6章_12
五郎の眼前で城攻めが始まった。
五郎は、箕輪城から半里ほど離れた丘に床几を据えさせ、そこから攻め口を見ていた。丘とはいっても、田の中に低く土が盛り上がっているだけの場所である。頂に松が三本あり、その根もとに床几を置いた。
率いて来た兵は五千だった。尾張で戦を終えたばかりなので、無制限にとはいかなかった。
ただ、それでも五千を出してなお、少し余力はあった。兵の質に関しても十分であり、三国峠を越えるまで、脱落する者は一人も出なかった。峠を下りて平地へ出ると、隊列の後ろの方で唄をうたう者まで出た。
その気になれば、さらに五千ほどは動かせた。だが政治の制限が一度に通過する数として、五千以上を許さなかった。
ありていに言えば、通り道の領主がそれを許さなかった。どれだけ五郎が条件を加えても、それ以上の兵がまとまって動けば、侵略されるのではないかという懸念から首を縦に振らなかった。
五郎は膝の上で采配を回した。掌が乾いているので、柄はよく指にかかった。采配を止めて、左右を見た。
長尾の名を持つ者が幾人かいる。
右にいる集団の中で、目立つものが長尾弥四郎房景。府中の長尾為景が、約定の見届け役として付けた男だった。
年嵩で、鼻の頭が日に焼けている。先ほどから城を見たまま、ほとんど身体を動かさない。
そして、五郎を挟んで反対側の左には上田長尾から来た者がいた。府中長尾とは別に力を持っている越後の国人である。名は聞いていないが、上田長尾の一門らしい。こちらは若く、ときどき五郎の横顔を窺っては、すぐに城へ眼を戻した。
この二人がここにいる理由は、上野へ入るために、五郎は越後を通ったからだ。
無論、五千の兵を率いて、数年前にもめた相手が通してくれと言っても、二つ返事で済む話ではなかった。越後には、幾つか担保を置いて来ている。
その一つが実弟の芳菊丸だった。今川は越後を侵さない。その約定の証として、芳菊丸を府中長尾の館へ人質に置いたのである。
この話には、母の寿桂尼も祖母の北川殿も強く反対した。北川殿は数珠を持ったまま半刻ほど口を利かず、寿桂尼は席を立つと、その日は戻って来なかった。それでも五郎は譲らなかった。最後に話がまとまったのは、当の芳菊丸が行くと言ったからである。
ただし二つ約束をさせられた。一つは、必ず芳菊丸を連れて帰ること。
もう一つは、生まれて来る子の養育について、五郎があまり口を出さないことである。二つ目の約束を、北川殿は三度言わせた。三度目には寿桂尼が、父の位牌まで持ってきて誓わせた。
そうこうしているうちに、城の方で喊声が上がった。
「あの城の主、なんだったか」
「長野出羽守という男ですな。いかがいたしました」
そばに控えていた天野宮内が、少し身を屈めて言った。
「堅い城だ。よく備えている。城主の仕込みが良い。後詰の五千、待つ必要はなかろうが、聊か厳しいな」
留守城を衝いたのである。それでも守りは固かった。
以前、三河の吉田城や、二連木城と同じようにするりと落ちると思ったが、既のところで踏ん張っている。
箕輪城は山裾を削りながら幾つもの曲輪を置き、曲輪の間を深い堀で切っている。堀から上げた土を土塁に積み、その上へ矢来を組んであった。門へ通じる道も折れている。勢いをつけて、真直ぐ門へ突っ込むことが出来ない。
作りが中途半端で、甘いところもあるが、それを補ってなお、城を守る兵が気を吐いている。現に今川勢は、すでに一度押し戻されている。
選びに選んだ五千の兵が、跳ね返され、城の斜面を転がり、地団駄を踏んでいる。
おそらく今頃、三国峠を渡っているであろう、後詰があれば簡単に落ちるが待ってはいられない状況でもある。
「確かに死に物狂いですな。落ちても殺さぬ、そう申しているのに城を開けませぬ」
宮内が興味深そうに言った。
「そういう城もあるか。どう仕込んだか、ご教授願いたいが」
「聞いたところ、相当な堅物らしく。間合いに入れば切られましょう」
「そういう男か。扇谷上杉の駿河守と同じく、山内上杉にも人がいるものだ」
ここぞで支える家臣がいる。下剋上の世において、名門武家の名は物笑いの種になることが多いが、やはり名門は名門ということだろう。
「腐っても、関東管領でございますゆえ」
五郎は静かに頷いた。やはり、ここを先に押さえることにしたのは間違っていないと思った。
本拠を西へ移すと決めた以上、しばらく東へ大きく手を入れることは出来ない。濃尾平野を中核地とするには、長い時がかかる。そして、その間に関東で新しい勢力が育つのは面倒だった。山内上杉をいま押さえておけば、しばらくは東を気にせずに済む。
五郎が城攻めを眺めているうちに、ふいに東門が破れ、今川兵が門内へなだれ込んだ。動きは速かった。
そもそも五郎の直轄の兵は、選抜の段階で背丈、体格でふるい落としをしている。その兵としての素質が著しい者らが、鍛えられ、幾度もの訓練、戦を超えている。その者たちが盾を押し立て、破れた門から次々に入って行った。防ごうとした者もいたが、数と質で踏み潰されていった。
その兵の流れを見て、長尾弥四郎房景が、初めて何か呟いた。声が低く、五郎には聞き取れなかった。上田長尾の若者は身体を前へ出しかけて、すぐに戻した。
ようやく動き出した兵らを見て、宮内が満足したようで頷く。
「箕輪の城兵は強うございますが、やはり数がちと足りませぬな。拵えたらしき城の防備を活かし切れておりませぬ。随分と兵を南に割いておるせいでしょうな」
確かに箕輪の兵の多くは、榎下城を囲む軍へ出ている。そう言う風にしたのだ。敗戦と内訌を重ねた山内上杉に、榎下の囲みを保ったまま、箕輪にも十分な数を置けるほど余力はないと見ていた。
「左京進が上手くやってくれた。あとは沼田殿のお力添えか」
三国峠を越えて上野へ入るには、沼田領を通らなければならなかった。
沼田は北に上田長尾を控え、南では山内上杉の争いが続いている。どちらへつくとも決めずにいたところへ、五郎は、竜春丸方に味方するため五千の兵を通すと使者を送った。
返事は中立だった。条件は、沼田領へ手を出さぬことと、村や田畑を焼かぬことだけだった。銭も所領も求めて来なかった。通過する兵のために米を買いたいと申し入れたが、それも要らぬという返事だった。五郎はそれでも代金を置いた。受取状も書かせた。
「どこに行っても、まず第一声が燃やさないでくれ、でございますから。中々武名が響いておりますな。ああ、無論、助かると申しております」
宮内が含みを込めて笑った。
「軍神よりも荒神とでも名乗った方が良かったか」
「名付けた側としては、やはり軍神であってほしいものですな。いやはや、軍神に似合う武功を年々重ねられ、嬉しゅうございますぞ」
「駿府への当てつけが随分大きくなったものだ」
確かあれは駿府に殺されぬようにという、小細工だったはずだ。それが今は噂が噂を呼び、その名が定着しつつある。
小さく息を吐くと、弥四郎房景が五郎を見た。だが何も言わず、すぐに城へ顔を戻した。
ほどなく、城内の声が変った。押し合う喊声から、追う声になった。
曲輪の一つで火が上がったが、すぐに消えた。
日はもう西へ回っていた。五郎は床几に腰を据えたまま、首の後ろを揉んだ。凝りが奥に残っていた。この一月余り、馬に乗らなかった日の方が少ない。
それから一刻も経たぬうちに、城内から勝鬨が上がった。
やがて、抵抗が止んだという報せが来た。敵の負傷者は百に届かないが、討死は数えるほどだという。五郎は数をもう一度改めてから報せろと命じた。
「いくぞ」
床几から立った。
天野宮内と、二人の越後の見届け役が従った。
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城へ入ってみると、思ったより焼けていなかった。黒く焦げているのは門の周りぐらいで、そのほかは大方残っている。曲輪の土はひどく踏み固められていた。
井戸端には大勢の兵が集まっていたが、五郎を見ると一斉に膝をついた。
道端には、城兵から取り上げた武具が積んである。刀と槍は分けてあり、弓は弦を外して束ねてあった。その向こうに捕らえた城兵が座っている。
縄は打っていない。捕虜に縄を掛けるなという触れを、先に出してあったからである。城兵たちは五郎の一行を見上げ、すぐ眼を伏せた。中には、また顔を上げて見る者もいた。
破れた門のそばには、最初に使った丸太がまだ転がっていた。
上田長尾の若者は、転がった骸を見て、時折足を止めた。弥四郎房景は、そちらへ眼もやらず歩いた。
曲輪の入口まで来ると、井伊彦次郎が困ったような顔で待っていた。
彦次郎は、敵より味方に畏れられるところのある男だった。口が悪い。黙っていれば済むことまで言う。ただ兵の扱いに間違いはなく、戦場で任せておけば手抜かりもなかった。
「申せ」
彦次郎は困った顔のまま跪いた。
「関東管領がおられました。上杉左馬頭殿です」
周囲の人間が息をのんだ。目付の二人など、唖然と目をむいていた。
人一倍早く復活した、宮内が喜色を隠さずに揶揄った。
「井伊殿が腕を切り落としたお相手でございますな」
彦次郎の顔が僅かに苦くなった。武功には違いないが、公には出来ない一件でもあった。遠江の国人の子弟には、身を滅ぼしかねない武功でもある。井伊家と双方納得の上、褒美は十分に出したうえで、他言を禁じていた。
五郎は目を細め、一歩前に足を踏み出した。
「やめよ宮内。あれは同士討ちである。して、彦次郎、本物か」
彦次郎が顔を顰めたまま頷いた。
「まず、あの時の小僧にございます。見間違えはなく、身につけていた物からも、そうとしか思えませぬ」
目の前で見た男がそう言うのだ、間違いはないだろう。
そうなると、別の疑問がある。
「なぜ、ここにいた」
五郎が問うと、彦次郎が一歩退いた。
「少し医の心得のある者が、手当の最中に聞き出しました」
彦次郎は後ろにいた部下を一人、前へ出した。小頭の一人で、遠江の国人の子弟である。手の甲に血がついている。
男はそれを袴で拭ってから話した。
左馬頭は、当初布陣していた程田の陣で身体を悪くしたらしい。やはり、失った右腕の傷が膿み、天井のある場所で安静にする必要があると判断されたらしい。そのため、平井ではなく箕輪へ下げられて療養しているとのことだ。なんでも、この城の医者がほんの数日前に傷を開く、過酷な処置を行なったばかりとも言った。
その処置で危機は脱したらしく、いまは熱も落ち、気性も少し落ち着いていたとのことだった。
「ほう、下げられたのは平井ではございませぬか。ついておりますな、御料様」
宮内が愉快そうに言った。五郎は顎に手を当てた。
おそらくだが、平井城はその付近を、竜春丸派と左馬頭派の勢力が混迷としている。もしもを考えれば、愚直な出羽守の居城にて養生するほうが望ましいとしたのだろう。
「相手方の判断は悪くない」
むしろ快方に向かっているのだから、良いといっていい。
「確かに悪いのは運だけにございまする」
宮内が肩を揺らした。彦次郎と小頭は笑わなかった。
「予定では平井に攻めかかるつもりだったが、手間が省けた」
五郎は肩を回した。
平井へ行くつもりだったのは事実である。
この上野入りの支度は、関東の大戦の後からすでに始めていた。もともと越後との関係改善、村上との親善も進めており、竜春丸の周囲で火が着いたと話が来たあたりで、越後へは先に使者を走らせてあった。そして尾張の戦が終ると、休まず駿府へ戻り、芳菊丸を連れて信濃へ入った。
その様な経緯であったため、越後長尾との面談そのものは早く済んだ。互いに利が合い、その場で半ば固まっていた不戦を約した。
ただ、僅かにおそらく越後長尾に想定外があったのは、五千の兵と共に上野に入ることだろう。五千の兵は越後を攻め取るには足らぬが、荒らすには十分である。これをしない証に芳菊丸を置いた。正確には、押し付けてきた。
無論、越後長尾が許せば越後中を勝手に歩けるわけではない。府中長尾と合わぬ国人も多い。中でも上田長尾は独立心が強く、別に話をつける必要があった。
今川は上田荘を侵さない。城へ手を出さない。勝手な徴発をしない。兵糧は買う。用が済めば上野から兵を引く。
それを条件に、一時の不戦を約した。約させた。
そうした手順を一つずつ踏んで、三国峠を越えたのである。
尾張を出てから、まだ一月と少しだった。
「お疲れでございますな」
宮内が笑みを深めながら覗き込んだ。やはりこの男は、人の弱みを見ると力を出す質だ。
「気のせいだ。敵地で疲れなど見せれば討たれる」
「違いありませぬ」
宮内が何度か頷いた。しかし、この男も大概丈夫だった。尾張から駿府、信濃、越後と、五郎と同じだけ馬に乗り、同じだけ峠を越して来たが、顔色はいつもと変らない。
「関東管領殿と会いたい。彦次郎、供をせよ」
彦次郎が立った。立ちながら部下へ何か言いつける。命じられた小頭が駆けて行った。
五郎はその足で左馬頭の居室へ向かった。
二人の越後の見届け役は曲輪へ残した。関東管領との話まで見せる必要はない。弥四郎房景は心得たように足を止めた。上田長尾の若者だけは半歩ついて来て、慌てたように止った。そのあとも、こちらを見ていた。
左馬頭の部屋に入ると、饐えたような臭いがした。
蔀は下りていた。八畳の部屋で、床の間には何もない。壁際に櫃が一つ、枕元に膳が置かれ、椀が伏せてある。そのそばには、血のついた晒が丸めて置いてあった。
部屋の隅には、老人が一人座らされていた。この城の医者らしい。何か言いたげであったが、五郎が目配せをすると今川の兵に連れられて行った。
そうして取り残された、左馬頭はただ横になっていた。
眼だけを動かして五郎を認めると、今気付いたとばかりにすぐに身体を起こした。左手を畳についた。右の袖は肘の下で折り、糸で留めてあった。留め方は丁寧で、糸の色まで揃っている。誰かが毎朝やっているのだろう。
「今川治部」
左馬頭はそう言って、顔を憎々しげに歪めた。
五郎が話に聞いていた左馬頭は、もっとおとなしい、いかにも名家の御曹司らしい少年だった。だがその面影はほとんどなかった。痩せた顔で、眼だけが険しい、野良犬の如き様相である。
五郎は左馬頭の前へ坐った。采を膝の上へ横に置いた。彦次郎は敷居際に止まったまま、中へは入って来なかった。
「上杉左馬頭殿」
左馬頭は答えなかった。五郎の喉のあたりを見ている。
「御存じと思われまするが、今川治部太夫氏景と申すものにございます。此度は先に文に出した通り、上野の騒乱を隣国信濃の守護として治めに参りました。これは治部の独断ではなく、越後からも関東の静謐を望む旨の申し入れがあってのことにございまする」
「どの口が」
「確かに戦で御身を打ち負かさねば、このようなことにはなっておられますまい」
左馬頭が低い声で笑った。
頬には白粉が少し残っていた。笑うと、乾いたところに細い割れ目が出来た。今朝塗らせたのだろう。
「言ったな。やはりか。江戸の折は貴様か」
そう言った覚えはなかったが、左馬頭にはそう聞こえたらしい。論理の飛躍であるが、否定する必要も今はない。
「ええ、腕を落としたのは治部にございます」
実際に刀を振ったのは彦次郎だったが、それも今はどうでも良いことだった。
「上野を、山内上杉を揺らさんとしたのも貴様であろう」
「そうでございますな」
山内上杉は、五郎が手を出す前から揺れていた。実子を縊らなかったため、養子の左馬頭が難儀をしている。
「安中らを、竜春丸を焚きつけ、ことを起こさせたのもそうだろう」
「そういう向きもございます」
安中らが、扱いやすい竜春丸を担ぎ、勝手に今川の名を頼みに動き出した。むしろそう言うのが正しい。しかし、やはり細かく言う必要もなかった。
「卑怯者」
左馬頭が吼えた。身体が前へ出て、左手を畳についた。
「相違ございませぬ」
「今川如きが増長しおって、何が静謐のためだ。笑わせおる」
「おっしゃる通りかと」
左馬頭の声は止まらなかった。
「貴様が甲斐だ、三河だのと攻め取らなければ、我らが前に出る必要もなかったのだ。全て貴様が火をつけたがゆえよ。貴様が天下を乱しておるのだ。静謐が欲しいだ、そんなに欲しければ腹でも掻っ捌けばよかろう」
「胆識、お見事にございます」
「良く涼しい顔をしていられる、何が軍神だ。あれだけ燃やし、あれだけ殺し、周囲に称えさせ、従わなければさらに殺す。狂人以外に何があろうか」
五郎はそこで初めて喉を鳴らした。癖だった。
「何がおかしい」
「いえ、良く見ておられると」
そう言って、笑いかけると左馬頭はそこで息を切らした。肩を大きく上下させる。そのたびに、折り畳んだ右袖が揺れた。
息を整えるように一度唾をのんだ。
だが、それからしばらく黙り込んだ。残った左手を開閉し、やがて力なく床を叩いた。
そして、左馬頭は下を見て言った。
「もうよい。飽きた」
「左様でございますか」
左馬頭は項垂れた。夜着がはだけ、痩せた体躯に骨が浮き上がっているのが見て取れた。
「殺せ。殺して晒せ」
「それもよろしゅうございますが、今少し生きておられた方がありがたく」
左馬頭の眼がぎょろりと動いた。
そうして、初めて、まともに五郎と向かい合った。しばらく眼が合い視線が絡んだ。
左馬頭の方が先にそらした。眼をやった先には、血のついた晒が丸めてあった。
「何をするつもりだ。早く首を斬り、晒せ。そうすれば榎下城の包囲は解かれよう」
それも良い。首を槍に括り付ければ、自ずと竜春丸に恭順するものが増える。榎下城の包囲も徐々に散らばる。
加えて今川の軍が北から上野へ入ったことが知れれば、東にいる兵は箕輪の方を見ずにはいられない。そして兵が向きを変えたとき、それをまとめる者がいなくなる。
だが、もっと良い案があるのならば別だ。
五郎は少し頭を下げた。
「繰り返しまするが、生きていただきたく」
左馬頭がまた顔を歪めた。
「いまさら善君など気取っても遅かろう」
「それを気取ったことはございませぬ。ただ首を槍の飾りとするよりも今川にとり、都合がよろしい。それだけにございますれば」
左馬頭が吐き捨てた。傷口を掻きむしっている。
「今川を恨み、憎んでいる関東管領など生きていても利することはないぞ」
「治部を憎んでいる者を殺して回るのであれば、日の本から人がいなくなりましょう」
左馬頭の顔に、初めて怯えに似たものが浮かんだ。
「恨みがある人間も、色々と余地があるならば、使う次第にございます」
五郎はそう言って、もう一度頭を下げた。
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長尾但馬守は、机の上へ両肘を突いて、頭を抱えていた。
榎下城を囲む陣の本陣である。幕を四方に張り、風の来るほうだけ板を立ててある。机は板を二枚渡しただけのもので、片方の脚がわずかに短い。肘を乗せると、そのたびに傾いだ。
程田の陣はすでに解いた。あちらに置いていた兵は榎下へ回し、現状の上杉の戦力をここに集めている。当然、江戸城での二の舞は踏むまいと、夜番は三組に分けて二日に一度替え、そのたびに人数を数え直して書付を出させた。
無論、一万を越える兵を一所に寄せて食わせるだけでも、かなりの手間だった。米は方々の蔵から寄せ、足りぬ分は近在から買う。銭を持たせて出すわけにはいかないので、年貢から引くという書付を渡して運ばせ、その控えを机の下の箱に入れてある。
書付を出すのも、国人衆の陣を回るのも、扇谷方の修理大夫方と話をつけるのも但馬守の役だった。誰の役とも決まらぬことは、結局みな家宰のところへ来る。
山内の当主である左馬頭を箕輪へ下げてから、出来るだけ早く榎下を片付ける。長野出羽守はそう言い、但馬守はその案を採った。
採ったのは自分である。戦のことは、多少なりとも覚えがあり、出羽守の意見が正しいとも思った。
その時は、間違いなく。
幕が鳴った。
「お待たせして申し訳ござらん」
出羽守が入ってきて、眼前の床几に腰を掛けた。
険しい顔をしている。碓氷と榎下城の最前線を行き来しており、今は榎下城の視察から戻ったばかりだった。袴の裾が土で汚れていた。
この男は、囲みに入ってから一度も具足を脱いでいないと聞く。脱がぬことを手柄と思っているのではなく、脱ぐ暇の作り方を知らないのであろう。但馬守のほうは三日前に一度湯を使ったが、扇谷方との調整の前に整えたのだ。そのような当然の身だしなみも、この男の前では軟弱のように思えてしまう。
但馬守はほんのわずかに、出羽守の方を向いた。
「聞いておられるか、出羽守殿」
出羽守は己の城、箕輪城のことと思ったらしく、殊勝な顔で頭を下げた。
「落城の一件、まこと申し訳ござらん。越後や沼田とすでにそこまで話が進んでおったとは、この出羽守の見落としにございまする。武辺を気取り、府中に顔を出さずにいた怠惰が引き起こしたることかと」
「いや、そうではない」
それも無いとは言えなかったが、いま話すことは別だった。
但馬守は机の下から桐の箱を出し、出羽守の前へ置いた。
持って来たのは、左馬頭について箕輪へ行った者である。門外で名を告げ、悲痛な顔でこれを差し出すと、それきり何も言わず、静かに座り込んだらしい。
但馬守は既に一度、中を見ている。見てから蓋を戻し、紐も元のように結び直した。結び目を揃えるのに手間取り、二度やり直した。
「開けてもよろしいか」
但馬守は頷いた。
箱は紅く染めた絹の紐で留めてあった。もともとの紐であり、結び方も大層な献上物でもあるようなそれである。出羽守が紐の端を引くと、するりとほどけた。蓋も簡単に外れた。
「これは」
出羽守が顔を顰めた。
中には一本の腕が入っていた。
左腕だった。
塩と一緒に詰めてある。塩を掻き分けなくても、指の形まで見えた。水気はいくらか失せていたが、切り離されてからそう日は経っていないと分かる色をしている。
「御屋形様の腕、らしい」
但馬守がぼそりと言うと、出羽守は床几へ深く腰を落した。そのまま両手で頭を抱えた。先ほどまでの但馬守と同じように、両肘をつき、頭を抱えた。
二人とも、しばらく口を利かなかった。
「これを持ってきたものはいずこに」
「おらぬ。これを渡した後、目を離したすきに腹を切った」
「文など、言伝はあり申したか」
但馬守は机の上の紙を指さした。
出羽守はそれを取り、広げた。読み進むうちに、顔がまた固くなった。
「なんだ、これは」
但馬守もすでに読んでいる。
何とも今川治部太夫らしい、短い文だった。果断で、情の通わぬ文である。
一つ、上杉勢は榎下城の包囲を解くこと。
二つ、これが行われれば、左馬頭殿を返す。
書いてあるのは、その二つだけである。日も、場所も、返す手立ても書いてない。
「生きておられる、そういうことでござろうか」
出羽守が喉を上下させながら聞いた。
「生きたまま返す。などとは言っておらぬよ。遺体だけかもしれぬ。実際、出羽守殿も以前申した通り、御屋形様が没すれば、山内上杉の当主の争いは、竜春丸殿の勝ちで決まる。恐れ多いが、生かしておく理由は、」
但馬守はそこで黙った。察した出羽守も口を結ぶ。
幕の外を、水桶を運ぶ者が通って行った。桶の触れ合う音が、次第に遠ざかった。
また二人して黙り込んだ。口を開くのが億劫だった。
だが、但馬守はそのうちに、また口を開いた。
「出羽守殿。陣中では二つの噂が出回っている。聞かれたか」
「何でござろうか」
但馬守はこのところ、国人衆の陣を回り続けている。飯を見、替えの草鞋を回し、愚痴も聞く。子が生まれたので一度帰りたいという者には、荷の護りという名目をつけて帰らせた。
そうして回っていれば、噂も耳に入った。誰かが言いさして黙ったことを、別の陣で別の者が口にする。二つ三つ重なれば、大方の形は分かる。
「一つは、御屋形様が、もうこの世に居られぬ、そんな噂である。ゆえに山内上杉の当主、関東管領である竜春丸殿に国人衆が逆らう形となる、そう言う話よな」
「当主も関東管領も、幕府のお許しもなく、そう簡単に竜春丸殿にはわたりませぬぞ。不愉快であるが、そうなる目はある。だが、今日明日で固まるわけではないでしょうに」
「下の者らには分からぬ。して、二つ目だが」
但馬守は一度息を吐いた。先ほどよりもずっと、気怠さがあった。だが、言わねばならないことでもある。言わねば、確実に拗れる。
「何でござろう」
焦れた出羽守が突っ込んできた。
但馬守は気合をかき集め、それでも、なお小さい声で言った。
「出羽守殿が寝返っている」
「馬鹿な」
出羽守が勢いよく立ち上がった。
床几が後ろへ飛び、幕が分かれて見張りの者が顔を出した。但馬守は手を振って追い払った。
「そう、馬鹿な話だ。某は信じてなどおらぬ。現に刀を帯びた出羽守殿に、無手で首を差し出しておる。今も人を遠ざけておる、これが証よ」
但馬守は両手を開いて見せた。
出羽守は口を曲げたまま、倒れた床几ではなく、別の床几へ腰を掛けた。
「某は裏切ってなどおりませぬぞ」
「当たり前であろう。そう見る噂があるというだけだ。消しても消えぬ。火種があるゆえ」
「火種、でござるか」
出羽守が憎々しげに膝を叩いた。
噂のもとは明らかだった。
出羽守は左馬頭を平井ではなく、自分の居城である箕輪へ下げた。そしてその直後、北から入った今川治部の軍に箕輪が落された。その二つが続いたため、出羽守が左馬頭を今川へ差し出したという話になっているのである。
出羽守は憎々し気に吐き捨てた。
「確かに、某の読みは悪手でござった。しかし、その案は但馬守殿も承知のこと、他にも陣中で了承を得た上で進め申した。それだけで裏切りと申されるは納得がいかぬことにござる」
「確かに、な。だが、もう一つ言わねばならぬことがある」
「何をでござろう」
但馬守は、もう一通の紙を差し出した。
「読まれよ」
出羽守は奪うように受け取った。目を走らせると、そのまま紙を握り潰した。
「平井が落ちた。どうしてこの知らせを早く下さらぬのか」
「これはつい先ほどよ。大声で話せるものではなかろう。それにこの件が広まれば、裏切りなどというつまらぬ話はもっと広がる」
知らせを持って来たのは、平井の城兵だった。馬を三頭潰して来たと言い、話し終える前に土間で眠り込んだ。字が書けなかったので、聞き取った者に書かせたのが、その紙である。
今川治部の動きは早かった。
箕輪を落すと、城をすぐには使えぬ程度にだけ潰し、そのまま南へ下った。平井は攻め落されたというより、半ば内から開かれたらしい。箕輪が落ち、今川勢が南下すると知れると、平井で息を潜めていた竜春丸方が城門を開いたのである。
そのあと、左馬頭を奉じる者のうち、今川に抗おうとした者の領地が焼かれた。
当初、左馬頭に投げた文の通り、左馬頭に付いた国人から土地は取り上げていない。竜春丸方へ与えるという沙汰もない。ただ、刃向かった土地だけを戦の中のこととして焼いた。
そこまで話すと、出羽守も察しが付いたようだった。見たこともないほどに顔を顰め、歯をむき出しにしながら唸った。
「箕輪城の近辺は焼かれておらぬ。そういうことにございまするか」
但馬守は黙って頷いた。
すると出羽守が立ち上がり、大声を出しながら机を思いきり蹴飛ばした。板が跳ね、脚が外れた。桐の箱も滑ったので、但馬守は膝で受け止めた。
大きな音がしたが、今度は誰も幕へ入って来なかった。
出羽守は肩で息をしながら、また床几へ腰を下ろした。その息が静まるのを待って、但馬守はようやく本題に入った。
「どうすればよい、どう考えればよいのか。出羽守殿に腹案はあられるか」
「某に聞かれるので、裏切り者かもしれませぬぞ」
「裏切れるほど器用な方ではなかろう」
その言葉で出羽守の肩から少し力が抜けた。まだ顔の歪みは消えてはいないし、声の低さは戻っていない。
だが、それでも顎へ手をやり、しばらく考えた。
水を運ぶ兵が、二度、三度と陣の前を横切った。
それから、出羽守がふと顔を上げた。
「まず、だが、御屋形様は生きておられる。そう考えるほかなし」
「その心は」
「亡くなられた、そう吹聴すれば、この戦は片が付き申す。そして、それを広めるには、腕以外にも、もっと確実な手がござろう」
出羽守には珍しく、言葉を選んだ言い方だった。
但馬守も、そのことは考えていた。
「それは考えた。だが、生きているとして、どうすればよい。榎下城を囲み続ければ、本当にわかりやすい証が、その、なんだ、出て来るやもしれぬ」
二人はまた黙った。
但馬守は膝で受けた箱を、傾いた机の上へ戻した。蓋はまだ開いたままである。
出羽守が意を決したように指を三つ立てた。
「取れる手は三つにござろう。一つはこのまま榎下城を速攻で落とす。そうすれば竜春丸殿や今川の家臣を捕らえ、条件の上では五分となりまする。無論、おそらくでござるが、相手は早々に御屋形様の命を取る、とは思えませぬ。それをすれば、榎下城を開く手が減り申す」
出羽守の指が一つ折られた。
「次に急ぎ、平井城に取って返す。もし御屋形様が平井に居られるのであれば、これをお助けする好機になりえます。ただ気は乗りませぬ」
「なぜだ。交渉よりも確実であろう」
「御屋形様が平井に居るかどうか、これがわかりませぬ。すでに越後などに運ばれておるかもしれませぬし、それに仮にいたとしても、追い詰めてしまえば、御屋形様が危のうござる」
但馬守は答えなかった。今川治部の躊躇の無さは、嫌というほど見て来た。分が悪いと見ると、左馬頭の首をはね、単騎で逃げるぐらいはするかもしれない。
黙り込んでいると、また出羽守の指が折られた。
「最後の手でござるが、このまま待つ。というのもございまする。榎下城の兵糧はそう多くござらん。一月、焦らせば勝ちまする。しかし、これも結果的に相手を追い詰めると同じことゆえ、取りたくはござらん」
「では、実質一つか」
出羽守が頷いた。
出羽守は最後まで、今川の要求を呑むという案は挙げなかった。無論、但馬守にもその気はなかった。
それをすれば、榎下を開いて左馬頭を返されても、それでは山内上杉が今川の意向に従う形になる。
「榎下城への強攻。お許しいただきたく」
許す、と但馬守は言おうとした。
だが、すぐには言葉が出なかった。
山内へ迎えたころの左馬頭が浮かんだ。右も左も分からぬ御曹司であった。それを江戸で右腕を失わせ、今度は自分たちの判断で箕輪へ下げた結果、残った左腕まで失わせた。
危険を承知でなお攻める、と言うには、少し間が要った。
出羽守が但馬守を見ていた。
但馬守はその眼を見返し、やがて頷いた。
「戦のことは出羽守に、そう言うお話でござった」




