6章_14
上野の戦から十日ほど経ち、諏訪大社の奥まった一室に、五郎は一人で座っていた。
板の間で、柱が太く、天井が低い。北側の戸だけを開けてあり、そこから風が入った。信濃の夏は、駿府より一枚多く着ても暑くなかった。
座布が五郎の座っている物の他に二つ、二方へ向けて置いてあるが、未だに空席のままである。
五郎は自分の座布に座り、座禅を組んでいた。刀は入口の脇へ置いてあり、腰には扇を帯びるだけである。
外では市が立っていた。月に三度の馬市である。人の声が遠く聞こえ、ときどき馬の嘶きが混じった。ここで馬を売買する者は年ごとに増えていて、前年から市を検める役も一人置いてある。
五郎は禅を組んだまま、半眼になり周囲の音を耳に入れ続けていた。
その内に廊下の板が鳴った。
禅を解き、そちらを見れば村上左衛門佐義清が入って来ている。後ろから、村上方の家臣が八、九人ほど続いていた。
そのまま、入ってくるかと思われたが、左衛門佐は五郎がただ一人室内にいるのを見ると足を止めた。ぎょっとした顔で固まり、その後に家臣らに対して追いやるようなそぶりをした。
左衛門佐は呼吸を整えた後、何事もなかったように部屋に入り、空いた席に腰を据えた。
「治部殿、聊か無用心ではござらんか」
「外には家臣を置いておりまする。それに左衛門佐殿には腹を見せたほうが話が早いと、松寿丸より伺っております」
左衛門佐が少し顔を歪めた。
婿の名をこうして持ち出されるのに、まだ馴れていないらしい。
五郎は、僅かに歯を見せて笑った。
「あれは治部の弟なれど、純なところがありまする。まずは信濃で背骨を通したいと考えておる次第に。できれば左衛門佐殿や備中を手本に育つぐらいでよろしい」
「武辺者など今川家には相応しくござらんでしょうに」
「むしろ、弱弱しさなど、今となっては害でありましょう。旭将軍の如き男に成れとは言いませぬが、平家の二の舞を踏んでもらっても困りましょう」
五郎が淡々と言うと、左衛門佐は少し考え込み、膝の上で拳を作って、また開いた。
前に会ったときよりは、いくらか話しやすくなっている。五郎も文は送っているが、それより松寿丸が朝比奈備中守とともに、信濃でうまくやっているせいかもしれなかった。
朝比奈備中守は武張ったところの強い男であり、松寿丸同様に根が真面目に過ぎる。だが、かえってそこが村上には合ったようだった。
左衛門佐はやがて、意を決したように口を開いた。
「松寿丸殿、如何されるので」
この男は、存外に松寿丸の後々を気にしているようだった。
「できれば頼りにしたく」
「娘婿なれば詳しく、伺いたし」
左衛門佐が、ずっ、と音を立て膝を進めた。堂々たる体躯の武者が間近に迫ると圧があった。
「将として芽が出れば、尾張のいずこかに置く。内々のことを治めるに才があれば、三河の岡崎か、駿府を与え後方を支えてもらいたく」
「御家中のことなれど、てっきり松寿丸殿を信濃に置くつもりとばかり」
そう言う向きも考えていた。今もその選択肢は消していない。
「それも良し。人柄しか見るところがない、そうなれば世に出すことが、弟のためになるとも思えませぬ。ゆえ、才覚に芽が出なければ、ただ静かに暮らさせてやりたい、そのように考えておりまする」
左衛門佐が困ったように口の端を上げた。僅かな安堵が見て取れた。
「信濃は隠居の場にござらんぞ。多少は落ち着きだしてござるが、まだ表裏定かでない者も多ござる」
「徐々に馴染みましょう。日和見の者も腰を据えて、先を見だしてござろう。それに北の越後も身構えを解かれた」
信濃では、府中、諏訪、伊那に塩蔵を置き、同じ場所に馬市を立てている。塩を安く回し、良馬を高く買う。銭が動き始めると、それまで様子を見ていた家も、来年のことを考えるようになった。来年を考える者は、そう簡単には兵を挙げない。
加えて、村上と今川の間で火が着かぬと判断したものは、徐々に立ち位置を決めようともしていた。
また、にわかに入口の方で人声がした。
視線をやれば、村上とはまた別の武士たちの姿が見えた。外で待っていた村上勢と顔を合わせ、しばらく互いに動けずにいた。
高梨を挟み、幾度も敵味方に分かれて来た者同士だった。互いの名も顔も、どの家の誰がどこで討たれたかまで知っている。そのため、かえって簡単には眼を逸らせない。
やがて奥殿を覗き、場の空気を読んでか、一人の男だけがこちらへ歩いて来た。
誰であろう、越後長尾の当主、弾正左衛門尉為景であった。
「これはお待たせしてしまい申し訳ない」
弾正がそう言って、軽く頭を下げると、左衛門佐の顔が少し固くなった。
五郎がそれに合わせ、目礼をした。
「いえ、越後と信濃は隣国とはいえ、遠うございます。来ていただいただけでも、ありがたく思うておりまする」
弾正と五郎が顔を合わせるのは二度目だった。最初は上野へ入る前、越後を通る挨拶のため府中の館へ寄ったときである。あの折は立ったまま、四半刻ほど話し、芳菊丸を預けるだけだった。
弾正は空いている座布へ腰を据え、まず五郎へ深く頭を下げた。
「治部殿、この度は御戦勝おめでとうござります」
左衛門佐が、いま思い出したような顔をした。
松寿丸の文にあった通り、少し粗忽なところがある。先を読むより、眼の前のことへ先に心が動くらしい。
「いえ、戦勝というほどのことではございませぬ。やはり勝手に崩れた、そう思うほかない戦であったかと」
「御謙遜を。こちらが付けた弥四郎も目を見張っておりました。機を見ると前に出て、果断な戦ぶりでござったと」
「弥四郎殿を振り回してしまい申し訳ない。左馬頭殿と共に、どこかに下がっていただきたかったのですが、弾正殿の命を果たさんとずっと側に居られました。治部の家中も、あらためて弾正殿の心を掴む力量に感服した次第でございました」
弾正が小さく顔を振った。
「それを申せば、こちらも同じことにございまする。後詰の将兵、館に置かれた芳菊丸殿ともに規律正しく。治部殿の力量をあらためて痛感した次第にござる」
そこまで言うと、二人は曖昧に笑った。単なる挨拶の一環であるが、置いていかれた左衛門佐だけが少し居心地悪そうにしていた。
ゆえに五郎はするりと本題へ入った。
「話したき事、多くございます。されど残念ながら、互いに時は限られ申す。失礼ながら、本題に入りたく」
懐から紙を出し、膳の上へ広げた。
村上、長尾、今川三家の不戦の誓いである。
無論、わかりやすい同盟ではない。
まず第一に互いに攻めない。これは当然である。
そして、第二に配下の家同士に争いが起きれば、まず話し合う。そして、第三に現状では互いに兵を出すことを求めない。
文にはしていないが、暗に村上と高梨の争いに関して、長尾と今川が武力で介入しない。そう言うことを決めた約定である。
この約定が結ばれると、以前村上との間で決めたものが改められる。高梨が越後兵とともに南下した場合には、今川と村上が共同で防ぐというものが、上書きされることになる。
そのことは村上方も承知の上だった。
膳の上で紙の端が風に浮いた。五郎は硯を寄せて押さえた。
「先に申し上げまするが、治部が御両家や高梨殿、上田長尾殿に道をお借りした件、約定にはございませぬ。あれは別途、人質や約定を結んだだけのこと。この約定をもって、領地を我が物顔で通る、そのようなことはございませぬ」
弾正へ預けた芳菊丸は、後詰の兵を戻す中で、既に信濃に戻って来ていた。
人質暮らしをどう受け取ったか、と少し案じていたが、本人は日本海の湊と青苧の商いを見た話ばかりしている。自分でも何かやりたいらしく、話し始めると身振りまで大きくなった。
付けておいた者の記録を見ると、館の外へ出たのは月に二度ほどで、行先は湊と市だった。見せてよいものだけを見せられたのであろう。それでも、芳菊丸には十分だったらしい。
「村上は否はござらぬ」
左衛門佐が先に言った。太く、低い声だった。
続いたのは弾正である。こちらも短く答えた。
「無論、長尾にも否はございませぬ。治部殿の誠意、御伝わり申した」
伝わったのは誠意より武威であろうと五郎は思ったが、口にはしなかった。
「では改めて誓紙を交わし、盟といたしましょう」
小姓を呼び、紙を運ばせた。
紙は三枚である。同じ文言を、三人がそれぞれ自分の手で写す。右筆には書かせなかった。
五郎が先に筆を取った。
文の終りには梵天帝釈、四大天王、日本国中大小神祇、ことに諏訪上下大明神、それぞれの氏神の名を連ね、これを破れば神罰を受けると記す。その下へ名を書き、花押を据えた。
左衛門佐の筆は速く、字も大きかった。弾正は一字ずつ確かめるように書いた。
三枚が揃うと、小姓が針を持って来た。
五郎は左の親指を刺し、花押の上へ血判を据えた。左衛門佐は懐の小柄を使い、弾正左衛門尉は五郎と同じく針を使った。
一枚は神前へ納める。神職がそれを両手で受け、額の高さまで捧げて退がった。板をほとんど鳴らさず歩いた。
五郎は血を出した指を押さえた。
正直言えば、神前で誓うことの意味合いは、今をもってもさして分からなかった。事実、神の名を幾つ並べても、破る者は破る。
結局、誓いを守らせるのは、破れば損をするという勘定である。それでも誓紙を作るのは、何もなければ破るときの言い訳が簡単すぎるからだった。
三者三様に血を止めていると、小姓が三人の前へ茶を運んで来た。
毒見は済んでいたが、五郎が先に口をつけると、二人も続いた。
左衛門佐などは喉が渇いていたらしく、二口ほどで飲み干した。すぐに代りが運ばれてきた。飲み方まで豪快な男である。
松寿丸によれば、この男は駿河の茶を気に入っているらしい。信濃に駿河の品が運ばれ内々で喜んでいると文に書いてあった。
二口ほど手を付けた弾正が、茶碗を膝の前へ置いた。ふっ、と息を吐き五郎に向き直った。
どうやら踏み込んでくるようだった。
「良き機会故、一つお伺いしたく」
「何なりと」
答えて微笑むが、反応せずに短く問うてきた。
「関東管領、如何されるおつもりか」
左衛門佐も息をのんで、五郎を見た。
五郎は穏やかな声色で、用意した答えを諳んじた。
「何もいたしませぬ。東に興味がないゆえ、誰かを傀儡にし、上野を牛耳るなども致しませぬ」
弾正はその答えに納得はしないようだった。
「しかし、左馬頭殿はお連れするのでしょう。関東に残すは幼い竜春丸殿のみ。となれば頼るのは今川家のみではございませぬか」
「扇谷や古河公方が前に出てきたら申せ、と上野衆には言付けておきましたが、それだけにございます。向こうも少し肩透かしを食らったようでございました」
先に今川が示した条件は、左馬頭方についた国人の所領を勝手に奪うことを許さない。竜春丸を後見し、上野に騒乱が起こらないようにする。
そこは変えていない。
ゆえに今川から所領安堵も出していないし、竜春丸を今川領に連れて帰ることも、今川の家臣を付けることもしていない。
要は放し飼いである。首輪をつけられると思った上野衆は、ほっと胸をなでおろしているだろう。
五郎は茶を口に含んだ。新茶に比べると苦みが薄いが、まだ十分に人に出せる味である。
五郎は茶碗を置き、言葉をつなげた。
「それに上洛の準備もございまする。東に手を入れるなどしていれば、公方様の気を揉ませることになります」
「なるほど、あくまで上洛のため東を落ち着けた。そう言うことにございますな」
弾正が頷いた。どこまで言葉通りに受け取ったかは分からない。
だが五郎も嘘は言っていなかった。
「そう言えば、上洛はいつ頃されるのでござろうか。公方様が京から追いやられてずいぶん経たれるが」
放っておかれた左衛門佐が、ふと訊いた。
五郎は少し笑った。この男はやはり率直に過ぎる。
「確かに色々と準備をしておりますが、尾張より先に進めておりませぬ。怠けていると何度もお叱りを受けておりまする」
左衛門佐が怪訝そうに見た。呑気をしていていいのか、そんな顔である。
五郎は残った茶を飲み干し、椀を膳へ戻した。代わりを持ってこようとする小姓を制し、話を続ける。
「とはいえ、美濃より先の道を落ち着けるは、朝倉殿の役割と定められております。これに立ち入るは、公方様のお顔をつぶすことになりまする。それになにより、美濃守護の土岐殿より、こちらに一歩でも踏み入れれば、美濃簒奪の意図ありとまで申されておりまする」
左衛門佐が低く唸り、首を傾げた。
「それは、公方様や前管領殿は仲立ちされぬのでござろうか。守護同士の調整となれば、まずは幕府であろうし」
「近江は隣国ゆえに、直ぐに使いを送られました。今川は何もせぬ、させぬ、ゆえに通せと叱りつけられたとか」
「して、どうなさった」
「土岐殿はそれで一旦は納得し、人質を置けば通すと申されたのですが、今度は土岐殿の御舎弟が国人らと結託し、道を塞ぎなされた」
左衛門佐が顔を顰めた。自分のことでもないのに、気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「それは、公方様と前管領殿は顔をつぶされましたな」
「ええ、公方様などは、つぶしてしまえ、などと物騒なことも申されたらしいですが、これは六角殿や幕臣方がお諫めなされました」
実のところ、美濃が騒いでいるのには、今川も手を入れていた。
那古野の城が出来れば次は美濃へ攻める、という噂を、尾張の商人や美濃と縁のある者の間へ流してある。那古野の普請そのものも隠していない。
美濃側にとっては、攻めないなどは中々に信じきれない話だろう。かろうじて美濃守護本人は、借りのある朝倉や幕府に対し譲る動きを見せたが、国人らにとっては道理が通らない。
それゆえ、美濃の国人は勝手に疑い、美濃守護の弟の名前で道を塞いだ。
そうなると、今川は塞がれた側として公方へ訴えるだけでよかった。上洛のために、人と兵を尾張の那古野にまで持ってきたが、そこから進めない。どうすればよいのか、そう文に添えるだけでよかった。
五郎は困った顔を作り、左衛門佐に向けた。
「幕臣の大館伊予守殿などは時たま、駿府や尾張にいらっしゃるのですが、あまり強く上洛せよとは申されませぬ。こちらが上洛の準備に大枚をはたいているのですが、それが無駄になったと思えば強く出られないのでしょう」
左衛門佐は、ははぁ、と頷いた。そんなものなのか、と飲み込もうとしている。
一方の弾正は何も言わず、眼を細めていた。弾正は元々守護代で一国を差配する立場に近く、幕府とも個別につながりもある。おそらく、ある程度は察したのであろう。
五郎はそれを一瞥し、さらに言葉を紡いだ。
「ただ、道がないからと言っても何もせぬわけにはいきませぬ。細々と献金し、国の産物なども近江に送り、武家の棟梁として相応しい生活ができるように取り計らっておりまする」
公方へは銭のほかに絹、木綿、太刀、馬などを送っている。物なら家臣へ分けることが出来る。
送った品と数は受取状を取り、控えを駿府へ残してあった。中々の額であるが、こちらに対する礼はいまだにない。
そこで弾正が相槌を打った。
「公方様が各国の守護から支持されている。それを見せるためには必要にございますな。当家もと考えていましたが、治部殿が上洛の支度を進めておられる中、越後より別に公方様へ文を差し上げてよいものかと思案しておりました。ですがそう言う向きであれば、差し支えはござらぬでしょうか」
左衛門佐が、あ、とまた思い出したように口を開けた。
「ええ、左衛門佐殿や弾正左衛門尉殿のこともよろしければ、文を送られればきっと公方様も頼もしく思われましょう」
「されどいまさらと思われるやもしれませぬ。どうにも時間を空け過ぎ申した」
弾正が、針を刺した指を袖の上から押さえた。
五郎の一言が欲しいようだった。
「では、御不快でなければ治部から一筆添えさせていただきたく。上洛のために、過去の経緯を飲み、後背を固める約定を結んだ家となれば、決して御不快には思われますまい」
長尾が公方と直接深くつながることを、今川は妨げない。それどころか、その接触を今川が問題視していないことまで示す。
そのことは、いま交わした誓紙以上に、長尾には意味があるかもしれなかった。
弾正が五郎の眼を見た。しばらく動かなかった。
だが、次第に弾正の眼の険が少し消え、静かに頭を下げた。
「越後の無作法ものゆえ、治部殿に骨折り申し訳ござらん。是非にお願いしたく」
「何を申される。公方様を支える同じ武家にございましょう」
五郎も頭を下げ、それから左衛門佐を見た。やはりどうしたものかと、思案していた。
「いかがでございましょう。約定の固さを示すためにも、左衛門佐殿も文を出すというのは」
左衛門佐は少し気まずそうな顔をしたが、こちらもすぐに頭を下げた。
「無論、村上もお願いしたく」
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社殿の裏手に、木立の切れたところがある。
石を組んだ低い台が一つ置いてあり、五郎はそこへ腰を下ろしていた。日に温められた石が、薄い衣を通して伝わって来る。左右には弟が二人、同じように腰を掛けていた。
家臣は木立の外まで下がらせてある。話の聞こえるところには誰もいない。
ふと左の親指にぬるりとした感覚を覚え、見てみるとまた血が滲んでいた。半刻ほど前、誓紙へ血判を押した指である。手拭いで拭ってから、懐に左手をおさめた。
社の表からは市の声が聞こえている。馬の値を言い合う声が山に返るのか、ときどき二重になって届いた。
松寿丸は、背が五郎に近いところまで伸びていたが、肩にはまだ少年らしい薄さが残っている。芳菊丸のほうはさらに小柄で、腰を掛けると足が地に届かなかった。爪先で土を掻いている。
二人とも日に焼けていた。松寿丸の方が、いくらか黒い。
「信濃の夏は過ごしやすい」
五郎がだれに聞かせるでもなく、ぽつりと言うと、松寿丸が嬉しそうな顔をした。
「ええ、山々がそうすると土地の者も申しておりました。夏は隣国よりも良く冷え、眠るも起きるも容易いと。現に松寿丸は一日外を歩いても、ばてませぬ」
「兄上は土地を歩き回っておられるのですか」
芳菊丸が意外そうに言った。松寿丸は僅かに胸を張った。
「蒲柳の質の強がりなどと言うてくれるな。手習いの小さな領地とはいえ、歩いて回らねば顔も覚えてくれぬ」
松寿丸は兼ねてからの話通り、信濃の小さな領地の代官に任じられた。これをもって家を出た、ということではなく、五郎が幼きとき遠江で代官地に触れたことを例にとり、松寿丸の今後のためとした。また、それとさらに大きな領地を信濃に与えるためとして、家中で通した。
母や祖母は僅かに心配を顔に滲ませていたが、松寿丸の側付きの一掃という意図を滲ませると、致し方ないと了承をした。
「左様でございますか。というより、芳菊丸がお聞きしたいことは、信濃の麻の一件にございます。領地を歩き回るとなれば、このあたりにも関わっておられるのでしょうか」
松寿丸は少し考えた。何から話そうか、と腕を組んで唸った後、ゆっくりと話し出した。
「そちらも少しだが触れさせてもらった。人を集め、値段を決め、何処に卸すかも決める。一から全部やるわけではないが、決める場には顔をだした」
芳菊丸の目がにわかに輝いた。
「いかがでした」
松寿丸は、その勢いに苦笑する。
「いかがと言われても、そうだな。下々もよく考えている。そのあたりであろうか」
「と、申しますと」
「気を抜くと、あ奴らは互いに敵対したふりをして、こちらの仕事の邪魔をする。そのうえで和解するから、今川が一歩譲れなどは普通に求めて来る」
五郎は黙って聞いた。血腥い手を考えず、話を聞くあたりは松寿丸らしさだろうか。
時間を割き、味方に組み入れる相手、早々につぶした方が良い相手、そのあたりの見極めを行うこと自体、松寿丸にはあわないのかもしれない。
とはいえ、自分の思い通りにならぬ相手と話し、相手も相手の勘定で動いていると知れば、今はそれでよかった。
芳菊丸が楽しそうに頷いた。松寿丸は困ったように息を吐く。
「変な男だな。そのように楽しそうにしてどうする。下々を無礼と怒らぬのか」
「いえ、良き学びにございまする」
松寿丸が顔を顰めた。だが不快そうではない。
二人の弟がこうして向かい合うのは久しぶりだった。五郎は黙っておこうかとも考えたが、話の方向を変えることにした。自分にとって都合の良い方向に押した。
「芳菊丸は越後に行ったとき、青苧と湊を見たらしい。あれを押さえれば力になると、どうやら考えておるようだ」
芳菊丸が首を横に振り、真剣みを帯びた目で口を開いた。
「それだけではございませぬ。越後の長尾殿は、堂々と三条西家の青苧公事の上りを横領しておきながら、今では公方様や朝廷ともつながり家格を上げようとしておりまする。国内を抑える力だけではなく、その名分さえも得ようとしておられます」
「越後の長尾殿な」
松寿丸がうつむいた。やはりまだ顔に出る。
五郎は少し言葉を足した。
「松寿丸の舅殿と長尾殿は難しい間柄である。ただ、今後は多少にらみ合いも緩まろう」
先ほど結んだ盟約で、村上と府中長尾が親しくなるわけではない。高梨や上田をめぐって、それぞれ自分の利を求めることも変らないだろう。
ただ、揉めるたびに兵を出すことは難しくなる。
「今後は越後の青苧が、信濃にも多少は流れて来る。松寿丸も見ておくとよかろう」
松寿丸が眉を寄せた。今度は明確に、不快と訝しみが、顔に浮かんでいる。
「根付きつつある、麻がつぶされませぬか。青苧も布に使いましょう。麻布を買うはずの者が、青苧の布地を買っていくことになりませぬか」
五郎は目を細める。
「使い道が違う。求める人間も違う。だが、その懸念はあるやもな」
「ではどういたしまする。青苧を禁じますか」
五郎は顎を撫でた。
以前なら、松寿丸はどうすればよいかと訊いて終っていた。いまは自分なりの策を一つ出してから訊く。
信濃へ置いたのは、悪くなかったらしい。
五郎が二人の顔を順に眺めていると、芳菊丸が居心地悪そうに言った。
「御屋形様」
責めるような声だった。五郎は、品定めをする顔から、平時のものに顔を戻した。
「許せよ。されど、そうであるな、そのことは松寿丸と芳菊丸の手習いとしよう。どうすればよいか、まずは二人で文のやり取りでもして考えてみよ」
五郎自身には、大方の見当はついていた。
麻と青苧では用途も買い手も違う。何より値段が異なる。ゆえに越後の青苧が多少入って来ても、ただちに信濃の麻を潰すとは思えない。まして越後一国が、長尾の思うままになっているわけでもないため、長尾が増産をすぐさま奨励できるとも思えなかった。
ただ、それを今ここで教える必要はなかった。二人で調べ、文を交わして結論を出せばよい。そうする姿を内外に見せることは、五郎の意に沿ったものである。
弟らは兄の心を察したところはなかった。ただ、驚きとともに顔を見合わせた。
「よろしいので」
「もう良かろうよ」
今の松寿丸の側には、駿府のころより付いた者は一人もいない。
かつて松寿丸の側に付き、芳菊丸との間で対立を煽った者は、五郎が一人ずつ呼び出し、腹を問うた。
どうするつもりか。自分の意に反しているが、それは家ごとか個人の意思か。
弁解はほどほどに聞き、そのうえで謀反か、切腹か、これを最後として心をあらため、弟から離れ職務に励むか尋ねた。
その結果、松寿丸の周囲は総入れ替えの運びとなった。これにより、芳菊丸の周囲も随分静かになった。
五郎は懐に入れた左手を開閉しつつ、二人の弟を見た。
「芳菊丸も商いのやり方と力の付け方を知りたいのであれば、信濃のことも手を抜くべきではなかろう。存分にせよ」
芳菊丸が嬉しそうに頷いた。やはり、越後で見たことをすぐにでもやりたかったらしい。
五郎が口を閉じ、一歩引くと、二人はすぐに話し始めた。
麻の値がどうの、湊の口銭がどうのと言っている。芳菊丸は身振りを交えて話し、松寿丸は石の上へ指で何かを書いた。数らしい。
五郎はしばらく見てから立ち上がった。二人はこちらに気が付かなかった。
そのまま、五郎は木立の外の者へ目配せをして、二人をしばらくそのままにしておくよう命じた。
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五郎はその足で大社の別の一室へ向かった。
廊下は日陰になっていた。板が冷たく、足の裏に心地よかった。
案内のものが襖を開けると、その一室には、駿府から呼び寄せた前信濃守護、小笠原正安入道が待っていた。
板の間に脇息を置き、そこへ肘を乗せている。剃った頭はよく日に焼け、手には数珠を持っていた。信濃を今川が押さえたとき、正安入道には守護の座を退いてもらい、駿府へ移した。扶持と館を与え、相談役として禄を与えている。
正安入道が、信濃に戻るのは今回が初めてになる。
今川の統治が馴染む前に、小笠原の前当主が信濃へ戻れば、好むと好まざるとにかかわらず人が寄る。それは信濃を固めるには望ましくないことであった。
だが、五郎が関東で十万を打ち破り、次第に信濃、西三河を踏み固めると、次第に正安入道の名を口に出す人間も減りだした。
無論、松尾小笠原など小笠原一門には、正安入道を駿府との縁として頼みにする人間もいる。
「呼び寄せて済まぬな入道殿」
「いえ、久しぶりに信濃に戻れ、楽しゅうございました。にしても無用心にございましょう」
「それは村上殿にも聞いた」
正安入道は数珠を左手へ持ち替えた。分厚い手には、数珠が明らかに馴染んでいない。
「村上殿が仰せになったのは、御屋形様が会談に一人で臨んだことにございます。こちらは御舎弟二人と同じ場所にいたことにございます」
五郎は苦笑した。これは返す言葉がなかった。
当主の子供が生まれておらず、いざという時の同腹の弟らが当主と同じ場所にいる。腹に野心を一粒でも抱えた人間にとっては、千載一遇の好機である。
「確かに周囲を五千の兵で囲んでも、万が一があるか」
「芳菊丸様の迎えなど、聊か致し方ないことであったと思いまするが、ご賢察をお願い致しまする」
どこまで本気で案じているのかは分からなかったが、言うべきことは言うつもりらしい。
五郎は静かに腰を下ろした。
礼儀作法にも、一家言ある正安入道だが、居住まいには文句を言わなかった。及第点らしい。
五郎はこれ以上責められては叶わないと、本題を切り出した。
「松尾小笠原は美濃に縁があるそうだな」
唐突な言葉に、正安入道の瞼がわずかに動いた。だが、予感はしていたらしく、それ以上の動揺は見せなかった。
「美濃の苗木などは未だ、松尾の名残がある。そう言ってもよろしいかと」
「左様か」
松尾小笠原の当主本人から聞いた話である。五郎は、あえてもう一度訊いた。
正安入道はこちらを疑るような視線をやった。
「上洛の際、通られまするか」
「いや、大軍は通れぬ。それに、既にしばらくふさいでおくように言ってある」
大したことはしていない。夜盗が出る、美濃守護とその弟の争いで家々が争っている。そのような話を流しているだけだ。
正安入道は数珠を膝へ置いた。
「であれば、拙僧に何を」
五郎は何でもないことのように言った。
「何かあれば松尾に無茶をさせるかもしれぬ。入道殿にも松尾を安心させるように文を書いていただく、そういう運びとなった際は一つ頼みたく」
正安入道は口を歪めた。
しばらくそのまま五郎を見ていたが、やがて静かに唇を舐めた。
「無論、御屋形様の相談役故、たやすいことにございます」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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