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7章_3

 福光の館の一角で、宴が張られていた。


 土岐二郎頼芸の美濃守任官を祝う宴である。

 美濃守は国の名を負う官途だが、守護職とは別のもので、任ぜられたからといって国の裁きが動くわけでも、年貢が入るわけでもない。


 だが、朝廷が美濃を治める者として認めた。そう示すことは出来る。当然、文の宛名も変わるため、国人に書付を出すとき、暗に圧をかけ、その心を寄せるのも容易になる。


 館の広間は襖を三方外し、二の間まで通してあった。膳が四十ほど並び、干した鮎、山鳥の焼物、煮豆などが盛られている。膳は去年の秋に寺から借りた物で、数が足りないため、下座には板を渡しただけのところもあった。

 また、燈台を六つ立て、間に人を置いて油を注がせている。日はまだ落ち切っていなかったが、広間の奥はもう薄暗かった。


 酒だけは、この宴で一等よい物だった。


 二郎、改め美濃守は上座にいた。脇息は置かせず、扇を膝の横へ置いて坐っている。

 そこへ若い武士が進み出て、頭を下げた。


 稲葉彦六郎である。僧籍から戻り、十一で家督を継いだばかりだった。


「美濃守様この度はおめでとうございまする」


「彦六郎、そちも参ったか」


「無論にございまする」


「そちの父も兄もよう仕えてくれた、稲葉の武勇、今一度頼らせてもらうことになろうな」


 彦六郎の眉が上がり、顔が硬くなった。


「それはやはり、とうとう前に出られるということにございましょうか」


 二郎は扇を取り、顔の前へかざした。


「そちはどう思う。今出ると言えば、一番槍を任せる。そう申せば、どうする」


 彦六郎は口を閉じた。目が左右へ動き、膝の上の手が袴を掴んだ。

 美濃守は扇の陰で、口をわずかにゆがめた。


 煮え切らぬ男だ、と唇をかんだ。


 美濃守は顔を戻すと、扇を取り払った。


「馬鹿者、冗談に決まっておろう。この度の美濃守は美濃に静謐をもたらさんがためのもの。それに宴の席でつまらぬことは聞かぬ」


「左様でございますか」


 彦六郎は、安堵した様子で肩から力を抜いた。

 この小僧の顔はもう見たくなかった。

 

 美濃守は大仰に笑うと、扇の先で宴席の一角を指した。


「そちも多少は、冗談を返せるようにならんか。下がってよい。河合や安藤らと顔をつないでおくとよいぞ」


 彦六郎はすっと頭を下げて退いた。座へ戻ってからも、まだ袴を掴んでいた。


 この童の父と兄は先の戦で亡くなっている。だが、稲葉家は依然として周囲に存在感を示しており、十一になる当主と軽く見ることはできない。美濃においては、間違いなく兵を出せる家であり、美濃守を支える家でもあった。


 美濃守は彦六郎が人の間へ紛れるまで見送った。それを見計らい、長井藤左衛門長弘がすっと横に座った。


「危ういことにございます」


 酔いの覚めるような低い声で言った。美濃守の斜め下に坐り、いつにも増して陰鬱な顔をしている。


「稲葉の者が寝返り、修理大夫になんぞ言い付ける。そう思うてか」


「そうは申しませぬが、彦六郎はまだ童にございまする。ご采配の内を預けるには足りますまい」


 気に入らない言い草だが、もっともだった。


 美濃守は酒をあおった。

 今川からの銭で用意した酒である。口当りがよく、すっと腹へ落ちる。富士の名水を使い、宮中でも飲まれる酒だという。

 美濃の酒は濁っているか、澄んでいても喉に何か残った。この酒にはそれがない。それだけに量がいく。


 盃を干した後、美濃守は声を潜めて言った。


「して、どれだけ来た」


「新左衛門の申すところ、南と東の国人らの内、大きなところは集まっておるかと」


「遠山はどうした」


 東美濃の国人である。今川の手が入っていれば、今後の対応が変わると言われた家でもあった。美濃守が人をやり、文をやり取りした範囲では今川に積極的に寄る動きはない。


「遠山は姿を見せておりませぬ。ただ詫びの品と、祝いの文を送ってまいりました」


 遠山から届いたのは太刀一振りと炭二十俵だった。太刀は拵えが古く、家に伝わった物らしい。炭はあの土地で出る一等物である。

 品に不足はない。それだけの物を寄越して、当人は来ない。


 美濃守は扇を広げ、口を隠して唇を噛んだ。

 藤左衛門が一層低い声で言った。


「修理大夫様も、遠山の動向には目を向けておりまする。国境で、今川とも近い。それを思えば、中々に公の場には顔を出せませぬ。この一件で、敵と見るは危うき事かと」


「わかっておる」


 美濃守は扇を畳み、手酌で酒を注ぎ、盃を傾けた。


 二の間では河合と安東が並び、盃をやり取りしている。二人を隣り合わせにしたのも長井新左衛門あたりの差配なのだろう。どのような話をつけたのか、美濃守は聞いていない。


 現にその向こう側に新左衛門が見えるが、その姿が訝しい。自分の周囲を、名の知れた大身の国人らで囲い、膝を崩して話している。時折こちらを見ては、また話へ戻った。


 新左衛門の前にいる者たちは、みな少し身を乗り出していた。あのしゃがれ声の何が楽しいのか分からないが、興味深げに頷いている。

 

 気に入らぬことである。そう思い、また盃を干すと、やがて、宴席の外が騒がしくなった。


「失礼を」


 藤左衛門が音もなく立ち、足早に部屋を出て行った。

 出口まで行く間にも、幾人もの国人が藤左衛門を呼び止めた。そのたびに一言二言応じて進む。呼び止める側の方が、いちいち腰を浮かせている。


 やはり、これでは長井の酒宴のようではないかと、美濃守は鼻を鳴らした。

 その腹立ちのまま、手酌で盃になみなみと酒を注いで、一息に飲んだ。


 酒はするりと腹へ落ち、あとにかすかな甘味が残った。今川の領内には、このような物がいくらでもあるのだろうか。

 そう考えると、また益々面白くなくなった。


 治部の小僧め。なにが軍神か。すぐに高転びであろう。


 また酒へ手を伸ばしたところへ、藤左衛門が泡を食った顔で戻って来た。宴席の端にいた新左衛門も、怪訝そうにそちらを見ている。


 藤左衛門は美濃守の側まで来ると、耳打ちした。


「今川家の使者殿がいらっしゃっておりまする」


「だれじゃ」


「福島の当主でございまする」


 福島と聞いても、すぐには誰のことか浮かばなかった。

 しばらくして、美濃守はある事柄に思い至った。


「甲斐で負けた男か」


 確か一万を超える兵を率いていたが、半数以下の先代の甲斐守護、武田何某に打倒された。あの小癪な治部太夫の引き立て役として、時たま名の上がる男であった。


「美濃守様。それはいけませぬぞ。それに此度の使者は、その福島兵庫助殿にありませぬ。その男の子供にございます」


 美濃守は扇をかざした。子供と聞くと、少し興がそがれた。

 それを察してか、藤左衛門は言い縋る。


「子供と言えど、家格は庵原、朝比奈、三浦と変わりございませぬ。これは吉良に養子に行った子が、福島の血をひく者であったこと、お忘れでありましょうか」


「家格な。大層な話だが、福島とやらが土岐に対して上に出れるものではあるまい」


 藤左衛門は少し鼻白んだが、それでも顔をずいと近づけた。


「聞いた話ではございますが、相当、治部様に見込まれておられるらしく。駿府の館で御舎弟らと共に育てられたとか」


 つまるところ、粗略には扱えない相手ということだった。

 追い返せば、そのことは尾張の治部にまで届く。何をするか分からない男を、いま怒らせる理由はない。


 美濃守は扇をたたんだ。


「しつこい。会わぬとは言っておらぬ。早う連れて参れ」


 美濃守が言うと、藤左衛門は入口に控えていた小姓へ頷いた。

 小姓はすぐに部屋を出て、しばらくして使者の一行を連れて来た。


 供は六人で、そのうち二人が荷を担いでいた。荷は入口で下ろし、そのまま置いてある。まず中身を見せて機嫌を取ろうという使い方ではないらしい。


 先頭に立っているのは年若い童だった。稲葉彦六郎とそう違わぬ年に見えたが、肉付きがよいため幾分年上にも見える。着ている物は、この座の誰より地味だった。


 童は大勢の視線を受けても怯む様子を見せず、美濃守の前まで来て腰を据えた。


「お初にお目にかかります。福島孫九郎にございまする」


 よく通る声だった。所作にも乱れがない。いっそ、家中の手本にしたいほどである。


「この度は美濃守への任官をおめでとうございまする」


 美濃守は口元を扇で隠し、側の藤左衛門を見た。

 藤左衛門は、今川の使者に相対し、わずかに喉を上下させた。


「美濃守様も今川家の骨折りに感謝されておりまする」


 孫九郎が眉を上げた。美濃守自身の口から出た礼でなかったことが、気になったのかもしれない。だがすぐに元の顔に戻った。


「今川家は、なにもしてはおりませぬ。ただ美濃の静謐を願っているという話を、都の公家様方が耳にし、このような仕儀になったまでにございまする」


「されど、何をするにしても、お心配りをいただいておりまする」


「いえ、この後、道をお借りするうえで当然のことなれば」


 はきはきとした物言いだった。小気味の良い口調も悪くない。

 藤左衛門が言ったように、今川の当主に見込まれているという話も、あながち大袈裟ではなさそうだった。


 広間でも、膳へ手を伸ばす者が目に見えて減っていた。皆、覗き見るように孫九郎に目をやっている。


 美濃守は、音を立て扇を畳んだ。この童こそが、前に出る好機と見えた。


「孫九郎殿。少し話しても良いかな」


 急な直言に藤左衛門が唖然とした顔をした。美濃守は止めるなという目を向けた。


「無論にございまする、美濃守様。主君、治部太夫より尋ねられたことは答えよと申し付けられておりまする」


 孫九郎は屈託のない顔をした。藤左衛門と美濃守のやり取りに、気を払ったところもない。

 体は大きいが、やはり子供である。


「左様か。では一つ聞くが、治部殿は兄上をどう思われておるのであろうか」


 広間から潮がひくように音が消えた。


 美濃守はかまわずに続けた。


「世間では、朝倉殿の力なくば立つこともできぬ、などと噂されることもあるが、裏を返せばそれだけ、他家の心を掴んでいる証左でもある。これをどう見るべきか、どうにも自信がない。弟から見ると、どうにも兄としか見れぬゆえ、今に時めく治部殿の所見をお伺いしたく」


 藤左衛門が、ただでさえ陰鬱な顔をさらに顰めた。口を開閉させ、問答を打ち切る糸口を探ろうとしているようだった。

 だが、それよりも先に孫九郎の言葉が出た。


「某の如き若輩には、御屋形様の御心は測りかねまする。されど、」


 孫九郎はそこで目を見開いた。


「大国の当主として、幕府への奉公が十分であるか、そのことを度々幕府の使者殿に責問されておりました」


「治部殿に幕府の使者が、か」


「左様にございまする。朝倉殿と修理大夫様が通れる、そう仰せになった道が通れぬ。そうお伝えしたところ、使者殿は、ならば今川勢で押し通れと、治部の背を度々押されておりました」


 座のあちこちで息を呑む気配がした。

 美濃守にも初耳だった。当初の意図も忘れ、ただ続きを求めた。


「して、治部殿はなんと答えられた」


 誰かが盃を膳へ置いた。小さな音だったが、静まった座にはよく聞こえた。


「美濃の静謐を乱すような真似はできぬ。国主たる修理大夫様にお任せするほかないと」


 孫九郎はそこで言葉を切った。

 少し困ったような顔になってから、また口を開いた。


「しかしながら、何度も道を塞がれ、公方様に奉仕できずにおりますれば、治部も最早庇い切れぬのではないか。朝倉様の手前遠慮したが、それも難しいのではないか、そう思うておりまする」


 言葉そのものは曖昧だった。だが、美濃守には意味が分かった。


 修理大夫に任せていて道が開かぬなら、今川が兵を入れることになる。あの火付けを好む今川の軍が美濃を練り歩く。そういう話である。

 美濃守は扇で口元を隠し、座を見渡した。


 年若い彦六郎は顔を青ざめさせている。河合と安藤は顔を見合わせ、揃って盃を置いた。下座では、膝を寄せて何か言い交わす者もいた。

 

 美濃守は扇の陰で笑った。


「いや、困った。治部殿が兄と仲良くやれているならば、仲立ちをとも思うておったが、何やらおかしな方向に行ってしまったな」


 孫九郎ははっとした顔になり、頭を下げた。


「申し訳ありませぬ。主君の御心を言葉にできず、妙な話ばかりしてしまい」


「いや、よいよい。若者をからかい過ぎたわ。少し酒が過ぎたかな。まあ、宴の席での話故、皆明日には忘れよう」


「そう仰せになられるのであれば、某もありがたく存じ上げまする」


 美濃守は目を細めた。

 宴席にいる者たちが、いま聞いた話を明日になって忘れるはずはない。


 膝の横の扇へ手をやると、要のあたりが汗で湿っていた。

 前に出るには、おそらく、あとひと月もあればよいだろう。


---


 算盤の玉を、長井新左衛門は右から左へ払った。


 新左衛門は宴の後、館内の自室にこもると、文机を二つ並べた。文机の一方には帳面を積み、もう一方には算盤と硯を置いてある。


 燈台は一つきりで、日のあるうちは使わない。障子は閉めてあった。開けておけば、庭を通る者から部屋の中が見える。


 隅には蓋をした櫃が三つ重ねてあった。古い帳を入れた櫃で、鍵は新左衛門が持っている。人には触らせない。惜しんでいるのではなく、置き場所を動かされると、どこに何があるか分からなくなるからだった。

 これは武士になる前からの拘りでもあった。命綱を握られるのはどうにも気分が落ち着かない。


 今、手元にあるのは貸付の帳である。誰に、いつ、幾ら貸したか。いつ返るはずで、いま幾ら残っているか。それを郷ごとに束ね、背に印を付けてある。


 そばには息子の新九郎規秀がいた。二十をいくつか越えたばかりだが、見るべきところはある。少なくとも、人とのつきあいは父親よりうまいであろう。


 ただ、賭けを好むところがあった。博奕が好きなのではない。見返りが大きいと見ると、危うさを承知で前へ出るのである。


 その困った出来息子が、ふと口を開いた。


「お悩みでございましょうか、父上」


「悩んでなどおらぬ。見ての通り、我が家に借銭をしていた家々が急に銭を返し始めた。潤っておるわ」


 返してきたのは六家である。いずれも南と東の家で、そのうち四家は、この秋まで利の払いさえ滞っていた。それが揃って元金まで持って来た。


 銭の出所は聞かないことにしている。ただ質のいい紐の通された銭は、どこからか渡されたものをそのまま流しているように思えた。

 大層羽振りの良い家とつながったのだろう。


 長井家の貸付は、もとは種籾や農具の銭から始まった。春に貸し、秋に米で返させる。返せない家には年貢の代納を引き受けた。代納をすれば、その郷の取れ高がこちらの帳に載る。それが分かれば、翌年どれほど貸せるかも分かった。


 そうしたことを積み重ねて来たため、長井は守護代より多くの郷に手を入れていた。銅臭がこびりついて取れない、などと揶揄されることもあるが、その銅臭こそが新左衛門を美濃でも有数の武士に押し上げている。


 新九郎が積んだ帳面の背を上から順に眺めた。


「二郎殿は美濃守に任官され、こちらは上向きですな」


「美濃守様とお呼びせぬか」


「これは失礼を。ですがお仕着せの着物に様付けなど、馬鹿らしくはございませぬか」


「新九郎、それを外で言ってはおらぬだろうな」


 睨みつけると新九郎は笑った。歯を見せずに笑うのが、この息子の癖だった。


「あり得ませぬ。父上の首が転がりましょう。もはや替えが利くと思われても致し方ありませぬ」


 新左衛門は筆を置いた。筆先に残った墨だけが、黒く光っていた。


「お仕着せに様付け、替えが利く男か」


「それは言うてはならぬことではございませぬので」


 また睨むと、新九郎は両手を挙げた。さも降参だという仕草である。


「お仕着せが気に入らぬのであれば、猿回しの猿でありましょう。まあ、その猿に振り回される者を何と呼ぶかは知りませぬが」


「新九郎、堪えられぬか」


「無論。堪えられませぬ」


 新九郎が笑みを引っ込めた。息子は笑ってはいたが、ふざけてはいなかった。


「左様か」


 ならば、もはや叱る気にはなれなかった。


 新九郎が口にしているのは、新左衛門自身が考えていたことでもある。ただ胸の内にあるものを声にされると、妙に形がはっきりした。


 新左衛門は中空を、ぼう、と見上げた。うす暗い闇が蝋燭の火で伸び縮みしている。


「美濃守様はどうなると思う」


「父上の思う通りになりましょう」


「申せ。承知であろう」


 新九郎の方で布切れの音がした。襟を正したのだろう。


「良くて傀儡。悪くて、いえ、まず打ち首にございましょう」


「面倒がるな、詳しく申せ」


 ふん、と新九郎が鼻を鳴らした。


「今川が、領地を欲しがっておらぬというのは見当違いにございます。上野で引いたるは越後長尾と北条と、旨味のない土地で争うを嫌った故。美濃をそれと同じにはできますまい」


「であろうな」


 美濃は旨い。京にほど近く、平野も広い。国人衆が好き勝手し、国主が頼りないため、今まではその力を引き出すことが叶わなかった。

 もし、強い国主により国人衆を統制し、川や道の整備、法度の強制を行えたならば、どこまで伸びるか見当もつかない。


 新九郎はなおも言った。


「今川は斯波親子を手際よく片したように、土岐兄弟も片しましょう。そして上洛のために致し方なかったと嘯いて、美濃の国主に滑り込むのが目に見えておりまする」


「斯波親子を討ったのは岩倉の織田家であろう」


「父上は酒が抜けておられぬようで」


「馬鹿者。それを口に出せば、今川に睨まれると言うておるのだ」 


 左様で、と新九郎はつぶやいた。

 実際のところ、新左衛門の見立ては、息子とほぼ同じである。


 今川は美濃を欲している。道だけでなく、その土地を食おうとしている。


 そうでなければ、二郎のために兵や銭を回し、美濃守などという官位まで斡旋する理由がない。


 形勢の悪い弟を押し上げ、その過程で兄の勢力を削る。最後には、兄弟の争いを収めるという名分でも立てるのであろう。


 兵を入れる道も、およそ見当がついた。信濃から遠山領を抜ける道と、尾張から北へ上がる道である。


 東の道は狭いが、通れば守護方の背へ回れる。西の道は広く、荷駄を入れやすい。二つを同時に動かされれば、迎える側は兵を割らねばならない。


 これらは新左衛門一人では、どうにもできないことだった。


 遠山とは、すでに気脈を通じている気配がある。また、北上する道筋の国人にも、銭を入れていることは、借銭の急な返済を見れば明らかである。


 新左衛門は、新九郎に振り返った。


「止められるか」


 新九郎は吐き捨てるように言った。


「美濃国の国主が、十万以上の軍を動員し、統制しきれるのであれば、可能でございます。無論、兄弟間での不和などはなく、右を向けと言えば、美濃中が右を向く、そのような武威を備えておられれば、ですが」


「今川の治部太夫様の如きか」


「でございましょうな」


 新左衛門は腕を組んだ。右肩が小さく鳴った。


 近ごろは帳を繰っていると、夕方には指が痺れる。細かい字も、灯を近づけなければ読みにくくなった。


 もし、今息子が言った懸念を、惣領の長井藤左衛門へ残らず話せばどうなるか。


 藤左衛門は、新左衛門より主君の信を、多少は得ている。

 自分が言うよりかは信じられるだろう。

 

 また、寺から出た自分の才を見出し、長井家へ入れたのもあの男だ。その後も、いまの地位を得るまで、陰になり日向になり庇ってくれた恩人である。

 こちらが大身になったため、近ごろは以前のように何でも話せる間柄ではなくなった。それでも、昨日今日の仲ではない。


 明日行くか。

 そう決めたところで、冷えた声がぶつけられた。


「お止め下さい」


「なにをだ」


「藤左衛門殿に相談など、意味がございませぬ」


「長井の者が惣領に何を言うか」


 新九郎は膝を進めず、そのまま父親を見た。


「長井の名に拘泥し、沈むか否かの瀬戸際にございましょう。それに父上は生まれてから長井であったわけでもございますまい。死ぬまで共にする必要もありませぬ」


「そなたは知らぬやもしれぬが、藤左衛門殿であれば必ず美濃守様をお止め頂ける」


 新九郎の目がきつくなった。


「藤左衛門殿では止められませぬ。それゆえに、ここまで二郎殿は前に出てしまい申した。藤左衛門殿は考えておる素振りだけで、内心では今川の力と、美濃守の名に夢を見ておられる」


 はっとした。急に喉が詰まり、言葉が出なくなった。

 だが、どうにかして言葉をひりだした。


「何を、何を申すか」


「そう思われたから、父上もここに至るまで、会談などを行われなかったのではないですか。実際、こちら側の腹は決まっておりましょう」


 淡々とした返しに新左衛門は返事が出来なかった。


 新九郎の言うことには、思い当たるところがあった。


 藤左衛門を信じているつもりでいながら、実際には何も話していない。話しても退けられることを予想していた。


 美濃守の陣営では、いま前へ出ようとする声のほうが強かった。宴席でも、上座に近い者ほど威勢のよいことを言う。慎重な口を利く者は、次第に遠ざけられている。


 藤左衛門が今なお、美濃守の側に居られるのは、内心ではその空気を歓迎し、勝負に出ることを望んでいるからだ。新左衛門はそう理解していた。


 だが、そうは言ってもまだ受け入れられない。


「あきらめたほうがよろしい」


「そうは思わん。手はある」


「ほう、どのような手でしょうか」


 新九郎の眉が上がった。

 新左衛門はとっさに頭をひねり、案を作った。


「修理大夫様に美濃守様へ一歩お譲りできぬか頼んでみるという手もある。根回しは何も、我ら側のみの話ではない」


 急に思いついた策だが悪くはない。


 兄の修理大夫が兵を挙げず、隠居して二郎へ家督を譲れば、今川は少なくとも兄弟争いを口実には出来なくなる。美濃に兵を入れさせず、この先も長井が伸びる余地が残る。


 だが、その急造の策を新九郎は笑った。


「修理大夫殿が、そんな奇手を打てる頭と度胸をお持ちの方ならば、二郎殿如きに国を追われますまい」


 新左衛門は、また言葉に詰まった。新九郎の言う通りである。

 喉を上下させ、つばを飲み込むと、新左衛門は深く息を吐いた。


「わかっておる。そなたの言う通りよ。わしが修理大夫様の元に向かったところで、斬られて終わりだ」


「いえ、その後に首をさらされましょう。それで仕舞にございます」


 新九郎はまた笑い声をあげる。軽い自嘲するような笑いだった。


「道がないな」


 新左衛門がそう言うと、新九郎は、ふと笑いを収めた。新九郎の目には力がある。蝋燭の灯りに照らされ、黒目がちの瞳が輝いていた。


「誠でしょうか」


「何が言いたい。そなたには良案があるのか」


「いえ、若輩者には何もございませぬ」


 ですが、と新九郎は続けた。


「ここぞで諦めるのは父上らしくありませぬ。今一度、手を考えてみるのも手かと」


「持って回った言い方をする」


 新左衛門は額へ手をやった。

 言わんとしていることは分かった。考えないわけがない。


 道は今川である。


 長井家としてではなく、長井新左衛門個人として今川に付く。その道がある。


 美濃の国人を調略しようという今川にとって、新左衛門の持つものは役に立つはずだった。どの郷に誰が住み、どの家とどの家が水を争い、どの寺がどの家と縁を持つか。それを帳にして持っている者は、そうはいない。


 今川が美濃へ手を入れ始めた今なら、なおさら高値を付けるだろう。


「気乗りしませぬか」


「さて、な」


 新左衛門は長井家には恩がある。


 寺から出た男を迎え、一端の武士にしてくれた。名を与え、屋敷を与え、郷を預けた。そのときの藤左衛門の骨折りには、今でも頭が上がらない。


 それから二十年、新左衛門は預かったものを増やし続けた。その結果が、いま部屋に積まれている帳だった。


 美濃も嫌いではない。広い平野に国人がひしめき、その間を銭と米と人が動いている。力を試すには、面白い土地だった。


 今川へ行けば、それを捨てることになる。

 無論、代わりに、もっと大きなものを得ることも出来るのだろう。


 だが、どうにも頷く気になれなかった。


「あまり時がございませぬぞ。二郎殿が攻め入ってしまえば、今川が口出しする形ができまする。そうなったとき、もはや我らの価値は半値に落ちましょう」


「わかっておる」


 新左衛門はまた黙り込んだ。


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