6章_9
上野の古寺は屋根が半分落ちていた。
落ちた側から月明りが入って、床の板を照らしている。板は端が反り返り、踏むと鳴った。鳴らないところを選んで歩けと言われたので、竜春丸は言われた通りに歩き、いまは須弥壇の裏に座っている。座ると足の裏が痛んだ。
何度か泣き出したが、布を口に強くあてがわれるので、必死に息を殺した。ふと痛みを感じるところを見ると、草鞋の緒の当たるところが破れて、そこに土が入っていた。
寺を見回すと仏はなかった。持ち去られたあとの壇に、埃が四角く残っていた。壁際には誰かが置いていった薪が積んであり、その上に蜘蛛の巣が張っている。戸は一枚だけ残っていて、それも立てかけてあるだけであった。
竜春丸のそばに、槍が二本、壁へ寄せて立ててある。穂に袋がかかったままの一本と、袋を外した一本であった。
城を出てからのことを、順に思い出すことができない。夜のうちに廊下を引かれて行ったこと、馬の腹の匂い、それから山の道である。誰かが背負ってくれていたが、その背中が誰であったのかを、竜春丸は知らなかった。腰の帯だけは、出るときに自分で結んだ。結び目が横へ回っていて、さっきから背中に当たっている。
喉が渇いている。竹筒はさっき回ってきたが、飲む前に外の音がして、そのまま握っている。普段ならばくれと言っただろうが、今は周囲を囲む大人たちに圧され、どうにも言葉が出てこなかった。
破れた壁の隙間から、下の道が見えた。山際を東西に走る細い道で、東へ行けば吉井の里へ出る。そのさらに先が、竜春丸の居た城の平井である。西は山が迫っていて、道はそこで曲がり、見えなくなっていた。
寺の本堂に三人の男がいた。男たちは、皆、竜春丸の家臣であるが、それぞれ違うところに座っていた。互いに距離を置き、一足で近寄れぬ距離を保っていた。三人の内、一人の西藤次郎は月明りの当たる側、小幡播磨守は戸の近く、安中宮内大輔は奥にいた。藤次郎だけが具足の胴を着けたままで、播磨守と宮内大輔は小袖である。
播磨守の小袖は裾が泥で重くなっていた。三人とも笠を持っていない。そのうえ手入れのされていない無精ひげがのぞき、到底山内上杉の重臣らだとは思えない風貌であった。
しげしげと三人を見ていると、ふと道のほうで人の声がした。
三人の家臣が、揃って身を低くした。竜春丸も膝を折った。頭を播磨守に抑えられ折らされたのだ。跪きながら、板の隙間から下の土が見える。
声はしばらく近づいて、それから遠ざかった。荷を運ぶ者らしく、何か言い合いながら通り過ぎていった。牛の鳴く声が一度した。人の声のあいだ、竜春丸は口を開けて息をしていた。埃を吸って咽せそうになり、袖で口を押さえた。押さえた袖が土の匂いをしていた。
藤次郎が、息を吐いて壁へ背を預けた。
「これどうするか、案のあるものはおるか」
藤次郎は膝を立て、そこへ肘を乗せている。
片方の袖が肩のところで裂けていて、下の白い布が出ていた。藤次郎はそれから、竜春丸をちらりと見た。
「いっそ、旗を翻すというのもあるが」
竜春丸は身を震わせた。言葉の意味は分からないが、その目に見られると背が冷えた。
藤次郎は先を言わなかった。言わずに、膝の上で指を組んでいる。竜春丸は目を落とした。
落とした先に自分の足があって、指の股まで土が入っていた。城にいたときは、足を洗う者がいた。名は思い出せる。顔も思い出せる。いまどこにいるかは分からない。
播磨守が、藤次郎のほうへ顔を回した。眉間に皺が寄っている。
「馬鹿を申すな。某も許さぬ。それに何より、いまさら許さぬと左馬頭殿は仰せだ」
「江戸城での奇襲、そこまでか身に堪えられたか」
宮内大輔がしみじみと言った。
「まさか腕まで落ちるとは思わなんだ。だが、今言っても信じまい。今川がやったと何度も申したが、左馬頭殿にとっては同罪らしい」
播磨守は言いながら、腰の物の鞘を膝の上へ倒した。土が付いていて、それを掌で払っている。
藤次郎が、胴の草摺を指で弾いた。
「今川を信じるべきではなかったな。あれは血に飢えておる」
奥の暗がりから、宮内大輔が一歩前に出てきた。暗黙の了解であった一足の距離を詰め、壇の前まで来て、そこへ腰を下ろした。
「藤次郎殿、それも言えまい。今川は約定は守った。奇襲をかけ、当主としての失態を作った。ただその結果、腕が落ちた。戦に手加減はできぬとは言っておったろう」
今川との約定というのは、正しくは今川の坊主との約定である。
こちらが甲斐のほうにいると左馬頭側に言えば、それをうまく使い奇襲をかける。そして左馬頭に当主としての失態を作らせる。命は取らぬようにだけはする、そのうえで古河公方とうまく話がつくよう取り計らう。
そういう話であったと、竜春丸は聞かされていた。
平井城の片隅で、家臣衆が何事か話し合っていたのを思い出していた。内容は覚えていないが、頷くように言われ、筆を握らされて紙に何か書かされた。
その時も何の話なのか分からなかった。今もよく分からない。ただ、あの時に集まっていた者たちの顔と、いま目の前にいる三人の顔が、同じように怖かった。
宮内大輔は板の上の埃を、指で払った。
「問題はあの方に足利の血が流れおったことか」
宮内大輔の口にかすかな笑みがあった。それを播磨守が見咎めた。
「不敬ぞ、宮内大輔殿」
「何が不敬か、播磨守殿」
「まるでそこもとの口ぶり、正当なる当主を蔑ろにしておるようだ」
播磨守の声が高くなった。宮内大輔は苦笑し、片手を上げて、それを抑えた。外へ向けた掌であった。
「そのようなことは申しておらぬ。敵は手ごわい、そう言っておる。腹をくくった左馬頭殿は、長野と但馬守をうまく使っておられる」
藤次郎が短く笑った。笑ってすぐ、口を閉じた。
「宮内大輔殿、それは違う。長野も左馬頭も但馬守が使っておるのだろう。あんなとち狂った小童など、良い様に操れよう」
「仮にも主君であった御方、そこまで下げる必要はなかろう」
宮内大輔の言葉に藤次郎は鼻を鳴らした。それからまた草履の裏で、床の板をこすった。板が細かく鳴る。竜春丸の膝にも、その音が伝わってきた。
途中から話に置いていかれた播磨守が、二人を等分に見た。
「して、話を戻すが、これからどうする」
「二つに一つであろうよ」
宮内大輔は座り直して、指を二本立てた。月明りの当たる側に出たので、その指の影が板の上に伸びた。
「一つは不忠の泥を被ってでも生き残る」
宮内大輔も、竜春丸をちらりと見た。
竜春丸はまた身を震わせた。膝の上の竹筒が鳴りそうになって、両手で押さえた。
不忠の泥というのが何を指すのかは、さっき藤次郎が言いかけて止めた。止めたのに、二人ともまた同じところへ戻ってくる。戻ってくるたびに、竜春丸のほうを見る。
言葉は分からないが、異様なまでに背筋が震えた。
「馬鹿を申すな、宮内大輔。ここで切り合うか」
播磨守が低く、小さく唸った。二人の距離は一足よりも縮まっている。播磨守の手が、すっと腰のものに伸びた。だが、宮内大輔がまた手の平を前に差し出した。
「それは御免であるし、そう思うならば、そもそもここまで付いてきてはおらん」
「では、この場で紛らわしいことを申すな。とっと二つ目を申せ」
播磨守に促され、宮内大輔は指を一本折った。
「簡単よな、左馬頭様と同じことをする」
藤次郎が壁から背を離した。そのまま目を細めた。
「平井城を攻めるのか」
宮内大輔は首を横に振った。今度は藤次郎が鼻を鳴らした。
「勿体ぶるな、ではなんだ」
「頼りになる者を呼び込むほかあるまい」
藤次郎の声が、少し低くなった。ただでさえ低い声が、獣の唸り声のように本堂に響いた。
「頼りになる者か。本来ならば同族の扇谷などがそうなるのだがな」
宮内大輔が膝を組み替えた。その名前は気に入らないらしい。
「戦場でともに血を流した縁、失った縁、相当深いようだ。姫を嫁がせ義兄弟などにおさまっておる。これは断ち切れまい」
「ではどこだ、京の公方様か」
播磨守が口を挟む。その目は立てかけた戸の隙間だ。外を見ているというより、外の音を聞いているらしかった。
「平時ならば兎も角、今の京の公方様はむしろ援軍を欲しかろうよ。今は近江の古寺で逼塞しておられるのだからな」
竜春丸は竹筒の栓を、指で少しだけ緩めた。
水の音がするので、すぐ戻した。喉の奥が張り付いて、唾を飲むたびに音が出そうになる。
播磨守が憎々し気に黙りこんだ。膝の鞘を戻し、指で顎のあたりを掻いている。しばらくしてから言った。
「では長尾はどうだろうか」
藤次郎が首を回した。骨の鳴る音がした。
「長尾、敵であろう」
越後の長尾は守護代である。守護代でありながら守護を逐い、いまでは国の実権を握っている。だが、そのやり方を快く思わぬ者は越後にも少なくない。
竜春丸は、越後という国の名を聞くたび、大人たちが長尾という者のことをあまり良く言わなかったのを覚えていた。それ以上のことは分からない。
宮内大輔は首を傾げながら口を開いた。
「いや、それは某も考えた。長尾は力を持っておるが、守護を逐った過去がある。名分に傷がある以上、正当な後ろ盾は欲しかろう。関東管領の血を正しく継ぐ、竜春丸様が当主になり、長尾を認めるとあらば、首を縦に振らぬ、とは言えん」
自分の名が出た。竜春丸は身を固くした。三人の顔はこちらを向かない。名だけがこの場を通り過ぎていって、それきりであった。城にいたころも同じであった。名は毎日呼ばれるのに、呼んだ者はこちらを見ずに話を続ける。
宮内大輔は言いながら、顎をさすった。
「だが、皆知っての通り、長尾は力こそあれど、その名分に傷がある。越後を纏めるだけでも手は掛かろう。そもそも関東まで前へ出て来られるか、という話でもある」
播磨守が舌打ちをした。竜春丸は自分のことでないのに、肝が縮こまった。
「拗ねるな、播磨守殿。長尾は寄せられる目がある。それでよかろう」
宮内大輔の言葉に、藤次郎がまた唸った。藤次郎は腕を組み、しばらく板の目を見ながら口を開いた。
「長尾も悪くないが、越後は関東ではない。越後に逃げた者を関東管領として迎え入れようか」
「では藤次郎殿は誰を頼られる」
その問いに、藤次郎は決まっているとばかりに言った。
「北条だろう。後背を突ける。それに扇谷はこれを無視できまい」
「上野に来るまでどれだけかかる。領地を燃やされた武蔵衆の殺気を逸らすのでさえやっとなのだ。平井まで来れるとは到底思えぬ」
否定したのは播磨守である。藤次郎は思わぬところからの否定に、どんと床を叩いた。
板が浮いて、埃が立った。月光の筋の中で、それがゆっくり回った。竜春丸は息を止めた。
その月光の筋も、はじめに座ったときより細く、位置が壁のほうへ寄っている。屋根の落ちた縁のところだけが、まだ照らされていた。
「ばれまするぞ、藤次郎殿。今は耐えねば」
藤次郎が宮内大輔を睨んだ。
「宮内大輔殿、貴様そのように賢しらぶるが、何か案があるのか」
宮内大輔は頷いた。
「ある」
「それは何だ」
言いかけたところへ、外で音がした。
人の走る音である。裏手のほうから一人が駆け込んできて、板の上に片膝をついた。裸足であった。脛に血が筋になって乾いている。肩で息をしていて、その息が板の埃を動かした。
「殿、追手にございまする」
男は藤次郎に跪いたが、藤次郎はその男の肩をつかみ、目線を合わさせた。
「旗印は」
「長野に」
きっ、と藤次郎の眉が上がった。歯を剥きだしにして、吐き捨てる。
「あの忠臣面した馬鹿者が」
藤次郎が立ち上がった。そのまま竜春丸のほうへ来る。竜春丸は動けなかった。だが、竜春丸の予想を裏切り、藤次郎は寸前で足を止め、壁に立ててある槍のうち、袋を外したほうを取った。
播磨守が腰を浮かせた。
「どうなさる」
「決まっておる、食い止める。貴様らは裏手から行け」
藤次郎は槍を右手へ持ち替え、穂を上へ向けた。天井の残っている側であったので、穂の先が垂木に当たった。当たった音で、竜春丸は肩が動いた。
宮内大輔は座ったままである。
「良いのか」
「良くはない、だがこのまま貴様らの賢しらぶった講談など聞いていると、不忠の一つも働きたくなってしまうわ」
藤次郎は槍の柄を掌で握り直し、そのままどしどしと歩いて出て行った。
裂けた袖が、戸の残った縁に引っかかって、また裂けた。
外、月の差す方へ出たところで、藤次郎が走りだした。そして、しばらくして遠間から声が響いた。
「おう、無様に負けた養子殿に尻尾を振る長野。西藤次郎が来たぞ。そこもとは忠義者と言われておるらしいが、実際のところ、ここぞで決めきれぬ頑迷な犬にしか見えぬわ。それほどまでに武勇と忠義が自慢ならば、なぜ先の戦で振るわなんだ」
大笑いをしながら、その声が遠ざかっていった。
播磨守が戸の隙間へ寄って、外を見た。
すぐに離れて、宮内大輔のほうへ首を振った。何が見えたのかは言わなかった。
竜春丸は、藤次郎の顔を思い出そうとした。すぐ前に立っていたはずであるのに、槍を取る手の甲しか浮かんでこなかった。爪が短く、親指の付け根に古い傷があった。それだけである。
残った一本の槍が、壁に寄せたままになっている。袋がかかっているほうであった。
宮内大輔が立った。膝の埃を払いもしない。
「いかねばなりますまい」
声は低いが、急いではいなかった。
駆け込んできた者が竜春丸を担いだ。腹が肩の骨に当たって、息が詰まる。
竹筒が手から落ち、板の上を転がった。壇の縁に当たって止まったが、拾う者はいなかった。
須弥壇の裏の床板が二枚外された。板は前から切ってあったらしく、外すのに音がしない。その下に穴が掘ってある。人一人が這って通れるだけの穴で、寺の裏の斜面へ抜けているという。誰がいつ掘ったのかを、竜春丸は知らない。この寺へ入ったときには、もう掘ってあった。
先に播磨守が入り、次に竜春丸が押し込まれた。担いだ男が後ろから足を押す。土は乾いていて、崩れた分が首筋へ落ちてくる。肘で進むうちに、袖の裂けたところから腕が擦れた。前を行く播磨守の草履の裏が、鼻の先にある。泥が固まって、その形のまま残っていた。
途中で一度、上のほうから物音がした。皆が止まった。
竜春丸は自分の息の音が一番大きいことに気づいて、口を閉じた。音は続かなかった。
外へ出ると月が天頂にあった。
斜面の下は木が立て込んでいて、道は見えない。空だけが開けている。背の上で、竜春丸は寺のほうを振り返った。屋根の落ちた側が、月に白く見えている。藤次郎の声は、もう聞こえなかった。
播磨守が足を止め、宮内大輔に呼び掛けた。
「だが、何処に行く。誰を頼るのだ」
「今川だ。われらを焚きつけた責任を取ってもらおう」
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「もう少しですぞ、御辛抱くだされ」
竜春丸は、男の背の上で揺れていた。
男の肩が腹に当たる。当たるたびに息が半分になった。
竜春丸はずっと口を開けたままだった。開けていると舌が乾き、閉じると胃の下から何かが上がってきた。
目の前に、男の背中は汗で色が濃くなっており、それが今は不快ではなく、不思議とその熱と大きさに安堵を覚えていた。
その男の背から、少し下を見ると、地面がどんどん後ろへ流れていく。月で照らされた草木が、光を跳ね返し淡く光っているようだった。
男が何かを乗り越えるたび、固い背骨が頬に当たり痛かったが、今は声が出なかった。興奮やら、恐れやら、感動やらが一度に押し寄せ言葉を無くしていた。
当初、一行は西へ向かっていた。
竜春丸らはあの廃墟を出た後、一先ずは長野勢の手から逃れた。だが、それは一時のことであり、直ぐにこのあたりにいると勘付いた追手は包囲を縮めていった。その結果、一行は昼の間は死んだように眠り、夜の間になると早足で山々をかけるほかなかった。
そうした中で、初めは国峯城へ入り、そこで今川の援軍を待つはずであった。国峯城は堅城であり、信濃にも近く、いざという時、信濃方面に逃げるに都合がいい。また、腰を据えて今川と交渉し、援軍を引き出すにはちょうど良い場所である。
だが、それを途中で変えて、榎下城へ向かった。榎下城は国境ではなく、西上野の半ばあたりにあるが、信濃へ抜ける碓氷峠が近い。また城主は安中宮内大輔であり、まず勝手知ったる場所ということでそちらに足を向けたのだ。
ただ、この動きは長野勢、左馬頭勢にも読まれていた。
この榎下城近くの道に出たとき、長野勢らしき物見と鉢合わせた。
この物見はあっという間に兵を集め、一行を追いかけて来た。一行は竜春丸を背負うと、目と鼻の先にある榎下城をめがけて走ったのだ。
結果を言えば、寸でのところで長野勢は竜春丸らを逃した。
竜春丸らは榎下城の開かれた門を息を切らせながら走り抜け、そしてすぐ後ろで門が閉じられた。
「よし、よし、なんとかなった」
すぐ横を駆けていた安中宮内大輔が、肩で息をしながら言った。
竜春丸は板の上へ下ろされた。下ろされてすぐに立とうとして、膝から崩れた。足が自分の足でないように思われる。担いできた男が、上から小袖を一枚かけていった。裾のところが、まだ男の汗で濡れていた。見れば自分自身の手も、ひどく手汗がにじんでいた。
唾をのみながら周囲を見ると高い塀があった。竜春丸の背より高い板の塀で、根元に俵が積んである。俵の縁から土が少しこぼれていた。
一人早く呼吸を整えた小幡播磨守が、塀の上に上り、外を見ていた。一方の宮内大輔は塀の内側に立ち、外の音を聞いていた。どちらも訝しむような表情をはっきりと浮かべている。
「多いな。想像以上だ」
そう言ったのは宮内大輔である。困った様子ではあるが、切羽詰まった顔ではない。
「馬鹿を言うな。古河公方と扇谷までいる。こんなものだろう」
播磨守は塀へ手を掛けていた。掛けたまま、爪先で立っていた。
「いや、山内の数だ。負けたばかりであろう。生き残り、国元に帰ったのは我らに同心する者ばかりではなかったか。長野勢の勢いと、但馬守の寝技に一時圧されたのはわかる。だが、兵を出すほどにまで、左馬頭殿に靡くとは思わなんだ」
播磨守が不快気に首を掻いた。
「先ほどまでの賢しらぶった態度はどこに行った。泣き言などいまさらであろう」
宮内大輔はその態度を気にも留めず、ただ顎に手を当て思案顔である。
「泣き言ではない、奇妙だと申しておる。どこから来たのやら」
「知らぬ。知らぬが、どうせ但馬守が裏から手を回したのであろう」
宮内大輔が、ふむ、と唸った。そして、少しだけ口角を上げた。
「あり得るか。長野勢と関東管領の威光をもとに、精々派手に脅したか。いや、関東管領の威もまだ落ちておらぬようでほっとした」
外で音がしていた。低い音で、途切れない。竜春丸は俵から手を離して、そちらを向いた。
人の声のようでもあり、風のようでもある。城にいたころ、朝に聞いた音に似ていた。何の音であったかは思い出せない。
播磨守はまた憎々し気に顔をゆがめ、外を見た。
「言っておる場合か。して、どうする」
「知れたこと。籠る。それしかあるまい」
播磨守はようやく、宮内大輔に寄り、その肩を押さえた。
「馬鹿を申すな、籠ってどうする。援軍は」
「今川に使いを飛ばした」
播磨守が肩から手を離した。そして、今度は髪を掻きむしる。汗でぬれた髪から滴が散った。
「何を差し出す。決められんぞ。まさかとは思うが、国境の小幡領ではなかろうな」
「そんなことは書いてはおらぬ。ただ、関東管領は恩を忘れぬ。昔日の縁を縋りたい。左馬頭と修理大夫は今川を恨んでおるが、放っておいてよいのか、と並べただけだ」
「それで来るのか」
播磨守は馬鹿にするように、視線を尖らせた。
だが、宮内大輔は、やはりそれを気にも留めず、堂々と板の上へ腰を下ろした。座ると、竜春丸のいるあたりまで近くなる。袴の裾に、乾いた土が固まってついていた。
宮内大輔は聊か草臥れたしたり顔で顎を撫でる。
「さて五分、いや三分であろう。今川も上洛で忙しい。長野を軽く睨んでくれて、あとは抜け出す隙を得られれば良いのだがな」
「そんな呑気な」
竜春丸は小袖の裾を握った。握ると指が温かくなる。眠かった。瞼が下りかけて、そのたびに外の音が近くなる。近くなると目が開き、開くと塀の板が目の前にあった。
その夢うつつの最中、ひと際大きな声が響いた。雷のようなそれは竜春丸の目を一気に開かせる。
「竜春丸殿、何処に行かれる。御屋形様は大人しく首を垂れろと仰せである。さすれば義兄弟の縁ゆえに許すとのことだ。ご安心召されよ、長野出羽守がしっかりとお連れ致しましょうぞ」
声の出どころは外の軍勢である。
どうやら、長野出羽守方業が来ているようだった。竜春丸は伝聞でしか知らないが、相当の戦の上手らしい。この男が左馬頭に付いたことで、旗色を変えた国人衆も多く出たほどだ。
竜春丸は俵に手をついて立った。塀の板と板のあいだに、指が一本入るほどの隙がある。そこへ顔を寄せた。
今宵は満月であり、随分明るかった。
夜闇においても城の周囲をぐるりと分厚い人の壁が囲んでいるのがありありと見えた。彼らは一つの旗を掲げ、こちらに対し、決して何も通すまい、と隙間を埋めているような陣形をしていた。
そして、その軍勢の中に馬上よりこちらに声をかけた武者が見えた。それが長野出羽守であろうことは竜春丸にも察しがついた。
覗き見ていると、出羽守はまた馬上より雷のような声を発した。びりびりと肌が震えるような声である。
「平井のお城には御身の居室が用意されてござる。足をすり減らして逃げる必要はござらん。いい加減畳の上で眠りたくなられたころでござろう」
畳と眠り。その言葉に思わず心惹かれた。
だが、竜春丸は隙間から目を離した。あの連中が嫌に恐ろしかった。言葉に惹かれても、身を預けようとはどうしても思えなかった。
そこに播磨守が塀の上へ、すっと顔を出した。
「たわけ。とっとと帰らんか。ここに竜春丸様はおらぬ」
「おぉ播磨守殿。であれば城を開き、見分いたしたく」
「馬鹿者。城主の宮内大輔は、勿体ぶる男だ。戦馬鹿の犬など城に入れぬ」
宮内大輔はまだ座っていた。播磨守の勝手な言い分に苦笑し、膝の上で指を組んでいた。
「勝手なことを申される」
「どうせ、同じことを言うたのだろう。手間を省いただけよ。城主の面目が立たぬというならば、ほれ、貴様も申せ」
ため息をつきながら、宮内大輔が立ち上がった。立つときに、袴の膝が竜春丸の頭に触れた。触れてから、宮内大輔は竜春丸を見下ろし、それから塀のほうへ行った。
「城主の安中宮内大輔である。播磨守殿が言った通り、今すぐに帰られよ。左馬頭殿は嫌いではござらんが、そのやりように先はない。扇谷にそそのかされ利のない戦ばかりで、山内が朽ちるのは目に見えておる」
これに対しては出羽守が吼えた。
「そう思うならば、大戦の起こる前に口を挟め。知恵者を気取るならば、あの戦は不味かったなどという後知恵以外も口に出してみせい」
宮内大輔が笑った。言われてしまったとばかりに、頭を掻いた。
それから首をひっこめ、播磨守に笑いかけた。
「言ってくれる。長野め口戦もうまいわ」
「笑っている場合か。早う言い返せ」
播磨守は笑わず、顔を顰め外を指さした。だが、宮内大輔は首を横に振り、塀から離れた。
「いや、もうよかろう。籠るぞ」
そう言うと、城兵らは城主の言葉に従った。
門が閉じられ、閂が二本、続けて落ちた。
板の上に俵が運ばれてくる。運ぶ男たちの足が、竜春丸のすぐ横を通っていく。踏まれはしなかったが、誰も竜春丸を見なかった。
竜春丸は小袖を引き寄せて、俵の陰へ入った。身をかがめ、そっと手の汗を何度もぬぐった。拭っても拭っても出てくるそれが、どうにも情けなく思えた。
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躑躅ヶ崎館は、床が冷たかった。
尾張を出て四日、承菊は船を乗り継ぎ、馬を乗り継ぎ、漸く躑躅ヶ崎館にたどり着いた。そして湯で体を清め、衣服を整えているうちに使者の準備が整ったと言われ、部屋へと案内された。
通された部屋は庭に面した障子は開けてある。山が近いので、日はもう斜めから入っていた。畳の縁が一筋、明るくなっている。
眼前に、使者が平伏していた。
承菊が先の戦で繋がった、安中宮内大輔の一門の者だという。烏帽子の紐が新しく、袴の膝は乾いた泥で白くなっていた。指先が畳へ着いたまま、少し震えている。
先に話を聞いた甲斐の者によると、この使者は城が囲まれる寸前に、宮内大輔の知らせを受け、今川方に走ってきたらしい。
おそらく、竜春丸方の了承は得ていない、承菊はそう見ていた。
部屋の脇には岡部左京進が座っていた。本来は躑躅ヶ崎の城代であり、甲斐衆にも顔が利く男になっている。久しぶりに顔を合わせたが、変わったところはない。眉間の皺だけが、前に見たときより深くなっていた。
承菊は内心でため息をついた。
やはり、尾張ではしゃぎ過ぎたか。そう思わないでもない。
そんなに動き回りたいのならば、せっかくならば甲斐で山内方の相手をしておけ、先の戦でも窓口だったのだろう。
そのように、主君の五郎に申し付けられ、急ぎの荷の如く送り出されてしまった。確かに尾張でやれることはほぼなくなったが、それでももう少し労わってくれても良いはずだ。
承菊は、ふう、と深く息を吐いた。すると使者が喉を上下させた。思わぬところで焦らせてしまったらしい。
人の心を揺さぶるのは嫌いではないが、出来れば、自分の思った通りにやりたい。
承菊は内心を押し込めながら、深々と頭を下げた。
「安中殿、お久しゅうございまする。承菊にございます」
返礼はなかった。ずいぶん待たされていたらしい使者は縋りつくように、膝を前に進めた。
「承菊殿、どうか、どうか」
「ご安心を安中殿」
実のところ、使者の用件は着く前から知れている。主君の指示と、許される範囲も聞いている。つまりこの場のやり取りは茶番であった。
承菊は膝の向きを直した。直すついでに裾を翻し、手首の数珠を鳴らした。玉の音が、開いた障子のほうへ抜けていく。
「聞いておりまする、竜春丸様が平井城を追われた。正当なる御方になんと剣呑なことと、尾張で震えておりました」
「そのように、呑気な」
承菊は意識的に眉を下げた。
「これは失礼いたしました。されど、盟も結んでおらぬ他家の事情にございますれば、むしろ、すぐさま腰を上げる、というわけにはいきますまい」
使者は少し顔を顰め、それからまた平伏した。額が畳へ着いている。
「竜春丸様をお助けいただきたく。竜春丸様を奉じ、山内上杉を守ろうとした主君をお守りいただきたく」
「これは、これは」
数珠を握った。小気味よい音に、承菊は心躍った。
「古河公方様や扇谷上杉殿と再度槍を交えよ、と仰せでありまするが、知っての通り、当家は上洛の準備の最中にございます。これをいかんともしがたく。無論、当主治部太夫の身は一つなれば、東と西、両方を見ることは能いませぬ」
使者がぐっと何かを飲み込んだ。承菊は数珠を鳴らしながら、その瞳を覗き込む。
「安中殿、あえて問いまする。竜春丸様を救うこと。これに武家の棟梁を助けるということよりも、大きな大義名分はございますでしょうか」
使者が黙った。伏せたまま、袴の裾を握っている。
楽しくなってきたと、承菊は笑みを噛み殺しながら、その伏せた姿に言葉を重ねた。
「そもそも、大きな枠で見るのであれば、当家は山内上杉殿に二度、領地を脅かされておりまする。これに対する詫びもないのに、ただ助けよと申されても困りましょう」
使者がぱっと頭を上げた。機を見つけた顔だった。
「そう仰せにございますが、それはあくまで左馬頭殿と今川家の間にございます。竜春丸様とは気脈を通じ、その御心も察せられたもの、と主君は申し上げておりまする」
「確かに、竜春丸様ならば甲斐、信濃との間で火は付きますまい」
使者がまた膝を前に進めた。そして急いで背を伸ばす。烏帽子が少し後ろへ寄っていても、それに気づかぬらしかった。
「であれば、これをお守りし、当主へと押し上げるは、今川の利にございましょう。竜春丸様は、治部太夫様を兄と慕いましょう」
承菊は口の端だけを上げた。
相手の言葉をどこから崩すかと考えると、それだけで旅の疲れが吹き飛ぶようだった。
「と申しまするが、関東の事情は複雑怪奇。昨日の敵が今日の義兄弟、となることなど珍しくございますまい。これは修理大夫殿と左馬頭殿を見れば明白。ならば、その逆も簡単に起こりうる。そう見るのも自然ではありませぬか」
「竜春丸様はそのような方ではございませぬ」
使者の声が高くなった。左京進の膝が、わずかに前へ出る。出しただけで、そのまま止まった。
承菊は一度、左京進に頷いてから、使者に続けた。
「恩を忘れず、折り目正しい方。ええ、安中宮内大輔殿は、竜春丸様をそう称されました」
「であれば、」
「そのような方が、果たして養子とはいえ兄を追いやり、居城を奪いましょうか」
使者が黙り込んだ。憎々し気に、また苦し気に顔をゆがめる。
それを見ながら承菊は数珠を操った。一つ二つと手の中でいじっていると、何処からか、えも知れぬ甘い香りがした気がした。承菊はそれを味わうように吸い込むと、そっと頭を下げた。
「これは失敬いたしました。きっと竜春丸様にもご事情があられたのでございましょう。心無い家臣に背を押された、そういう筋が妥当かとも思えまする」
使者の目が細くなった。
「主君、宮内大輔がそのような男であると」
「まさか、愚僧の邪推にございます。関東管領様の御家中、御心など修行中の身にはとんと見当もつかぬ次第にございまする」
承菊は数珠を鳴らした。
使者は再び視線を落とした。そして畳の縁を見ながら口を開いた。先ほどと打って変わり、低くかすれた声である。
「お助けいただけぬ。そう言うことでございましょうか」
「まさか、それは主君に上げる話にございますれば、この場で助けぬなどと言えぬことでありましょう」
ただ、と承菊は付け加えた。
「上洛の足を止めざるを得ない主君に、多少の華を持たせていただきたい。それだけにございます」
使者が顔をゆがめた。何を言っているか察しているようだった。
「この身にはそのような約束できませぬ」
声が、来たときよりも低くなっている。承菊は頷いてみせた。
「ええ、無論。ただ安中殿に、どうにかお伝えいただきたい。もしこの案を飲んでいただけるのであれば、狼煙を挙げていただく。そのうえで、三度鏑矢を御打ちくださりませ。これをもって了承の証としたく」
使者は明らかにほっとした顔をした。文字にして何かを誓わなくて済む、いざという時はなかったことにできる。そんな思いが承菊には手に取るように分かった。
馬鹿な男だ。そう内心でほくそ笑んだ。
はっきり文に残す必要なども感じえない。もはや書いた書かなかった、そのような段階にはない。主君の五郎はもう動き出している。
ありていに言えば、竜春丸の了承すらも必要はない。
ここからは、単なるだめ押し程度に過ぎない。上手くいけば御の字の策だった。
承菊は懐から文を出して、畳の上を滑らせた。膝の裏がまた張ったが、姿勢は崩さなかった。
使者はおっかなびっくりと受け取った。両手で持ち、裏を返し、また表へ戻す。
「中を見ても」
「どうぞ、宮内大輔殿のご一族であればなんの問題もございませぬ」
使者は腫物に触れるような手つきで文を開いた。
唇を噛み、目を見開いた。
「まあ、全ては竜春丸様次第にございまする」
承菊はそう言って、笑みを深めた。左京進はとうとう額に手をあてて唸った。




