ。でもさ、誰かのせいにしたって解決しないんだから。まずはちゃんと謝ろう? 俺もその時までは傍にいてあげるからさ」
相手を思いやるような言葉が並ぶが肝心の相手がどこにもいない。
この村に心の病を診られる医師などいるのだろうか。いや、その役目も自分が担わねばならぬのだろうか。
そう思い悩む間にも一方的な会話は続き——。
「あっ、逃げんなよもう。……ったく、しょうがない奴だな。……ふぁ……明日も早いんだし、寝よ……」
シグリッドはしばらく返事を待つように黙り込んでいたが、やがて小さく肩を竦める。
そしてその言葉を最後にタオルケットに包まる衣擦れの音がして、間もなく静かな寝息が響き始めた。
いよいよ本格的に休ませるべきか、王都から医者を呼び寄せるべきか。
思考を巡らせようとするが答えは出ず、悶々としたまま夜は更けていき——。
翌朝。トーマスは人生で初めて完全なる寝坊という醜態を晒した。
*
「随分と、良い御身分でございますなぁ……」
恨めしげな視線を向けてくるのは、今日も朝の涼しいうちから農作業に精を出しているゼイニークである。
富への執着から自発的に参加するようになったとはいえ、汗だくで鍬をふるい、枯れた木の根と格闘するその姿はさながら動く贅肉の塊であったが——心なしか、腹のあたりがほんのり引き締まったようにも見える。この労働が彼に初めての変化をもたらしているのかもしれない。
「これは失礼を。シグリッド様もお声がけくださればよかったのに……」
「気持ちよさそうに寝てたからさー。それにセンセーもお歳なんだから、無理しちゃダメでしょ?」
「まだまだ現役でございます……!」
ハッキリ言って心外である。トーマスは鼻息荒く腕まくりをして、農園での作業の輪に加わった。
先週までは下処理などの日陰作業班に回っていたが、この日は農園での作業に加わることになっていた。シグリッドの提案で農園作業と精製作業の担当を定期的に交代することになったのである。曰く、「同じことばっかやってたら飽きんじゃん?」とのことだったが、属人化を防ぎ、適性を見極めるという面でも理に適っていた。
「でもさ、マジで無理しないでね? 俺たちが倒れたらウエニタツモノとしての示しがつかないじゃん?」
「左様でございますな。ですがぐっすりと寝たおかげで体力は有り余っておりますからご心配なく。むしろシグリッド様の方こそ——」
言いかけて、トーマスは口をつぐんだ。
こんな衆目の中で問うべき話でもないし、なにより昨夜のあの奇妙な独り言は夢だったのではないかと思えてしまうほどに、シグリッドは普段通りに振る舞っていたからだ。
夜になったら改めて様子を見よう。
そう思いながら、トーマスは作業内容を説明するアルフレッドの言葉に耳を傾ける。
みな楽しげに作業に没頭していたが、日差しが強くなる時間になるとシグリッドが笑顔で「シエスタにしようぜー」と声をかけてくる。これまでのような炎天下での漫然とした長時間労働がなくなった代わりに、一人ひとりが『どうすれば涼しいうちに効率よく作業できるか』を意識して考えるようになっていた。
そして昼の炊き出しの場では子どもたちも配膳を手伝い、自然と笑顔がこぼれるようになっている。
「これが、『ほわいと職場』なるものなのか……」
長い昼休憩中、周囲から呆れた視線を浴びながら五つ目の握り飯を頬張るゼイニークが呟いた。
視線の先にはシグリッドにまとわりつくように集まる子どもたちの姿がある。
彼が頻繁に口にしている「ホワイト職場」なる概念は「ブラック職場」の対義語なのだという。シグリッド本人は「あっとほーむで笑顔があふれる職場」とも説明していたが、要するに、無理な働き方を強いられず、それぞれの仕事がきちんと役割として認められ、誰もが意見を言える環境ということなのだろう。
なんともぬるい話だ……とトーマスも最初は内心で鼻白んだが、この村にはむしろよく馴染んでいるようだった。現に、険しかった村人たちの顔つきは日を追うごとにやわらいでいる。
もっとも、ゼイニークに向けられる視線だけは未だ刺々しいものが多い。それも当然だ。今ここにいられるだけでも彼はかなりの温情を受けている方である。着の身着のまま追放されなかっただけ、ありがたく思ってもらいたい。
当のゼイニークはというと、相変わらず握り飯を頬張りながらぼんやりと空を見上げていた。
「カフェなどと……考えたことも無かったな」
「私とて未だに半信半疑です。ですが、品質の向上を目指すという方向性自体は悪くないはず。なにせ無理な作付けのせいでこの土地はすっかり痩せてしまっておりますからな」
「フン! 他人事のように清廉な顔をしてくれる。貴殿とて、この僻地に独り放り込まれていたら同じことをしていたに決まっている!」
「ご一緒にされては困ります。だいたい貴方がこの地に送られたのは自業自得でしょうに。……とはいえ、私もシグリッド様のようには振る舞えなかったでしょうがね」
苛立ちまぎれに握り飯を丸呑みしたゼイニークが案の定、喉に詰まらせた。胸をどんどこ叩いて涙目になっている。
仕方なく冷たい水を探しかけたそのとき、すっと誰かが氷の浮かんだコップを差し出した。見れば、村の女の一人であるターニャである。
ゼイニークは無言でそれを受け取り、ごくごくと飲み干した。そして「ぷはぁ」と息をついたあと、バツの悪そうな顔でぽつりと一言。
「……助かった」
ターニャは特に何も言わず、軽く会釈をして去っていく。ゼイニークはやや茫然とした面持ちでその背中を見送っていた。
追い詰められた末に村人へ過重な労働を科し、彼らを苦しめる道を選んだのはほかならぬゼイニーク自身だ。
だが、根から悪人だったわけではないのかもしれない。捻じれた根が少しずつ元のかたちを取り戻そうとしているのかも。
トーマスもまた、冷たい水を口に含む。
今夜こそはシグリッドとじっくり話し合おう。
トーマスはそう決意を固めたのだが、残念ながらそれは叶わなかった。
日の入りとともに今日一日の労働が終わらんとしたまさにその時、豪華な装飾が施された馬車が村に滑り込んできたからだ。
「シグリッドさま! シグリッドさまはどこにいらっしゃいますの!?」
扉が勢いよく開き、ピンク色の派手な髪を二つに結った、あまりに場違いで華やかな令嬢が飛び出してくる。
あの娘は——たしかそう。
婚約破棄宣言という愚行に端を発した、王都での断罪劇の最中。
いつの間にやら騒ぎに乗じて霧のように姿を消していた、あの令嬢であった。




