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6章_10

 上野国、程田の陣には、夜になると風が入った。

 程田は長野出羽守の本城である、箕輪城から南に数里の位置にあり、そこからさらに数里を行けば竜春丸らがこもる安中宮内大輔の城、榎下城がある。攻めるにしろ、下がるにしろちょうど良い位置にあった。


 陣の仮屋は二方に幕を張り、あとの二方を板囲いにしてあった。板は近在の百姓家から外させた物で、節穴や板の合わせ目から、ときどき細い風が吹きこんで来る。そのたびに燭の火が横になびき、机の上にひろげた地図の端が浮いた。地図の四隅には、小石が置いてある。


 上杉左馬頭憲寛は床几にかけて、手紙を読んでいた。

 右の袖は肘の下で折りたたみ、糸で留めてあった。毎朝、小姓がそうする。片手では出来ないからである。


 手紙はすでに二度読んでいた。


 厚い紙で、折り目は浅かった。急いで畳んだものではない。右上がりの字にも、初めから終りまで少しの乱れもなかった。書いた者は、よほど落ちついてこれを書いたらしい。


「今川め」


 左馬頭は舌打ちした。


 読み終えた紙を畳もうとしたが、片手ではうまくゆかない。膝に置き、左手の指で押さえながら折ると、もとの折り目から少しずれた。


 左馬頭の顔には、薄く白粉が刷いてあった。それも朝、小姓がすることである。


 江戸で右腕を失ってから、顔の血の気が戻らなかった。どうにも思う通りに食事もできず、人に食べさせられるのも鬱陶しくなり、いつしか食が細くなった。食が細くなると、さらに食欲がなくなる。

 そのような日々を過ごしていると、左馬頭の顔は蠟のように白くなった。この白い顔のまま人前に出ると、まずそこを見られる。見た者はすぐに眼をそらすのだが、左馬頭には、その眼をそらされることの方が腹立たしかった。

 

 それで護衛の者に勧められ、いつしか白粉をひくようになった。これで顔色を指摘されることはなくなったが、別の面倒も出て来た。

 白粉は汗を吸うと固まるのだ。そうなると頬を動かすたびに皮膚が引きつれる。今夜は風があるので、まだその不快さはなかった。


 幕の外を、番の兵が二人、往復していた。足音の間が変らないので、見なくても二人だとわかる。さらに遠くで馬が一度いなないたが、その後は静かだった。


「申し訳ありませぬ。先に抜け出されてしまい申した。安中宮内大輔にしてやられ申した」


 陣に詰めていた、長野出羽守方業が言った。

 出羽守は板敷にじかに膝をついている。具足は脱いでいたが、片方の籠手はまだつけたままだった。外す暇も惜しんで来たらしい。


 左馬頭が腹立ちのままに口を開きかけるが、その前に長尾但馬守が口を開いた。


「何を申される。命が下り次第、動いてくださった出羽守殿を責めるなど、到底あり得ませぬ。宮内大輔は今川と前々からつながっておった、それゆえ、周到に動いた。それだけのことにございましょう」


 但馬守は机の脇に立っていた。話しながら、地図を押さえている小石を一つ直した。

 腰の物は外して背後に置いてある。鞘の向きまでいつも同じだった。全て万事整えている、そのような涼し気な顔は変わっていないが、幾分痩せた気もした。


 出羽守はその慰めの言葉にも首を横に振った。 

 

「とはいえ但馬守殿。使者を逃さなければ、今川と竜春丸殿らの間で、何らかの合意に至るようなこともありませぬ。現にこのような文も飛び交っておりまする」


 出羽守が懐から紙を取り出した。


 一通ではなかった。同じ折り方をした紙が幾枚も重なっている。開いてみると、どれも同じ筆跡だった。


 文面は、おおよそ次のようなものだった。


 関東の静謐のため、正当な当主として竜春丸を推す。

 山内上杉の家中を乱す考えはなく、その証として今川は上野の領地を求めない。

 ただし竜春丸が当主になった後、左馬頭方についた者の領地を取り上げるような沙汰があってはならない。

 家中の者が勝手に私腹を肥やすこともあるので、それを今川が後見して防ぎたい。承知するなら、狼煙と三本の鏑矢を上げよ。


 上野の竜春丸方では、草の者を使って、この手紙を何度も榎下城に送り込もうとしていたらしい。書き手は一人で、紙も同じ物らしい。同じ文を、道筋だけを変えて何通も入れるのである。一つ二つが捕えられても構わぬというやり方だった。


 無論出羽守も道を塞ぎ、城を塞ぎ、必死にこの文を妨げようとした。しかし、手を変え品を変えてのやり口で、いつの間にか文は城へ届いていたようだった。


 現に狼煙は上がり、鏑矢も三本放たれていた。


 左馬頭は左手で、右の肘の先をさすった。


 そこには何もない。


 だが夜になると、ときどき指があるような気がする。左の指を折ると、無い右の指まで一緒に折れたように感じることもあった。そして、その見えない指が折れたまま伸びなくなる。そうなると右腕全体が痺れた。


 消えた腕をさすりながら、左馬頭は口を挟んだ。


「但馬守どういうことだ。今川はこれになんの利がある」


「利と申しますが、目に見えぬ利でございます。これを竜春丸殿が飲めば、御家の大事である所領の沙汰を治部太夫に預けるということかと」


 但馬守は燭のそばに寄り、紙の折り目を指でなぞった。


「竜春丸殿側にとっては中々につらい、勝っても旨味が減る。だが飲まねば、討たれる。そう言う物にございまする」


 出羽守が重々しい口調で言った。

 国人らにはそれで済む話なのだろうが、左馬頭には、まだ腑に落ちないところがあった。


 今川は上野の領地を取らぬと言っている。それなのに、竜春丸が当主になった後の所領の沙汰には口を出すという。

 ただそれは、今川に領地を寄越せというものではなく、竜春丸付きの家臣が所領を勝手に取り上げるのを防ぐためだともいう。

 

 何の利にもならないではないかと思い、ますます分からなくなった。


 左馬頭は手紙の角を、左の親指で折った。


 そこにまた風が入って来た。


 地図の端が持ち上がり、四隅の小石の一つが机の上を少し転がった。


「して、但馬守殿。今川はどうされました。合図が上がって幾日か経ち申したが」


 出羽守がふと、左馬頭の手元の文を一瞥して言った。

 左馬頭はまた舌打ちした。口に出すにも不愉快な手紙である。いっそ握りつぶしてやろうかとも思った。


 そこに但馬守が咳払いをした。


「まあ、出羽守殿もお察しの通り、想定通り。軍をひくようにと。正当な嫡子を蔑ろにするなと、歩調を合わせるように文を送ってきおった」


 左馬頭は手の中の文を握った。


 二通の文である。


「歩調と申しますと、他に似た文があったのですかな」


「越後の長尾でござる」


「まさか」


 但馬守が肩を落とした。


「そのまさかにて。越後め今度はあっちに付きもうした。今川と何を約束したかは知らぬ。それとも、ただ単に今川の北上を相当に恐れておるのかも分からぬ。ただ、どちらにせよ、今川よりも幾分柔らかな内容のそれを、ここに送ってき申した」


 長尾の方の文には、竜春丸が正当な嫡子などという言葉はなかった。

 ただ、先代の実子、義理の弟が籠っている城を、そこまで攻め立てるのはいかがなものか、と書いてあった。そして望むなら和睦の仲立ちをしてもよいともある。

 文の終りには、山内上杉がいつまでも揺れ続けるのは長尾としても心配である、と書かれていた。


 左馬頭は、その一行がどうにも気に入らなかった。

 心配だからどうするということは、何も書いてない。何も書いてないだけに、どうとでも読めた。


「のう出羽守殿、越後は兵を挙げるか。挙げた場合、これを防げるか」


 但馬守がすまし顔の間から、僅かな焦りをのぞかせながら聞いた。

 出羽守は少し、考えた後、大仰に胸を叩いた。

 

「十の内八は挙げませぬ。そのような状況ではござらぬ。未遂に終わった今川の包囲網においても、出せたのは千に満たぬ数でござった。三国峠を越え、領地も得られぬ戦に色気は出しますまい」


 出羽守の目が左馬頭にも向いた。力強い目である。


「それに越後勢がこちらに向かうとあらば、長野が防いで見せましょう」


「おお、心強い」


 但馬守もそう言って、左馬頭を見た。

 左馬頭は、自分に向けられた四つの眼から目を背け、吐き捨てた。


「まったくよ。そこもとが江戸に居れば、この腕もついておったろうに」


 出羽守は唾をのみ、口を閉じた。

 板の上で膝の位置を直し、籠手の緒を締め直してから、ふたたび手を膝に置いた。顔も上げなかった。


 どうしようもない静寂が続いた後、但馬守が二人の間に口を入れた。


「このように胸の内を見せられるのも出羽守殿だけにござる。皆、出羽守殿を頼りにしておりまする。どうか」


「無論にございます。どうか心安らかに」


 そこで話は一度切れた。


 そのとき、外から駆けて来る足音が聞こえた。

 番の者の声がして、すぐに幕が持ち上がった。入って来た伝令は、かなり走って来たらしく、幕を押さえた手がまだ震えていた。


「申し上げます。信濃より今川勢、峠を越えて参りました」


 左馬頭は立ち上がった。


 その途端、眼の前が白くなった。


 膝から力が抜け、身体が右へ傾いた。その背にすぐ手が入った。

 江戸城の一件以来、身辺についている者だった。大きな手で、指の腹が硬い。


 あの夜も、この手に身体を支えられた。

 誰の手か分かると、左馬頭はわずかに気持が落ちついた。


 出羽守が吼えるような声を出した。


「数は、主将は誰か。治部太夫か」


 伝令は膝をついたまま答えた。


「数はおおよそでござるが五千から六千ほど。主将は岡部左京進。側には穴山や栗原の旗が見え申した」


 左馬頭はまだ身体が揺れていた。


 それでも声を出した。


「義兄上らにお教えしろ。迎え撃ち、首を上げてやる」


 いや、晒してやろう。


 そう思った矢先、出羽守が鋭く言葉を放った。


「お待ちください」


「なんだ、好機ぞ」


「そうではございませぬ」


 出羽守は伝令に向き直った。


「して、今川勢はどこに向かう」


 伝令は喉を上下させた後、口を開いた。


「おそらくですが、ここの榎下城かと」


「岡部らは今どこだ」


 伝令が立って机に寄り、地図の一点を指した。

 左馬頭も机に近づいて、その指先を見た。


 思ったより近い。国境の碓氷峠と榎下城のちょうど真ん中あたりである。


 左馬頭は歯を噛んだ。岡部の軍は相当に早い。


 軍略というものを、江戸城から戻ってから少しずつ学び始めていた。以前なら地図に兵の数を書き入れられても、それがどういう意味を持つのか、よく分からなかった。


 いまは少し分かる。


 味方の総数は多いが、今は戦えない。


 山内上杉の兵だけでも一万を越しており、ほかに扇谷と古河公方から四千に近い援軍が来ている。


 だが一ヵ所には集まっていなかった。


 竜春丸方へ寝返る者が出ぬよう、兵を方々に置いているからだった。道の分れる所、川を渡る所、城を持つ者の門前などに、それぞれ二百、三百と配してある。


 そこに置いた兵は、簡単には動かせない。


 加えて、まとまった兵は程田の陣と榎下城の二ヵ所に分れていた。

 地図の上なら指二本ほどしか離れていないが、あいだには川もあった。


 これから散った兵を集め、一軍にして今川勢にぶつけるのでは遅い。

 その前に岡部が榎下城へ着き、囲いを破って竜春丸を連れ出すかも知れなかった。


 出羽守は腕を組みながら、難しい顔をした。


「残念ながら今川の兵、多く見て六千に真っ向からぶつかれる状態にはございませぬ」


 但馬守が苦々しく口をゆがめる。


「ではどうする。みすみす逃がすか」


「いえ、」


 出羽守が地図を叩いた。

 小石が一つ机から落ち、板の上を転がった。


「畏れながら、伝令を送り、一旦榎下城の囲いを外します。我らはその隙に碓氷峠と内山口をふさぎまする。修理大夫様方には榎下城に岡部らが入った後、あらためて囲ってもらいましょう」


 三つに分けられた石が地図に置かれた。一つは国境の碓氷峠、もう一つも国境の内山口。最後は榎下城だ。

 左馬頭にはまだピンとこない。だが、但馬守は頷いた。


「つまり、猛獣を閉じ込める檻として城を使うと」


「左様にございまする。五千の兵を三倍から四倍の兵で囲めば、さすがに今川も出れますまい。そして碓氷と内山口をふさげば、五千の兵は勝手に枯れましょう」


 今川とは衝突しない。そこだけははっきりわかった。


「気に入らぬ」


 左馬頭は机の縁を左手でつかんだ。手を離すと、また身体が傾きそうだった。


 その様子を見て、出羽守が僅かに申し訳なさそうに頭を下げた。


「御屋形様、確かに城を取らせ、再度囲むまでの間に逃れられるやもしれませぬ。されど、出羽守の見るところ、碓氷と内山口を防ぐのは容易にござる。早馬を飛ばし、近くの者らに木などでふさげれば、大軍は勝手に檻に戻りましょう」


 そんなことは聞いていない。

 左馬頭は机にしがみつきながら出羽守を睨んだ。


「首を取れ。枯れるのを待つなど悠長なことを申すな。囲んだあと、もろとも火でもつけることもできよう」


「それは、」


 黙った出羽守との間に、但馬守が入った。


「御屋形様、御勇ましくなられ嬉しゅうございまする。されど、此度の陣立ては出羽守殿にお任せする。そう言う約束にございまする」


 左馬頭は但馬守を睨んだ。


 数ヵ月前なら、そこで眼をそらしたかも知れない。

 いまは、その気にならなかった。


 但馬守の顔をいつまでも見ていることが出来た。不思議なことに、以前ほど人が怖くなかった。人は簡単に壊れるし、壊せる。そう思うと不思議と心は前に出た。

 ただ、そのかわり身体の方は、以前より言うことをきかなくなっている。


 実際、立ったままでいると、膝から急に力が抜けた。

 また身体が落ちかかり、そばの者に起こされた。その拍子に机をつかんでいた左手が離れ、地図を押さえていた小石がもう一つ転がった。


 左馬頭は、二人を睨みながら何か言おうとした。


 だが声にならなかった。

 顔も上げられない。


 俯いた眼の先に、板の上へ白い粉が少し落ちていた。頬に塗った白粉だった。


「どうか、出羽守殿にお任せください」


 但馬守が肩に手を置いた。左馬頭は、その温かな手が不愉快だった。いつからか不愉快に思うようになった。

 払いのけようとしたが、左腕を上げることが出来なかった。


 そのまま意識がなくなった。


 次にまともに意識が戻ったのは翌日だった。

 そして、初めのところまでは、出羽守の策どおりに進んだ。


 山内上杉の榎下城の囲いは、早馬を飛ばして解かせた結果、岡部の率いる軍とぶつかることはなかった。

 五千余りの今川兵は、囲いがなくなったのを見ると榎下城へ入った。千余りを城内に置き、残りを城外に出して、山内勢と向い合う形になった。


 こちらでは、岡部はすぐに引き返すものと考えていた。檻の扉をすぐに閉めなければ、獣が出ると踏んでいたのだ。

 獣は榎下城に入り、竜春丸を手に入れ、そのまま来た道を戻る。そう予想していたため、帰り道を急ぎ崩した。


 ところが、今川勢は榎下城から動かなかった。


 そうして山内勢は、榎下城を拠点とした岡部の五千余りを、あらためて外から睨むことになった。


---


 それから数日が過ぎた。


 その間、榎下城には動きがなかった。城外に出ている今川兵も、堀の外へ土を掻き上げるのをやめただけで、陣の位置も旗の数も変らなかった。

 むしろ、動きがあるのは峠の方だった。


 内山口でも碓氷でも、山内勢が崩した道を直す者が出ているという。石を寄せ、谷へ落した木を退けている。人数は五十から百ほどで、ほとんど武具を帯びていない。こちらが姿を見せると散り、日が落ちれば引き上げるが、翌朝になるとまた出て来る。


 見張りの者からは二日に一度、そのような報せが届いた。


 初めは矢を射かけたこともあったが、出羽守が止めさせた。射れば散るだけで、翌日にはまた戻って来る。矢が減るだけだというのである。

 

 ただ、一方でこちらの陣も、日を重ねるにつれて形を変えていた。

 程田から兵を移し、榎下城の東と南へ寄せた。西には義兄、修理大夫の手勢が入っている。幕を張り足し、堀を掘り、兵の寝る場所には藁を敷いた。人数が増えて厠が足りなくなり、場所が悪いと苦情が出て、二度掘り直したところもあった。


 峠を直しているのは、兵糧を通すためだろう、と長尾但馬守は顎を撫でながら言っていた。その口角が上がっていたことを左馬頭は忘れていない。


 但馬守の読みによると、岡部の軍があれほど速く榎下まで来たのは、荷を大幅に減らしたからに違いない。少ない兵糧で走り、城に入ってから後続の荷を待つつもりだったのである。それが峠を崩され入らなくなった。

 だから道を直している。そういうことであった。


 結論、但馬守のいいたいこととしては、長野出羽守の策は、いまのところうまく行っており、邪魔をするなの一言らしい。


 当然だが、左馬頭にはなにも面白くなかった。

 戦がうまく進んでいること自体は良い。また、山内勢を無駄に減らすわけにはいかないことも、左馬頭にも分かっている。

 自分は養子であり、次の負けは許されない。また率いている兵も、先の敗北から回復しきれぬ山内上杉の兵であり、犠牲はこれ以上許容できない。


 この問題に対し、出羽守の策は全て解決してくれる。こちらの損害をほとんど出さずに、五千余りの今川兵を干上がらせることが出来る。

 養子の総大将として考えれば、これ以上の策はなかった。


 しかし左馬頭は、それでも前へ出るべきだと思っていた。


 自分は養子である。血が薄いと言われ、江戸からは腕を一本失って帰って来た。その間に家中の半ばが竜春丸方へ傾いた。


 そこへ、不敗と言われる今川を破ったということが一つ加われば、話は変るはずだったと見ていた。


 ところが、いまのままではそうならない。


 道を塞ぎ、兵糧を絶ち、敵が枯れるのを待つ。それで岡部を追い返しても、関東管領としての実が備わるとは思えない。今川に対抗できる力を得られるとは到底思えない。


 勝手気ままに動き回る国人らを強くまとめ、再び上杉の力を取り戻すには、当主が自分の力で、畏怖させねばならないのだ。


 そのようなことを考えながら、日を送っていた。

 日々勝利へと進んでいく戦況とは別に、身体の具合は、むしろ日ごとに悪くなった。


 暑さが増すにつれて、右腕の傷が痛むようになったのだ。夜のうちは鈍い痛みだったが、朝方になると、肘のあたりを縄で締め上げられるように痛む。


 晒は一日に一度替えた。そうでなければ血が滲み、明らかに匂った。替えるとき、小姓が息を止めるのを左馬頭は知っていた。

 医者は膿んではいない、良い方向に進んでいると言った。だが、同じ言葉を毎日言うので、左馬頭はもう信用していなかった。


 その朝も、傷の痛みで眼が覚めた。

 外はすでに明るかった。幕の隙間から差し込む光を見ると、かなり日が高いらしい。


 近ごろは朝になっても、誰も起こしに来なくなった。医者が止めているのだろう。眠れるときには眠らせておけ、ということらしいが、左馬頭自身はほとんど眠った気がしていなかった。


 夜着を押し退け、左手を板について身体を起こした。


 それだけで息が切れた。


 枕元には薬の椀が置いてあった。平井から連れて来た医者が煎じた物で、江戸から帰って以来、日に二度飲まされている。

 何が入っているのか、左馬頭は知らなかった。椀の底には木の皮のような物と、細かい粉、それに干した何かが沈んでいる。鼻を近づけると、厠に似た臭いがした。


 飲もうとすると喉の奥が動き、吐き気がした。

 効いているのかどうかは、医者自身にも分からぬらしい。痛みが強いと言うと、薬の量だけが増えた。そうするとその日の半分は食欲が失せ、ますます動くのが億劫になる。


 悍ましいことに今朝の椀は、縁までいっぱいだった。

 寝床は板敷の上に筵を置き、夜着を重ねただけのものである。そばに水差しがあり、その横に薬包が三つ並んでいる。三つともすでに封が切られていた。


 左馬頭が息を止めて薬を飲んでいるところへ、但馬守と出羽守が入って来た。


 先に膝を折ったのは出羽守だった。

 腰に扇子を一本差しているだけで、刀は帯びていない。この男は、陣中にいても左馬頭の前へ来るときは刀を置いて来ることが多かった。

 

 但馬守がそっと近寄り、顔を覗きこんで尋ねた。


「御加減は如何ですかな」


「見ての通りだ。今すぐにでも馬に乗り、城に攻めかかれる」


 左馬頭は声を張った。

 胸の奥が引きつれたが、顔には出さなかった。


 但馬守は近いところへ坐り、膝の上に両手を置いた。


「気炎を上げられるはよろしいのですが、今の戦はもはや形に成りました。ゆえ、」


 左馬頭は、但馬守が言い切る前に薬の椀を投げた。

 椀は但馬守の胸に当り、薬を膝へこぼしてから、板の上を二度跳ねて隅へ転がった。


 部屋の中に、薬の臭いがひろがった。


「ゆえ、なんだ」


 但馬守は顔色を変えなかった。

 濡れた胸元を見ることもせず、袖の端を膝の下へ入れただけだった。そのまま言葉をつなげる胆力が、この家宰にはあった。


「ゆえに、一旦お下がりいただきたい。最低限、箕輪か平井にさがられては如何か」


「あり得ぬ。左馬頭は戦の総大将である。勝ち戦で下がってどうするか」


 但馬守は濡れた膝に手を置いた。

 薬が掌に染みるはずだが、そのまま動かさなかった。


「その通り、この戦は勝ち戦にございまする。そして御屋形様がご自身の采配で勝ちを得られ申した。後は泥を掬うような下々の仕事にございまする」


「戦場の泥を厭うなと、左馬頭が山内上杉に入った時に申したのは貴様だろう。それを今翻すか」


 但馬守は答えなかった。

 膝に置いた指が、わずかに動いた。


 左馬頭が山内上杉へ入ったおり、緊張で目を白黒させ、あまりに覚えることが多く泣き言を言ったときだった。

 但馬守がこのように、泥を厭うな、特に戦場での泥を厭うなと言ったことは覚えている。


「それによ、義兄上も戦場に出ておられる。人様の軍を呼び込んでおいて、左馬頭が一人良い顔で本城に帰りなどしたらそれこそ良い笑いものではないか」


「御屋形様、戦はもう終わり申した。勝ったも同然でござる」


「ならば岡部の首を持ってこい。竜春丸の首もだ。治部太夫の腕を落とせ」


 左馬頭は右腕を掻いた。

 肘から下はない。頭の中では右腕はずっとそこにある気がしている。だが、そこには悪臭を放つ傷跡だけだ。

 左馬頭はそのすぐ上を爪を立てて掻くと、巻いてある晒がずれた。さらに掻くうちに、残った左手の指先に湿ったものが触れた。


 粘つく泥のような血だった。


「勝ったというのなら、負けた側の首を見せよ。できぬのならば詭弁であろう」


 但馬守は黙っていた。

 膝の上で指を組み、板の目を見ている。こぼれた薬の臭いが、まだそのあたりから上っていた。

 左馬頭はふらつく頭を、全身で支えながら吼えた。


「左馬頭は勝つぞ。腕を落とされ、血筋だけの木偶と笑われるぐらいならば、前に出るぞ」


 そこで出羽守が膝を進めた。


「よろしいか」


「なんだ出羽守、木偶かと思っておった。口があるのならば、申せ」


 出羽守も軽口には取り合わなかった。


「確かに戦は七分ほどしか終わっておりませぬ。しかし、この戦が痛み分けで終わりうる道、いえ、今川の勝ちの目はまだございます」


「なんだそれは」


 出羽守は腰の扇子に手をやった。

 要のあたりを親指で押さえたが、抜きはしなかった。


「無論、御屋形様が陣中で没した場合にござる」


 左馬頭は出羽守を見た。但馬守は口を利かず、目を伏せた。

 外を番の者が通った。足音が近づき、幕の前を過ぎて、また遠ざかって行った。


 出羽守は淡々と同じ調子で言った。


「跡継ぎは竜春丸様となり、今までこちらに付いていた国人らも、それを機に向こうに靡くやもしれませぬ。現に治部太夫は、御屋形様を奉じた者らの領地を取らせぬ。そう申しておりますゆえ、靡かぬとは言い切れませぬ」


 左馬頭は鼻を鳴らした。


「案ずるな、死んでたまるものか」


「ええ、ですので一旦は箕輪城にて後背を見張っていただきたく」


 出羽守は、そこで初めて話を本題へ戻した。

 左馬頭は眼を細めた。


「貴様も下がれと申すか」


「あくまで見張りにございまする。こちらが片付いた以上、目を向けるは北、越後にございまする。あれらが色気を出さぬか、見る必要がございましょう」


 箕輪は出羽守の城だった。

 そこへ入れと言っているのである。


「言い様だな、出羽守。越後は攻め込まぬ、余裕がない、そう言い切った口で見張りが必要という。仮に見張りがいるとしても、それは南であろう。北条から軍が来ぬか、見るべきはそれだ」


 出羽守は首を横に振った。


「北条は来ませぬ。というより、北条が来る場合は、扇谷方の備えが抜かれた場合にございます。このようなものを備えるという方が、聊か無礼でありましょう」


 左馬頭はまた鼻を鳴らした。

 掻いた傷が痛みはじめていた。初めは肘のところだけだったが、いまは肩の方まで鈍く疼いている。大きな蜈蚣が毒をまき散らしながら、皮膚の下で暴れているような気さえした。

 左馬頭はあえて口角を上げた。


「下がったところで、箕輪に兵などおるまい。ほとんどこちらよ。見張りすら出来ぬではないか。厄介払いがしたいのならば、そのように、」


 その時、出羽守の手が腰へ動いた。

 何かを抜いた。


 短刀か。


 左馬頭がそう思ったときには、すでにその先が喉へ来ていた。


 冷たい物が皮膚に触れた。


 左馬頭は言葉を切った。

 

 但馬守が腰を浮かせ、目を見張った。


「出羽守殿、何を」


「良く見られよ、たかが扇子にござる」


 左馬頭は喉元へ眼を落した。


 確かに閉じた扇子だった。

 細い骨に、茶色く焼けた地紙が巻いてある。かなり古い物らしい。


 左馬頭は、身体から急に力が抜けるのを感じた。


 扇子の先は、なお喉に触れている。


 背後で人が動く気配がした。


 江戸の一件からついている側の者である。動きかけたが、出羽守の手にある物が扇子だと分かったのだろう。そのまま止った。


「そのような体で御大将などできようはずがない。下がられよ。恥にござる」


「だまし討ちであろう。そのようなもので何も図れぬ」


 左馬頭は僅かに震える声で言った。急に強張らせた体は、付き合い切れぬと徐々に脱力していっていた。


「だまし討ちで腕を落とされたのでござろう。次は首が落ちると申してあげておりまする」


 左馬頭は顔が熱くなるのを感じた。


 怒りより先に、羞恥が来た。


 今日は白粉を塗っていない。顔色が変ったことも、二人にはそのまま見えているはずだった。


 膝の上には、右腕から滲んだ血がついた晒が見えている。

 恥だ。これを見せるのが何より、悔しかった。


「出羽守殿さすがにそれは」


 流石の但馬守も、眉を顰めて言った。だが、出羽守は引かなかった。


「戦のことは出羽守にという話でござろう。このような場所で雨にでも打たれ、御屋形様が没するようなことになれば、それは負けも同然にござる。勝つためには、下がっていただくほかござらん」


 出羽守は但馬守を見て、それから左馬頭へ眼を戻した。

 扇子はまだ喉にあった。


「如何されまする御屋形様。これ以上、恥を重ねられまするか」


 その出羽守の言葉に、左馬頭は黙った。


 喉に触れている一点だけが冷たかった。


 そこから下は熱かった。熱く、痛みが広がっていた。これは自分が動けなくなる前兆だとも理解していた。

 左馬頭は視線だけを、四方に飛ばした。隅には、さきほど投げた椀が転がっている。底に残った薬が板の上へ流れ、その臭いがまだ部屋にこもっていた。


 誰も拾いに来なかった。


 小姓は幕の外に控えているはずである。


 しばらくして、左馬頭はかすれた声で吐き捨てた。


「下がる。それで勝てるのであろう」


「無論にござる」


 出羽守はようやく扇子を引き、腰へ戻した。

 そして、それから初めて頭を下げた。


 左馬頭はその後、箕輪城へ引き上げた。

 供は二百人で、そのうち百人は箕輪の兵だった。名目はあくまで、北方への睨みということになった。


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― 新着の感想 ―
もう調略されてそう。他に話を聞ける配下もいないのか。おいたわしや。
猜疑心が強くて体がボロボロの養子の当主。嫡男を産ませる前に死ぬ可能性が結構高いし山内家の家臣としては竜春丸を討てるような状況じゃないよね。
白粉とか鉛たっぷりな奴を売ってたりしないよな
感想一覧
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