6章_11
米蔵を出たとき、安中宮内大輔の指には墨がついていた。
俵を数えながら帳面へ印をつけて回ったのである。一つの印が十俵だった。その印が随分心細い数になっている。竜春丸を奉じてことを起こすと決めてから、細々と信濃や甲斐から米を買っていた。安中勢が城に籠っても半年は軽く越せる、それだけ量を集めたはずだった。
それがあっという間に減っている。宮内大輔は、誰にも聞かれぬようにそっと息を吐いた。それから指の腹をこすってみたが、墨は落ちなかった。
空を見れば、日はもう西に傾いていた。
榎下城へ今川勢を迎え入れてから、七日になる。
城内に詰めたのは千余りで、残る兵は城外に陣を取っている。
これらの兵を食わせるとなると、宮内大輔がため込んだ米や、城の壁や雑穀を加味しても一月持てばよいところだった。
また水に関しても一つ、悩み事があった。
もともと榎下城には井戸が二つある。
だが、一つは去年から濁りが出て、洗い物にしか使えない。そのため飲み水に使える井戸には、今川勢が入城した日に番が置かれた。
宮内大輔が命じていない。今川の者が、誰に断るでもなく、当然のように兵を置いたのである。
これに表立って文句を言う者はいない。軍神の家中に逆らえば、田畑が焼かれる。そう思っている者は少なくなかったのだ。
宮内大輔は帳面を小脇に挟み、曲輪を横切った。七日の間に、城内の様子もかなり変っていた。
空いていた場所には藁を敷いて兵が寝起きし、厠も掘り足した。三の曲輪の隅では、城下から入れた者が朝から晩まで炊きをしている。煙は風に押されて、一日じゅう曲輪の片側へ流れていた。
当然の話だが、宮内大輔の組下の城兵と今川勢の寝所は分けてある。
そうさせたのは宮内大輔だった。混ぜたまま七日も置けば、いずれ揉め事が起きると思ったからである。
事あるごとに間に入り、宮内大輔が口を挟むゆえ、大きな揉め事は、まだ起きていない。
ただ、そのかわり、双方とも口をきかなくなった。
道ですれ違うと、城兵も今川兵も先を譲る。互いに譲って、二人とも足を止めることがあった。そのわずかな間に、今川勢のじっとこちらの目の奥を覗き込む姿が、いやに記憶に残った。
宮内大輔は重い足取りのまま、櫓へ上がった。
階段を踏むたびに膝が痛んだ。ここ三日ほど、まともに横になっていない、膝を立て刀を抱え込んで目を閉じるだけだった。
上まで来ると、中から話し声が聞こえた。今川勢の三人の将である。
「励んでおられる。向こうの大将はだれだったか」
感心するような響きは、岡部左京進の声だった。治部太夫の信任篤い男らしく、甲斐の府中を預かっているらしい。
「確か、左馬頭殿ではござらんか」
そのように呑気に答えたのは穴山甲斐守信風である。今川とは縁深く、甲斐の河内郡に根を張る者だ。
「名分ではそうなっておられるが、確か長尾但馬守ではござらんか。あれは家宰なれど相当やると聞いておりまする」
小山田越中守が言った。こちらも甲斐の国人である。郡内の道々を監督するということで名前は知っていた。
どれも今川勢を動かすには十分な男たちである。宮内大輔は、腹を決め足を進めた。そして、何気ない風に会話に口を挟んだ。
「いえ、但馬守ではなく、主将は長野出羽守にございまする」
踏み入った櫓の上の間は狭かった。板敷に筵が二枚敷いてあるだけで、隅には具足櫃が三つ積んである。壁際に立てかけた矢束が、壁土を擦って白く跡をつけていた。
三人とも狭間の方を向いていた。
左京進はその前に胡坐をかき、干し肉を齧っていた。細く裂いた肉を指で摘み、口へ入れながら外を見ている。
狭間の先は東の野だった。
左馬頭、というより長野勢の陣は、七日前より東にも南にも広がっている。幕が増え、その間に道が出来、朝から兵が堀を掘っていた。
囲む側が堀を掘り始めたということは、簡単には退かぬということである。
左京進が顎へ手をやり、こちらを見やった。干し肉の脂が指についたままだった。
「長野出羽守、と。その出羽守とやらは、関東の大戦にはおられたかな。とんと名を聞いておらぬ」
「いえ、関東の戦では一応おられたが、崩れる前に箕輪城に戻られたと。固すぎ、武骨すぎる人間故、あの時の左馬頭殿とは馬が合わぬと見て、但馬守が先に戻したと聞いておりまする」
狭間から風が入って来た。東風だった。
「ここまでやれるのであれば、江戸に居ったほうが良かったのではないかな」
越中守が膝を崩して、板へ片手をついた。
「江戸崩れまではどう見ても、上杉方の勝ち戦でござった。火が着くかもしれぬ方々の見張りの方が力を入れたかったのやもしれませぬな」
甲斐守が首を横に振る。それに対して、左京進が訝しんだ。
「にしても、国元の不和はその出羽守でもどうにもならなかったか」
不和を起こした側の人間である、宮内大輔は内心に一筋汗をかきつつ、穏やかに答える。
「武名、影響力、双方ある男ですが、左馬頭と会わぬと見、平井城にはあまり近寄ることは少なかった。そのような向きがあるやもしれません」
「弁えすぎる男ゆえ、動くのが遅くなったか」
左京進の言葉に、今川方の二人が頷いた。
宮内大輔は機と見て帳面を膝の脇に置き、その上へ手を載せた。音を立てると、今川の三人は僅かに居住まいを正した。宮内大輔は笑みを貼り付け、家中や同輩にやる様に穏やかに言った。
「して、いい加減にお教えいただきたい。狙いは何でござる」
「狙い、と申しても、先に申した通り竜春丸様を山内の当主にし、上野、ひいては関東の静謐をもたらすこと。これ以外にはござらぬ」
左京進は外を向いたまま答えた。また干し肉を一片、口へ入れた。冗談を言う類の男ではないが、明らかに前に出る気が見当たらなかった。
「そこはぶれておらぬと安心いたす。しかし、聞いておるのは戦の陣立てにござる。小幡播磨守などいい加減、しびれを切らしそうにございますぞ」
播磨守は、昨日から二の曲輪の兵と一緒に飯を食っていた。
城主の詰所へ顔を出さない。
口で何か言う代りに、そうして不満を示しているのである。というのも播磨守の領地は国境にあり、今川が山内上杉に本格的に侵攻した際、真っ先に踏まれる土地である。
交渉や威圧で済むと思っていたところに、急な大火が見えた。それを思うと播磨守は相当な辛抱をしている。
そのことは今川方も重々承知のはずだが、今をもってしても左京進は口を結んでいた。
ゆえに宮内大輔は言葉を重ねた。
「最初に申し上げた通り、竜春丸様をお連れ頂き、信濃から上野を睨む。そうすれば勝手に左馬頭殿の命数が尽きる、それを待つのが一番良いでしょうに」
「確かに、それは手でござろう。だが、その手が成るかは五分であろう。出羽守とやらの打つ手、相当早い。むしろ竜春丸様を担ぎ、碓氷峠や内山口を移動した場合、その後背を突かれ崩れる算段の方が多いやもしれぬ」
宮内大輔は息を吐いた。
額から髪を撫でつけるように手を動かした。
そうすると、いつもの顔になった。
人と話すときの顔を作るようになって十年になる。口に出すことと腹の中にあることが同じ日は、そう多くない。
今日は同じだった。
同じなのに、顔を作らなければ言葉が出て来なかった。
「なるほど、左京進殿の御言葉、確かに一理ございまする。されど、このままここに籠っていた場合、勝ち目は五分も無くござらんか。活力のあるうちに、前に出て活路を開く、播磨守の言葉を借りるわけではござらんが、精強たる今川兵ならば、こちらは進むべきでは」
甲斐守が坐り直した。膝の上の埃を払い、また同じところを払った。
越中守は左京進を見て、眼を細めていた。
左京進だけが動かなかった。宮内大輔は、それを動かそうと、さらに口を開いた。
「今川は兵数不利を覆してこられた。御当主の治部太夫様は、初陣で十倍を破り、関東でも三万で十万を破られた。御家中も眼前の一万程度の兵など物の数ではない。そう思えまするが」
そこでようやく、左京進の口元に笑いが出た。
「買い被りにござるな。この左京進であれば、倍の兵を相手に持ちこたえるのがやっとにござろう」
そう言って、指についた脂を膝で拭った。
「あと、主君、治部太夫はその話を好んでおられぬ。軍神などと持ち上げると、重い仕事を押し付けられるか、事あるごとに難しい戦に駆り出され申すぞ」
越中守がふき出した。
「確かに、飯富兵部少輔や小畠山城守など、下手にやる気を見せたゆえ、散々引っ張り出されておりますな。まあ、報いてくださるが、気安く羨ましい、など言えぬものでござる」
甲斐守の笑い声が重なる。笑いながら口を開いた。
「いやいや、越中守殿も中々重荷でござろう。関東がごたつくたびに、岡部殿と連れ立って顔役にござる」
「兵の飯やかかった銭は色を付けて払ってくださるゆえ、大したことはござらぬ。まあ、骨は折れまするが」
話がずれだしている。そう思い、宮内大輔は咳払いをした。すると、緩んでいた場が僅かに引き締まった。
「これは失礼」
甲斐守は笑いを残した顔で詫びた。他の二人も意図して顔を固くしている。
宮内大輔は内心で息を吐きつつ、膝の帳面へ手を戻した。
紙の角が折れていた。自分の指で折ったらしい。帳の中に書かれている気の滅入る内容を思い、そのまま口に出す。
「恥ずかしながら、はっきり申しまする。榎下城、この士気が落ちておりまする。徐々に減る米蔵、戦わぬ今川勢。厚みを増す左馬頭殿の軍。これらが積み重なり、もはや悠長に左馬頭殿の死を待つ、などとは言えぬ状況にござる。援軍に来られたはずの今川方は、これを如何に考えなさる」
無駄飯ぐらい共、とっとと前に出て戦え。竜春丸を信濃あたりに匿い、当主に付けるように交渉しろ。そうはっきり言ったつもりだった。
だが、左京進の顔には、なおも変ったところがなかった。手練れの武将面のまま、こちらの目を見返した。
「待つ。引き付ける。これに付き申す。籠城とはそう言う物でござろう」
「御言葉だが、籠城というものは外から援軍があり、初めて成り立つものにござる。南は扇谷上杉が防ぎ、内山口と碓氷は閉じられ、援軍のあてなどのうござろう」
左京進が僅かに視線を飛ばし、甲斐守と越中守を見た。
二人が頷いた。致し方ない、そんな顔だった。それを受けて左京進が言葉をつなげた。
「ご安心召されよ、援軍はござる。もう来ておるかもしれぬ」
宮内大輔は眉を寄せた。そんな動きはなかったからだ。それにあったとしても今の状況では難しい。
「碓氷を破られるか、それとも内山口か。どちらも大きな兵は来れませぬ。出入口を防がれれば、少数の長野勢でも長く足踏みする羽目になり申す」
「そちらではござらぬ」
宮内大輔は黙りこんだ。何を言っているのか分らなかったのだ。
南には扇谷がいる。東に今川の味方をする勢力はない。西へ抜ける道が碓氷と内山口であるが、これは塞がっている。北の長野も兵を出す余力はない。
宮内大輔は膝の帳面の折れた角を指で伸ばした。
分らない。状況を打破できる大軍の通り道がないのだ。
もう一度聞こうとしたとき、見れば左京進が立ち上がっていた。
膝を伸ばした拍子に板が鳴った。
左京進は狭間の前へ寄った。齧りかけの肉は、まだ指に挟んだままだった。
「ちょうどよい。安中殿、ふと気になったが、草の者によると、左馬頭殿の陣が程田から見当たらなくなったらしい。これはどういうことか」
妙な問いだった。先ほどからの話とまるでつながらない。
だが、答えの見当はついた。思いついたら口にせざるを得ない性分だった。
「先に申し上げた通り、左馬頭殿は体調がよろしくござらん。陣には医者もおられるが、やはり過酷な場である。それを見るに、どこかの城に下げられたのだと思われまする」
答えると、左京進が振り返った。
その顔を見て、宮内大輔は少し戸惑った。
左京進の顔は、仕方のないことだ、と呆れているようにも見えた。
ただ、同時に何かを待っているようでもあった。
狭間から入る光が背にあるので、顔の半分が暗かった。その暗い方の眼が、宮内大輔から動かなかった。
宮内大輔は、そっと甲斐守と越中守の二人も窺った。こちらは期待だけが浮かんでいた。
その中で、また左京進が問うた。
「して、安中殿は、左馬頭殿がどこの城にさがられたと思う。本城の平井であろうか」
宮内大輔は問われて、また考えた。
中立を口にしながら、竜春丸方へ通じている者も平井の周りには少なくない。というより、そうでなければ平井の奪取などできなかった。
これらの自称中立の者は、左馬頭が本城へ戻ろうとすれば、必ず気が付き、そっと合図の一つも送ってくる。
この筋から音沙汰がない。
ならば、と宮内大輔は自分の考えを述べた。
「平井近辺はこちら側の草を放っておりまする。中立を表明しながらも、こっちに付いた者も少なくござらん。それらからの知らせがないとあらば、そちらではないかと」
「では、他に思うところはござるか」
宮内大輔は、また深く考えた。よく眠れぬ頭であっても、このような謎かけにはすぐに飛びついてくれる。
宮内大輔は自分自身に問いを重ねた。
左馬頭が下がる。平井でなければ、どこか。
遠すぎると左馬頭が移動できない。おそらく、程遠くない。
一方で守りが固く、左馬頭方の者が詰め、医者を置いて療養させられる城。
上野でその条件に合う城は、それほど多くなかった。
「あるとすれば、北、長野出羽守の本城、箕輪城ではござらんか。こちらは左馬頭を奉じる、長野方の者が詰めておられる。城兵はそう多くござらんが、敵味方定かでない平井よりも、安全とみるは妥当かと」
左京進が天を仰いだ。そして言った。
「北、天運か」
---
左馬頭が箕輪城に入ったその日のうちに、城の医者が呼ばれた。長野出羽守の抱えだという。五十を越した、口数の少ない男だった。
医者はまず、礼節も何もなく右腕の晒を解いた。
酷い悪臭に眉を顰めたが、何も言わずに湯と刃物、それに白い布を持って来させた。
そして、命じたものが一揃い届くと、また無言で傷口を開いた。痛みは感じなかった。いや、感じてはいたが絶えず響く鈍痛に紛れ、気付かなかった。
医者の処置は、まず中に溜まっていた血を掻き出し、膿も出した。あとは膿とは違う、何とも知れぬ物も出た。左馬頭は思わず目を背けたので、良く分からない。
左馬頭は途中から声を上げた。鈍痛が薄れ、医者の処置の痛みだけが体に響いたのだ。やめろ、もうよい、とも言った。
だが医者は手を止めなかった。止めに入ろうとする護衛を目で制すると、そのまま腕を動かし続けた。
どれくらいその処置が続いたのか、それは分からない。一刻か二刻かもしれない、いや、もしかしたらほんの一瞬だったかもしれない。ただ途中から左馬頭は歯を食いしばり、ただ呼吸だけを続けていた。
そうこうしている間に、医者の手が止まった。それから医者は一言だけ言った。
「辛抱なされました」
掻き出した物は桶へ落ちていた。
医者の拭った汗が、桶の中に落ち、ぽたりと音がした。
左馬頭は桶の中を見なかった。見せろとも言わなかった。だがそれを持って部屋を出て行く医者の補助役が、袖で鼻を覆ったのは見た。
薬は出なかった。ただ傷口に染みる酒を吹っ掛けられ、その後軟膏を塗りつけられた。
そして、その後は重湯を食わされた。次の日からは、やわらかく煮た粥になった。それを一日に三度、決った時刻に食わせる。
三日ほどすると、急に眠りが深くなった。夜になるとふっと、意識が掻き消えるように落ちるのだ。徐々に体がましになっている、そんな気がした。
そんな日が幾日か続き、その日も左馬頭は粥をすすって眠りについた。きっと起きるときは朝だろうと、当然のことを思った。
だが、その日は夜半に眼が覚めた。目を閉じて眠ろうとしたが、意識が完全に覚醒していた。
左馬頭は夜着の中で左手の指を動かした。それから右の肘に触れた。
晒は新しく、巻き方もきつくない。
指で押してみると僅かに痛んだが、これまでのように傷の奥を締め上げられる痛みは来なかった。
頭も澄んでいた。
仰向いたまま天井を見ると、板の木目が一枚ずつ見分けられた。左馬頭の居室は本丸の奥にあった。
八畳ほどで、床の間には何もない。壁際に櫃が一つ置いてあるほかは、寝床と枕元の膳だけだった。普段は城主である、出羽守の居室らしい。飾り気のなさは、あの男に良く似合っていた。
ふと、左馬頭は腹を撫でた。腹がひどく減っていた。
何か口に入れたい。できれば粥以外がよかった。そんなことを考えるようになったのは、随分久しぶりだと思った。
「誰かあるか」
左馬頭がそう声を出すと、枕元の影が動いた。
「如何されました」
江戸の折から側についている者だった。弱いところは随分見せたが、腹が空いたと甘えるのは気恥ずかしかった。
左馬頭は、空腹以外について、何気なく尋ねた。
「どれほど寝ていた」
「数刻程度にございます。厨の者も起き出してはおりませぬ」
「そうか」
気付かれていたか。と少し気恥ずかしさを覚えた。
左馬頭はごまかす様に、少し首を回した。小気味の良い音がした。頭に重さは感じず、一日ぐらい眠ったような気がしていた。
随分、眠れるようになった。十分に眠るときちんと起きられるようにもなった。医者によると自分の体は随分頑丈らしい。きちんと養生すれば、長く生きられるといった。
あの時は、どうとるべきか悩んだが、存外本気であったのかもしれない。
左馬頭の口が知らず知らずのうちに緩んだ。
その様に気分が落ちついて来ると、榎下城のことが浮かんだ。それから榎下城を落とした後のことも浮かんだ。
「次はどうするか」
左馬頭は呟いた。呟きつつ、考えを巡らせた。
まず上野を固める。中立を言っている者をこちらへ寄せる。寄らぬ者は潰す。
これは変わらない。頭がぼやけていた時に出した結論だが、間違ってるとは思えなかった。
そうして、潰した土地を家中の誰かへ預けるのではなく、直に代官を入れる。直轄の地を増やすのである。
家中は嫌がるだろうが、嫌がらせておくつもりだ。
その上で扇谷と組み、武蔵の領地も境を明確に定め、山内側の領地を同様に固める。決して扇谷と揉めるようにはしない。何だったら、扇谷側とより深い縁組をしてもいい。そして、そこまでやって、ようやく北条と今川に向き合えるだろう。
左馬頭はそこまで考え、眉を顰めた。
問題は、その先だった。今川、北条と向き合って、どう勝つか。
長野出羽守は気に入らない。だが、あの男は裏切らぬだろうと思った。喉へ扇子を当て、不興を買ってまで自分を止めた。融通は欠片も利かず、典雅さはない。
だが、戦になれば、前へ出すのはあの男のほかにないと、今は確信していた。今川、北条とやり合えるのはあの男だ。
だが、そうなると、今度は守りに誰を置くかということになる。長野がいない、不忠ものだらけの領地をどのように固めるか。
使えそうな者の顔を、左馬頭は一人ずつ思い浮かべた。どれもしっくりこない。
だが、それでも、
「やるしかあるまい」
口に出した途端、頭へ血が上った。腹に熱がこもり、吐息がこぼれた。
「御屋形様、いけませぬ」
護衛に左の手首を押さえられた。
そこで初めて、自分が晒の上から傷を掻いていたことに気づいた。
「悪化いたしまする。展望をなさるならば、体をお労りください」
どうか、と言って、護衛は畳へ手をついた。
「無論のことだ。このままでは死ねぬ」
左馬頭は笑い、傷跡から左手を離した。触れると寿命が縮む、そのようにあの医者から言われていた。また手ひどい処置を受けたくなければ、我慢する必要がある。
左馬頭は息を吐きながら、胸の内で密やかに呟いた。
血筋だけの間抜けで終ってたまるか。
左馬頭は唇を舐めた。唇は乾いていて、舐めても湿らなかった。
起き上がろうとして、手をついた。
手をついたところが畳ではなく、膳の縁だった。
護衛が手を出しかけたが、左馬頭は眼で止めた。関東管領が起きるのさえ、自分でできないなどあってはならない。
そう思い、自分で身体を起こすと、蔀のところまで寄って、それを押し上げた。
外は暗かった。
月は出ているが、薄い雲がかかっている。
城下の灯はすでにほとんど落ち、堀端に番の者が持つ松明が二つ動いているだけだった。
その光景の中に一つ気になる物があった。北の方に、動く物があったのだ。
左馬頭は眼を凝らした。旗、に見えた。
幾つもの旗らしき物が列になって、こちらへ近づいて来ている。
旗印までは見えなかった。寝起きの眼がまだぼんやりしているせいもあった。
長野の傘下の誰かだろうと思ったが、それ以上は分らなかった。
「あの旗が見えるか」
呼ぶと、護衛がすぐに寄って来て、同じ方を見た。目を凝らしながら、訝し気に口を開いた。
「確かに見えますが。どこの者でしょうな。かなりの数にございます」
まさか、と左馬頭は思った。自分がここにいる、名分を思い出したのだ。
そして、思ったことが、そのまま口から出た。
「越後の長尾か」
護衛が首を横に振った。目は外の旗の方向に向いている。目を凝らし、顔を顰めている。
「いえ、おそらくですが、長尾の旗ではございませぬ。それに長尾にしては多すぎるかと」
それはそうだった。先の包囲網のときでさえ、越後は千に満たぬ兵しか出さなかった。越後は今、外に出せる状況ではない。
そのとき鐘が鳴った。城中に急を知らせる鐘だった。
かん、かん、かんと三度鳴り、それが間を置かず繰り返された。
「なんだ」
左馬頭の背筋が冷えた。同じ冷たさを、前にも覚えたことがある。
いつのことか考えるまでもなかった。江戸で腕を失った、あの夜である。
「今川勢、急襲。今川勢、急襲」
外で声が上がった。
「門を閉じよ」
別の声が重なった。
廊下を走る足音が聞こえ、さらに遠くで人の怒鳴る声がした。
「今川、治部」
気づいたときには、左馬頭は左手で傷口を掻きむしっていた。




