6章_8
葛山中務少輔氏広は、自分の頭を筆の柄で小突いた。
「そういうことか」
先週より馬の数が一致しなかった。
三度数えて三度とも違い、四度目でようやく合ったが、それは中務少輔が先月、駿東の国衆に銭を出し合わせたのだ。あくまで、帳に当初載っていた馬がどこに消えたのか分かったわけではなかった。
いったい、どこに消えたのかと方々の帳を片っ端らから開き、目を凝らしようやく合点がいった。
新しく三河よりやってきたものに対して、馬を貸し出し、それがまだ帰ってきていないのだ。
というのも、乗っていた馬が急に死に、国元に帰るのに難儀しているという話が上がり、それに対して同じ三河の者が貸し出した。
それはいい。そういう時は貸し出しても良いことになっている。だが、帳面に記載がないのが問題だった。
貸し出した三河者も悪意があったわけではない、ただ書き込み方が揃っておらず、貸し出しではなく、戦に用いる馬として書き込まれていた。
困ったものだ。と思いつつも、ほっとする。
書き方が不慣れであれば、少々指導すれば片が付く。心根が曲がっていれば、少々のことでは済まなかった。
中務少輔は筆を置き、指で瞼を押した。障子は開けてある。庭の松に日が当たり、その照り返しが畳の縁で光っていた。五月にしては暑い。膝の下に汗が溜まっている。
「漸く、こちらにもとりかかれる」
呟きながら、中務少輔は文机の山を見た。
文机の右手に帳面が三束、左手に一束積んであった。右は上洛に関する文の束である。
宿老の安房守は、上洛に関してそこまで気を張らずともよいと言う。
だが、そう言うわけにはいくまいと中務少輔らは思った。
確かに、京へは遊山に行くのではないし、本当に挨拶だけに行くわけではないから、ことさら豪奢にする要はない。
ないが、今川の顔と名を京で売るのだと言われている以上、みすぼらしくても困る。
その結果、中務少輔の如き、上とも下とも言えぬ朋輩はあちらこちらに顔を出し、用意は済んでいるか、足りぬものはないかと聞いて回っていたのだ。こうして聞き取ったものは、勘定役で吟味し、主君が頷けば銭か物が出る。
よく見てくれたと、中務少輔も褒め言葉をいただけるので気合も入る。
中務少輔はそこまで考え、頭を振った。目に入るのは減らない文の山だ。
聊か、気を回しすぎたかもしれない。とため息が出た。
まず兵糧の俵は、二十俵ほど合わない。戦が二度三度と続いたが、さすがにこれはおかしいという話だ。主君、治部太夫の戦は短期で終わることが多いが、あちらこちらを駆け回る。どこでどれだけ使ったかが散逸することは目溢ししてもよい。
だが、事前の準備の段階で二十俵のずれは不味い。
それに衣装である。
最近になってようやく絹の値と品質が一定になりだした。それと合わせて木綿や麻も落ち着きだした。それを見越して、懐事情が上向きになった三河、信濃の者らが一斉に衣装を整えだしたのだ。
そうなると一気に品が薄くなる。そこに上洛まで加われば、めぼしい布はもはや手に入らなくなっている。
「いや、良いことであるが。こちらはな」
また中務少輔はぼやきながら、左手の束を見やった。
こちらは上洛に関係はしない。正確に言えば、関係するが毛色が違い過ぎる仕事である。
左手の束は本拠移転の仕事であった。
本拠を移すと聞いたのは先月であった。
聞いた日は筆を落とし、書きかけの帳面に墨がひと筋走って、その頁はいまも捨てずに挟んである。
移す先が那古野城だという。主君の弟、新三郎氏豊が養子に入っている城であった。
尾張に根を張るのなら清州という立派な城があるものを、わざわざ大掛かりな普請を起こし、川筋も道も引き直して、そこへ住むという。
主君の言い分は、あくまで上洛のための一時的な拠点、というものであった。
だが、その一時的な拠点とやらは、道を大掛かりに普請し、川を掘るらしい。しかも駿府以上の城下町ができるという。
主君の言葉がなんであれ、誰がどう見ても本拠の移転であった。その心構えでかからねば、到底なしえない仕事でもある。
兎に角、それだけの大仕事であれば、帳簿を選り分け、当座の銭を積み、蔵の鍵を誰に預けるかまで決めねばならない。
正直言えば、それはいつか来ると思っていたため、準備は出来ていた。
だが、問題はただでさえ手が足りぬところへ、駿府に残る公家衆が来ることだ。
「懲りぬ方々よな」
思い出し、中務少輔はまたため息をついた。
今朝も来た。三日で二度目である。
供を二人連れてきて、その二人は庭に立ったままであった。当人は蒸した菓子を折に入れて持ってきている。
上座を勧めると三度断り、四度目でようやく座る。これだけでも時間がかかる。
しかも、それから半刻、移転という言葉を一度も使わずに、先代の御代がいかに穏やかであったか、公家街の桜がいかに見事であったかを話した。帰りぎわ、廊下で草履を履きながら、御屋形様にはよろしゅうお伝えくださいませ、とだけ言った。折の菓子は、まだ縁側に置いたままである。
彼らの意図は明らかである。
移転などしてくれるな、これだ。
だが、面と向かっては、移転などするなと誰も言わない。
彼らの腹は分からないでもなかった。公家衆は主君、治部太夫を畏れている。
他の武家が相手ならば、それでも位階という後ろ盾がある。京との縁を匂わせ、銭や譲歩を引き出せる。だが主君の前では、それがなぜか効かない。
ああ、大変でございますね。今楽にして差し上げましょう。などと言って平気で刀に手をかけそうなところがある。
いや、多分しないだろうが、絶対とは言えない。
今川と公家との関係は古く深い。公家衆が大事にされてきたのは先代以前からの倣いである。
公家街を整え、時には暮らしの面倒まで見たが、その関わりが、いま崩れかけている。
十万の関東勢に怯えて京へ帰った者などはことにそうで、頭を下げて許しを乞うこともできず、かといって昔のように構えることもできない。
それで、中務少輔のような縁者を捉まえて、懇々と話して聞かせるのであった。
中務少輔は帳面を伏せ、茶を頼んだ。
運ばれてきたときは熱かったはずだが、公家の話を思い返しているうちに温くなっている。
濃く入れさせてあるので、温くても頭の芯が明るくなった。菓子器の縁を指で回し、蒸し菓子をひとつ取る。
甘いが雑だ。駿府の街で作られた餅菓子の方がずっと旨い。
二つ目を口へ入れたところで指が止まり、瞼が下りてきた。庭で鵯が鳴いている。頭が一度落ち、また落ちた。
「中務少輔様、御台様がいらっしゃっておりまする」
小姓の声で身を起こした。口の端が濡れている。袖口でこすり、もう一度こすってから、膝を直して返事をした。
障子の向こうに小姓の影があるので、転寝に気づかれた気配はない。
「どうぞ」
小姓が入ってきて、菓子器を膳ごと下げ、文机の帳面を隅へ寄せる。硯の墨が乾きかけているのを見つけて、それも持って行った。
座布を出させるあいだも、中務少輔は袴の膝を二度撫でた。それが済むより先に、廊下の板が鳴った。
「失礼いたしまする」
姪の朝姫が入ってきた。女房が三人ついてくる。前の一人が扇を持ち、後ろの二人は手ぶらである。年嵩の女房が入り口に近いところへ座り、あとの二人がその内側へ回った。若いほうが、北条から連れてきた娘である。
朝姫は薄い青地の着物である。背筋の伸びた、いかにも武家の娘然とした姪であった。実家の北条で躾けられたのが一目でわかる、きびきびとした動きで、腰を下ろし、片手を畳へついた。そのまま平伏しそうなところを、周囲の女中らが止めた。
「済まぬ」
朝姫はそう言って気恥ずかしそうな顔をした。
近ごろは腹が目立つ。膝を横へ流し、そこへ両手を置いた。
顔立ちも、心なしか柔らかく、武家の娘というより立派な御台である。どうやら、この姪はあの主君と良い夫婦であるらしい。
小姓が白湯を運んできて、朝姫の前へ置いた。朝姫は礼を言ったが、手はつけなかった。
「これは御台様、お招きいただければ伺いましたものを」
「お忙しい叔父上を呼び出すなど、できませぬ」
中務少輔は畳へ手をついた。どうにも座りが悪くなり、頭を下げてしまった。
「中務少輔は家臣にございまする。どうか他の方と同じようにお扱いくださいませ」
頭上で、朝姫が少し困ったように声を上げた。生真面目な姪は、叔父にこのような態度を取られると、ひどく困るらしい。
中務少輔は身を起こし、声を整えた。頼りになる叔父を作ろうと、一段低い声を作った。
「して、御台様、如何されました」
朝姫は僅かにためらったものの、やがて凛とした声で喋り出した。
「その、駿府から尾張の那古野なるところに本拠を移すと聞きました。これはいったいいつ頃になりましょうか」
中務少輔は隅へ寄せた帳面のほうを見てから、答えた。
「そうですな。御屋形様に関しては、しばらく向こうにおられるやもしれませぬ。ですが本拠として動かすのは三年ほど先とも聞いておりまする」
「三年、ですか」
朝姫の指が、膝の上で袖の端をつまんだ。何かあるのだろうか。
控えていた女房の一人が、そこで口を開いた。北条から来た娘である。語尾がわずかに東の訛りであった。
「御屋形様と三年離れる。それを少し気にされておられるようです」
「美祢」
朝姫が女房の名を呼び、顔を伏せた。美祢は黙って頭を下げたが、悪びれた様子はない。
扇を持った年嵩の女房が、横目で美祢を見た。
本当にうまく夫婦をやっているらしい。
いや、本当だろうか。こうも当たり前の夫婦を見せられると、かえって疑わしくなってくる。
中務少輔は疑念をわきに追いやり、唸ってから言った。
「いやいや、三年間尾張に居られる、などということはございませぬ。直ぐに戻るとも聞いておりまする」
「ですが、上洛されるのでしょう。上洛ともなれば、しばらくは京にという運びになりましょう」
「それは、」
どうなのだろう。と言葉に詰まった。
確かに主君は、すぐに戻ると言った。だが一方で、上洛はきちんと支度をするとも言った。
その二つは並び立たない。京に行けば、一年程度で帰されるなど思わない。
中務少輔は膝の上で指を組み、また解いた。
頭の中にこれと言った答えはなかったが、今は姪の心を軽くしようと言葉を選んだ。
「いえ、それでも御懸念には及びませぬ。尾張と駿河は船に乗ればあっという間にございましょう。駿河から尾張へ向かう兵を追い越しながら、何度も行き来されるやもしれませぬ」
「船は危のうございます。あまり行き来などされては御屋形様の身が、」
言いさして、朝姫は口を閉じた。腹の上に置いた手が動いている。
姪は、戻ってくるほうも心配らしい。
かつてはもっと歯切れがよかった。いっそ死んで来いとまで言いかねない、武家の娘然としたところが目についたものである。それが今は、心配性の顔のほうが先に出る。子ができるからだろうか。
「それもご安心くださいませ。御屋形様は十万の軍を蹴散らした軍神にございます。領内の海で沈んだりは致しませぬ」
「それは、そうですが」
言いながら、朝姫は白湯の椀へ目を落とした。まだ手をつけていない。
庭で鵯がまた鳴いた。中務少輔は膝を進めた。
「ふむ、ではこう致しませぬか。尾張の城でも、すでに整ったものがあると聞きまする。準備ができ次第、そこに御台様が入れぬかどうか、中務少輔から、安房守殿や大御台様、北川殿にお尋ね申し上げまする」
「いえ、そのような面倒をおかけするわけにはいきませぬ」
朝姫が手を上げかけ、途中で膝へ戻した。
「面倒などではございませぬ。御屋形様も、事あるごとに御台様のことを聞かれるとのことです、ならばいっそと思うたまで、きっと御台様が中務少輔の元を訪れなくとも、近日中に尋ねたことにございましょう」
朝姫はまだ心配そうにしていたが、やがて頭を下げた。美祢が、袖の下でわずかに顎を引くのが見えた。
「まことにご迷惑でなければ、よろしくお願いいたしまする」
姪のその言葉に中務少輔は平伏した。額を手の甲へ乗せたまま、女房たちの衣ずれが廊下を遠ざかっていくのを聞いた。
障子が閉められ、板の鳴る音が三度して、それきりになった。
顔を上げる。畳に、額の跡が二つ残っていた。
中務少輔は隅の帳面へ手を伸ばし、開いた。
駿東の村の名が並んでいる。裾野、深良、竹之下。どれも歩いて回れる土地であった。
はっきり言えば、今のやり取りに少々の打算もある。
葛山の領地は駿東にある。北条と今川のあいだで火が吹けば、まず自分の田が焼ける。二つの家が固く結びつくのは、それだけで有難かった。
次の代が北条の血を濃く引くというのも、良いように操ろうなどとは考えないが、やはりなんといっても心強い。
朝比奈や三浦のように外へ出て大領を得る、などとまでは思わない。
思わないが、あの破格の主君の役に立ち、少しでも上座に近いところへ座りたいという気持ちは、確かにあった。
中務少輔は、その足で部屋を出た。
宿老の居室近くを訪ね、安房守付きの小姓に、都合のよい頃合いに会いたいと伝えさせた。
小姓は心得たもので、安房守の部屋へと走り、そしてすぐに戻ってきた。
「すぐに入室されるようにとのことです」
「かたじけない」
そう言って、小姓に礼を言った。
運がいい。そう思って安房守の部屋へと歩み出した。
安房守、宿老の居室は奥まったところにある。あまりに仕事が多いので、使われていなかった二つの部屋を無理やりつなげて一つの部屋にしたのだ。そのため、宿老を尋ねる一部の人間しか、このあたりには近寄らない。
実際、角を二つ曲がると人の気配がなくなり、そこから先は履物の音だけになる。
少し背筋を伸ばしながら、居室の前の障子の前で名を告げ、入れと短く返される。
頭を下げたまま障子を開けると、そこには先客がいた。
中務少輔は思わず身を固めた。尊敬しているし、世話になっているが苦手な相手だった。
「まあ、中務少輔殿、如何しましたそのようなところで置物になって。許可が出たのですから、早く入りなさい」
そう言ったのは北川殿である。中務少輔の叔母にあたり、もっと言えば、主君の祖母にあたる。
地味な鼠色の小袖を着て、文箱を脇へ寄せ、庭のほうへ半身を向けて座っていた。背は縮んでいるが、腰は伸びている。
「は、失礼しました」
そう言いながら、一歩足を踏み入れ室内を窺った。
本来の部屋の主、安房守は脇息にもたれ、開いた膝の上へ手を置いていた。もういい年だが、肩に肉が残っており、むしろ数年前より若々しさが増している。
文机の上には帳が伏せてあって、そのうえに湯呑が二つ、どちらも空である。
それらを目に入れながら、再度深々と頭を下げた。
「北川殿。お久しゅうございまする」
「中務少輔殿。励んでおられるようですね」
北川殿の視線を後頭部に感じた。何秒か数えた後、ゆっくりと頭を挙げた。叱咤の声が飛んでこないあたり、まずは合格らしい。
中務少輔は内心の動揺を隠しつつ、愛想笑いを浮かべた。
「はは、なんとか御信任に応えようとしておりまする」
そこで北川殿の目が鋭くなった。
「それは結構。ですが、叔父、姪だとて主君の妻に軽々に会うのは感心いたしませぬ。北条との縁、大切にしたければ丁寧に扱うことです」
ぎょっとして、膝が動いた。ほんの少し前のことが、もうこの部屋まで来ている。
北川殿はため息をついた。
「そこで身を固めるから、頼りにならぬのです。今日明日中に身罷るかもしれぬ叔母としては、あまりに心配です。新九郎に泉下で会うたとき、中務少輔はどうであったと聞かれ、なんと答えればよいのやら」
朝姫の前では、曾孫が嫁を取るまでは死なぬと笑ってみせたと聞いている。随分な言い草であった。
安房守が脇息から肘を外した。
「北川殿、どうかそのあたりで。中務少輔殿は、ようやっておりまする。北条との折衝、公家らの世話役。そして関東においては兵も率いました。まずどこに出しても、粗略に扱われる男ではありますまい」
北川殿がようやく目を中務少輔から背けた。
「安房守殿、そうやって主君の義理の叔父だと甘やかす。それは却って中務少輔のためになりませぬ」
ほっとするのもつかの間、またすぐに北川殿の鋭い目がこちらに向いた。
「よいですか、中務少輔、常に一歩退きなさい。一つ多く損をしなさい。でなければ妬みに押しつぶされましょう。そなたは根が真っすぐすぎる、佞臣の如き振舞いは、真似すらできませぬ」
また太い釘を刺され、言葉が出なかった。畳の目を見ている。日が動いて、光の縁が北川殿の膝までのびていた。
「そこで黙るのが、この婆の言葉が正しい証拠です」
北川殿はまた深く息を吐いた。
膝の上で数珠を握り直す。指の節が白く見えるほど、手が痩せていた。
安房守が、まあまあ、と間に立った。
「して、中務少輔殿の用件は何でござろう。こちらのものより先に伺いたく」
言い出しにくい。佞臣の如き振舞いはやめろと言われた、その直後である。
だが、一度受け持ったことを、できませぬとも言いたくなかった。中務少輔は一度唾を飲み、それから姪から聞いたことをそのまま話した。
話しているあいだ、北川殿は庭を向いていた。
「なるほど、尾張に御台所様をな」
安房守が脇息から身を起こした。
北川殿は庭に飽きたのか、こちらを見て鼻を鳴らした。
「中務少輔殿の安請け合いは気に入りませぬが、悪くはございませぬ。送ってもよいかもしれません。無論、子が生まれてからですが」
意外にも、否定はされなかった。
安房守も同様なようで、何度か頷いた。
「一度御屋形様に尋ねてみよう。八分ほどで存外すんなり通りそうな気もするゆえ、まあ案ずることはない」
胸をなでおろした。膝の裏に汗をかいている。これで姪へ返事ができる。
「して、こちらの用件だが、まずは近くに」
安房守が手招きをした。中務少輔は膝で畳を二つ進んだ。
安房守は脇へ寄せた文箱へ手を置いたが、蓋は開けない。
中務少輔が十分に近づくと、安房守はそっと声を潜めて言った。
「中務少輔殿、山内上杉の当主争い。動いたぞ」
はっとして顔を引いた。北川殿のため息がこぼれた。
「中務少輔殿、一々驚かない。そこもとの父も、祖父も、伊勢の屋敷でこのようなことを山と聞きましたが、眉一つ動かしませぬ。なんなら公方を挿げ替える話すら食事の場でやりだすほどです」
身が縮んだ。それを言われると立つ瀬がない。
やはり、まあまあ、と安房守が間へ入った。
中務少輔は横目で北川殿をうかがい、声を落とした。
「それで動いたとは何でございましょう。やはり左馬頭殿が追いやられたのでしょうか」
左馬頭は養子であり、家中での立場が強くない。そこへ関東の大戦で兵を多く失い、片腕まで落とした。幼いとはいえ先代の実子のほうが関東管領に相応しい。そう見る者が多いはずであった。
安房守が首を横に振った。眉を寄せ、低い声で言う。
「左馬頭殿、死に物狂いになった」
「死に物狂い、いや、古河公方の御曹司でございますぞ」
言ってから、中務少輔は膝の上の手を握り直した。掌が湿っている。
「同じ今川の御曹司を側で見て同じことが申せるかな」
北川殿が今度は鼻で笑った。
「近頃の御曹司という言葉の意味が変わりそうです。突飛者、粗忽者、そのあたりで後世に伝わりましょう」
「いえ、とにかく、誠でしょうか。左馬頭殿が前に出たというのは」
安房守が頷いた。文箱の蓋へ、指が二本乗ったままである。
「北条側、甲斐衆からも話が来た。どうやら先の戦で、左馬頭殿の邪魔をした国衆らを攻めるとともに、先代の実子、竜春丸殿が占拠した平井城を取り戻したそうだ」
「ずいぶんと、まあ」
先の関東での大戦の最中、先代の実子、竜春丸を担ぐ家臣団は山内上杉の本城平井城を占拠した。そのうえで左馬頭に当主の資格なしと叩きつけたのだ。そこから左馬頭はこれを認めず、断固として当主を譲らないという姿勢を崩さなかった。
左馬頭の持つ古河公方の血もあり、互いに手出しせず緩やかに竜春丸に趨勢が傾いていくだろうと思われたが、腹をくくった現当主が勝ったというのだ。
「信じられぬ話であるな。だが腕を落とされ、前と違い随分疑り深くなられたそうだ。またご気性も荒くなられたと聞く」
安房守は文箱へ指を置いたまま話している。開ける気配はない。
中務少輔は唾を飲み込みながらも、口を開いた。
「それは確かに、そこまでのことを経験したのであれば、気性が変わられるのはあり得ましょう。されど、敗戦は大きゅうございます。家中の恨みもあり、信も得られぬとあらば、竜春丸殿を追い落とすほどの兵は得られぬのではございませぬか」
北川殿の目が細くなった。不快気なものではない。むしろ少し感心したときの様子であった。
「兵を出したものがおる」
安房守の声がまた一段と低くなった。中務少輔は膝で畳を一つ詰めた。
「誰でございましょう」
答えはすぐに来なかった。安房守は障子の外へ目をやり、それから戻した。
「古河公方その人と、扇谷上杉」
中務少輔は口を開けたが、声にならなかった。一拍置き、かすれた声で聞き返す。
「まさか、扇谷はこれ以上ないほどの敗北にございます。外に兵を出すなど」
「婚姻である。扇谷と左馬頭殿との婚姻。そして、より強固な盟を結び、上杉を打ち払った北条、今川に対抗しようとしておる」
言葉が出なかった。喉だけが鳴った。庭で何かが落ちる音がして、それきり静かになる。中務少輔は膝の上の手を、いつのまにか袴ごと握っていた。
北川殿がそこで口を挟んだ。
「どこぞの鬼子が相当に恐ろしかったのでしょう。見栄の張り合いなど忘れて、まずは手を取り、生き残ろうとしておりまする」
安房守が膝を打った。場を変えようと無理をしているようだった。
「おお、北川殿、確かに御屋形様は鬼神の如きとは、心強いお言葉でございますな」
「軍神も鬼神も似合いは致しますまい。ただ悪鬼の如きと言うた方が合おうか」
北川殿の口の端が上がった。
「なるほど、それならば上杉らも尻尾を巻いて、」
話し出した二人へ、中務少輔は割って入った。きっとこのような調子で、自分が来るまで話していたのかもしれない。
だが、それに付き合わされるのは勘弁してほしかった。
「失礼ながら、御屋形様はこのことをご承知なのでしょうか。今は上洛の最中であり、東を振り返っておる暇などありませぬ」
「無論、知っておられる」
「では、なんとおっしゃられたのでしょうか」
安房守と北川殿が顔を見合わせた。
それから安房守が苦い笑みを浮かべ、北川殿が額を押さえた。
二人が吐いた言葉を受け取って、中務少輔はあんぐりと口を開けた。




