6章_13
五郎が榎下城の見えるところまで来たとき、戦はもっとも激しいところに差しかかっていた。
城の東と南には山内勢の陣が幾重にも張られている。堀を掘り、柵を立て、その間を兵が絶えず動いていた。城外に出ていた今川兵は堀の外まで押し戻され、そこで踏みとどまっている。踏み荒らされた土は黒く、その上に人が倒れていた。
押し合う声、指図する声、人の名を呼ぶ声が重なり、一つの唸りになって届く。風はこちらへ吹いていて、焦げた臭いもした。何が焼けているのかは分からなかった。
東から五郎の一手が下って来るのを、山内勢も見つけたように思えた。
此方が間合いに入ると、山内勢の後方の陣が動いたのだ。待ちかねていたとばかりに、予備に置いてあった一団が東へ向きを変える。旗が次々に回るのが、遠目にも分かった。
五郎は馬上にいた。鞍の前輪に手を置き、少し身体を預けている。日は高く、兜の下を流れた汗が耳のところで乾き、そこだけがかゆかった。
右後ろに長尾弥四郎房景、左後ろに上田長尾の若者がいる。二人とも馬に乗せてある。歩かせていては、こちらの兵が動く邪魔になる。ここまでの連戦に次ぐ連戦に、明らかに疲れが顔に浮かんでいる。
五郎は彼らがまだついてきているのを認めると、ただ一言を発した。
「かかれ」
それだけを言うと、五郎は手をかざした。
それと同時に、物頭たちがそれぞれ兵を前へ出した。五千弱の今川勢は山内の陣へ正面から押し込まず、端へ食いついた。食いついたところを離さず、その脇へまた別の隊が食いつく。
「但馬守と出羽守は迷いませんでしたな」
天野宮内が馬を寄せて来た。手綱を短く持ち、鞍上で身体を起こしている。
予想の内、あちらにとって最悪の一手としては、どちらも選べず程田の陣で右往左往するというものもあった。だが、さすがは出羽守だろうか、勝ち目のある道を進んだ。
感心したように宮内が頷く。
「引いてくれば、挟撃、下がれば追撃、迷えば崩壊。どれでも良かったのですが、前に出てきました」
五郎は戦場を見たまま答えなかった。宮内も返事を待たずに続けた。
「ふむ、手練れでございましょう。しかし、」
「国人らの崩れが早い」
五郎はまた短く言った。
崩れ始めているのは山内の直属ではない。旗の色が揃わない一角だった。前へ出るのが遅く、退くのが早い。まだ押されてもいないのに後列が半歩下がり、それが隣へ移って、陣の線が波を打っている。
この崩れ方は良く見るものだった。当主が国衆をつかみ切れておらず、多少の不利で離脱する。我が身にも起こりえると思えば、苦い思いが腹から湧き出て来る。
ただ一方で、無理もない話だとも理解していた。飯も草鞋も自前で、死ねば自分の家の兵が減る。その損を守護や当主は、通常は埋めてくれるわけではない。
内心を知ってか知らずか、宮内は少し口角を上げた。
「今川軍が来る。陣に留まれば領地を焼かれる。榎下城に攻めかかる兵は随分減っておられる。一万を優に超えるという話でございましたが、いいところ八千程度でしょうかな」
「それだけ留めたということは、出羽守と但馬守が踏ん張ったか」
平井から北の村を焼いたことは、すでに国人衆の耳へ入っているはずだった。焼かれた村と焼かれなかった村がある。陣に留まっている者ほど、自分の領地がどちらになるかを考える。そう考えさせた時点で、勝ちは決まっている。
この勝ち筋は固い。少なくともあの武田五郎や、松平次郎三郎でもどうにもならなかった。長野出羽守でも無理だろう。それはきっと、己にもそうだ。
考えている間に、城の備えから岡部の兵が動いた。
これまで守りに徹していた兵の間から、身軽な一団が出て来た。門は使わず、堀の浅いところを越えている。籠っている間に出られる場所を調べてあったのだろう。堀を渡ってから隊の形になるまでが早かった。
岡部の兵が前に出ると、山内勢の動きが目に見えて鈍った。
東から来る五郎の兵と、城から出た岡部勢、その両方を気にし始めたのである。挟撃を恐れ、前に出る足が遅くなっている。
「頃合いかと」
宮内が、ぽつ、と言った。
五郎は、また手を上げた。
物頭たちがすぐに動き、南にわずかな逃げ道を作った。塞いでいた一隊を、押されたように後ろへ引かせる。道を開けたのではなく、陣が緩んだように見せた。
騎馬が国人衆の陣前を走った。
「そなたらは山内の兵、竜春丸殿の兵であろう。逃げれば追わぬぞ」
「公方様は竜春丸殿を当主として認められた。関東管領に逆らうのか」
同じ言葉を、何人もの者が繰り返して行く。
五郎は目を細め、宮内を視界の端に捕らえた。やはり楽しんでいる。
「二つ目は言い過ぎだろう。大樹は東など見ておられぬのではないか」
此度は何を言わせるかは宮内に任せてしまった。
宮内が口の端を上げた。
「ええ、ですのでそこまで言ってしまっても気が付かぬかと」
「存外、根に持つ方らしい。ほどほどにせよ」
将軍義晴から来た文はいまも懐にある。おおよその気性は察した。会うとおそらく損をする類の人間だろう。
宮内と話しているうちに、山内方の国人衆の陣が崩れ始めた。
一隊が旗を下ろし、そっと列を離れた。初めはわずかな人数だったが、それを見ると別の者も続いた。南の空いたところへ向かい、そこを抜けると走り出す。走る者が出れば、その後ろも走った。
五郎は追わせなかった。彼らの首は、今とっても値が付くものではない。
上田長尾の若者が、逃げて行く兵を眼で追っている。よいのか、と気にしている風だった。
もう十分だった。五郎は声を張った。
「圧をかけろ。前後で挟め」
五郎は手綱を引いた。
「おや、もうよろしいので」
「そのうちに決死隊が来る。箕輪城の兵から見るに、出羽守はそれぐらいできるだろう」
箕輪の城兵は、落城しても殺さぬと触れたのに城門を開かなかった。石を積み、攻め手へ落すところまで仕込んでいた。その城兵を作った男が、このまま崩れて終るとは思えない。
それに榎下城に攻めかかるという、その細い道を見失わなかった男でもある。五郎の首を取るぐらいの博奕はするだろう。
宮内はうすら笑いを引っ込ませ、恭しく頭を下げた。
「では、誘い込んで、つぶしておきまする」
「嬲る必要はない。緩くたわませ、分断、いや、よい」
そこまで言えば十分だった。
今川の陣には、五郎自身を狙って斬り込まれた場合の動きがあらかじめ決めてある。本陣の左右をどれだけ空け、敵をどこまで入れ、誰が最後に閉じるかまで、調練で繰り返してあった。
五郎は馬印のそばを離れ、味方の中へ入った。旗指物のない兵の間に紛れる。
馬印は動かさなかった。あれはこの状況では単なる飾りに過ぎない。敵を寄せるための飾りだ。
弥四郎房景と上田の若者も、同じところについて来た。五郎が馬を進めると、二人もただ黙って後ろについて来た。両家とも越後では相当な食わせ者らしいが、意外にも家中は職務に忠実なようだった。
五郎が兵に紛れ、馬の向きを変えたあたりで、敵陣が大きく動いた。
喊声が一度途切れ、奇妙に静かになった。その静けさの中で、一団が鏃の形を作った。
鏃の先は五郎の馬印、飾りへと向いていた。
数は二千から三千ほどで、先頭に年嵩の将がいた。将は馬にまたがり、槍を振り上げた。おそらく長野出羽守であろう、誰に言われるまでもなくそう感じた。
「行け」
出羽守が雷のような声で言った。遠く離れていても聞こえた気がした。
その声に合わせ、鏃の山内勢は今川の陣へ突き込み、そのまま前へ進んだ。
今川勢は左右へ開きながら、槍を振り下ろした。振り下ろし、下がり、突き、下がる。それを繰り返し、少しずつ広がり、鏃が通り過ぎるとまた閉じた。訓練通りの動きだった。兵らの中に、出羽守の勢いに圧された者はいないようだった。
そして、この動きで、鏃の両側から、一人ずつ兵が削られていった。鏃は細くなりながら、それでも先端だけは前へ出た。
「行け、行け」
出羽守の声だけでなく、山内勢の中から声が上がっていた。
前へ、前へ、ひたすら前へと鏃が飛んだ。そして、とうとう先端が馬印まで届いた。
「見事」
五郎は少し離れたところから眺めていた。それ以上の言葉がなかった。確かに、出羽守の武勇と度胸は、五郎の首に届き得た。だが、五郎の臆病がその刃を逸らした。
五郎がつぶやき終わると同時に、徐々に狭まっていた今川の左右が完全に閉じた。
ゆえに、そこから先は見えにくくなった。見ても詮のないことでもあった。
五郎は馬印の方から眼を離して、鏃が突き進んだ今川の陣を見た。
自陣は大きくたわんだが、崩れてはいない。敵を内へ入れるために広がっただけである。訓練通りの動きであったためか、倒れ伏した兵は見当たらない。怪我人は出ただろうが、兵はほとんど失っていないように見えた。
また、山内勢の本陣を見ると、こちらもすでに終わりが見えていた。
戦の要である出羽守と腕の立つ者が、いまの突撃へ出たように見えた。それゆえに、残った兵は動きが鈍かった。岡部勢が城から押し、五郎の兵が東から穴を塞ぐにつれて、山内の陣が小さくなっていた。
こちらも見る物はもうなかった。
五郎は手綱を引き、榎下城を見た。土を掻き上げた城である。土塁の矢来は方々で折れて垂れ、門の脇には俵が積み上げてあった。
目を凝らせば、こちらを窺う小さな童が、城の合間から見えた気がした。
五郎は息を吐き、肩を回した。
上洛の支度が止まって、すでに一月半が過ぎていた。
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「御料様、終わりましたぞ」
「ご苦労」
五郎が床几で待っていると、宮内が戻って来た。
目立って汚れてはいない。籠手の緒を締め直しながら、床几の脇に立った。
陣は田の畦を潰した場所に張ってある。幕を張り終える前に戦が終ったため、一方だけが立ったままになっていた。日はまだ落ちていない。
五郎は兜を脱がない。そのため汗が滴となって、首から滴った。それを流れるままにしながら、五郎はまず尋ねた。
「出羽守は」
「討ち取り申した。馬廻りが槍を入れ、仕舞でございます」
「誰だ」
宮内が指を二本立て、それから一本折った。さも、今思い出しています、とばかりの素振りである。
「確か、信濃、小県から様子見で出された男で、真田と」
「真田次郎三郎か」
知った名だった。旗印も覚えている。
五郎が知っている真田は、もっと後の世の者である。父祖の誰かかと思ったが、すぐに考えるのをやめた。詮のないことである。
宮内は、五郎の答えに少し感心したようだった。
「御存じでしたか。様子見の国人子弟らの中では良く働きまする。尾張か三河に植えても良き塩梅かと」
「覚えておく。次郎三郎は後で呼べ。ただ出羽守の首は晒す必要はない、箕輪城に送っておいてくれ」
宮内は何も言わず、頷いた。
晒して意味のある首ならば、頭骨がむき出しになるまで晒す。晒して意味のない首ならば、国元に帰した方が面倒がない。それだけである。
ただ、五郎本人としての我儘ならば、あれほどの男は晒したくはなかった。
五郎がそう命じると、にわかに陣の入口が騒がしくなった。
見れば立派な鎧姿の初老の男が、後ろ手を縛られ、轡を当てられた状態で連れて来られている。その後ろに岡部左京進、小山田越中守、穴山甲斐守らが続いていた。今川方の三人は、出立したころと大した違いはなかった。幾分草臥れ、髭も伸びていたが、泥に塗れてもおらず、きれいなものだった。
三人の内、左京進だけが一歩前に出て跪き、他の二人も続いた。
そして、肝心の初老の男、おそらく長尾但馬守は、五郎の前で膝を折らされ、血走った眼でこちらを睨んだ。髪は乱れ、烏帽子もない。轡の紐が頬へ食い込み、そこだけ色が白かった。
五郎はひとまず、左京進達に視線をやった。
「左京進、ご苦労」
「何のことではございませぬ。ずっと座って無駄飯をいただいておりました。ただ、策を変えられ五千で前に出られるとは思っておられませんでした」
五郎はわずかに腰を引いた。左京進が前へ出たからである。
土の上を膝で二つ進んだ。膝の下で小石が鳴った。
「御屋形様。子が出来た、誠に目出度いことにございまする。されどそれは御身を危険にさらしてよい証左ではござりません。御先代は、若くして父君を無くされ、家督相続に相当な苦労をなされたことを知らぬとは、」
五郎は口を挟んだ。
「此度は勝算あってのこと、わが身を惜しむ策もあった。それよりも竜春丸殿は如何した」
その様に話を変えると、左京進は訝しそうな顔をしたが、いったん口を閉じた。
大きな息を吐いてから答える。
「熱を出されて寝込んでおられまする」
三つの幼い子供である。一月近く城に籠っていたのだから、熱ぐらい出しても不思議ではなかった。
「そうか、では養生していただかねばな」
「左様ですな。明日の関東管領でございます。万が一があってはいけませぬゆえ」
左京進も疲れた顔で頷いた。
すると但馬守が激しく首を振り、自分で轡を外した。
兵が押さえようとしたので、五郎は眼で止めた。
「この、」
「左馬頭殿、生きておられる。腕もついている」
先に出るのは罵声だと思ったので、五郎が先に言った。
すると但馬守の顔から、怒りが一瞬消えた。
「もはや関東、上野や武蔵には戻るまいが、粗略に扱う予定もない」
送った腕は、箕輪で討った城兵のものだった。
左馬頭と年恰好の近い者を彦次郎に選ばせ、塩に詰めた。左馬頭の側付きだった男に文と一緒に持たせたのである。
使者には、余計なことを言えばすべて焼くとだけ伝えた。嘘はなかった。
但馬守は言葉を受け止めると、一度地面を見た。
それから、また五郎を見た。沸々と腹の中が煮立っているのがありありと伝わった。
「山内方の治部に対する怨嗟、左馬頭殿からすでに馳走になった。但馬守殿には別の話がしたい」
言うと但馬守の顔に、朱が次第に差していった。
しかし、先ほどまでの熱量はそこにはなかった。何かを噛み殺しながら、言葉を途切れさせ問うてきた。
「なにか、治部殿」
「竜春丸殿を支える気はあるか。私心なく、恨みを捨て、ただ上野と武蔵だけを安んじる。能うか」
五郎は但馬守の眼を覗き込んだ。目の奥にあるものは何も動いていない。
いや、とぐろを巻き、こちらに飛びかからんと姿勢をゆっくりと変えているようだった。
その目の奥にあるものが、蠢く度に但馬守は何度か口を開閉させた。
やがて、目の奥が据わると、言葉をこぼした。
「ええ、但馬守は家宰にございまする。扇谷上杉、古河公方との縁を取り持つは容易く、上野、武蔵の国人衆らも大人しくさせるのは本分にございまする」
「頼もしいな」
そう言い切れる人間は少ない。庵原安房守に似たようなことをさせているが、あれは謙遜するだろう。
五郎がそう言うと、但馬守は口だけで笑みを作った。
「治部殿にそのように言っていただけるとは、誉れにございますな。不世出の英傑の手となり、足となりこれに尽くす、いやはや武家冥利に尽きましょう」
「して、能うか。誓えるか」
五郎は二度目の問いを投げた。
「家宰の働きというものは誓う、能うというものではございませぬ。まずは全権をお与えいただき、そのうえで見えぬところで陰日向にて主君を支えるそう言う物でございます」
だが、但馬守は縛られたまま、とうとうと話し始めた。
膝は土につき、袴の裾まで黒く汚れている。それでも背だけは伸びていた。
「家のため、主君をだますこともございます。鍛錬を続ける若き主君を、良くやったと褒めることなどできようもありませぬ。嫌われ者、憎まれ役でございます。主君が失態をすれば、家宰の専横。家宰が功を挙げれば、これは主君の英断。それが出来てこそ家宰にございましょう」
但馬守が喉を鳴らした。いつかを思い出しているようだった。そして、思い出し終わるとまた続けた。
「山内上杉ほどの家の家宰であれば、都合の悪い当主を変えるも当然でありまする。出来が悪い、家中に心を配れぬ者などであれば、挿げ替えるために動きましょう。それを見るに、御屋形様はまこと都合のよい方にございました」
「但馬守」
五郎が小さく言ったが、但馬守は止まらなかった。
「御屋形様はまず血筋が良い。それに知恵働きの塩梅も良い。治部殿のように全てをお見通しというわけではござらぬ。されど、人の真意程度はある程度察し、但馬守のやることの裏を薄々察し、邪魔などは致しませなんだ。子犬の様だと考えたこともございまするが、あの方はあれでよかった。江戸城の一件がなければ、鍛えがいのある御方として御支え出来ました」
「最後だ、但馬守。誓うか」
但馬守の口が閉じた。眼も閉じた。
からん、とどこかで桶が転がった音がした。
但馬守が、それから目を見開いた。目の奥はやはり変わっていない。
但馬守は恬淡とした顔で、するりと言葉を吐いた。
「殺せ、悪鬼め。貴様にだけは頭は垂れん。精々苦労されよ」
「わかった。すぐに一席設けよう」
但馬守は自分で立ち上がった。
後ろ手に縛られたまま、膝を使って身体を起こす。そのまま外へ歩き出した。
縄を持っていた兵が慌てて後を追った。左京進が眼で合図し、さらに二人を付けた。
但馬守は一度も振り返らなかった。
歩き方は、連れて来られたときよりも背筋が伸びていた。
「山内上杉はこれで崩れたか」
五郎はそう言って、首を回した。




