7章_6
福光の館の一室を借りて、五郎は筆を動かしていた。
庭に面した部屋で、障子は片側だけ開けてある。板を渡して文机の代りにし、その上へ書付をひろげていた。硯は館にあった物で、縁が欠けている。墨も質が悪く、乾くにつれて字が薄くなった。
館の周囲には五千弱の兵を入れてある。そこへ三河から連れて来た一万ほどが加わっていた。この合わせて一万五千を率いているのは三浦次郎左衛門である。
三河の衆と遠江の衆は、ここ数年あまり大きな戦へ出していなかった。
関東へ続けて出たのは甲斐、駿河の衆であり、それらの兵はそこで武功を重ねている。その間、残りの国衆には細々とした普請や、関東に出た兵らの穴埋めとしての警戒を命じていた。
久しぶりの出陣となって、三河の者らが嫌がったところはない。他の者らが勝ち戦で功を上げているのを、どこか羨んでいた空気もあった。現に次郎左衛門が約した、集合の場へは定めた刻限より半日も早く集まっている。
まるっきり集まらないよりかは良いが、勝ち戦を当然と思われると動きが鈍る。五郎の心配事の一つでもある。とはいえそのあたりは次郎左衛門が上手くやるとも見てはいた。
丁度その日は、長井新左衛門と会ってから、七日である。
とはいっても、五郎はその間ずっと福光にいたわけではない。一度尾張へ下がったあと、頃合いと見て戻って来たのである。
戻る発端になったのは、革手城に火が上がり、首実検が始まったという報せだった。
これらは思ったよりも早かった。もし修理大夫方と本気で調整をしたのであれば、もう少しかかったはずだった。
五郎はふと首を回した。
那古野と美濃を往復したため、身体が固くなっていた。板の前に座ってからも、腰から下の張りが取れない。
その時、次郎左衛門が音もなく入って来て、五郎のそばに膝をついた。
「信濃勢、合図が参りました。遠山殿と共にいつでも行けると」
五郎はそちらを見ずに、まずは聞いた。
「松寿丸は帰らせたな」
「人を付けて戻した、と備中守殿より言付けがありました」
「であればよい」
次郎左衛門が少し声を潜めた。
「勝ち戦なのですから、付き合わせても良いのでは」
顔は見ていないが、揶揄うような気配があった。
五郎はしょうがなく、次郎左衛門の方を向く。
「次郎左衛門、これは戦になりうるか」
目を合わせた次郎左衛門は、嫌らしい笑い方をした。
「なりえませんな。まあ、抵抗はされましょうか。戦というより、もっと楽に済みましょう」
「これを戦と覚えられても困る。事前の根回しの手順さえ覚えればよい」
戦術、武勇などははっきり言えば二の次である。事前に内応させ、数を増やし押しつぶす。こういう形の作り方さえ覚えたほうが身になる。五郎が時たまやる、少数で大を打ち破るのなどは基本的には奇策の類である。
弟らには学ばせるものではない。
次郎左衛門は膝を崩さず、片手だけを握ったり開いたりしていた。こちらの腹を窺っている。
「勝ち戦に外されたと反感を抱くやもしれませぬぞ」
五郎は目を細めた。
「その気概があれば、むしろありがたい。上洛には連れて行くゆえ、励めと申し付けよう。だが、素直に帰ったのだろう」
「ええ、敵方の陣容、策のなり具合を見て、もう終わっているとお分かりになられたと」
丁度、庭で鳥が鳴いた。開けた障子から差す日が、板の端へ届いていた。
五郎は口角を上げた。
「物わかりが良すぎるのは、先々心配ではある。そう言うのは身勝手か」
「三浦の者が申したならば、身勝手と答えましょう。されど、五カ国、いえ、七カ国の太守の御舎弟ともなれば、求められるものも多いと承知しておりましょう」
要は身勝手だと言っている。
「相変わらず、嫌な言い方をする」
次郎左衛門は山賊のように笑った。
宿老格のうちでも、この男が一番品がない。庵原も朝比奈も、人前でここまで口の端を吊り上げたりはしない。
その次郎左衛門が、少し身を寄せ、そっと声を潜めた。
「気にしておられた土岐修理大夫殿の御子、まだ見つかっておらぬようです」
「落としたか」
修理大夫方は革手城での攻防に移る前、時間稼ぎをしていた。
自分の子供を気の知れた者に託すぐらいの暇はあっただろう。
「でありましょうな。して、如何いたします。首が上がるまで待ちましょうか」
五郎は次郎左衛門を見た。
楽しそうな眼の奥に、こちらの返答を待つ色がある。
備中守のように忠節を形にする男でもなく、安房守のように役目だけを見ている男でもない。次郎左衛門には、相手が何をするかを確かめて面白がるところがあった。
五郎は筆を置いた。
「不要。落ちた赤子など表舞台には戻さぬ。今をもって攻めかかるように申せ」
「父親になり甘くなり申したか。土岐修理大夫の御子が長じ、我は正統なる守護である、今川よどけ。そう申されたら如何なさる」
「慮外者よと言って、父のもとに送る」
たとえその子が朝倉方に落ち、軍勢を引き連れて来ようが美濃を渡す腹積もりはなかった。朝倉が戻るまでの一年で今川の土地とする計画がある。
次郎左衛門は、そこでようやく納得した顔になった。
五郎は筆を取り直した。
「今は時間が惜しい。なし崩しで美濃を得る好機であろう。上洛の準備もある、早く動け」
「承知いたしました」
次郎左衛門は立ち上がり、足早に部屋を出て行った。
警固の者と小姓だけが残る。
入れ替わるように、長井新九郎が入って来た。
二人は入口で目を合わせ、曖昧に笑って礼を交わした。それだけだった。
どうやらあの二人は、反りが合わないらしい。
新九郎は五郎の横へ腰を下ろした。そこは先ほどまで次郎左衛門が座っていた場所で、まだ温かかったらしい。わずかに顔を顰めたが、すぐに真顔へ戻った。
「御屋形様。安藤と稲葉が陣より離れ申した。父の文で納得したようにございます」
新九郎はこちらに通じるようになってから、御屋形様と五郎を呼ぶようになった。
「美濃守殿は御怒りになられたか」
「いえ、革手城を落としたことに大層喜びの様でした。国衆が、自分たちも信濃や尾張を見張る、長井だけに任せられない、と申すと殊勝と送り出されたようにございます」
「左様か」
およそ聞いていた通りだった。
美濃守の陣には、駿河から取り寄せた酒も、行商を通じて送り込んでいる。近ごろは日々宴を開いているらしい。長井藤左衛門らは窘めているというが、もともと美濃守は担がれた身である。素面でいたところで、することは多くない。
戦という大事が済んだ以上、国人らを周囲に侍らせるつもりもないのだろう。
「これも父が培った縁にございまする。安藤、稲葉の両家とも、中立を保ち、自領に帰ると申されました」
「新左衛門をそう何度も持ち上げる必要はない。来れば使う」
「父は買いでございますぞ」
ぐっと顔を突き出して、新九郎が言った。
意外なことにこの食わせ者の親子は、互いに対する情が深いところがある。
事実、五郎が新左衛門と直接会ったのは、新九郎たっての願いだった。
五郎としては、福島孫九郎を使っても心が動かぬなら、自分が行っても警戒されるだけではないかとも思った。それでも新九郎は、五郎自身が会えば、少なくとも自分は今後は真摯に仕える。そう言った。
福光城の城兵は皆下がらせたうえ、五郎の手勢は福光から少し離れたところに潜ませることも条件にした。もしものときは、すぐ駆けつけられるようにした。
そうしてまで会った新左衛門であるが、その場では仕えるとは答えなかった。だが、いま考えると、それさえ新九郎の勘定に入っていたような気がした。
ただ、父の命を守りたかったのか。
それとも今川当主が直々に勧誘したという形を作り、新左衛門の値を上げたかったのか。
あるいは、ただ二人を会わせてみたかったのか。
五郎は再び筆を置いた。
「新左衛門が相当な物であるというのは聞いている。見てもいる」
「お会いした時は、父もよれておりましたが」
それはそうであろう。
鼻を折られ、主君と恩人から立て続けに退けられた直後だった。気力らしきものが尽きていることは目に明らかであった。
しかし、それゆえに地金が見えた。
「内応した其方を責めなかった。この首を取れるならば、取ろうとした。話もわかりやすい、誠意と打算の塩梅が良い」
人間としては、安房守と次郎左衛門の中間だろうか。大家の家宰あたりは難なくこなすように見えた。
「まあ、そういう根幹はあの状態でも変わりませなんだ」
「乱世では頼りになろう」
「しかし、下剋上の毛色もございますので、御身に取って代わるやもしれませんぞ」
新九郎は唐突に父親を下げた。
父を勧めたいのか、警戒させたいのか分からない。
ふざけているのかとも思ったが、新九郎は顔色を変えなかった。
どうやら、次郎左衛門とは違う意味で、相手を量り続ける性質らしい。おそらくだが、その目に適わなければ、忠誠も何もないのだろう。
五郎はふと適当な言葉を探したが、やめた。
煙に巻く言葉や、下手な嘘は、かえってこの男の反骨を煽る気さえした。
五郎は、顎へ手をやった。目を閉じ、頭を巡らせ、腹を据わらせた。
下剋上をどう扱うか。どう思うか。
これは隠すような話でもなかった。
五郎は言葉を発した。その言葉は、自分が思うよりも気軽に出た。
「治部の働きが不足し、自分ならばうまくやれる。そう思うならば、下剋上も良いのではないか」
新九郎が息を呑んだ。
「下剋上を肯定されますか。今川の御曹司が」
膝がわずかに前へ出て、すぐに戻った。
その様に、五郎は少し可笑しさを覚えた。
「今川百年、二百年の安泰。これを成さんとすることには反するか」
「反しましょう。下剋上をされた家がどうなるかなど、言うまでもありますまい」
新九郎はいたって真面目だった。家を案ずる忠義の者のような口調で言う。
五郎はそこにも可笑しさを覚えた。
「ゆえに、下剋上はできぬ、しても意味がない。そう言う仕組みを作ろうとはしている」
「ええ、相当に固め、反抗などできぬようにしておられます。それは分かりまする」
五郎は小さく頷いた。
他国と勝手に結ぶこと、兵を勝手に集めることは禁じてある。
その代り、安堵した所領を裁定なく奪わない。今川に従う家が攻められれば、今川が兵を出しこれを防ぐ。
国人から勝手に戦う権を取り上げるかわりに、家が残る道を与えたのである。
役と所領も分け、所領を奪わずとも豊かになれる道も開いた。
ただ、それは結局今川という家に、どれだけ役に立てるかを示せる場を用意した、それだけに過ぎない。
確かに統治は安定する。
するであろうが、
「そうであっても、治部や今川の統治が正しいか、今後もそうあるべきかは別であろう」
新九郎が口を結んだ。警固の者も小姓も声を出さない。
風が入り、板の上の紙が一枚浮いた。小姓が慌てて手で押さえた。
五郎はそれらを横目で見て、続ける。
「下剋上とて、上に立ちたいだけの欲でないならば、許される余地はあろうよ。今川があっては世のためにならぬならば、退ける他なし。そう言われても仕方がない」
五郎は自分で自分が情けなくなる。百年、二百年の安泰を死に際の父に誓った口で、その安泰が崩れるのを許している。
泉下の父からは、約定すら守れぬのかと言われるだろう。
だが、有害になった家、法度がそのまま残り続けるのも、どこか受け入れがたい話にも思えた。
新九郎は肩を上下させ、何かを飲み込むと、そのまま呟いた。
「その時は血が流れましょうな。幼き御舎弟、生まれたばかりの御子様も、土岐殿のご子息の如き扱いになりましょう」
「為政者の弟、子として生まれるのはそう言うことであろう。人に頭を下げさせるだけの働きがなければ、自分の首が落ちる」
新九郎が少し腰を引いた。だが、今度は黙り込まず、歯を見せずに笑った。
「それは、なんとも、恐ろしい言葉でございますな。下剋上をする者への脅しでございましょうか」
別段、新九郎に向けた言葉でもなかったが、そう取ったらしい。
五郎は顎を撫でた。
「脅しというより、事実であろう。上に立つこと、上に就くこと、総じて楽しげに見えるが、真面目に勤めるのであれば損が勝つらしい」
望むだけの美食、美酒、美女。きっと望めば得られる。芸術も好きなだけ楽しめる。
しかし、国を治めようとするとそれらに耽溺している暇がない。心の余裕もない。ずっと何かに追われるようにして、仕事に打ち込み続けるだけの生活なのだ。
五郎は少し宙を見た。
だが、その味気のない生活を承知しながらも、なおも自分がやる、そう思っている。
上に立つべきではないと思う一方で、自分が引き受けねばならぬとも思う。
「傲慢と卑屈か」
「何でございましょうか」
新九郎が聞き返した。
五郎は手を振った。いつしか自分の話になっていた。
筆を握り直し、新九郎にかすかに笑った。
「新九郎、今川の内で大きくなられよ。その中で自分が取って代わったほうが、世のために良い。そう思われるのであれば、ままにされよ。其方が正しいと思う数が、今川を求める数より多ければ、事はなろう」
「数が足りなければ」
新九郎がぽつりと言った。
「首が落ちる。数の足りない方が」
五郎は筆を動かした。
新九郎は唇を小さく噛んで俯いた。
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それから十日ほどして、革手城は再び落ちた。
三浦次郎左衛門が一万余を率いて南下し、信濃からも三千ほどが東美濃へ入った。
二手に分かれて進んだ今川勢は、気力、準備ともに万全であったが、対する美濃勢は、まともな戦をするところまで行かなかった。
美濃守は、今川の動きを察すると、直ぐに泡を食って兵を集めようとした。だが、稲葉、安藤、竹中、不破といった主だった国人はすでに離れていた。
五郎が牢人に紛れ込ませていた、戦慣れた者たちも陣を抜けている。
結局、美濃守の側に残ったのは、長井藤左衛門をはじめとする近しい者だけだった。
では、この少数が今川勢と乾坤一擲の戦をしたかというと、それも違った。
今度は修理大夫方だった国人が動いたのだ。
美濃守の手勢が薄い、日和見の国人衆らが逃げたと見ると、攻め落とされたばかりの革手城へ戻り、土岐兄弟の争いがまた始まったのである。
ただ、どちらの陣営も決め手に欠けている。そのため、三浦次郎左衛門は、革手へ着いたとき、今川勢を見ようともせず争っている双方に呆れたらしい。
次郎左衛門は、それでも五郎の指示に従い、形だけは停戦を呼びかけた。
正当なる当主はただちに前へ出よ。美濃の静謐を乱したこのたびの仕儀について申し開きをせよ、というものであった。
内容は任せていた。次郎左衛門らしい、嫌な呼びかけだった。
ただ、もちろん両方とも出て来なかった。
そこで次郎左衛門は、両陣をまとめて討つように命じた。
すでに戦い疲れ、惰性で槍を合わせていたような兵である。今川勢が整然と前に出ると、こちらと槍をぶつけ合うこともなく、ほどなく崩れた。
これは良かったが、一つ想定外もあった。
革手城には完全に火が回ったのだ。次郎左衛門によると、混乱する美濃守の目を盗んで、修理大夫方の残党が火をかけたのではないか、という話だった。
真偽は定かではない。ただ土岐家の本城だった革手城は、その日のうちにほとんど焼け落ちた。城に備えられていた油や、材木につけられた火は、乾いた冬の中で手が付けられなくなった。
それ以外の戦の趨勢として、土岐美濃守頼芸も捕らえられた。これは今川勢が革手城に着いてから一日後のことである。焼け落ちる城から少数の供とともに逃げ出そうとしたところを、今川軍の騎馬兵が捕捉した。
それらの一連の報せを、五郎は稲葉山で聞いた。
本来なら革手城へ入るつもりだったが、焼けてしまった城へ入るわけにも行かない。それで近くの山城へ移ったのである。
さほどの堅城ではない。かつての美濃守護代の斎藤が居城としたが、どうにも水の供給に不都合があり、長く籠るには向いていないようにも思えた。
ただ、それでも岩山に立った城であり、上からは平野がよく見えた。事実、革手の方角から立ち上る、細い煙が目に入った。
「美濃守殿は腹を召さなんだか」
五郎はその立ち上る煙を見ながら、次郎左衛門に聞いた。
次郎左衛門は座布に座り、何が面白いのか、またにやついている。
「一応尋ね申した。美濃国主として、腹を斬れば土岐家の面目も保たれるのではないかと」
五郎には、その理屈がよく分からなかった。
兄弟争いの末に他国の兵を招き入れたのである。そこまで来てから腹を切ったところで、失った面目が戻るとも思えない。太平記に謳われる土岐氏の武名を取り戻すなど、夢のまた夢である。
次郎左衛門は先を聞いて欲しそうにこちらを見た。
その後ろでは、次郎左衛門の息子たちが頭を抱えている。
「して、どのようにお答えになられた」
仕方がなしに聞くと、次郎左衛門の笑みがさらに深くなった。
「出家するゆえに許してくれと」
「小笠原正安入道のことでも話に出したか」
「ご明察にございます。美濃統治に役に立つとも申しておられた」
「修理大夫殿の甥御は見つかったか」
五郎はふいに話を変えた。
次郎左衛門も察したらしく、にやついたまま頷いた。
「では、良かろう」
「で、ございますな。直ぐに一席設けまする。拝見なさりますか」
「準備が出来たら申せ。恨み言を聞く準備をしておく」
「では、轡を外しておきましょう」
次郎左衛門は愉快そうに歩いて行った。
その息子たちは、五郎へ何度も頭を下げてから、そのあとを追った。
「あれが今の今川の宿老になる」
五郎はその背を目で追いながら、ぽつりと言った。
五郎のそばには新九郎がいた。
父親の新左衛門がまだ人前に出ないため、その代りに美濃衆との顔つなぎをしている。ここ数日は、特によく働いていた。
味方にしたいと言った国人衆については、こういう血縁関係があるとか、ここと折り合いが悪いとか、銭に困っているとか、そう言う話を詳しく話した。また、近場の国衆に対しては自ら当主を引っ張ってきては、五郎と引き合わせることもした。
当然だが、新九郎には美濃衆へ恩を売り、長井の影響を残す考えもあるのだろう。
それでも、白眉の若者という評判は偽りではなさそうだった。
新九郎は、去って行く次郎左衛門の背を見ながら顎を撫でた。
「今川の御家中には思えませぬな」
「名門今川の色などあってない様なもの」
美濃まで入れれば七カ国になる。駿河出身の家臣だけで、その全てを回せるはずもない。
「駿河、遠江を至上とする考えが今川ではござらんので」
「遠慮がない」
五郎には耳の痛い話でもあった。
国が広がるにつれ、家中の様子も変わった。とはいえ、上に立つ宿老の多くはいまだ駿河、遠江の家である。
庵原、朝比奈、三浦、福島、岡部、由比といった重臣、譜代。関口、瀬名、小鹿、葛山をはじめとする一門衆。
甲斐や信濃から取り立てた者は、まだその下にいる。どれだけ武功を上げようと、まだ駿河、遠江の者らの上には名前は書けないだろう。
「これは申し訳ありませぬ」
新九郎は、少しも悪いと思っていない顔で言った。
「とはいえ、尾張に本城を移し、甲斐、信濃、三河の者らと陣を共にする上で大分薄れた」
「方々に今川の血を植えておられる。遠江、駿河以外を他所者などとは、もはや言えぬでしょうな」
新九郎は袖の内で手を組み、外に視線をやった。革手からの白い煙が筋になっている。
「そうなればよいが、古い家故しがらみもある。駿府を本拠としないとしたとき、僅かだが目で訴えられた。遠江、駿河を格別の扱いにせぬというは、まだ難しい」
「それは困りましょう。古参が優秀な新参者を受け入れられぬとなれば、身動きできなくなりまする」
「そちらの懸念自体は薄い。仕事が多い故、出来る新参を弾く気風というのは現場では薄れた。そなたもそのうちに気持ちがわかろう」
役は家柄だけで出していない。軍功だけでもない。与えた役目を果たしうるかも重視している。
五郎は新九郎についと目をやった。この男も承菊同様、色々と働かせることが出来そうだ。ならば大いに働いてもらおう。そういう思いを込めて見ていると、新九郎がわずかに身を震わせた。
喜んだのかと思ったが、違うようだった。
そのとき、陣幕の向こうから一人の男が現れた。
新九郎は眉を上げた。
その男の顔はまだひどく腫れている。ことに鼻の周りが大きく膨らんでいた。
「声はだせるか、新左衛門」
「申し訳ありませぬ。かろうじてにござる」
もともとしゃがれた声だったが、いまはさらに低く、鼻に詰まっている。
付き添って来た小姓が、皮袋に入れた水を差し出した。
新左衛門はそれを手拭いへ注ぎ、顔に当てた。小姓が眼を丸くした。
「そなたに飲ませるためのものであろう」
「これは失敬」
座布を持って来させると、新左衛門はそこへ腰を下ろした。新左衛門は鼻が痛むようで、目を強くつぶっている。
いろいろと話したいことはあったが、本題に入ったほうがいいだろう。
五郎は少し間を置いてから言った。
「この城を大きくすることに決めた」
「ここにござるか」
この山の下では、道が三つ交わる。
北へ抜ける道、東の山へ入る道、長良川の川湊へ下る道である。市も麓の寺の門前に立ち、月に六度開いていた。
「政庁としての革手城は燃えた。道々を見るにも、城は要る」
「大普請が那古野であられると聞いておりまするが」
「ゆえにそれが一段落してからになる。縄張りだけを行い、それまではありもの、という運びになろう」
那古野の普請もまだ終わっていない。始めてからもうじき一年で、凡その形はできたが、尾張の要としては不十分である。大林源助もあと二年は見ろと言っていた。
だが、その二年の間に新たな城づくりに挑めるかと言えば、それは否である。今川の蔵がいくらでも銭を出せるわけでもなかった。
それになにより、阿波方と公方の争いへ備える費えもいる。
それらを鑑みれば、美濃で大普請を始めるには今少し、時がいる状態であった。
「芳菊丸様が入られるのでしょうか」
新左衛門が不意に言った。
五郎は、ふぅん、と唸った。
すると新左衛門と新九郎が揃って背筋を伸ばした。
「癖だ。他意はない。ただそれも面白いと思うたまでのこと」
「お考えのところは別でありましょうか」
新九郎が横から口を挟んだ。
新左衛門が咎めるような眼を向けたが、すぐに諦めたように息を吐いた。やはり、相当この出来息子に甘いらしい。
「美濃には治部が入る」
新九郎が目を丸くした。
「御屋形様は那古野では。あれは相当な城になると」
「尾張衆の心を寄せるにあたり、城が分かりやすい。尾張の銭と物の流れを一度作るにも大普請が良いゆえ、そうしたまで。本拠などとは言っておらぬ」
そう匂わせたし、それでも良かったが、まだ正式には言っていない。
「入る城にはこだわられないと」
今度は新左衛門が言った。
手拭いを顔から少し離している。
「こだわらぬ。あの城は濃尾平野が今川の中核地となり、東海道の抑えとする城。己の安心のための城ではない。そもそも城に籠る状況にはなかろう」
新左衛門は手拭いを膝へ置いた。
腫れた瞼の下から、眼だけが五郎を見ている。
「前に出られますか」
耳を澄まさねば聴き取れぬようなくぐもった声であった。だが不思議と五郎にはわかった。
「踏み込まれぬようにするには、前に出る他あるまい」
「今の今川に誰が攻め込みましょう」
「故あれば、皆攻め込む」
言ったとき、新左衛門の鼻から血が一滴落ちた。
五郎は懐紙を取り出し、気がつくとその顔を拭っていた。
新左衛門と新九郎が揃って身体を固くした。
「これは失礼をば」
「いや、勝手をした。後は自分でなされよ」
新左衛門は困った顔をして懐紙を受け取り、自分で血を拭った。
それが済むのを待ってから、五郎はまた口を開いた。
「城の話であったな」
ずれていた話を元に戻すと、新左衛門が頷いた。
「今は治部が入る。補弼する者がいれば、数年もあれば美濃もある程度固まろう」
甲斐でも、形になるまでには時間がかかった。だが、あの時は穴山が支え、他の者らとの繋ぎになったため、想定よりも短く済んだ。
美濃は甲斐よりひろく、国人の縁も入り組んでいるが、やることそのものは大きく違わないと見ていた。
五郎は新左衛門の目を覗きこんだ。
新左衛門も、何を言われるか分かったらしい。
膝の上の手が一度開き、また閉じた。
「新左衛門、補弼を頼む。こちらからも人を出すが、そこもとを頼りにする他なかろう」
新左衛門は唾を呑んだ。手拭いと懐紙を顔から離した。
「まだ仕えるなどとは申しておりませぬが」
「左様か。では断られるか」
「断られると困られますかな」
五郎は新左衛門を見た。
見立てでは、織田弾正忠とは違う男だった。どちらの才覚が上かという話ではない。
ただ、新左衛門は人の立てた物を、ただ己の思う合理のために壊す男ではないように見えた。幾分、話し合い納得し合う余地すらある。
それを思えば、仕えないと言われても、十分見逃すことができる。
だが、仕えないと困るかと聞かれれば、
「今は困る」
新左衛門が力なく笑った。
「そのうちに困らなくなりましょうか。いなくても構わぬと捨て置かれましょうか」
五郎は誤魔化さなかった。
「であろうよ。ただそれは、新左衛門に限った話ではあるまい。治部も誰もがそうよな。皆がいつかは要らぬと言われる」
誰か一人がいなければ何も出来ぬようでは、家は長く持たない。
新左衛門は、ひとしきり笑うと、浅く息を吐いた。
鼻を通らず、口の端から漏れた。
「ならば、求められているうちが花でございますな」
それから新左衛門は五郎へ向き直った。
ようござる、と言って、地面へ膝をついた。
「御支えいたしまする。謀反の相がある無作法ものでございますが、お仕えさせていただきたく」
「頼りにする」
五郎はそれだけ言った。
新九郎が、ほっと胸をなでおろしていた。




