7章_5
土岐美濃守頼芸は床几に腰を下ろし、扇を使っていた。
仰ぐほどの陽気ではなかった。風はまだ冷たく、具足の下にかいた汗もじきに引く。それでも手が空くと、いつの間にか扇を動かしている。
前には刈田がひろがり、畦を隔てた向こうに、兄の修理大夫頼武の陣があった。
戦の初めには、兵数にさほどの差はなかった。兄方が四、五千、美濃守方が五、六千ほどである。
それが今川から銭二百貫と米千石が届いてから変わった。
銭は長井の手を通して、京や近江から流れて来た牢人に配った。集まった牢人は千人ほどで、そのうち三百ばかりは槍も具足も自前だった。阿波方と公方の大戦には加わる度胸はないが、美濃の戦ならば目がある。そう考え、流れて来た者らである。
聊か不快な見立てではあるが、手慣れているのは分かった。そのため、そのような者には余分に銭を渡した。渡さなければ、翌日には別の陣にいるような連中である。
銭と米が目の前で大きく動くと、それまで様子を見ていた美濃衆も兵を出した。すでにこちらについていた稲葉、安藤、河合なども、さらに人を集め、戦の後少しでも良い立ち位置をと前に出た。
そうなると美濃守の陣はにわかに活気付き、物売りや農村の寡婦などが出入りするようになる。まだ弓矢を交えてはいないためか、何処か祭りじみた様相になった。
するとそのころから、兄方にいた者がこちらへ流れ始めた。元はおなじ美濃衆同士である。こちらに付いた者を通じて、いやいや、この度は無理やり修理大夫の陣に参加させられたが、本心ではこちらに付きたかった、などとのたまいながら、平気で陣に混じっていった。
本音を言えばまとめて切り飛ばしてやりたかったが、それをやれば、それを繋いだ美濃衆の顔をつぶす。それに表裏定かでないものとはいえ、数は数である。
ぐっと我慢して、受け入れていった結果、いま修理大夫の陣に残る兵は二千ほど。こちらは八千に届こうとしていた。
「哀れなことよ。天にも見放されておる」
美濃守は扇を使いながら、ぽつりと言った。品がないと思っても、口角が上がってしまう。
空を仰げば修理大夫の陣のあたりには小雨が降っていた。灰色の雨脚が斜めに見え、その下だけが暗い。こちらには雲の切れ間から日が射している。
美濃守はそばにいた稲葉彦六郎を呼んだ。
「彦六郎、これは僥倖という。覚えておけ」
彦六郎はただ頭を下げた。こちらを伏し目がちに伺い、口を結んでいる。
武骨な武者としては、悪くはない。ただ、こういうときに一言も返せぬのでは、あまり重く使えぬかもしれない、そう美濃守は思った。
ただ、そうはいっても粗略に扱うには影響の大きい小僧である。稲葉を貶せば、周辺の家々も次は自分かと腰が引けるだろう。そのことは戦の趨勢が決まった今でも変わらない。
だが、美濃だけのことを考えていてもつまらない。今後は幕府や今川との折衝もある。福島孫九郎のような背筋の通った若者を、こちらでも見つけておく必要があるのだろう。
でなければ、兄が朝倉に頭が上がらぬように、今川の後塵を拝し続けることになりかねない。
美濃守は目元を揉みつつ、側についている長井藤左衛門にふと問うた。
「して、藤左衛門、兄上殿はどのように申しておる」
美濃守は数日前、兵数が決定的になったあたりから、兄の修理大夫に文を送っている。一度ではなく、二度目である。
藤左衛門は仄暗い声色であるが、短く返した。
「返りはございませぬ。腹を決めておられるかと」
美濃守は唇を噛んだ。噛む振りをした。ただ内心では、返事がないことに喜びを覚えた。
文の内容を思えば、返り文などない方が良い。
文にはこう記している。
このような仕儀と相成ったが、やはり血を分けた兄弟で争うことは本意ではない。美濃衆の意見を汲み、朝廷から美濃守に任ぜられた自分へ守護職を譲り、兄は出家して俗世の平穏を祈ってはどうか。
それは長井新左衛門に勧められて出した文だった。戦の趨勢が決まったら、一度このようにお出しくださいと、出陣前から何度も言い含められた。
美濃守には気に入らない話だった。だが、新左衛門に心寄せる美濃衆などは、なるほどと納得している様子を見せ、頭ごなしに否定もできなかったのだ。
無論、腹立ちを差し置いて考えてみれば、確かに寛容なところを見せることは、国を治めるにあたり役立つだろう。
それに出家させてしまえば、後で始末するのも難しくはない。
ただ、そうはいっても納得しかねる部分もある。実際、兄はこれまで何度も朝倉の力を借りて守護へ返り咲いている。いま阿波方との戦で手を取られている朝倉も、いつかは戻って来て、兄を守護にと押し戻す動きをするだろう。
出来ることなら、兄の首はここで取るべきだった。取りたかった。
美濃守は深く息を吐き、肩を落とした。
「難儀なことよ。兄上殿は天に見放されようが、武士としての一分を通そうとしておられる」
そして扇を畳み、その先を敵陣へ向けた。
「かくなる上は、美濃の静謐のため弓矢を交えるほかあるまいな」
立ち上がり、自軍の兵を見渡した。
美濃衆の兵には農民に胴丸を着せただけの者も多かった。陣笠がなく、頭に藁を巻いている者もいる。しかし八千近い人間が集まれば、それなりの眺めになる。前には槍が並び、その後ろには家々の旗が立っていた。
美濃国主の見る風景と思えば、自然と体が胸を張った。
「誰ぞ、一番槍を望むものはおるか」
目の前の兵たちの間で、一斉に声が上がった。
それがしが、それがしがと国人の子弟が前へ出た。
美濃守は扇を開き、口元を隠した。
「名前など覚えられぬわ。だが、兄上殿の陣に槍を始めにつけたものをこそ、美濃守護の心にとどめようぞ」
そう言って、扇をひるがえす。
「かかれ」
美濃守の短い号令は、あっという間に陣中に浸透し、兵が一斉に動いた。
ただ、前へ出たのは四千ほどで、残りは美濃守の本陣を固めている。ないとは見ていたが、修理大夫が死に物狂いでこちらへ突っ込んで来ても、十分に受け止められる数だった。
その前に出た四千の兵が刈田を越えて迫ると、修理大夫方の兵が退き始めた。
受け止める気配はなかった。
間もなく槍の打ち合う音が聞こえて来たが、勢いにははっきり差があった。修理大夫方の陣は端から崩れ、押されて行く。
遠くから、やあ、やあ、と鬨の声が聞こえた。
美濃守は頷いた。
まず勝てよう。
そう思うと、気持ちは戦の後に飛んだ。
戦も悪くはないが、やはりこちらを考える方が好きだった。
「城はどうするかな」
ぽつりと呟き、扇を開閉させた。
福光の館は悪くない。今川の銭で賄った調度品で飾り、人を迎えても不足のない部屋がある。しかし、肝心の館も蔵も、長井が銭を出して直したものであり、どうにも自分の城とは思えない。
かと言って革手城も気に入らなかった。革手城は、確かに土岐家の本城ではあるが、修理大夫の城という印象がぬぐえない。これに居を移すことで、誰が土岐家の当主か、美濃国主かを示すには良い。
だが、修理大夫とは違うと見せるにあたっては、望ましくないように思えた。
美濃守は畳んだ扇で、掌を打った。軽い音が陣中に響く。
ならばいっそ、新しい城を築くのもよいかもしれない、と妙案が浮かんだ。
北に寄らず、京に近い位置に城を築く。今川、朝倉からの圧も避けられ、自分に相応しいものができるだろう。
そんなことを考えていると、横から陰鬱な声がした。
「城攻めでございますか。確かに、それも備えなければなりませぬ」
言うまでもなく藤左衛門だった。
馬鹿者、と言いたくなったが、彦六郎が感心したようにこちらを見ている。
美濃守は、喉を上下させてから、ゆっくり頷いた。
「うむ。ここで決め切れるなら楽なのだがな」
そう言ったが、美濃守は疑っていない。
兵の数は四倍近い。決め切れるに違いないと思っている。修理大夫の首すら取れるだろう。
藤左衛門が眉を顰めた。
「ご賢察通り、どう見ても難しゅうございますな。相手の陣が端から下がっているのを見るに、野戦は形だけにございましょう」
美濃守は扇を開き、口元を隠した。
藤左衛門は目のあたりを指で押しながら続けた。
「やはり朝倉殿の帰還を待たれる。それが修理大夫様の狙いでしょう。それを思えば、やはり城攻めの備えは必須でございます」
「であるな。して、このままなだれ込む、そういう道はあると思うか」
あるに決まっている、そう思いながら聞いた。
「ありまするが、奇策でございますな。美濃守様の周りの兵と入れ替え、攻めかからせる。それぐらいならば適いましょうが、銭雇いの兵がどこまで持つか。それに戦の最中の陣替えは危のうございます。機と見て敵が前に出るやもしれませぬ」
修理大夫が前に出る、そんなことはあり得ない。備えの四千も本当は全部前でよいくらいだ。
「左様か、敵は腰が引けているが、其方には擬態に見えるようだな」
「まさしくにございます。緩く下がって時間稼ぎ、城に兵や物を集めるための擬態かと。もしや、なんぞ知恵者がおるのやもしれませぬ。いえ、明らか過ぎる釣りでございますゆえ、さほどでもありませぬか」
皮肉で言ったはずが、藤左衛門は真面目腐った顔で頷いた。
美濃守は扇の陰で唇を噛んだ。
「任す」
そう言って、床几へ深く腰を下ろした。
美濃守の視線が、陣の脇へ積んである酒樽へ行った。士気を落とさぬために必要だ、と新左衛門が持ち込ませた、件の富士の銘酒である。視界に入れるとあの宴で味わった、酒の味がジワリと口に戻った。
美濃守は唾を飲み込んだ。
だれぞ、酒を、と呼びかけそうになった。だが、彦六郎がそばにいることを思い出してやめた。
膝をゆすりながら、ぐっとこらえ、ただ戦の趨勢を見守った。
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戦自体は、そのまま美濃守方の優勢で進んだ。
国人や牢人の兵は、修理大夫方を押しに押した。だが、藤左衛門が見た通り、敵は潰走しない。むしろ整った後退をした。
こちらの周囲の兵を前に出し、押し崩せと、途中で美濃守は言いたくなった。だが、途中から雨が強くなったこともあって追撃は鈍った。先が見えないほどの大降りが、一刻ほど続いた。
これを機と見た二千ほどいた敵兵は、僅かに数を減らしながら革手城へ入っていった。
無論、雨が上がると、美濃守方も城へ迫り、包囲に移った。まだこれと言った手柄は、誰も上げていない。士気は依然として高かったのだ。
それに革手城はさほど堅固な城ではない。土居は低く、堀は南と西にしかなく、防備の一部は川に頼っている有様である。
見る分には優美な城、というより館であるが、籠るにはいかにも頼りなく見えた。
その城に対し、美濃守は町へ抜ける道に二千を置き、北へも二千を回して越前へ向かう道を塞がせた。残る兵で城を囲み、日ごとに持ち場を替えさせている。
この陣容は美濃守の本意ではなかった。どう見てもあの城は力攻めで、落とせる城だった。
ただ、革手城は今後使うことになるかもしれない。そう考えると無闇に壊すのは惜しい気持ちもある。たとえ自分が入らなくとも、生まれてくる跡継ぎに与えるということもできるのだ。
「さて、どう落とすか」
美濃守は呟きながら、ぼう、と城を見つめた。
雨の後なので陣屋の土は軟らかく、床几の脚が少しずつ沈んだ。美濃守は何度か腰を据え直した。具足を解いていないので、肩と首がひどく凝っている。
「美濃守様」
扇を顎に当てていると、藤左衛門が陣幕をくぐって来た。
何事かと聞こうとして、美濃守は口を閉じた。
藤左衛門の後ろに、あまり見たくない顔があった。
「新左衛門が申し上げたいことがあると」
しゃがれ声の武士もどき長井新左衛門が、神妙な顔で目を伏せていた。
新左衛門は美濃守の前へ進み、静かに片膝をついた。
それを見ると、美濃守の口に、にわかに酒の味が思い出された。あの臓腑を熱くさせる一口が恋しかった。
美濃守は扇を弄びながら、藤左衛門に視線をやった。
「そこの男が留守役ではなかったか。後背を守るも戦の役目ではないか」
それを命じたのは、他でもない美濃守である。言葉通り、東からの今川の乱入や、旗色を鮮明にしない国衆を警戒してのことでもある。
ただ、それ以上に美濃守はこの男に勝ち戦へ加わって欲しくなかった。
新左衛門には、どこか下剋上の匂いがした。あまり武功を与えるべきではないと、どこかで感じてしまっていた。
美濃守の言葉に、藤左衛門が頬を掻いた。
「どうにも息子に留守役を任せ、少数にて参ったようでございます。まず後背の警戒には、手抜かりはないかと存じ上げます」
「出来物の、新六郎だったか」
そう言うと、藤左衛門が首を横に振る。
「いえ、新九郎でございまする」
当然、知っていた。
「ああ、そうであったな。若く優れたる者といえば、稲葉の子がまず出てしまう。許せよ、新左衛門」
新左衛門はさらに深く頭を下げた。
「稲葉彦六郎殿に比べれば、わが息など取るに足らない男にございまする」
新左衛門は許しなく答えた。美濃守は論う言葉を探したが、やめた。
どうせこの男には理解できない。美濃の国主が間近に迫った今、真面目に相手をする必要もない。
急に肩に重みを感じて、美濃守は顔を背けた。
「今日は疲れた。そなたは知らぬやもしれぬが、武士の城攻めは気を張るものよ」
そう言ってから、美濃守は寝所の方へ顔を向けた。
話は終わったつもりだった。
しかし、新左衛門は顔を上げ、片膝を立てたまま動かなかった。
陣の外から、酒を飲んでいる者の笑い声が二、三度聞こえた。
その間、新左衛門は微動だにしない。明日起きて来たとしても、そのままこの場に居続けるような気さえした。
美濃守は扇を開き、口元を隠してから問うた。
「して、何用か、新左衛門」
新左衛門はもう一度頭を下げた。
「城攻めをなさるのでしょうか」
美濃守は呆れた。この男を知恵者と称する者らの、節穴加減にも嫌気がさした。
「見て分からぬか。武士ならば空気で分かろう。のう藤左衛門」
話を振られた藤左衛門は、陰鬱な顔で首を傾げただけだった。
「城攻め、何処まで行われます」
新左衛門が、また聞いた。やはり石をこすり合わせたような声である。
「馬鹿者。城を攻めるは落とすためであろう。それ以外にあるか」
「和睦を引き出すため。敵の本隊を呼び寄せるため。城に注意をひき、別のところを突くため。数えれば無数にございまする」
その答えに、美濃守の手が太刀へ行きかけた。無意識だった。
だが、藤左衛門が見ているのに気づき、手をそのまま、膝鎧に置いた。
「なるほど、僧は博識よな。畠水練でなければ、戦でも使えたであろう」
自分でも、声が震えているのが分かった。
だが、新左衛門は顔色を変えなかった。
「して、城攻め、何処まで」
三度目の問いに、美濃守の手が動いた。勝手に動いた手は、扇を新左衛門に投げつけていた。
開いた扇はひらりと回り、新左衛門の片目へ当たって落ちた。
新左衛門は瞬きもしなかった。自分など相手にもしていない。
そう思った途端、腹の底から熱いものがこみ上げた。
「美濃守様、城攻めは何処まで」
もう我慢が出来なかった。口が腹の熱を吐き出した。
「知れたこと。あの無能な兄の首を取るまでよ。決まっておろう。あれを生かし外に逃がせば、朝倉が来る。其方と同じく僧にでもするか。馬鹿者、其方と同じく目を離せば、分不相応に刀を腰に帯びて、目障りになる」
「美濃守様」
藤左衛門が前へ出た。
だが、美濃守が睨むと、足を止めた。
「殺すほかない。殺せ。美濃のためぞ。それに異を挟む者は、美濃に居場所などないわ」
そこで新左衛門が顔を上げた。扇を受けた目が赤くなっている。
「であれば、修理大夫様の御子息は如何いたしましょう。美濃守様の甥御にございましょう」
「甥」
急に変わった問いに、美濃守は言葉を口の中で転ばした。
新左衛門が我が意を得たりと、淡々と続けた。
「左様にございまする。戦の最中、総大将の首印がどうなるか、など論じませぬ。されど刀も帯びれぬ甥君を丁寧に扱うことは、その後の統治に役立つことにございます」
美濃守は唇を強く噛んだ。口の中に血の味がした。
新左衛門は、なおも口を開いた。
「甥御を美濃守様の跡継ぎに、もしそう約束していただければ、革手城は直ちに開きましょう。新左衛門が開かせまする」
しゃがれた声が次第に大きくなった。新左衛門の額には汗が浮いていた。
「当然、朝倉殿にも話を通しましょう。越前から兵がなだれ込むなど、決して起こさせませぬ。修理大夫様方についた美濃衆も、改めて美濃守様に忠誠も誓いましょう」
言い終わると、新左衛門は肩で息をした。
美濃守は立ち上がり、一歩進んだ。
「新左衛門」
「は」
新左衛門の顔を蹴った。
草鞋の先に、骨を打った感触があった。
新左衛門は横倒しになったが、すぐに起き上がった。怒った顔ではない。そのことが、かえって美濃守の癇に障った。
「甥など知らぬ。言うに事欠いて、跡継ぎをその口で決めようとするとは不忠極まる。何より、あの愚兄の子供を跡継ぎなど家が傾くわ」
「甥御も切られると、そう仰せにございますか」
「助けたくとも挨拶にも来ぬ甥など、顔も知らぬ。なで斬りにした後、その辺の雑兵の首と共に混ざっておろう」
美濃守がそう言って小さく笑うと、新左衛門は居ずまいを正し平伏した。
新左衛門の鼻から血が流れ、着物に落ちた。
「最後の奉公にございます。どうか、ご再考をお願い申し上げまする。美濃守様と、美濃のためになりませぬ」
「最後か」
「長井新左衛門、美濃守様に尽くし、共に尾張に下ったこともございました。どうか昔日の奉公をお忘れでないのならば、どうか」
鼻が折れたらしく、言葉がひどく聞き取りにくくなっていた。それが一層に耳障りであった。
美濃守は、ふと太刀の柄に手をかけた。
「美濃守様、いけませぬ」
その時、藤左衛門が二人の間へ入った。
いつもの陰鬱な様子はなく、目を見開いて両手を広げている。
「もうよかろう。そなたも新左衛門の専横には迷惑をしておった。それともやはり、面倒を見た坊主は惜しいか」
「そのようなことはございませぬ」
その言葉に、新左衛門の肩がわずかに動いた。
「ではなんだ。そなたも修理大夫に肩入れするか」
「さにあらず。新左衛門は国衆に縁が太うございます。この場で切り捨てるは戦によろしくありませぬ」
藤左衛門はそう言って、陣幕の外へ目をやった。
美濃守もそちらを見ると、幕の隙間から覗いていた顔が、すぐに引っ込んだ。
ほかにも人の気配がした。いつの間にか騒ぎを聞きつけた者が集まっているようだった。
藤左衛門がそっと近づき、耳打ちをした。
「不忠者を誅するは今ではございませぬ」
その言葉が胸の内に落ちた。
藤左衛門は、下がり平伏した。
美濃守は、静かに太刀から手を離した。気が付けば腹立ちは幾分薄れていた。
「去ね。坊主風情のおるところではない」
美濃守はそう言うと新左衛門に背を向け、隅に積んであった酒樽を一つ引き寄せた。
樽を乱暴に開け、転がっていた朱塗りの盃へ酒を注いだ。こぼれた酒が具足の膝へ跳ねた。だが構わずに美濃守は、盃を飲み干した。
期待した通り、臓腑に染み入る仄かに甘い酒である。
酒気の混じった吐息をこぼし、未だに平伏する新左衛門に吐き捨てる。
「諫言したければ腹でも詰めよ。武士ならばそうしよう」
新左衛門は、はっと顔を上げ、鼻から血を流したまま、腰の短刀へ目をやった。
息を飲んでから、指が柄を握った。
美濃守は黙って盃を傾けた。頬が少し緩んだ。
藤左衛門も止めようとはせず、一歩下がって腕を組んだ。
指が柄を強く握り、そのまま腕が短刀を引き抜こうとした。
だが、抜けなかった。
「お許しください。美濃守様」
新左衛門の指が柄から、一本ずつ離れた。
美濃守は鼻で笑い、酒を干した。
やはりこんなものである。僭越にも跡継ぎに口出しなどしてみたが、坊主の胆力など知れていた。
新左衛門は力なく立ち上がると、肩を落として陣幕へ歩いて行った。
その背中に美濃守は言葉を吐いた。
「藤左衛門。長井に入れるのは武士だけにしておけ。名が落ちる」
藤左衛門がまた頭を下げた。
そのときには、新左衛門の姿はもう陣幕の外へ消えていた。
土の上に、鼻から落ちた血が点々と残っていた。
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どこをどう帰って来たのか、新左衛門にはよく覚えていなかった。
道々、顔見知りの国衆が声をかけて来た。
戦の首尾を聞く者もいれば、腫れた鼻を見て言葉を濁す者もいた。陣を抜けて来た者も、これから兵を出そうという者もいる。新左衛門は、これらになんと答えたかすらも覚えていなかった。ただ、体に染み込んだ人との関わり方で、同輩らに不審を抱かせることはなかった。
いや、そうであったと信じたい。
折れた鼻は、途中の百姓家で無理に戻した。押し込んだときには、眼の奥に火花が散った。血は袖で拭ったが、乾いたところがごわごわに固くなっている。
もっと手ひどい戦傷を負ったこともあったが、傷口を焼いたこともあった。だが、これ以上に苦しい思いはした覚えがなかった。
新左衛門は折れた鼻に時折触れながら、足を引きずるように福光城への道をたどった。
城にたどり着いたころ、すっかり夜も更けていた。それなのに城には篝火が赤々と燃えている。
珍しいことだった。
新九郎は、新左衛門が申しつけた通り、無駄な銭を使わない。油も松脂も無料ではない。一晩、これだけの篝を焚けば、相応の銭になる。戦が起き、商人の出入りが減っている今はことさらである。
何の用があるのかと思ったが、叱る気力は残っていなかった。
だが、それでももったいないと思い、誰かに消させようとした。だが、どうにも人の気配がない。
やはり妙である。
かろうじて門番らが立っていたため、そちらに命じようかと思った。だが、背を伸ばし、息を止めている様子を見て考えを改めた。
何かあった。だが、物々しいことではないようだ。
新九郎に尋ねるべきだろう。そう思いながら、門をくぐった。
探そうとしていた新九郎は、館の入口でじっとこちらを待っていた。薄着のままであり、つい先ほど館から出てきたようだ。まるで新左衛門が帰る時を分かっていたかのようにも見えた。
新九郎は、新左衛門を認めると胸をなでおろした。
「安心いたしました。上首尾に終わったようですな」
「馬鹿者、見ての通りよ。見捨てられた」
館のことを尋ねる前に、軽口を返した。
新九郎は首を横に振った。
「そうではございませぬ。命を持ち帰られた故に、上首尾と申したのです。格好をつけて腹を召されるかも、と考えておりました」
新左衛門は框へ腰を下ろした。草鞋の紐には泥が固くこびりついており、小姓が屈んで解き始めた。
「新九郎、父はそこまで考えなしではない。武士らしさなど知らぬ」
草鞋を脱がせながら、新九郎から眼をそらした。
「ええ、それを知ってほっと致しました」
頃合いである。新左衛門は館の不審について尋ねようとした。
だが、それより先に、新九郎が口を開いた。
「ああ、そうです。お客人が広間にて、父上をお待ちにございます」
客と聞いて、胸に引っかかるものがあった。おそらく館の不審はその客ゆえである。
ただ、その客も言葉通りではないはずだ。
なにせ、この刻限に来て、新九郎に城中の篝まで焚かせている客である。
誰かと聞かず、新左衛門は立ち上がった。
顔も洗わず、汚れた旅装のまま広間へ向かう。新九郎は呆れたような顔をしながら、一歩後ろをついて来た。
小姓を待たず、広間の襖を自分で開けると、まず涼やかな声が響いた。
「留守中に上がり込み申し訳ない。新左衛門殿」
広間の上座に、若い武士が座っていた。元服して、まださほど年月が経っていないように見える。
背筋をまっすぐに伸ばし、両手を膝の上に置いていた。目元は涼しく、顔立ちは男の新左衛門が見ても目を引くほど整っていた。
着物は上質な木綿だった。飾り立てたところは何もない。だが、それが寧ろ男の異質さを際立たせている。
新左衛門はすぐには前へ出れなかった。広間の入口で二の足を踏み、肩を上下させた。
広間には燈台が二つ置かれている。奥の灯は芯を切ったばかりらしく、炎が高かった。火鉢の炭はかなり白くなっている。
しばらく前から待っていたらしい。
男はこちらを気にした様子もなく、再び言った。
「今川治部太夫氏景にござる」
新左衛門はわずかに唾を呑んだ。
空いている座布へ進み、腰を下ろした。
「長井新左衛門正利にございまする」
それから治部太夫の周囲へ目をやった。
四人の男が控えていた。いずれも身体が大きく、静かに目を伏せている。刀は脇に置いてあった。
この場で自分が刀を抜けばどうなるか。美濃の情勢は一変するのではないか。
そう考えざるを得なかった。
「周囲に兵を伏せてはいる。いらぬことを考える必要はない」
治部太夫の言葉に、新左衛門はまた唾をのんだ。
「兵を入れられたと仰られますが、まるで気が付きませなんだ」
ならば、大した人数ではあるまい。
その意味も含めたつもりだったが、治部太夫は瞬きもしなかった。
「尾張からの兵は新九郎殿が気を回してくれた。信濃は言うまでもなかろう」
新左衛門は振り返った。新九郎は何食わぬ顔で座っている。
ずいぶん前から今川と繋がっていたらしい。
しかし腹は立たなかった。
この息子の器量を頼みとして、新左衛門は仕事の多くを任せていた。見返りのために賭けに出るところを知って猶任せた以上、自分の思う通りに行かないのは当然である。
ただそうであったとしても、気にはなった。
それゆえに、新左衛門は疑問をそのまま口にした。
「いつから」
不躾な問いであるが、治部太夫は気にした様子はなかった。
「新九郎殿と繋がったのは、福島孫九郎を宴に送った折。兵を動かしたのは、治部が駿府より帰った後、ちょうどそなたが気もそぞろになった頃」
「孫九郎殿を送られたのは、美濃守様の心を擽るためではなかったので」
「そちらは当家の承菊が勝手に気を利かせた。こちらが孫九郎に命じたのは、長井家と繋がることのみ」
治部太夫の眼が新左衛門の顔に来た。
値踏みされている。
そう思うと、新左衛門は背中に冷たいものを感じた。
「新左衛門殿の心を掴んでこい、そう申しつけたが、寄る辺がなかったようだ。上手く躱されたと、孫九郎は気落ちしていた」
宴の後のことを思い出した。
福島孫九郎は、新左衛門のところへ何度も来た。美濃守の前でも新左衛門を褒め、忠臣だと持ち上げた。
周囲の目もあり、多忙として遠慮したが、あれで正解であったらしい。
ただ、そうは言っても、美濃守の周囲に悪影響を与えることには成功された。
「孫九郎殿の件、間違いなく効果はございました。あれで国衆は新左衛門を幾分買ったようにございます。それに美濃守様にも、幾分警戒を抱かせました」
治部太夫は少しだけ、その端正な顔を歪ませた。
「孫九郎には慣れぬことをさせた。あれは武辺者で終わりたくないらしく、このようなことにも取り組んでいる。まずは父の兵庫助に並ぶ武者になってくれるだけでもありがたいのだが」
その言葉は少し意外だった。
新左衛門は、福島家は今川でも扱いに困っている家だと見ていた。
甲斐で一万に近い兵を失った敗戦は、今川が勝ち続けるようになった今も語られている。福島の血を引く者が吉良へ養子に入ったこともある。
つまるところ、福島は汚名と家格の両方を持つ家であり、新参者の風下に捨て置かれていてもおかしくはない。
だが、治部太夫の口ぶりからは、若い福島当主を疎んじているようには聞こえなかった。
むしろ先を待っているようだった。
「して、美濃守殿は革手城に攻めかかるか」
考え込んでいると、治部太夫が不意に問うた。
新左衛門は、突然のことで口を結んだ。肩が硬くなり、身を竦めるような形に成った。
明確な回答はなかったが、治部太夫はそれで足りたらしい。軽く頷くとまた別の問いを放った。
「そこもとはどういたす。戻るか、こちらに来るか」
「なにを仰せられる」
咄嗟にそれだけ絞り出したが、治部太夫は黙った。
同じことを二度言うつもりはないらしい。
新左衛門は鼻へ手をやった。押し戻した骨のあたりは、触れただけで痛んだ。
痛みが思考を明瞭にし、常の新左衛門を少しだけ取り戻させた。
「戻りたくとも、戻れますまい」
「では今川に来られよ。出仕は全て終わった後でよい」
もう決まったことのような言い方だった。
強引である。
それなのに、新左衛門は肩から力が抜けるのを感じた。
美濃守の前では、何か言う前に相手の顔色を量った。近ごろは藤左衛門に対しても、そういうところがあった。
この男には、それが要らないように思えた。
もし、この男に仕えれば、先のような苦労はないのだろう。そう考えてしまった。
ゆえに、言葉を挟んだ。
「しばらく」
「許す。申せ」
すぐに返事が来た。やはり、治部太夫に不快に思った様子もない。護衛らも当然のこととして構えてすらいた。
新左衛門は襟を直した。
「美濃守様をお支え頂くわけにはいきませぬか」
「いかぬ」
火鉢の炭が割れた。
「理由はなんでしょうか。土岐の御血筋にございます。これを立てるように幕府や朝倉様に命じられた、そのように伺っております」
「美濃守殿を支えろと言われたわけではない」
「道を借りるにあたり、美濃守様のお力は必要にございましょう」
「借りるのであれば要る」
新左衛門は黙った。はっきりと言わなかったが、それでも理解した。
自分の見立て通り、今川は美濃を通るためだけに来るのではない。
また唾の嚥下をすると、今度は治部太夫が口を開いた。
「逆に問うても良いか」
「何なりと」
治部太夫は、かたじけないというように軽く目礼した。
「長井藤左衛門と美濃守殿の元に留まるのはなぜか」
新左衛門はまた、無意識のうちに鼻に触れていた。
腫れたところへ指が当たり、気味の悪い柔らかさを感じて手を下ろした。
「無論、忠義や恩にございましょう」
自分で言っても寒々しい言葉だった。
「左様か。であればなぜ腹を切らなんだ」
新左衛門は目を見開いた。
「見ておられたので」
「まさか。だが、新九郎殿ばかりを美濃の伝手にはできまい」
もっともな話だった。
新九郎一人を頼りに、今川が兵を入れるはずはない。治部太夫が仮にそのような男であれば、新九郎は通じようともしなかっただろう。
おそらく、すでに通じている国衆が他にもいる。そして、それは新左衛門に銭を返しに来た者だけではない。
また、京や近江から来た牢人の中にも、今川と繋がる者がいるのだろう。でなければ、あんなにまとまった数の牢人衆がぽんと現れたりはしない。
こちらの思考をよそに、治部太夫は淡々と言葉を紡いだ。
「腹を斬れば、国衆は美濃守殿を見限ったかもしれない。稲葉や安藤などは、まずそうなった。陣を離れる者も増え、城攻めではなく和睦を、という運びもなくはなかった」
新左衛門の頭に、稲葉と安藤の家が浮かんだ。
両家とも美濃守に心酔したような素振りはない。律儀な方ではあるが、美濃守が危うさを見せれば距離を取ったかもしれない。
だが、それはあくまで予測に過ぎない。兵力差と美濃守の気質を考えれば、か細い道に思えた。
「それは詭弁でございましょう。美濃守様は城攻めをなさりました。たとえ腹を斬ろうとも変わりませぬ」
「ゆえ、見限った。そういうことか」
ぴしゃりと言われた。
「それは、」
新左衛門は言葉に詰まった。
そうなのだろうか。
腹を切らなかった。そこまでするほどの忠義、恩がなかったことは確かである。
では、陣を出たとき、すでに美濃守を見限っていたのか。
「見限った。いけませぬか」
沈黙の中、新九郎が口を挟んだ。
膝も進めず、先ほどから座っていた場所で言った。
「いや、ままになされよ」
治部太夫はあっさり答えた。
「新左衛門殿が、今川に来られぬ理由を知りたいだけのこと。忠義でないならば、話し合う余地はあろう」
「忠義では話し合わぬのですか」
新九郎が問うと、治部太夫は初めて口角を上げた。
「治部には心など動かせまいよ」
それだけ言って、また新左衛門に冷たい目を戻した。
「して、なぜ来られぬ」
新左衛門はやはり答えに詰まった。
土岐家は、もう行き詰まっている。今川を前に兄弟争いなどしている時点でだめだった。
それに義理を立てようにも、美濃守には要らぬと言われた。藤左衛門も、新左衛門を庇った理由を、国衆への縁があるからとしか言わなかった。
かと言って治部太夫へ斬りかかるつもりなど、毛頭ない。
土岐に殉ずる気もなく、今川に歯向かうつもりもない。だが、それでもなお勧誘に頷けない。
その理由は、今なお頭の中に形に成らない。
いま今川へ移れば、悪い扱いは受けないだろうとも思う。当主自身が夜中に福光まで来ている。
それだけでも、身に余る話だった。
そこまでわかっていて、頭が下げられないのだ。
治部太夫が、じっと、新左衛門を見ていた。
だが、やがて小さく頷いた。
「なるほど、今川の下では大きくなれぬか」
その言葉が、不意に胸へ、すとん、と落ちた。
「無理もない。窮屈であろう」
そう言うと、治部太夫は立ち上がった。
裾を直し、新九郎へ目礼すると、そのまま出口へ向かった。四人の供も音もなく立ち上がり、そのあとに続く。
「治部様」
新左衛門は思わず呼びかけた。
足利一門、五か国の太守に対して、あまりに無礼な呼びかけである。
だが、治部太夫は足を止めた。
振り返った眼を見て、新左衛門はまた口をつぐんだ。
鼻の奥が疼いた。
治部太夫は小さく笑った。年相応の柔らかな笑みである。
「新左衛門殿、野心に折り目が付いたら参られよ。今川は窮屈ではあるが、思うより狭くはない。法度の範囲であれば、好きに大きくなられるとよい」
治部太夫は、言い終わると笑みを消した。そうして、今度は振り返らずに出て行った。
供の者の足音も、ほどなく廊下の向こうへ消えた。
新左衛門は座ったまま、袴の膝を握っていた。




