7章_4
駿府館の奥の一室に、北川殿は床を延べていた。
夜具が畳二枚ほどを占め、枕元には火鉢が置かれている。その上で、薬湯を入れた土瓶が細い湯気を立てていた。根や皮を煎じたものらしく、部屋には苦い匂いがこもっている。
医者は朝夕に来て、容態を見ながら薬の加減を変えるという。土瓶の脇には椀が伏せてあり、内側に飲み残した薬が薄く輪になって乾いていた。
五郎は、その祖母の斜め前に座っていた。
那古野を出て四日になる。三河で一泊し、あとは宿と寺に泊まりながら東海道を来た。最後の日は雨になり、長く馬に乗っていたため、笠の紐が食い込んだ首筋がまだひりついている。
そして、祖母を挟んで向かい側に朝姫が龍王丸を抱いており、その隣には母である寿桂尼がいた。
他には誰もない。
北川殿が体調を崩したという報せは、かなり前から五郎に届いていた。しかし床を離れられぬほど悪いと知ったのは、十日ほど前のことである。
北川殿は気丈な人であり、世が世ならば女大名と呼ばれたかもしれない。実際、夫を亡くしたあとは息子の家督争いを支え、その息子が倒れてからも、今川家が崩れぬように家中をまとめた。
ただ、五郎が妻を迎え、子を得ると、養育のこと以外でもう表へ出るつもりはないと言っていた。
北川殿は化粧料として預けられた郷が、駿河に二つあり、そこからの上りで京の友人や、方々に置かれた孫らに文やらを送るだけの日々を送っていた。
そのように名実ともに隠居の身であるが、北条との縁をつなぎ、京にも多くの知己を持つ。今川の当主として、北川殿を見舞わずに済ませるわけにはいかなかった。
もっとも、この時期に五郎が駿府へ戻ることには、別の都合もあった。
言わずとも知れた美濃の一件である。
福島孫九郎を美濃守任官の祝いへ遣ってから、およそ二十日になる。承菊にあれこれ吹き込まれて出て行った童が、那古野に戻ってからほどなく、土岐美濃守頼芸は兵を挙げた。
この発端になったのは、兄の修理大夫頼武から届いた詰問の文だったという。
修理大夫は文で、弟にこう書き連ねた。
美濃守護である自分を差し置いて、美濃守を名乗るとは何事か。朝倉殿の手前、和睦こそ受け入れたが、美濃守などという任官まで認めた覚えはない。
守護簒奪の意図がないならば、すぐに出向いて申し開きをせよ、というのである。
それに対しての弟、美濃守の返答はこうであったらしい。
今川の上洛を妨げ、幕府に背く修理大夫は、もはや美濃守護とは言えない。すみやかにその座を退き、美濃の静謐を自分に委ねるべし。
その文が届くより早く、美濃守は自分を奉じる国人を集めた。五郎が送った銭と米で兵を増やし、そのまま修理大夫の勢力圏へと進んでいる。
これまでに落とした城は五つ。そのうち三つは戦わずに開門したという。城主には美濃守の名で本領安堵の書付が出され、その写しはすでに今川の手にも来ていた。
初めのころ、美濃守は今川の介入を気にしていた素振りがあった。兵を進めるのを躊躇ったり、これは幕府に背く者を討つ戦であるという文を方々へ送ったりした。
五郎は何も言わなかった。文も返さず、そのまま祖母の見舞いとして駿府へ向かった。
そして、このことが伝わると、美濃守の方でも次第に今川の顔色を窺わなくなり、いまでは普通の国取りのように攻め進んでいた。
無論、東美濃の遠山には、すでに人を入れてあった。
東からの道は狭く、荷駄には向かない。しかし通り抜ければ守護方の背後へ出る。
もう一つは尾張から北へ入る道で、こちらには大軍を動かすに足る。那古野に城を作る陰、大普請の動きに隠れ、川筋の寺社、国人らに少しずつ米や銭を受け取らせている。
ただ、行け、と命じるだけで、兵がなだれ込める形は整っていた。
もはや兄が勝とうが、弟が勝とうが、どうでも良いことでもある。
「いかがしました。怖い顔をして。また悪いことですか」
ふと寝転がった北川殿が言葉と共に、鋭い視線を投げかけた。
「何もございませぬ。ただ年の瀬ゆえに冷えました」
五郎がそういうと、明らかに訝しんだ様子で目を細める。
「嘘ばかりうまくなりますね。空言がするりと出るようでは人としていけませぬよ。治部殿は龍王丸の手本とならねばなりませぬ」
北川殿は布団の中から呆れたように言った。声を聞くだけなら、病人とは思えなかった。
「手本も何もありますまい。龍王丸殿は、北川殿や母上と共に選んだ側役をこそ、手本といたしましょう」
「弟らを見なさい。どれだけ遠ざけても治部殿を見て、育ってしまいました。松寿丸も最近はそっ気のないものです」
松寿丸は最近とみに忙しいらしい。
自分の代官地だけでなく、五郎の直轄地を回り、麻や糸を増産していくにはどうするか、頭を抱えているらしい。
そのうちに、小県の国人などにも少し話を通していいかなど、朝比奈備中守や自分に相談を持ち掛けるあたり、視座も広くなっている。
あとは生来の人の好さ、育ちの良ささえ自覚できれば、今少し大きなこともできるかもしれない。とは松寿丸の目付の言葉である。
ただ、仕事の面白さ故、母や祖母への文が減っているのは、なるほど愛想がない。
目の前の面白さを優先するのは、きっと下の弟の影響だろう。
五郎は、少々誤魔化しを含ませながら言った。
「あれは芳菊丸に影響されたのでしょう。最近は文のやりとりをしておられる」
「その芳菊丸は、治部殿の色が強く出ておりましょう。結果的にみなあなたの真似に他なりませぬ」
朝姫が腕の中の龍王丸を持ち替えた。龍王丸は起きているらしいが、声一つ立てない。
そちらをちらりと見てから、五郎は眉を上げた。
「宿老らの中には、伊勢の血というものも居るようですが」
「それが強く出たならば、今少し人の目を気にしましょう。伊勢は政所。人の縁を繋ぐのであり、それで操るのではございませぬ」
五郎の思うところ、政所である伊勢家が清廉であるはずがない。
伊勢家は八代、九代将軍の養父になり、応仁の乱においても存在感を示した。伏魔殿たる御所において、それを成したのは至誠ゆえにではない。
我が祖母は年を取って、少し呆けたのではないか。
そう考えながら、五郎は曖昧に頷いた。
火鉢の中で炭が崩れた。
「祖母は呆けてなど居りませぬ」
見透かされたので、また曖昧に頷いた。
「左様ですか」
北川殿は分かってないとばかりに、きっ、とこちらを睨む。
「伊勢はよく尽くした。そう言い切れる余地を、常に残しておりました。奸臣だ、佞臣だと後ろ指を指されながらも、見ようによっては忠臣。そう言える余地をこそ保ちました。治部殿はその余地すら不要に思われている」
北川殿の強くなった語気に、寿桂尼が間へ入って、土瓶に手を伸ばした。
「北川殿、どうかそのあたりで。お体に障りましょう」
そのとき北川殿が、布団の中から身を起こした。病人とは思えぬほど矍鑠とした動きだった。
その動きのまま、北川殿は起き直ると、五郎の顔をじっと覗き込んだ。
「以前、息子が申したことを覚えていますか」
先ほどまでと、北川殿は様子が違った。
五郎は、静かに言葉を探した。
「今川、百年、二百年の、」
「違いまする。もっと前、あなたが龍王丸という名であった時、遠江に送られたときです。何を学ぶように言われましたか」
父からは、いろいろなことを言われた。
だが、そのうちの一つだけは、いまも時折思い出す。至らぬがゆえに思い出さざるを得ない。
「世俗の泥にまみれ、生きて行けと」
「意味は分かりましたか」
そう問われたが、五郎は口を結んだ。
分かったとは言えなかった。
これまでやって来たことは、幼少のころと大して変わらない。少し離れたところから物を見て、こうした方がよいと思えば仕組みを作る。
妨げになるものを除き、使える意見は取り入れる。その繰り返しで国を広げて来た。
一方で父の言葉の意味は、およそ察してもいた。
人にはそれぞれ事情があり、一見愚かに見える振舞いにも、その人間なりの理由があるということだろう。
しかし、それを汲むことはできない。法度の内側に何十万という人間を置く以上、一人一人の事情を憂い、法度を変え、万人のためになる方法を考えることは出来ない。
ゆえに五郎は声を抑えた。
「ただ、我が身の不明を恥じ入るばかりにございます」
「別に恥じ入ることはございませぬ。それに今をもって理解できるとも思えませぬ」
酷い話である。
「不出来な孫ゆえ」
そう言って頭を下げたが、北川殿は答えない。ただ布団の縁を指で撫でるだけであった。
北川殿は、そのうちに溜め息をつき、中空をじっと見た。
「もはや出来の良しあしというより、傲慢と卑屈です」
「それは、」
どういう意味であろう。
五郎には、とんと見当がつかない。
「そう身構えることはありませぬ。朝姫殿もそう怖い顔をなさらず。説教など今際の際にするつもりなど毛頭なく」
北川殿は龍王丸へ目を向けた。
赤子は朝姫の腕の中から、黙って老婆を見返している。一声たりとも、愚図りもしない。
赤子の何が面白いのか、北川殿は口角を上げた。
「自分など愚物であると嘯きながら、賢人ぶって世を守ってやらねばと謳う。いい加減、どちらかにせねば成りませぬよ」
その二つならば答えは一つである。
「愚物など当主になるべきではないでしょう」
「己など、どうせ、どうせと世から身を引いても、世からは逃げられるはずもなし」
五郎は口を固く結んだ。
すると北川殿が、からからと笑い出した。
祖母が童女のように笑うのを、五郎は初めて聞いた。だが、こちらが祖母の地だと、不思議と理解できた。
「今際の際になり、ようやく孫殿の腹の底が見えるようになってきた気がします」
「浅い腹にございますれば」
「こうなれば、その謙遜も可愛いもの」
笑い終えると、北川殿はまた布団へ身体を戻した。寿桂尼が背中へ手を添えた。
「治部殿、見舞いは不要にございます。今更、情の深い真似などせず、曾孫と嫁殿を置いて、気を付けて帰りなさい」
そう言うと、北川殿は五郎についと背を向けた。
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五郎が部屋を出て行くと、北川殿は長く息を吐いた。
胸の奥が引き攣れた。
近ごろは深く息を吸おうとしても、途中で止まる。その先へ入れようとすると胸が痛んだ。
目もかなり衰えている。遠くは白くかすみ、さきほども孫の顔は輪郭ぐらいしか見えていなかった。声を聞けば誰か分かるので、不自由を口にしたことはない。
気づくには遅過ぎたし、いまさら言っても詮のないことではあった。
それになにより、最早隠居が出しゃばる必要もなかった。今川を取り巻く問題は、あの孫が蹴とばしていっている。
ただ一方で、その孫本人こそが最後の悩み事でもあった。
あの孫には胆力も知恵もある。
だが、それだけのものを持ちながら、本人だけがそれを大したものと思っていない。
だから、躊躇わずに己の命を雑に使えるのであろう。
自分を大した人間ではないと思っているゆえ、人から理解されることなど初めから諦めている。
だが、それでいて世の中を不合理と見なし手を入れようとする。
あの冷たさは、そのような矛盾から来るのかもしれなかった。
「朝姫殿、寿桂尼殿、あれは悪人ではあるが、性根は悪くない。見捨てずにお頼み申す」
北川殿は二人の手を取った。
自分の手はすっかり痩せている。そのせいか、握った朝姫の手の温かさがよく分かった。
「そのようなことを申されず。今川家は北川殿を頼りにしておりまする」
朝姫が目に涙を湛えながら、自分の手を抱えた。
若いころの自分を少し思わせる娘である。まだ世馴れてはいないが、肝は据わっている。
あの孫にはもったいないほどの嫁である。
寿桂尼も手を重ねた。
「何も心配はございませぬ。最後まであの子を支えまする」
公家から来た姫なので、初めのころは頼りなく思ったこともある。しかし芯の強い女だった。
あの孫をどう扱えばよいか、いまも迷っているところはあるらしい。それでも家中の者に、決して鬼子などとは呼ばせなかった。
そのことだけでも、器量は自分を上回ると見ていた。
最期に龍王丸の手を取った。
まだ小さな手だった。だが、指は握り込まれており、そこへ北川殿が指を入れると、しっかりと掴んだ。
やはり、この子には、何か変わったところがある。
贔屓目かもしれないが、知恵と意思が見て取れる。
北川殿はこれまでにも多くの赤子を見て来た。才人、凡人、うつけ、と多様な赤子を間近で見た。
その目から見ても、妙な子である。人が話していると黙って顔を向け、書物を読み聞かせれば、ふと理解しているような気配すらある。
芳菊丸に感じた、目に見えて分かる才気とは違う。
かといって、治部太夫に幼いころ感じた、妙なうすら寒さとも違った。
まだ北川殿にも、その違いが何なのか言葉にできない。
「若君、今川家をお任せいたす。どうかお健やかに育ちあれ」
龍王丸は北川殿を見て、ゆっくり瞬きをした。
朝姫が微かに笑った。
「北川殿、赤子にございまする。まだ海の物とも山の物とも、」
「これでも赤子は嫌というほど見ておりまする。生まれた時には多少わかるものです。のう、寿桂尼殿」
寿桂尼は困ったように眉を寄せた。
治部太夫は、最初の方こそ、全く手のかからぬ子だった。癇癪も夜泣きもしない。子育てはこんなにも楽なのかと、肩透かしだったとも聞く。
だが、成長するにつれて、化けの皮が剥がれた。剥がれた先には、軍神だの悪鬼だのと呼ばれる男がいた。
朝姫が柔らかく龍王丸を抱き寄せた。
龍王丸は少し迷惑そうな顔をした。
「我が子にございまする。龍の子は龍。それだけでございましょう」
北川殿は頬を緩め頷いた。なるほど、大した嫁である。甥御は相当に、この子を躾けてあるらしい。
子供を馬鹿に育てるには、麒麟児だ、龍だと囃すのが一番早い、等という一言は止めておこうと決めた。
「お許しあれ、鬼婆ゆえ幼き子を見ると稚気がもたげるのです」
そう言って顎をしゃくると、寿桂尼がすぐに察した。
寿桂尼は龍王丸に目線を合わせると、穏やかな声色で言う。
「今のうちに治部殿と三人でお過ごしてはいかがでしょうか。あの子はしばらく、尾張で朝姫殿も動けぬのでしょう」
朝姫が目を見開き、顔に喜色を浮かべた。しかし、すぐに表情を引き締めた。
そこで北川殿が背を押した。
「私に遠慮はいりませぬ。今際の際などと申しましたが、まだ生きましょう」
その言葉で朝姫はようやく立ち上がり、龍王丸を抱いて部屋を出て行った。
襖が閉じる間際、龍王丸と目が合った。
治部によく似た、整った切れ長の目である。ただ、その眼差しには冷たさがなかった。微かな慮りに似た色味が見えた。
その瞳が何なのか、考えている内に襖が閉まった。衣ずれの音が足早に遠ざかっていく。
障子の向こうは、もうかなり暗くなっている。
北川殿は口火を切った。
「京、霧姫のことですが」
寿桂尼の背筋が伸びた。
霧姫を関東の戦の折に京へ帰したのは、他でもないこの寿桂尼だった。
霧姫付きの女たちに、上杉勢が迫っているので京へ戻った方がよいのではないか。
寿桂尼はそう勧めさせ、銭を渡し、船を用意させた。霧姫の側付きは京から連れて来た女ばかりであり、帰京となれば自分たちも戻れる。
当主の母からそう言われた彼女らは一様に喜んだという。
そして、折よく、正親町三条の先代が病床にあるという話もあった。
その後、どういうやり取りが霧姫と側付きの間であったかは分からない。
ただ、寿桂尼が吹き込んでから、数日経ち、霧姫は帰ることを選んだ。それが全てだった。
北川殿の見るところ、寿桂尼は、むしろ霧姫を五郎の正室にと望んでいた節があった。
ゆえに試した。今はそう見ていた。
これは関東から大軍が来ようというときに残るか、京へ帰るか、という簡単な試しではない。
五か国の太守の正室として、今川を京よりも慮ることができるか、という試しであったのだろう。
その試しの結果、霧姫は京に帰った。
その後、治部太夫は周囲の勧めもあって朝姫を迎え、間もなく子も生まれた。
黙りこくった寿桂尼に対して、北川殿はそのまま尋ねた。
「どうやら、正親町三条の当主殿は、姫君を再び下向させん、と考えておるそうですが。受け入れるのですか」
寿桂尼が目を閉じた。
「下向されるのであれば、受け入れまする。ですが、どうにも霧姫殿が頷かぬと」
「今川はもう懲り懲りで、あちらで良き人を見つけられたのですか」
そうであればよいと思ったが、寿桂尼は首を振った。
「そちらも霧姫殿は気が進まぬそうです。費えの話もありますし、正親町三条の方でも手を止めておられると」
「治部殿は霧姫の婚儀となれば、多少は気を使いましょう。相手の家にも粗略には扱いますまい」
北川殿は以前、治部に霧姫を嫁に取る気はあるのか、と聞いたことはある。しかし、あの聞き方はよくなかったといまは思う。
家のためだから霧姫と結べ、と命じていれば、治部は今頃霧姫を側においていただろう。おそらくだが、霧姫もそれを望んでいた。
「京の家々も、この騒乱にございます。どの家も婚姻には腰が重いようです。いざという時頼れる家をと、公武の境なしに探しておられるようです」
「そういう話ならば、公家の若君らにとり、霧姫は悪い相手ではないでしょう」
北川殿にとっても曾孫にあたる娘である。縁を求める家がないはずはなかった。
「当の本人が、滅多に外に出ていかなくなったと。それで見初めるという話もなく、まれに舞い込む話も断っているようで」
寿桂尼は暗い顔でそう言った。
北川殿は小さく息を吐いた。
「あなたのせいではありませぬ。今川から離れたのは霧姫が選んだこと。霧姫が未練たらしいのは、治部殿が甘やかした故。あなたは五か国の当主の室としての強さを持つか、試しただけでしょう」
年頃の娘に対して、治部のあの態度は良くなかった。最後の方など、霧姫は何を言っても良いと勘違いしていた。
だが、寿桂尼はそうは思わないらしい。
「揺らした以上は私の責にございます」
そう言って、半眼で畳の縁に視線を落とした。
北川殿はしばらく寿桂尼を見ていた。
化粧料の二郷は、いまでは館の帳に載っている。土地そのものを動かすことは出来ないが、そこから入る物をどこへ回すかなら、まだ北川殿の言葉が通る。
通るうちに、しておくべきことはしておいた方がよかった。
北川殿は小さく鼻を鳴らし、寿桂尼の顔を上げさせた。
「寺に入るにせよ、嫁に行くにせよ、私の化粧料を霧姫に幾分譲りなさい」
そうなれば多少は前も向くだろう。
「よろしいのでしょうか」
治部は今川の財を自分の許しなく、動くことを許さない。そこは祖母であろうが、母であろうが、決して曲げないだろう。
しかし、散々に迷惑をかけた祖母の最期の願い位は聞くはずだ。
「後は死化粧ぐらいなものです。必要な子が持っていきなさい」
寿桂尼は黙って頭を下げた。




