7章_2
美濃国、福光の館の広間に、男が二人座っていた。
土岐二郎頼芸が入って行くと、二人とも膝を正した。
上座に近いのは長井藤左衛門長弘である。美濃で勢力を持つ長井家の惣領で、いつ見ても気鬱そうな顔をしていた。目の下がたるみ、そこだけ色が濃い。
そのすぐ横に長井新左衛門がいる。もとは長井の生まれではない男である。それがいまでは、長井家だけでなく、美濃の方々で名を聞くようになっている。座る位置は下だが、膝が藤左衛門より一寸ほど前へ出ていた。
長井家は守護代の下にありながら、守護代より多くの郷を押さえている。年貢の取り立ても、道の関から上がる銭も、実のところこの家の手を離れては動かない。
二郎がこの館にいられるのも、長井がついているからである。
何事か二郎の側であると、呼びもしないのにこうして来る。ありがたいと思う時は確かにあるが、それ以上に面倒だと感じることの方が多い。
秋になり、二郎はすでに衣替えを済ませていた。狩衣の裾を払って上座へ腰を下ろすと、板の冷たさが膝に伝わった。
広間は南向きで、障子を三枚開けさせてある。庭の楓はまだ半分ほどしか色づいていない。隅では下人が二人、落葉を掻き集めていた。掻いた先から、また一枚落ちる。
火鉢はまだ出していない。出せば、この二人はもっと長居をする。
「藤左衛門、何用か」
二郎が言うと、礼節も何もなく藤左衛門が切り出した。
「二郎様。今川の商人と僧が参られたという話は、まことでございましょうか」
やはり耳が早い。二郎は少し気を悪くした。
来たのは三人だった。僧が一人、商人が二人。商人は尾張の者で、塩と鉄を扱っているという。この館へも以前から荷を入れている。
商人が出入りするだけなら、誰も怪しまないはずだが、長井の手の者が漏らしたらしい。
「確かに参った」
二郎は何でもないことのように言った。すると藤左衛門の陰鬱な目が鋭くなった。
「何を約され申した」
「何も約しておらぬ。ただ、話をして行っただけじゃ」
「何を話されたのでございましょう」
二郎は扇を上げ、口もとを隠した。そうでなければ歪んだ口元が見えただろう。
「何を、何をと急かすな。同じ公方様に古くから仕える家同士、話すことぐらいあろう」
藤左衛門は眉間へ指を当てた。指を置いたまま、しばらく離さない。
代わりに新左衛門が口を開いた。
「畏れながら、いまその古き名門同士で鎬を削っておりまする。会って話した。それだけでも御立場を危うくすることもございましょう」
しゃがれた声だった。石と石をこすり合わせたような、耳につく声である。
「新左衛門」
藤左衛門が、陰鬱な目を新左衛門に向け、ただ短く名を呼んだ。
すると新左衛門は、顔色一つ変えずに頭を下げた。
「惣領を越えての直言。僭越でございました」
無礼な男たちである。二郎は気に障ったとそっぽを向いたが、二人はそれで帰る素振りを見せない。つくづく腹立たしい。
とはいえ、今川の話は、いずれ聞かせる必要があるのも事実だった。日を改めて顔を突き合わせるよりも、今ここで話した方がずっと早く済む。
そう考え、二郎は気怠さを感じつつ口を開いた。
「今川の治部殿は、いささかお困りのようであった」
二郎は扇を膝へ置いた。
「若くして軍神などと持ち上げられ、家臣どもが勝手に幕臣と約定を交わす。どうしたものかとな」
藤左衛門は黙ったまま、こちらを見た。
「治部様は、その武勇と忠勤を見込まれ、此度の公方様と阿波方との戦に加わるよう仰せつけられたと聞いておりまする」
「それに困っておられる。そういう話じゃ」
すると新左衛門がまた膝を進めた。
「畏れながら」
藤左衛門は止めなかった。よろしいか、と二郎に目で尋ねて来た。
気が進まないのが本心であったが、二郎が頷く。すると、新左衛門は間髪入れずに言った。
「治部様が仰せつけられたのは、現守護の修理大夫頼武様を立て、美濃を静謐にすることではございませぬか」
いやなことを言う男である。
二郎は内心を押し殺しながら頷いた。
「相違ない」
「であれば、こちらは敵方と見られる身にございます。その治部様の言葉を、そのまま受け取ることは出来ますまい」
「そなたには、この身がそこまで愚かに見えるか」
二郎が睨むと、新左衛門は深く平伏した。扇を開き、その陰で鼻を鳴らした。
「まあよい。言葉など信じてはおらぬ。だが、物は別であろう」
藤左衛門が顔を動かした。
「物、と申されますと」
「物は物よ」
二郎は懐から紙を出し、二人の前へ投げた。紙はひらひらと落ち、二人の間で止まった。
先に拾ったのは新左衛門の方だった。
「銭二百貫、米五百石」
「口に出すな。つまらぬ」
こういうところが品がないのだ。到底上に立つ器ではない。
「失礼いたしました」
新左衛門がそう言って頭を下げると、藤左衛門がすっとその紙を取った。
目が紙面を行き来すると、ただでさえ冴えない顔が、さらに暗くなった。
実際のところ、二人が何を言おうと物は運び込まれている。
銭はすでに館の蔵へ入れてあり、米は途中の寺へ預けてあった。いまさら何を言おうと遅いのだ。
読み終えた藤左衛門が、恐る恐ると尋ねた。
「これで何をせよと、治部様は仰せなのでございましょう」
二郎は鼻で笑った。新左衛門の無礼も気に入らぬが、この男の肝の細さも頼りにならない。
「何も約定などない。先ほど申したであろう」
「にしては、動いた物が大きゅうございます」
兵二千人を二か月は動かせる。もともと兵を持つ国人らを使うのであれば、倍の数を使えるだろう。
つまり、美濃の情勢を変えるだけの力がある。
確かに季節の挨拶にしては物々しい。
「馬鹿者。治部殿は、ただこう言っただけじゃ」
二郎は致し方なく、会談の場で話したこと、会談で今川の僧から聞いたことをかいつまんだ。
まず、今川治部太夫は、修理大夫頼武を立てることを、あまり好ましく思っていない。
兄のもとには、越前から来る者が絶えず出入りしている。米も銭も朝倉から回っている。そうである以上、兄が国主になれば、越前の言葉を無視することは出来ない。
またそもそも、治部太夫は兄の器量を心配もしているらしい。短い間に何度も国を追い出されているあたり、どう見ても、美濃一国を押さえられる男ではない。
すなわち、兄を立てただけでは、今川の大軍が通れる道など出来はしない。上洛の軍に遅れて参加し、二つの場所で朝倉の後背を拝むことになりかねない。
ならば、もう少し力のある者が国主に立った方が、美濃にとってもよいのではないか。今川にとっては良いのではないか。
僧が申したのは、凡そそのようなことであった。
「あり得ませぬ」
話を聞き終わった藤左衛門が低く、暗い声で言った。
「そのような言葉を信ずるべきではござらん。治部様が関わった家は、ことごとく傾いておりまする」
「甲斐武田、信濃小笠原、斯波武衛。確かにそうよな。だが山内上杉からは、一寸の土地も取らず、竜春丸とかいう童を立てたではないか」
二郎は扇で顔を隠した。二郎の見るところ、治部太夫は若くして武才があるのは間違いがない。そして、その武才を頼りに領地を拡大したは良いが、先代が死に言うことを聞かない国人ばかり抱えて難儀しているのだろう。
ゆえに幕府から命じられた以外の土地に関しては、ほとんど触ろうとしない。それを見れば、美濃に関しても通行以外は考えていないはずだ。
その様に思案していると、すぐに新左衛門が口を挟んだ。誰にも許しは得ていない。
「その竜春丸なる童、何をするにも今川の顔を見ねばならぬと噂にございますぞ」
二郎は思うより先に扇を投げた。扇は新左衛門の肩に当たり、板の上へ落ちた。
新左衛門は落ちた扇を見もしなかった。
「童とわしを並べるか」
言葉が短く、鋭くなった。
「新左衛門」
まず藤左衛門がたしなめた。今度ばかりは陰鬱さよりも真剣みがあった。
新左衛門はこれを受けて、また頭を下げた。ただ、そののっそりとした謝罪は、自分の怒りを恐れてのこととは思えなかった。とりあえず下げておけばよい、とでもいうような下げ方だった。
頭は回る。度胸もある。だが、そういうところが二郎は嫌いだった。
何を考えているかが、時折あまりにはっきり見える。利にならぬこととあらば、後に回せる無骨さが鼻につくのだ。
二郎は息を整え、狩衣の袖を膝の上へ直した。
「無作法をした。だが、今川から来た者が言ったのは、それだけではない。もっとも、こちらから約したことは何もない」
「ほかには何と」
そう問うたのは藤左衛門である。
「朝倉が近江へ兵を出した。しばらく帰って来ぬよう、兵糧の世話をする役目を今川が負わされたらしい。いまなら、わしが兵を挙げても、越前はすぐには動けぬ。それぐらいの話よ」
藤左衛門が低く唸り、目もとへ指を当て、強く押していた。考えごとをするときの不愉快な癖だった。
二郎は押す様に言葉を重ねる。
「今川の武威は、見せかけではない。あの小僧、いや、治部殿が前に出てから、まだ負けておらぬ。出せる兵も多い。差し出された物を不要と返すことこそ悪手であろう。気脈を通じるかどうかよりも、敵に回さぬ、それが肝要であろう」
藤左衛門が顔を上げた。仄暗い眼がこちらを覗いた。
それから逃れるように、さらに言った。
「無論、いつ兵を挙げるとも約しておらぬ。たとえ今川が兄と通じておったところで、こちらは何も約していなければ、損はあるまい」
「確かにそれならば」
重ね続けた言葉に、漸く藤左衛門が頷きかけた。
だが、
「畏れながら」
また、あのしゃがれた声が割り込んだ。
「黙っておれ」
今度は二郎がそう言った。そう言ってから顔を顰めた。
しかし新左衛門は下がらなかった。
「畏れながら」
藤左衛門がため息をついた。見ているだけでこちらの気が沈むようなため息だった。
「無作法者なれど知恵者にございます」
そこに異論はない。そうでなければ同席など決して許さない。
二郎は少し間を持たせてから、眉を寄せ、許す、と小さく言った。
「東美濃は今どうなっておりましょうか」
意外な言葉に、不快よりも興味が出た。
「東美濃。なぜじゃ」
「今川方が何か仕掛ける予定であるならば、そのあたりの国人、遠山らに気脈を通じておられるかと。あの辺りは松尾の小笠原が縁深き場所にございまする」
そういうことか、と二郎は口を尖らせた。
いい気分が台無しになった。このような男に見落としを責められた気がした。
だが、確かにそのあたりは気にせねばならないことでもある。
あの治部太夫は、名門の今川に生まれながら毛色が違う。駿馬の中に一匹混じった異物、人を食う類の怪物であった。
二郎の見立てでは領地は欲していないだろうが、家中が攻めざるを得ない状況を作れば前に出るだろう。
這い出てくるような穴はふさいでおくべきだった。
二郎はさも当然のように頷いた。
「無論のこと、物を受け取ったその足でそれとなく人を出しておる」
この後すぐに出さないといけない。
「左様でございまするか。失礼いたしました」
新左衛門が頭を下げた。その無礼な背に二郎は鼻を鳴らした。
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那古野城の弓場に、朝の日が差し込んでいた。
射場は板張りで、屋根だけが掛かっている。二十八間先の的までの地面には新しい砂が敷かれ、掃いた跡が筋になって残っていた。
この射場も、つい数か月前まではなかった。板はまだ白く、近寄ると木の匂いがする。柱の根には、普請のときの鉋屑が少し残っていた。
城の普請はいまも続いている。土居が上がり、櫓が二つ建ち、堀にも水が入ったが、朝になるとどこかで槌の音がした。今日は西の方から聞こえている。町へ通じる道を延ばしているのであろう。
五郎は、たった一本の矢を引いていた。もともと最初は五本の矢をもって、修練を始めた。
一本目は的の中央から指二本ほど下に中った。二本目もほぼ同じところへ行き、三本目と四本目は狙い通りに入った。
手に残ったのは、この最後の一本である。
「御屋形様」
呼ばれたとき、五郎はすでに矢を放していた。
矢は的の真ん中に立った。しかし、狙ったところではなく、当たり方も意図したものではない。五郎が思ったのは、的にすっと入るはずの一本だった。
「お見事にございまする」
振り向くと、承菊と小笠原正安入道が射場の脇に立っていた。声をかけたのは承菊で、袈裟の袖を合わせ、その内で数珠を持っている。
二人とも朝早くから来ていたらしい。正安入道の草履の先が露に濡れていた。
「三本目か、四本目のところで声をかけていれば、良いところを見せられた」
そう言うと、正安入道が頷いた。
「確かに五本目は、精彩を欠いておりました。焦るぐらいならば、弓を引くのを止められても良かったかと」
「欲張ったか。当たりが続くと肩に力が入る」
肩の付け根がまだ張っている。五郎は左腕を回した。
「修行が足らぬ、それで片すのは簡単でございますが、正安めはそれを心がけていても、ここ一番でやらかしております。ゆえ焦りは消せぬものと考えられた方がよろしい」
承菊が、賢しら気に、ふぅむ、と唸った。
「金言ですな。して、」
五郎は一歩進んだ。板が軋み、承菊が口をつぐんだ。
この僧が次に何を言うかは、およそ見当がつく。正安入道を弄ぶ一言だろう。
「して、美濃はどうした。承菊」
五郎が話を変えると、承菊は少しつまらなそうな顔をして、数珠を鳴らした。
「長井何某という男が、二郎殿を止められておりましたが、結局二郎殿は前に出られました。果敢に周囲の国人に自分に付けと、吹聴しておりまする。ただ朝倉殿に痛めつけられた後でございますので、あまり美濃衆も腰を上げておりませぬ」
二郎という男は、存外に堪え性のない人物らしい。いや、朝倉家の重しが軽くなった今、動くのは間違ってはいない。
「銭をもう百貫積めば、風向きは変わるか」
「さて、銭でどうにかなる話ではないように思えまする」
承菊は数珠を手繰りながら、北の方を見た。
代わって正安入道が言った。
「松尾の者に聞いたところ、修理大夫殿よりも弟の二郎の方が操りやすい。されど、二郎殿の人品にほれ込んだという国衆は、あまり居られぬようであったと」
承菊がまた唸った。
「正安殿、となるとやはりその長井という者が実質的には国人らを引き寄せていると」
「一にも二にも、そう見たほうがよろしいかと。実際、表には出しませぬが、心を掴んでおられるのはそちらと見るべき、と愚考しておりまする」
五郎は弓を膝にあてて弦を外した。手繰った弦を輪にして懐へ入れる。握りのあたりが汗で濃くなっていた。
二人を見ると、承菊の稚気を、正安入道がうまく受け流している。並んで立っていれば、いかにも徳の高い僧が二人で話しているように見えた。
美濃は東と西で事情が違う。西には肥えた田がひろがり、その郷々に長井の力が及んでいる。
守護の兄を担ぐ者は西に多く、弟の二郎につく者は東と北に多い。しかし、いずれも二郎の人柄に惹かれて集まっているわけではない。関の銭が欲しい家があり、田境をめぐって隣家と争っている家があり、越前に縁を持つ家もある。それぞれが自分の都合で兄弟のどちらかを担いでいるだけだった。
「官位を二郎殿に斡旋する」
五郎が言うと、承菊は興味深そうに目を細めた。正安入道は訝しげに腕を組んだ。
「承菊、どう見る」
「拙僧の見るところ、面白いかと。公家の恩をこのような形で回収する、というのも良きことかと。御屋形様は、これ以上位階を上げるつもりもないゆえ、公家らも積み重なる借りが減り、胸をなでおろすというものでございます」
「しばらく」
正安入道が口を挟んだ。腕を解き、膝の前で手を合わせた。
「しばらく、拙僧の見るところ、官位の名分が難しく思えまする」
「弟に官位をとなれば、二郎を奉じる者らが息を吹き返し、美濃が荒れる。それを思えば、官位は出さぬか」
正安入道が、我が意を得たりと頷いた。
「もっともである。ただ、良い機会を得た」
「と申しますと」
五郎は縁に腰を下ろし、懐から手拭いを出して汗を拭った。
秋の朝の空気が肌に気持ちよかった。日に温められはじめた板へ手をつくと、掌の汗が乾いていく。
朝姫は、今朝早く遠乗りに出ていた。子を産んでから館の内にいることが多く、そろそろ堪えかねたらしいので許したのである。供を十二人つけ、川より先へは出るなと言ってある。もうかなり走ったころだろうと思った。
「御屋形様」
催促したのは承菊だった。自分が勿体ぶるのは平気だが、人に待たされるのは嫌いらしい。
「即位式、不首尾に終わった。銭だけ吐き出したそうだ」
二人の顔つきが変わった。
承菊は目を輝かせたが、正安入道は目を見開いたあと、苦い顔になった。
先に口を開いたのは承菊である。
「御屋形様の言った通りになりましたな。どんな顔をして金をせびりに来るか楽しみにございまする」
「承菊殿、そのような物言いは」
「良いではないですか、正安殿。戦火の真っただ中で豪壮な行事をやれば、人々が涙して膝をつく、とでも思っておられる方々でございます。多少は地に足を付けたほうがよろしい」
言い方はともかく、承菊が外しているわけでもなかった。
公家たちは即位式を行うことで、乱れた世に一つの形を立て直そうとしていた。しかし、その京で阿波方と公方が衝突した。公家の館も打ち壊され、帝も一時は寺社へ避難されたと聞いている。足軽は公家の屋敷へ入り込み、持ち出せる物を持ち出して行った。
公家たちが戻ってみれば、住居は荒れ、蔵にも米は残っていなかった。即位式のために集めた三千貫も、そうなれば式どころではない。銭蔵まで荒らされていれば、なおさらだった。
五郎は手拭いを懐へ戻した。
「もう追加の銭は送った。三千貫。こちらは証文のみで、ことが落ち着くまで即位式は見送る様にとも添えた」
承菊が鼻を鳴らした。正安入道は、ほっと息を吐いた。
承菊は数珠をいささか乱暴に手繰った。
「では、それで官位でございますな」
「美濃の兄弟を落ち着かせるために、弟にもそれ相応のものがあれば。矛を収めるのではないか。それが成らずとも、今川が軍を通すまでの時間稼ぎにはなる。そう匂わせた」
「して、官位を斡旋した御屋形様の名は、表に出るのでしょうかな」
承菊が数珠を止め、袖の中から手を出した。
「名は出さぬように頼んだ」
「公家の口は軽うございましょう。漏れていると見たほうがよろしい。兄の方を支えていた朝倉殿に睨まれまするぞ」
五郎は目を細めた。そのとおりである。
ただ、期待もしてはいないことだった。
「阿波方と公方の衝突が始まった。朝倉殿はもう一年は帰れぬ。公方が帰させぬ」
公方と阿波方の戦は、つい先日始まったばかりである。
朝倉の五千、六角の一万、それに方々の国人五千。合わせて二万ほどが京へ向かって動きはじめている。
五郎は参陣出来ぬことを詫び、かわりに兵糧を送った。米は尾張の蔵から出して熱田で船に積み、伊勢へ渡した後、陸路で近江に入れる。荷駄を仕立てるのは向こうの商人に任せ、運び賃はこちらが持った。
義晴からは、ただちに軍勢を率いて上洛せよという文が届いたが、以前ほど強い調子ではなかった。五郎がなくとも帰京の軍が動き出した今、義晴も今川のことばかり考えてはいられないのだろう。
正安入道が顔を顰めた。
「して、御屋形様は、美濃の二郎殿の官位に何を望まれたのですか」
五郎は北の空を見ながら、ぽつりと言った。
「美濃守」
承菊が吹き出した。正安入道は額を押さえた。
承菊が笑いを噛み殺しながら口を開く。
「悪い方でございます。二郎殿がそれを貰って、自分も大切にされている、兄と争うのはやめよう、などとは思いますまい」
正安入道もそこへ加わった。
「御屋形様がそれを斡旋したと伝わるとなれば、美濃の国衆も腰を上げましょうな」
五郎は小さく息を吐いた。熱を持った体からこぼれた吐息は白く、そのまま立ち上った。
「通ると思わなんだ。左京太夫でも貰えれば御の字であったが、こちらが通った」
美濃守のことは、すでに朝廷から了承を得ていた。公家の側も初めは難色を示したらしいが、二度目の三千貫で話がついた。
証文を渡した際、今川の名は一度も出ないようにした。商人を跨ぎ、最後は堺の商人からの証文とした。
もっとも、額が額である、いつまでも伏せておける話ではなかった。その額が動いた後、不可思議な官位となれば勘付くのが必然である。
承菊は笑みを深めた。
「先ほど銭ではどうにもならぬと申しましたが、少し言葉を翻させていただきたく」
「いくらいる」
「もう百貫送っていただきたく。それだけあれば、二郎殿、いえ、美濃守殿は盛大に祝いの宴をひらけましょう」
正安入道が眉間を揉み、息を吐いた。
「気脈を通じたる遠山らには如何いたしましょう。宴へは参加を見送る様に申し付けましょうか」
遠山らには現状中立のまま関わらぬようにと、命じている。
だが、ここで参加をしないというのも、二郎に睨まれるだろう。
「参加はさせてもよい。ただ守護の修理大夫殿に弁明もさせよ。進物が必要ならば相談に乗る様に言付けをしておけ」
正安入道はなお眉間に皺を寄せたまま頭を下げ、廊下を戻って行った。
あれだけ困った顔をしていても、歩き方は少しも崩れない。五郎はその後ろ姿を見送った。
その背が角に消えたあたりで、承菊が声を弾ませる。
「根が真面目な正安殿には少し毒でありましたな。美濃守など、毒が強すぎましょう」
「意図したものではない」
「ですが、通ればそれを受けた以上、御屋形様の毒でございましょう」
五郎は返事をしなかった。
「承菊、少し腰を入れて揺らせ」
承菊は当然という顔で頷いた。




