7章_1
足利義晴は、盃を干した。
寺を出て、御所を構え直してから、ひと月ほどになる。古寺の板の間に座っていたころとは、何もかもが違った。
畳が入り、屏風が立った。柱の埃も拭われ、障子には破れひとつない。膳は塗り物で、控えている女中の小袖まで揃っている。近ごろは、痩せた顔で御所を出入りする者も見なくなった。
寺にいたころは、朝の膳が出るかどうかも日によって違った。出ない日は誰も何も言わずに座っていた。そのうちに昼になった。
いま身のまわりにある物の多くは、今川から届いた銭と贈り物で整えたものである。
ただ、義晴の腰にある刀だけが違った。
今川からは駿河の太刀が届いている。凝った金細工が施された拵えも見栄えがよく、柄巻の締まりなども、近江で見る物より幾分出来がよかった。しかし、幕臣たちが近江で打たせた物を差すように、と勧めたので、駿河の太刀は蔵へ入れさせた。
差せと言った者は何人もいたが、なぜとは誰も言わなかった。
義晴は干した盃をずい、と差し出した。酒が満ちると、それも干した。
喉が焼けた。その熱が少しずつ胸へ下りて来る。そこまでの間が、いちばん心地よかった。その瞬間だけは、京のことも近江の六角弾正少弼のことも忘れられた。
大館入道が、銚子を膝の前へ引いた。
「そのあたりに」
父の代から仕えている老臣である。銚子に手を添えたまま、動かさない。物言いが、子供を諭すようだった。
この老人は父の代にも、同じような顔をして座っていたのだろう。
その時からまるで役に立たない。自分を京に戻せない。
それを思うと腹が立った。
盃を投げつけてやろうかと思ったが、まだ酒が残っている。義晴はそれを飲み干し、もう一度差し出した。
だが、酒は来なかった。
銚子は入道の膝の前にあり、手もそこに添えられたままである。義晴も盃を引かなかった。引けば負けたような気がした。
怒鳴りつけようとしたとき、側付きの者が入って来た。義晴の耳へ口を寄せる。
「道永様がお越しです」
背筋が冷えた。
酒を控えるようにと、あの男から言われていた。九代将軍の例を挙げ、大をなす前に倒れるかと、四半刻は詰められたのだ。
義晴は急いで盃を膳の陰へ隠し、襟を直した。膝を揃え、頬を掌でこすった。酒のせいで熱かった。
道永が入って来た。
前に会ったときより肥えていた。頬から顎にかけて肉がついている。食が太くなったという話は聞いていた。
道永は座る前に鼻をひくつかせ、それから眉を顰めた。
義晴はわずかに身を縮めたが、道永は何も言わずに腰を下ろした。
「ご機嫌麗しゅうございます、公方様」
「良くはない」
後ろめたさがあるので、声が短くなる。そっぽを向くが、咎められることはなかった。
「左様でございますか。であれば、より一層悪くされるやもしれませぬ」
「今川か」
「左様にございます」
道永は頭を下げた。顔に苦いものが浮かんでいる。
だが義晴は、それほど驚かなかった。
今川が来ないことには腹が立つ。しかし尾張では斯波家と縁を結び、上洛の道を開いた。これは命じた通りである。
その後、斯波の父子が不忠者どもに討たれはしたが、尾張から兵を出せる形は残った。
そこで美濃が騒いだ。
その知らせが来たときは、踏み潰して来い、すぐに上洛せよと、義晴は幾度も喚いた。だが誰も動かなかった。
道永らに、美濃を整えるのは朝倉の役目と決めてある、今川が勝手に入れば幕府の面目が立たぬ、と諭された。そう聞かされるうちに、今川への腹立ちもいくらか収まった。
納得したのではない、今川の差し出すものを見て、まあ少し待ってやるかという心地になった。
今川は近江に銭はもちろん、絹、木綿、干魚、紙と不足している物を山のように送り付けて来たのだ。
品には必ず書付が添えられている。何をいくつ送ったかが書いてあり、受け取った側にも同じ物を書いて返せと言う。返せば、また次が届く。
そして、殊勝にも公家にも手を回し、阿波方に名分を与えぬよう働きかけているらしい。
そこまでやっているのなら、事あるごとに口を挟む六角や、美濃の件でしくじった朝倉よりも、幾分役に立っていると言ってもよい。
ただし、物や銭を貰って機嫌を直したと思われるのも癪だった。
義晴はわざと顔を大きく歪め、腕を組んだ。
「許せぬ」
「それだけでありましょうか」
道永が訝しむように見た。
義晴はまた顔を逸らした。その先に、膳の陰へ隠した盃の縁が見えている。少しはみ出していた。
「来ぬ者は来ぬ。腹立ちは腹立ちとして、必要以上に責めるに能わず。そう言ったのは其方であろう」
「確かに、仰る通りにございまする。今川が東にまた出兵したと聞き、少し気を揉んでおったやもしれませぬ。大樹の仰せの通りにございます」
東、上野への出兵は、義晴も聞いていた。
最初はわけが分からなかった。西へ来いと言っているのに、今川はまた東へ兵を出した。
ほどなく治部太夫から文が来た。
美濃で足を止めている間に、後背を固めておく。そのために関東管領家の家督争いに手を入れたというのである。
治部太夫曰く、現当主の左馬頭は養子で、大敗のあと家中の信を失った。先代の実子である竜春丸を推す者が増え、左馬頭はそれを粛清しようとした。追われる側が今川を頼ったので、治部太夫が兵を出した。
義晴には、どこまでが本当かは分からなかった。確かめようと近江商人らにも話を聞いてこさせたが、東のことゆえ要領を得ない。
ただ、治部太夫は上野に領地を取らず、竜春丸を残して帰ったらしいことは、誰に聞いても一致していた。
訝しんでいると、その出兵の後、越後の長尾、北信濃の村上と連名で、義晴を支える旨の文まで寄越した。これも上野出兵への成果であると、一文が添えてあった。
少し義晴は納得をした。朝倉がしくじった間も動いたのだろう。
それに、東に根を張って京を捨てる気なら、することが少し違う。
腑に落ちぬところは残ったが、いまのところ殊勝としておいてよい。
それに待たせて申し訳ないと、詫び代わりに送られてきた酒を飲めば、腹立ちもいくらか薄れた。
「朝倉が美濃の諍いを収められなかった以上、致し方ないこと。そうであろうよ」
気が付けば、道永が目を細めていた。
「その朝倉殿でございますが、出兵なさるとお約束いただきました」
「おお、いつじゃ」
「兵を率いて十月ごろにはこちらに付くと。数は五千余にございます」
道永は指を三本立て、そのうち一本を折った。兵数の内訳を数えているらしい。
以前聞いた数より多い。以前聞いたのは確か、三千か二千だったはずだ。
義晴が首を傾げると、道永が察したように言った。
「越後の長尾が越中の一揆衆らに圧をかけるらしく。加賀の目がそちらに向く分、前に出せる数を増やせると申しておりました」
「長尾か。文通り、殊勝である」
「今川の上野への出兵、無駄ではなかった、そう言うことにございますな」
道永の声には、さほど感心した響きがなかった。
義晴はそこには触れなかった。
「道永、では出兵できるな。朝倉が五千出すとすれば、六角も出し惜しみはすまい」
「できましょうな。ただ、数が増えるとなれば悩ましい問題もございます」
「数が多ければ勝ち馬にのる者も増えよう。そう言ったのは其方であろう」
「確かに戦にまで持ち込めれば、勝てましょう。されど、その数を動かすにあたり必要なものが足りなくなるかと」
兵糧のことか、と義晴は思った。
日々口に入るもののことは、京を離れてから気にするようになった。情けないと思いつつも、腹が減るのはつらい。
だが、そのつらさを解消させる方法も、義晴は思い当たっていた。
「今川に出させよ。それをもって幕府への奉仕とさせる。兵が通る道がない以上、致し方あるまい」
「道と申しましたが、朝倉殿は一時ならば、美濃の内情に関わることを黙認すると仰せでございますが」
義晴はまた首を傾げた。
今川を美濃へ入れない。それが朝倉との話ではなかったのか。
考えても分からない。分からないことが続くと、腹が立って来る。
酒が欲しくなり、膳の陰へ手を伸ばしかけた。
道永が眉を上げた。義晴は思わず手を止めた。
「間接的ではございますが、今川が加賀を圧し、これが越前の利になった。また、上野で竜春丸を立てた、まあ、傀儡でしょうが、欲を見せなかった。このあたりが考えを改めさせたのかと」
それで幾分分かった。朝倉の内部で、今川の使い方を定めたのだろう。
しかし、まだ一つ分からない。
「では、美濃に出ろと申せばよい。美濃に出て、土岐を助け、道を作り、幕府を支えよとそう命じればよかろう。帰京も早うなる」
「兵の負担だけでなく、銭や兵糧の負担もさせることになりましょう。兵糧と銭だけで済ました方が良いのではないでしょうか」
「今川の兵があれば、早く帰京できるのであろう」
道永が少し躊躇い、その後に渋い顔で頷いた。
「それは以前申し上げた通りにございます」
「兵だけではいかぬのだな」
道永が剃り上げた頭を撫でた。義晴には良く分からないが、相当に答えづらそうな問いであったらしい。
良い気味に思えた。
道永は頭を撫でながら答えた。
「兵だけの場合、畏れながら軍勢を維持できませぬな。兵糧と銭だけか、兵と合わせて出させるかにございます」
「では良かろう。両方出させよ」
道永が深く息を吐いた。
その息が、義晴には気に入らなかった。
「飴が無くては、言い訳をして帰る、そういう向きもございまする」
義晴は立ち上がった。
酒の入った身体が傾いた。足を踏み出して、どうにか堪えた。
「なんだ、それは許さぬ。不忠ぞ」
「不忠にございます。許せぬことでございます。が、あれは帰る。そう思わせるところがございましょう」
「許さぬぞ」
道永がまた目を細めた。
この男は肥えてから、一段と大きく見えるようになった。
義晴は唇を噛み、声を少し落とした。
「ただでさえ、以前の上洛に否と申し、不忠を重ねておる。これ以上は許さぬ。道永、其方もそう申しておったではないか」
道永は答えず、部屋の中を見回した。
畳。屏風。膳。女中の小袖。大館入道の前には酒の銚子がある。
どこから出た銭で整えたものかは、義晴にも分かっていた。
道永が言いたいことも分かった。大館入道が黙って銚子を膳の端へ寄せた。
道永はようやく口を開いた。
「その考えは今も変わっておりませぬ。ゆえに、まずは飴を一つ与え、こちらに寄せたく」
「なにを与える」
「致し方ありませぬが、尾張」
「大国を与えられぬと言ったのは其方であろう。それに六角弾正少弼も嫌がっておった」
六角弾正少弼は、義晴がここへ居を移し、今川の銭で身の回りを整え始めてから、目に見えて機嫌が悪くなった。
以前は、この近江に置いてやっているのは自分だという顔を隠そうともしなかった。近ごろはそれを出さなくなったかわり、今川の話になると黙る。
何かを与える話なら、なおさら喜ぶまい。
道永は納得しかねるといった顔のまま、重々しく言葉を重ねた。
「尾張の現状維持を認める。それだけにございます。そのうえで帰京が適った折は、守護。それで仕舞いとあらば、弾正少弼殿もさほど気にはいたしますまい。おそらく、近江と接する美濃に手を伸ばすことを嫌がっておられるだけゆえ、ここで止めればよろしい」
そういうものか、と義晴は思った。
座り直すと、目の前が少し流れた。
「それを許せば、費も兵も今川は出すか」
「まず、出させましょう」
ならばよい。
「許す。それで出させよ」
道永はゆるりと頷いた。
しかし自分で言い出したことながら、まだ何か引っかかっているような顔をしていた。
「承知いたしました。多少前後するでしょうが、必ず兵を出させまする」
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赤子が、朝姫の腕の中にいた。
駿府館の奥の居室である。障子は半ば開けてあり、庭の光が畳まで差し込んでいた。小さな夜具の脇には湯を張った盥と畳んだ布が置かれ、女中が二人、部屋の隅に控えている。
五郎は、少し離れて座っていた。赤子を抱く、朝姫に対し、一歩寄るが、やはりしっくり来ず退がってしまう。
その様子を見て、朝姫が頬を緩めた。
「遠慮なさらず、抱いては如何ですか」
「触れるなと、母や祖母より仰せつかっておりますれば」
冗談と思ったらしく、朝姫は困ったような顔をした。だが、さあ、と赤子を差し出してくる。
養育には極力関わるなと言われている。だが、抱くことまで禁じられた覚えはなかった。
ならば多少は良いかと、五郎は赤子を受け取った。
思ったより重かった。頭を腕の内へ載せると、小さな身体の温かさがじかに伝わってくる。布の下で腹が小刻みに動き、乳の匂いがした。
朝姫は、産んでからひと月あまりになる。体調はまだ戻らず、目の下には薄い影があった。それでも座った姿には崩れたところがない。北条から来た娘は、こういうところを崩さなかった。
「泣きませぬな」
「不思議と誰が抱いても泣きませぬ。ただ鈍いわけではなく、人の話を聞いているようなところがございまする」
「誰かの魂が入っておるやもしれませぬ」
無いとは言えない。そして、それを自分は咎められない。
朝姫の顔が、また少し緩んだ。
「冗談が上手くなられました。十に一つはちゃんと冗談とわかりまする」
「左様ですか。であればよかった」
今のは本気だったが、言わずにおいた。
五郎は赤子の顔を見た。
我が子、龍王丸である。澄んだ目でこちらを見返している。その様子を見ていると、やはり老成した誰かの魂でも入っているのではないか、という気さえした。
「そのようにしげしげと眺められると、龍王丸殿が困りましょう」
「いえ、随分聡明そうだと」
まあ、と朝姫が口を抑えた。
「御屋形様も子煩悩をなさるのですね。そのような面を見せれば、大御台様も北川殿も関わるな、などと申されなかったのでは、ありませぬか」
五郎は返す言葉がなく、赤子を朝姫へ戻した。やはり、自分が触れるべきものではない気がした。
抱き直されても、龍王丸はぐずらなかった。相変わらず五郎の方を見ている。
養育に口を出しすぎるなというのが、寿桂尼と北川殿の言いつけだった。ただし、養育の大方針と手習いの師を決めることは、当主として五郎に残されている。禁じられたのは、五郎の血腥い面を子の間近に置くことであった。それで子の質が歪めば今川のためにならぬ、と北川殿は言った。寿桂尼もその場にいて、異を唱えなかった。
つまり、武家の当主として普通に子へ接しろということなのだろう。
五郎は、龍王丸に声をかけた。
「龍王丸殿、母君をあまり困らせぬように。健気な方ゆえ、我儘はほどほどにお願いいたす」
「まあ、そのように」
朝姫が笑った。龍王丸は、ゆっくりと一度瞬きをした。
「首が座れば、尾張に移りましょう。それまではどうか体を労わりください」
朝姫が畳へ手をついて頭を下げた。その拍子に腕の中の子が少し傾き、隅にいた女中の一人が腰を浮かせた。朝姫がすぐに抱き直すと、女中も元の姿勢へ戻った。
五郎は静かに居室を出た。
廊下には、いつものように小姓が控えていた。
今日は教来石民部景政である。つい先ごろ元服した甲斐衆で、そろそろ馬廻りに上げてはどうかと名の挙がっている若者だった。
小姓には、甲斐、信濃、三河の子弟を混ぜて置いている。置いておけば、自然に互いの国の話をする。どの家が誰と親しく、何を嫌っているかも、その中から知れることがあった。
「幕府の使者殿は」
「大人しく、お待ちになられております」
五郎が尋ねると、民部はすぐに答えた。
幕府の使者、大館伊予守は、先触れにあった刻限より早く館へ着いていた。だが、すぐに会わせろとは言わず、刻限まで待つと申している。謁見の場へ通されても上座にはつかなかった。
幕府の使者なら、本来は上座に座ってよい。将軍の名代だからである。しかし近ごろは、そうしない使者も増えていた。いつから、などとは言わない。関東で十万の軍を破って以来はそうなった。
「伊予守殿の顔は見たか」
「聊か余裕があられたかと。愚見でございますが、土産があるように思えました」
いまの幕府が出せる物は、そう多くない。
五郎は小さく頷いた。
「助かった。今日は謁見に居合わせよ」
民部が嬉しそうに頭を下げた。頭を上げると、袴の膝を撫でて皺を伸ばした。
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謁見の場には、すでに伊予守が座していた。
左右には今川の家臣が居並んでいる。伊予守はその視線を受けながら、広間の中央に端然と座っていた。
広間は、真新しい板に張り替えて間もない。柱には鶴の彫りがあり、上座の後ろへ屏風を立ててある。幕府から客が来るときだけ、床几ではなく畳を敷かせていた。
右の列の端に庵原安房守が、その二つ向こうに承菊がいる。承菊は袈裟の膝へ数珠を置き、目を伏せていた。
五郎は足を早めながら、ついと伊予守を見た。身に着けている物は汚れておらず、以前のように襟元が黒くもなっていない。
そして、民部が見た通り、伊予守の顔には余裕らしき落ち着きがあった。
「お待たせしてしまい、申し訳ない」
五郎が上座へ座ると、伊予守は深く頭を下げた。
「いえいえ、刻限通りにございます。それにお世継ぎに恵まれたとあれば、邪魔をしてしまい申し訳ない」
そう言って、前に置かれた茶に手を伸ばした。椀をわずかに回してから口をつける。
少し前には、今川へ十万が攻め寄せるぞ、上洛せよと脅して来た男である。そのことなど忘れたような顔をしている。この程度の面の厚さがなければ、幕府の使者は務まらないのかもしれなかった。
伊予守は駿府にも尾張にも、幾度となく来ているが、五郎が直々に顔を合わせるのは久しぶりである。先の脅しの件より、何処か向こう側も直接会おうという気概が見えてこなかった。
伊予守側から、幕府や公方の名を出し是非に当主に会いたい、そう明言し、実現した久しぶりの面談であった。
「そう仰せなれど、内々のことゆえ、幕府の使者殿をお待たせしては心苦しく」
五郎は頭を下げると、伊予守は声色を柔らかくした。
「そのように仰せになられると困りますな。治部殿にはなにくれとなく、奉仕をいただいております」
「いえ、当然のことにございます。それにどうも後ろばかり気にして、前に出れず歯がゆい思いをさせておりますれば」
「何を申される。後背を固めてこそ前に出れましょう。それに、この度は後背を固めるだけでなく、越後と北信濃の忠臣も繋げて下された。大樹もお喜びでございまする」
「大樹の威光あってのことにございまする。治部の骨折りなど言葉にするほどにはございませぬ」
そこで、ひとまず挨拶と、先の一件に対する始末は終わった。
つまり、上洛を放り出し、上野に兵を進めたことは良しとする、合意が取れたのだ。
伊予守は襟元を正すと、わずかに膝を進めた。
「治部殿は阿波方との戦について、どのあたりまでご承知でございましょうか」
どうやら本題に入るようだった。
「朝倉殿が五千出す。それに合わせ、六角殿も動かれるのでは、という噂がある程度にございましょうか」
「その話、正しゅうございます。まもなく、公方様が帰京の軍を上げられましょう」
「それはめでたき事にございます。土岐殿が通さぬと仰せのため、兵は出せませぬが、後方より支えたく存じ上げまする」
これで伊予守は安心する、と五郎は思っていた。
美濃の道が塞がっているのは幕府側の手落ちというのが、表の形である。それにより、今川は上洛のため兵を尾張まで進めながら、美濃で止められた。そのことを責めず、なお軍費を出すと言えば、幕府としても不足はないはずだった。
五郎は庵原安房守を一瞥した。安房守はその顔に少々の苦さがあった。
というのも、那古野の大普請や、大川の普請を行っており、出るものが非常に多い一年だったからだ。
普請の人足には、労役ではなくそれぞれ日当が要る。加えて食事を出すこともあれば、人を出した国衆や普請の指揮したものの役料も必要になる。
無論、西三河の木綿や味噌、信濃の馬、糸、麻など入るものは格段に増えている。長い目で見れば確実に今やるべきであったと言えるが、直近の連続した出兵も見れば、ため息も出るという話だった。
駿府の宿老である安房守ともなれば、その出入りする額の多さに、頭を抱えたくなるのも無理はない。
だが、安房守の顔に、痛いが仕方ない、という色もあった。
だが、そこで伊予守が口を開いた。
「兵を、お出しいただけぬでしょうか」
ふぅん、と五郎は唸った。その唸り声に居並ぶ家臣らが僅かに唾をのんだ。
伊予守の肩がわずかに動いた。
五郎はそれらを認めつつ、静かに言う。
「夏頃、美濃が通れたのであれば、そのまま兵を近江に出せました。されど通れませぬ。情けない話にございますが、遠方から軍を上げ、尾張まで持っていくだけでも費えが掛かりまする」
「今川軍があれば、帰京は容易く、阿波方も自然と首を垂れ、京も焼けぬ。そうお考えいただけぬでしょうか」
苦しい理屈だと思った。阿波方、特に波多野兄弟などは決して矛を納めないだろう。
だが伊予守は、それが当然の道理ででもあるように言う。
五郎が黙っていると、伊予守は懐から文を出した。民部が受け取り、五郎へ運ぶ。
厚い紙で、折り目が深い。長く懐へ入れていたらしく、角が丸くなっていた。
「読んでもよろしいか」
伊予守が静かに頷いた。僅かに自信のほどが見て取れた。
文は武家の棟梁、足利義晴の名があった。
そこには、今川は北上して美濃から近江の軍へ合流すること、その代り尾張における今川の沙汰を認めることが記されていた。
また、帰京が叶えば、あらためて尾張の統治を検討し、守護職を相応しきものにと、という恩賞の匂わせがある。
「これは、なんとも」
「如何ですかな」
伊予守に言葉を返しながらも、五郎の心はあまり動かなかった。
尾張ではすでに今川の沙汰が通っている。出している安堵状には暫定と書いてあるが、凡そ統治に必要な部分は調べて記してある。期限のところだけを空け、そのまま幾月も使っていた。
那古野の大普請が始まり、五郎が腰を据える動きを見せると、日和見の尾張衆も暫定とは名ばかりであると受け入れだしているのが現状だった。
無論、暫定の文字を消せるのは悪いことではない。しかし、どこまでいっても現状の追認であり、大枚をはたき、危険を負ってまで得る物でもなかった。
だが伊予守の顔には、ひと仕事したという色が見えた。ありがたく受け入れるだろう、そんな考えが其処かしこに見え隠れしている。
伊予守は頭も悪くないし、腹も据わっている。ただ幕府の威光については、いくらか見積りが大きいらしい。
五郎は文を丁寧にたたみ、手元に置いた。
「ありがたき事。して、美濃はどういたす。朝倉殿が手を入れるなと申されておりましたが」
「土岐家を立てるのであれば、美濃をお任せすると。竜春丸殿を立てたように、土岐家を整えればよろしい。そうお考えいただければよいかと」
広間に、くすりと笑う声がした。
それが承菊であることは、見ずとも分かった。
幕府には、上野の事情が詳しく伝わっていないらしい。
ただ、そのうち扇谷や古河公方から話は届くだろう。だが今はまだ、上野で起きたことは断片のまま京へ伝わっている。
五郎は言葉に迷った。この場で伊予守を物知らずとして笑うことはたやすいが、この大戦に関わらないのも不味い予感があった。
というのも、朝倉の軍が予想よりも多い。ならば当然六角の軍も多く、それに追従する者も多くなる。
この場合、阿波方も本腰を入れる。公方が勝てばよいが、負けた場合、全力で阿波方が追撃をかけるため、どこまで火が着くか分かったものではなかった。
京が燃えるだけで済むならばよいが、東海道まで火が昇るようでは大いに困る。
「少しお待ちください」
そう言うと伊予守が何事か口を開閉させた、五郎はそれを許さず、そのまま考え込んだ。
目を閉じ、額へ指を当てた、一定の間隔で額を叩いた。
美濃、尾張、義晴、阿波、そして道永。これらの文字が頭の中で踊り、やがて整然とした。
まず、五郎の見立てでは美濃へ足を踏み入れること自体は、さほど難しさはない。
松尾小笠原や尾張衆を通じ、美濃へはすでに手を入れてある。苗木に縁のある家へ文を出し、市へ人を入れ、一部の国人らとは気脈を通じている。加えて、商いを通じ、有利な噂も流している。
兵数で押し流せば、美濃の南は勢力圏として奪い取れる。
だが、まだその程度だった。
守護である土岐を助け、弟の勢力を一掃するには一手間どころか、三つ、四つ足りない状況だった。
しかも、いまから兵を動かしても、公方の帰京の軍には間に合わない可能性すらある。
そもそも上洛などするつもりがなかったので、急ぐ予定もなかったのだ。それを無理に縮めれば、直ぐに襤褸が出るだろう。
五郎は指を額から離した。
吐息をこぼすと、その音だけが広間に広がった。
「残念ながら、間に合いますまい。竜春丸殿を例にとり、土岐殿を立て美濃に静謐をもたらすのは、一月もかからない、などと思われては困りまする」
「今川の兵ならば適う。公方様はそう仰せでございまするが」
「土岐殿を立てず、美濃中を火に巻いても良いと仰せならば、可能でございますが」
伊予守が口を結び、喉を上下させた。
幕府方も五郎についての物々しい噂は聞いていたはずだった。だが、当人の口からそう言われるとは、思っていなかったらしい。茶碗を持つ手が膝の上で止まった。
承菊が楽し気な表情を作ったが、五郎と目が合うとすぐに顔を伏せた。
その内に伊予守は何度か喉を上下させ、言葉を絞り出した。
「それは、」
「無論、美濃を焼くなど、ここまで骨折りをされた朝倉殿がお許しになりますまい。それに、こちらも公方様の帰京の軍を支えながら、近場で無理はできませぬ」
伊予守がまた何か言おうとした。五郎は手を上げて、それを止めた。
「京の戦となれば長くかかりましょう。美濃が通れ次第、後詰をいたす。これで如何か」
視界の端で、安房守が静かに肩を落とした。
伊予守は少し考えてから頷いた。
「無論、無理を申して居るのはこちらにございまする。一度、持ち帰らせていただきたく」
そう言って頭を下げた。その背には僅かな安堵が見て取れた。ゆえに、五郎はようやく気づいた。
伊予守、というより道永が欲しかったのは、初めから五郎の兵が帰京の軍に間に合うことではなかった。
今川が美濃へ入り、道が開けば後詰を出す。その約束だけを取ればよかったのである。




