11 幕間1
——少しだけ、時は遡る。
アラピカで新たな「コフィ」が生まれるよりわずかに前。
シアソレイユ王国の王都では、稀代の馬鹿王子シグリッドの廃嫡と辺境送りという国を揺るがしたあの一大騒動から、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
「いやぁ、シグリッド殿下がいなくなって本当に清々しましたな。こんなにも心穏やかな毎日を過ごせるとは思わなかったですよ」
「まったくだ。顔を合わせるたびに無理難題を吹っかけられて堪ったものではなかったからな」
ひとりの衛兵が長い廊下を渡る。すれ違う文官たちの口から漏れるのはそんな安堵の声ばかりであった。
シグリッドに代わる王太子には、異母弟のマーシャルが立てられることとなった。マーシャルは兄のような華やかさこそ持たないものの、他者の意見をよく聞き、己の分を弁えた人物だ。外交を任せることすら危ぶまれていたシグリッドとは比べるべくもないだろう。
しかも彼の婚約者には、かつてシグリッドの婚約者であったセリカ・アルジェント公爵令嬢が据えられる予定だという。彼女の完璧な手腕でマーシャルを支えればこの国もきっと安泰——というのが、専らの評価だった。
ただ一人、かつてシグリッドを溺愛していた親馬鹿の国王陛下だけは誰の目にも明らかなほど意気消沈しているらしいが……それも自業自得というものだろう。亡き王妃の忘れ形見だからと甘やかすだけ甘やかしてきたツケが回ってきただけなのだから。
衛兵は目的の部屋の前に立ち、二度、重厚な扉を叩く。ややあってから「入れ」と簡潔な許可を頂き、衛兵は扉を押し開いた。
「ルッツです。ただいま戻りました」
「長旅、ご苦労であったな。……お嬢様、お時間はよろしいでしょうか」
「ええ、構わないわ」
涼やかな声。目の前の机には銀糸を揺らすひとりの令嬢——渦中の人物、セリカが紅茶を啜っていた。その傍らには壮年の執事が静かに控えている。こちらはルッツの上司にあたる男、モリガンである。
「まずは報告を」
「はい。シグリッドおよびトーマスの両名はアラピカ村に到着、そのまま逗留しております。道中で馬車に落雷が落ちるというアクシデントはございましたが、怪我の類は見受けられませんでした」
「……落雷?」
「まさか、お嬢様の仕業ではございますまいな?」
モリガンの冗談にセリカのカップを持つ手が止まる。主君である彼女は魔法に精通していたが、そのなかでも得意としていたのが雷魔法であった。
「わたくしが本気を出したらどうなるか分かってるでしょう? それに、どうせやるならもっと早く始末してるわよ」
「それもそうでございました」
くく、と笑うモリガンにセリカは白い目を送っている。もちろんルッツとて主君を疑うつもりはない。何を隠そうルッツ自身が馬車の御者に扮して二人を運んでいたからだ。今こそ衛兵の姿をしているが、ルッツはアルジェント公爵家に仕え、諜報を主な任務とする密偵であった。密命を受け、アラピカに飛ばされたシグリッドの動向を注視していたのである。
なにせ王太子の廃嫡など王国史にもほとんど例がない。本人の気質も相まって、辺境に追いやられた彼が何をしでかすか分からなかったのだ。
セリカを逆恨みして危害を加える可能性は否定できないし、返り咲きを狙って虎視眈々と兵力を蓄えるかもしれない。「そんな頭は働かないでしょうけれど」という辛辣な前置きはありつつも、ルッツはセリカから念のためにと命じられたのだ。シグリッドの監視を、と。
本来ならば王家の人間がやることでは? と思いつつも、親馬鹿王は魂が抜け落ちたようでまるで使い物にならず、マーシャル派は降って湧いてきた王太子の座を盤石にするため地盤固めに忙しい。それならば、とシグリッドの面倒役から解放されたセリカのたっての発案であった。
そうして馬車で彼らを送り届けていたのであるが、あの日はよく晴れた空模様で落雷もあの一発だけであった。さらにはその影響は馬車自体には全く及んでいなかったのだ。ただひとり、シグリッドを除いては——。
不可思議な現象に思いを馳せつつも、ルッツは気を取り直すように咳払いをひとつして報告を続けた。
「その後、シグリッドは任命通りアラピカへ赴任しました。……が、元の領主ゼイニークと共同領主という形を取っております」
「あら。あの男なら自分ひとりで領主をやりたがるか、押しつけて裏で寝てるかのどちらかだと思ったのに。お目付け役の教育係の入れ知恵かしら?」
「そのようには見受けられませんでしたが……」
ルッツも細かな話が聞けるほど近くまで潜入できたわけではない。なにせあの村は住人が少なく、潜り込むには選択肢が少なすぎたのだ。
「他に変わったことはなかったのか?」
「ええと、ですね。……変わったことばかりでした」
到着後は御者として数日村へ滞在し、荷運びや馬の世話を引き受けながら目立たぬ範囲で二人の様子を探っていたのだが、なんとあのシグリッドが平民相手に気さくに声をかけ始めたのだ。それだけでも驚きだというのに、それからも畑仕事に精を出して一緒に煮炊きまで始める始末。自分の目で確認したこととはいえ信じられない光景であった。
そしてシエスタ作戦なるものが始まり、シグリッドが本当に農園へ通い続けていることを確認したところで、ルッツは一度王都へ戻ったわけである。
見聞きした範囲の説明を終えると、セリカの表情が明らかに曇った。
「なるほど。つまりあの男は、あの騒ぎの後始末や各所への調整で苦労しているわたくしを差し置いて、辺境の村でスローライフを楽しまれていると。そういうことですね」
「スローライフ、というのが隠遁暮らしを指しているのであれば、その通りですね」
「……ふぅん……」
意味深な言葉とともに目を据わらせた彼女がふぅと息を吐く。完璧な淑女と称されるセリカらしからぬ行動であるが、モリガンとルッツには気を許している様子で時折その仮面を脱いでいた。とはいってもご機嫌は斜めになってしまったようだ。空気を読んだルッツはわざと明るい声音に変える。
「それで、セリカお嬢様はいかがお過ごしでしたか?」
「わたくし? 『婚約者であるお前がもう少し手綱を握っていれば』とお父様に叱られて、マーシャル殿下の婚約者に落ち着いたかと思えば年下のご令嬢たちに遠回しに『おばさん』呼ばわりされて、国王陛下が塞ぎ込んで公務を欠席されることが増えたものですから、その代理で外交使節との折衝まで任される毎日ですけれど、それが何か?」
しまった、軽い世間話のつもりだったのに更に地雷を踏んだようだ。淡々と語るセリカであるがその目は全く笑っていない。
「そもそも。まだ婚約者に過ぎないわたくしがこんなに中枢にまで食い込んでお仕事するなんて、この国もよほど人材不足なのかしらね?」
「それはお嬢様が優秀だからに他なりませんよ。この国の至宝と呼ばれる由縁かと」
「そうですよ。それにお嬢様のことだから、自分からほいほい首を突っ込んでるんじゃありませんか?」
彼女は昔からそうだった。文句を言いながらも厄介事や仕事を巻き取ってしまい、後から文句を垂れるのだ。もはや気質のようなものだろう。だから冗談めかしてそう言うと、セリカは「だって非効率的過ぎて気になるんですもの」と唇を尖らせた。
「……まあいいわ。こっちは適当にやらせてもらうから。貴方にはもう少しあの男の監視を頼みたいのだけれど、お願いできる?」
「ご命令とあらば。とはいっても、潜り込むのも大変なんですよねぇ……」
「御者が一番楽ではあるが、アラピカなぞに行く物好きも少ないか」
「わたくしも気にかけておきますけれど、いざとなったら行商人としていくしかないでしょうね」
「ま、それが面倒がないですかね。あの場所で売り買いできるもんなんてほとんどないですけど、了解です」
あの村の収入源は主に眠気覚ましのコフィを売るだけで、その品質も粗悪だと聞く。だから前領主が残した負債の支払いで手一杯だと聞いていたが——。
退室したルッツは、今度は城外へと足を向けた。アラピカへ向かう馬車を探すためだ。
仕える主君が余計な火の粉を浴びぬように。
元王太子シグリッドが、二度と王都を騒がせぬように。
まさかその村が、これから王都の人間を自ら呼び寄せようとしているとも知らずに。




