6章_7
夜が更けてから、織田大和守達勝は一人、酒を飲んでいた。
大和守の織田家は守護である斯波を支える守護代の一家であり、尾張においては岩倉織田家と対になる形で、清州織田家と呼ばれている。清州城に根を張り、豊かな平野と領地を持ち、斯波家を己の手の中に持つ清州織田家は、尾張においても随一の家だと、大和守は内々で自負していた。
ほんの半月ほど前までは、少々の期待があった。
大和守を悩ましていた、織田弾正忠家。これが代替わりをした際の隙が、大きくなっていた。この背景にはその力の源泉であった、津島が弱っていることがある。
上手くやれば、津島も弾正忠家も、あらためて自分の配下に治めることができるのではないか。そんな思いが頭にあった。
ただ津島が弱った原因である、今川の伸長には気を払わねばならない。だが、それも和らぎつつある。
幕府からの文である。今川は斯波家を立て、尾張に静謐をもたらすこと。
つまり、斯波家を立てる守護代である清州織田家に手を出すなどはもってのほかである。むしろこの力を使い、美濃や弾正忠家を抑えることさえもできる。大和守の見込みはこれだった。
だが、この見込みがぶれた。一応の主君である斯波家が勝手に動き出したのだ。
こちらが気が付いたときには、那古野城の今川一門に斯波家の養女を嫁がせるという話を付けていた。それで増長したのか、守護代の岩倉家を解任するとまで言い出したのだ。
本音を言えば、これらを主導した先代の安心入道を完全に隠居し、今までの行いは全てなし。そうしたかった。だが、今川の影がちらつき二の足を踏んだ。岩倉を助けようなどとは到底思わないが、斯波家、というよりそれを操る今川家の影響が尾張で強くなるのは避けたかったのだ。
そのような葛藤の末、大和守が選んだのは静観であった。岩倉の討伐には兵を出さず、さりとて邪魔もしない。
それとなく、失敗しろと祈るばかりであった。
「ち」
大和守は舌打ちをした。
膳の上に瓶子が二つ、どちらも軽くなっている。燭台は膝の斜め前にあって、灯が動くたびに障子の桟が畳へ影を落とした。障子の向こうは何も見えない。
岩倉織田家を攻めるという話は、完全に手が離れていた。正確に言うと、手が付けられなくなった。
まず、岩倉城は落ちた。これは良い、ただ不愉快なのは話が膨れ上がっているという点である。曰く、見たこともない攻めの道具がいくつも組まれた。曰く、大岩を投げこまれ、あっという間に城が落ちた。そんな噂まで城下に流れている。どこから出た話かは知れないが、一万の今川兵が城へなだれこんだというところだけは、どの口も同じことを言った。
そこまではよい。あの治部太夫のやることと思えば、我慢ができる。
ただ、どうしても大和守の頭を悩ませるのは、岩倉攻めの中で斯波の父子が、岩倉織田の手に討たれたという一件である。
「馬鹿者どもが」
殺してどうなるというのか。
守護代解任を白紙にしたいのならば、捕らえて掛け合えばよいのだ。
守護の父子を、それも夜のうちに討ち取って、岩倉に何の得もない。そんなことも分からないのかと嫌になった。
さらに不快なことは、父子が討たれたのは清州の城から遠くない野だということである。
あまりに近いため、清州城下では、あれには大和守も噛んでいるらしいという話が、もう出ている。
「今川も斯波も、どいつもこいつも」
大和守は呟きながら盃を干した。近臣が膝で寄って、瓶子を傾ける。あまり見ない顔だった。
記憶を探ると、弾正忠家の遠い縁者であると気が付いた。
それで一つ仕掛中のことが気になり、大和守は中空を睨みながら、口を開いた。
「弾正忠はどうした。岩倉へ行ったのであろう。何か聞いておらぬか、縁者なのだろう」
近臣は苦い顔で目を伏せた。
「聞いた限りでは、まだ戻れぬそうにございます。清州方への疑いが相当に強いようで、それを解くのに必死と伝わっておりまする」
その近臣が言い、一歩下がった。瓶子を膳へ戻し、また元の場所まで下がる。
「なんだそれは。腹の立つ」
今川にも、弾正忠家にも、斯波家にも腹が立った。
「畏れながら、文の中身より案ずることはないとも思えまする。現に当家は関わっておらぬのですから」
「だがな、今川は相当無茶をやるぞ。弾正忠の弁が立とうとも踏み潰す」
腹立ちが口に上り、知らず知らずのうちに語気が荒くなった。だが、この弾正忠縁者の近臣は腹が据わっている。緩やかに口角を上げ、穏やかに言った。
「今川の気性は殿のおっしゃる通りでありましょう。されど、今は上洛の下ごしらえの最中。尾張の屋台骨である、清州織田家まで壊しては上洛も何もありはしますまい」
それはずっと大和守が考えていたことだ。何度も考え、納得しようとした。だが納得できずに酒ばかり飲んでしまっている。
しかし、人に言われると急にすとんと腑に落ちた。
大和守は息を吐き、頷いた。
「確かに、それはそうだ」
「で、ございましょう」
弾正忠家の縁者である近臣が我が意を得たりと頷いた。
それを見て、ふと別の考えも浮かぶ。
弾正忠家から人質を取っておくべきだというものだ。
弾正忠の胆力は、この男の非ではない。未だ若いがその分勢いがある。太い首輪がなければ、何をしでかすか分からない。
そんな考えが浮かんだが、直ぐにかき消した。
今は不味い。
津島の一件で、代替わりを狙ってかすめ取ろうとしたのを、弾正忠は気づきはじめている。忠誠の証として自分から前へ出たのだから、それでよい。しくじれば、しくじったことを理由に攻めればよいだけである。
そこまで考え大和守は再び、今川のことに思いを馳せた。先ほどより幾分気分が落ち着いていた。
「確かに、清州を攻める理由はない。今をもっては、むしろ攻められぬ理由の方が多かろうよ」
「仰る通りにございます。武衛様がなくなられた今、次代の斯波家当主をお守りするのは殿以外に他ありません。幕府の斯波家を立てて、尾張を静謐に、という話も、清州織田家無くしてはもはや立ちいきませぬ」
その言葉にまた心が落ち着いた。
そうだ、斯波家を守っているのは清州織田家だ。
うん、うん、と一人で頷いた。頷くと、頭の芯が少し遅れてついてくる。
その時、外で人の声がした。遠い、城門付近での声。ただここまで届くということは相当大きな声でもある。
「なんだ」
大和守は腰を浮かせかかったが、近臣がすくと立ち上がる。
「見て参ります」
そう言って近臣が立って出て行った。廊下を踏む音が遠ざかる。
大事はなかろうか、忙しない夜だ。
大和守は息を吐くと、また盃を満たした。澄酒は美味い。熱田が今川の下に入ったのは気に入らないが、今川領内の品々が安く手に入るのだけはありがたかった。
ただ困ることは、安く手に入るので、こちらも消費が増えているということだ。特に澄酒は、濁り酒のような重さがないので喉を通るのが早く、すいすい飲んでいるうちに足元へ来る。膝を崩し、脇息へ肘を預けた。顔だけが熱い。
もう一献傾けるか、そんなことを考えていると、近臣が戻ってきた。
近臣は、廊下で一度息を継いでから入ってきた。怪訝な顔をしている。酔っていてもわかる大仰な不審を浮かべていた。
大和守はそこに声をかけた。
「どうした」
近臣は出ていく前の位置に寸分たがわず座ると、小首をかしげた。
「武衛様の御家臣、矢野内記殿が門前におられます。弾正忠殿の言い分に気にかかるところがあるゆえ、城門を開けていただきたいと」
「この夜更けにか」
「人目を忍びたいと申しております」
どういうことであろう。と大和守は一瞬考えこんだ。酒で鈍った頭では明瞭な思考は行えなかった。
だが、それでも勘は働いた。
弾正忠がしくじったのだ。何か言葉尻を捉えられて、今川方に不審を持たれた。
そういう考えがふっと頭に浮かんだ。
そうなると、急に苛立ちが舞い戻ってきた。蓋をしていた怒りは抑えられた分、一斉に持ち上がり、大和守の体を動かした。
手に持った盃が投げられる。
盃は畳を跳ねて燭台の脚に当たり、灯が大きく傾いだ。残っていた酒が、畳へ細く散った。
近臣がわずかに身を引いた。つい先ほどまで気に入っていたはずだが、今は弾正忠の縁者というだけでも憎かった。
「帰らせよ。夜分に無礼であろう」
どうせ矢野何某など軽輩である。一晩ぐらい待たせても問題ない。
だが、近臣は顔を顰めた。
「それが、今すぐお聞き入れいただかねば、今川が大事になると、そればかり申しまして」
「どういうことだ」
「はっきりとは申しませぬ。ですが、聞き届けられないのであれば、いっそ腹を切らせてくれと」
「そこまでか」
大和守の酔いが徐々に覚めていく。そして、そのことに気が付くと盛大に舌打ちをした。
「まあよい。会うだけ、話を聞くだけだ。いらぬ噂が立っておる今、門前で腹など斬られてはかなわん。ただ、今宵は酒が入っておるゆえ、あまり近う寄せるな」
「承知いたしました」
そう言うと近臣が一礼し下がった。
足音が遠ざかると、室内に静寂だけが残った。普段ならば耳にする夜番の兵らの声も聞こえない。春風がすっと室内を通り抜け、大和守の肌を撫でた。
わずかに感じた寒さに、大和守はまた酔いを醒ました。ため息をつき、さすがにこのままでは会えないと考え直す。
流石に一度、胃の酒を吐いておかねばなるまい。
大和守は膝に手を当てながら立ち上がり、声を上げた。
「誰ぞ、桶を持て」
だが、誰も来ない。それに大和守は眉を寄せた。上げ膳据え膳が当然などとおごっているつもりはなかったが、それでも主君の側に控えるものが一人もいないというのはよろしくない。
緩んでおるな、叱らねばな、と大和守は内心で息を吐いた。
そこで、わあ、わあという声が聞こえた。
「なんだ」
立とうとすると膝が流れた。頭は冴えだしていても、やはり体は鈍さが残っていた。障子の桟に手をついて開けると、灯を背にした分だけ外が暗い。目を凝らしているうちに、先ほどまで何もなかったところに、篝火が一斉にこちらへ向かってきているのが見えた。
「殿、殿」
呼びかけながら、先ほどの近臣とは別の者が走りこんできた。草鞋のまま板の間へ上がっている。
「斯波勢が、城に攻めかかっておりまする」
「早う追い返せ。手勢は知れておろう」
大和守は声を荒げた。
斯波勢の心など考えもしない。だが、今やるべきことは淡々と頭に浮かんだ。
斯波の兵など今川に銭を借り、足軽かき集めてようやく八百程度。清州城を落とすにはまるで足らない。
日頃の準備で十分に追い返せるはずと見ていた。
だが、走りこんできた者は悲痛な顔で首を横に振った。
「城門が開け放たれております。閂も打ち壊されておりまする」
「馬鹿者、小細工などどうでも良い。射殺せ。斬り殺せ」
守備を仰せつかっていた者が、そこへ来た。肩で息をしていて、具足は胴だけであった。
「殿、弓の弦が切り落とされ、兵の詰所には錠が下りております。如何なされまする」
「馬鹿な、誰がそのようなことを」
「弾正忠殿の兵を見たものがございまする」
弾正忠は、岩倉へ発つにあたって、兵を城に置いていった。清州城に仕える縁者にも、何事か言付けを行っていた。
大和守はそこではっとした。
先ほどの近臣はいったいどこに行ったのか。あの矢野内記を迎え入れた、近臣が影も形もない。
大和守はことここに至って、かすれた声で状況を言葉にした。
「それは、謀反ではないか」
だが守備のまとめ役が、唇を噛んで言った。
「違いまする。我ら清州方が、謀反人とされておりまする」
大和守は口を開けたまま、その男を見た。稚気は一切なかった。ただ眉を寄せ、脂汗を浮かべていた。
嘘はない。そう理解した。
そして、また外から声が上がった。
岩倉方と繋がり、武衛様を討たんとした織田大和守、出て参れ。
同じ言葉が、幾つもの口から重なって聞こえてくる。
「これは、なんだ」
大和守は外に身を乗りだした。
「危のうございますぞ、殿」
部屋に駆け付けた家臣らが止めようとするが、もう耳に入らなかった。
大和守の眼前で、見る見るうちに、篝火は増えていった。斯波の手勢どころではない。幾千の火が、開け放たれた城門から次々に入ってくる。障子の桟を握ったまま、大和守はそれを見ていた。
謀反人、大和守、出て参れ。
そんな声がそこかしこで上がった。
「なんだ、いったい」
---
清州城は落ちた。
落ち方は岩倉織田家と似ている。兵で囲んで威圧し、もともとの内通者に城門を開けさせ、そこから一気になだれ込んだ。一つ違うところを挙げるのならば、岩倉城より楽だった。矢を射かけられることはなく、斬り合う兵らもほとんどいない。最早、接収と言ってもよい扱いだった。
織田大和守は死んだ。今川方の兵がとらえるより前に、弾正忠の潜ませていた兵がこれを討ち取っていた。
手際のいいことである。
抵抗されたので、どうしようもなく討ち取りました。そう言った、弾正忠の言葉を五郎はよく覚えていた。不快さを感じるほど細やかな人間ではないが、主君の首を淡々と差し出す胆力には舌を巻いた。
五郎はその首を岩倉城にて受け取り、それから、尾張全域に布告を出した。
守護代である岩倉織田家が、守護に逆らい謀反した。その謀反の中で、守護である斯波武衛とその父を討った。
清洲大和守家には弑逆加担の疑いがあるため釈明を命じたが、大和守は自ら出頭せず、城を閉ざした。そのため疑いを晴らす意思なしとみなし、上洛路の安全確保のため清洲城を接収した。
と事の経緯を書いたうえで、最後に一際強い筆運びで、以下を記した。
今回の弑逆に関わりなき者は、その旨申し開きに参れ、確認できれば旧領を認める。
気脈を通じていた東尾張衆については、その日のうちに名代か当主本人が列をなしてやってきた。
幕を張った陣の外に筵を敷き、そこで順を待つ。名を告げ、頭を下げ、書付を受け取って下がる。烏帽子の者もいれば、笠を手に持ったままの者もいて、装束はまちまちであった。
これらに対しては、五郎は潔白を認め、また暫定的な所領安堵状を発行した。あくまで上洛における一時的な処置とし、清州織田家、岩倉織田家が崩れた今、尾張に静謐をもたらすためのものとした。
この安堵状の件が広まると、様子見をしていた東以外の尾張衆も続々と今川の陣を訪れた。皆、上下そろった正装で、頭を下げ、所領安堵状を受け取り、「暫定的」な尾張の差配を受け入れたのだ。
この「暫定的な」安堵状を求める列は、途切れることはなかった。五郎自身への挨拶もあり、気が付けば一日、二日と岩倉城から離れられない日が続いた。
この行列が落ち着き、尾張衆の腰が据わったのは、五月も半ばを過ぎたころであった。
五郎は床几に腰掛け、那古野城の普請を横目に、文を眺めていた。
城は、最低限の縄張りと掘っ立て小屋のような借宿を作ったあたりで止まっていた。だが、普請自体は止まることはなく、掘り上げた土が幾つも山になり、その向こうに切り出したばかりの材が、皮を剥いだまま積んであった。
普請で手掛けているのはあくまで道であった。
土を担いだ人足の列が、堀から縄張りの杭のほうへ回っていった。土を掘り、固める際の声掛けがいつまでも絶えない。ようやく止まるのは休憩の許しを得たときだけであった。
風が出ると土埃が来て、口の中がざらついた。日は高い。五郎は袖を絞った直垂の膝を割って座り、文を持つ手の甲が熱くなるのを、そのままにしている。護衛が二人、床几の後ろに立っていた。
「聊か騒がしすぎましょう。止めてまいりましょうか」
護衛の一人が片耳を抑えながら言った。宮内推薦の男であり、なにかと気が付く天野の男である。
「構わぬ。三年、五年続く話だ。止めてはおられぬ」
そう言って、五郎は手に持った文に注意を払った。
文の差し出し人は公方。つまり現将軍の足利義晴その人である。厚い紙が四つに折られ、折り目のところだけ墨が薄くなっている。前管領道永の添え状もあって、こちらは紙が薄く、字が細かい。
流石は武家の棟梁と前管領だけあって文の作法は文句の付け所がない。だが、いたって内容は荒々しい。いや、寒々しいといっていいだろう。
尾張の謀反人共を討ったことは大義である。暫定的な処置は正しいと認める。急ぎ上洛し、天下の政道を正せ。
斯波の後継、尾張の守護については、こちらで決める。
尾張の世情など気にしておらぬ文である。近江では、出てくる情報を飲むしかない状況ゆえ、仕方がないともいえる。ただ、やはり神輿として担ぐにしても心配はある。
五郎は目を細めながら、その文を懐にしまった。
「兄上様、何かございましたか。少しうれしそうでしたが」
いつの間にか新三郎が側にいた。普請の合間に近づいていたらしい。護衛らに慣れろと暗に含めた手前、五郎が先に気が付くべきことであった。
新三郎は文を覗き込むようなことはしないが、それでも興味深そうに眼を開いていた。父に似た目を見開いて、じっとこちらを見ていた。
床几はもう一つ据えてあるのに、座らずに立っている。背は五郎の肩に届かず、烏帽子の紐が顎の下で余っていた。
今日は側に養父の蔵人はいない。数人の護衛と来たらしい。
五郎はそっと笑いかけた。
「大した話ではない。芳菊丸に話した内容が近くなってきたという話であろうか」
「芳菊丸殿と。いったい何を話されたのでしょうか」
「困った人間は何でも約束する。困り切った人間は何でも差し出す。そう言う話であるな」
新三郎はきょとんとした。だが、それから少し目を伏せた。
「それは、斯波家のことでありましょうか」
違う、幕府の話である。それは口には出せないため、五郎は首を横に振った。
「斯波家。なぜそう思う」
「今となっては、あっさりと家督を新三郎に譲るとまで申されました」
事実であった。今川が岩倉攻めに使った兵は当初の五千、それから後詰の五千。
それから清州城に攻めかけたのは、そこにさらに足して五千だ。
加えて那古野城の普請にそれ以上の人間を尾張に呼び込み、食わせている。武田を族滅に近いところまで行った五郎を思えば、まずは寵愛深き弟を使い機嫌を取ろうというのも無理はない。
五郎は眉間を揉んだ。半端に乾いた汗の手触りが指にあった。
「少し脅し過ぎた。だが、それは断ったゆえ気にすることはない」
「となりますと、斯波家はどうなりましょうか。いえどのようになされましょうか」
「気にするなと言っておるだろう」
「それは、申し訳ありませぬ」
新三郎が膝の前で手を揃えた。日焼けのしていない手であった。
この幼いが聡い弟は、尾張に静謐をもたらすにはどうしたらよいのか、自分なりに考えようとしているようだった。自分よりも幾分立派なものだ、と五郎は感心した。
「管領家の一つなど、いまさら気を払っても致し方がない。使い道はあるだろうが、斯波家それ自体を継ごうなどとは思わない方が良い」
「その、継いだ方が兄上様のお役に立てまするが」
「やめておけ、しがらみも多い。身に覚えのない借金を背負うようなものよ。それに」
五郎はふと那古野城を振り返る。普請がどんどん大掛かりになっている。今もまた熱田から大きな荷を積んだ荷馬車が列をなして、やってきていた。積んであるのは上質な材で、大きさがすでにそろえられている。
「旧来の城から別の城に越してもらった、これ以上は新三郎に頼り過ぎと言えよう」
新三郎らは那古野城から清州城に移ってもらっている。本当ならば岩倉だったが、こちらにした。
現状の尾張で有数の城で、広い平野に鎌倉街道を抑えた、豊かな地でもある。
那古野に対する思い入れを差し引いても、清洲城と周辺を預けるというと蔵人たちは喜んだ。
無論、もし幕府の沙汰で清洲を返すことになれば、宗家が同格以上の替地と城を用意する。そういう証も添えた。
「それもよろしかったのでしょうか。清州城の方が大きく、便利ではございませぬか」
五郎は確かにと呟いた。
那古野城には余地がある。これは先の名護屋城のことを見るとわかりやすい。熱田までの道を整え、川を掘り水運を使えるようにすれば、あっという間に栄えるだろう。
だが、現在だけを言うならば、清州城の方がはるかに利便性もある。
そのあたりを説明するには、弟は幼過ぎた。加えて、まず、ないとは思われることだが、蔵人達がごねることも考えられた。
ゆえに五郎は適当に言葉をつなげた。
「上洛を踏まえ、大軍を動かす城を考えるうえで、聊か清州では手狭である。しかし、清州城は既に形が出来上がっている、これを崩し一から作るよりも、那古野城をいじったほうがやりやすい」
「そんなものですか」
「そんなものだ。ゆえに治部が、そこもとを格別に寵愛している、などという噂は忘れておけ」
新三郎はからかわれたことが分かったようで、顔をくしゃりと笑った。
朗らかだ。やはりこちらにやってよかったかもしれない。
そこに一人の男がやってきた。義足、隻眼の異形の男。浅黒い肌と三白眼が目立つ。大林源助である。
土の上を来るので、義足のほうが半歩ずつ遅れて音を立てた。杭の縄をまたぐときだけ、片手を膝に置く。
小袖の裾を帯へ挟んで脛を出しており、指の節が太く、爪のあいだに土が入ったままであった。年は五郎より十ほど上に見える。
源助を見て新三郎は少しだが、唾をのんだ。
庶流であるが今川の御曹司の一人である。武士の範疇から僅かに外れた、異形の男は中々目にする機会がないようだった。
新三郎の家臣らが前を防ぐように動こうとした。五郎はそれを制して言った。
「今のうちに那古野城の普請を見ておくとよい。清州も少しはいじらねばなるまい。参考にせよ」
そう言うと新三郎は少し迷っていた。だが、五郎が頷くと一礼し、足早に立ち去った。
五郎はふと霧姫を思い出した。あの姫も立ち去るときはあのように未練が見え隠れした。
「弟君でござるか」
源助がのっそりと言った。床几は勧めても座らず、そのまま立っている。
日がこちらから差しているので、見えるほうの目を細め、顔を少し傾けていた。
「妹には見えまい」
源助の顔が歪んだ。怒っているようだった。承菊や宮内と同じように相手をしてはいけないようだ。
「城はどうだ。傍目には手を付けていないように見えたが」
ふんと鼻を鳴らす源助。
「形などどうでも良いことにござる。熱田も今川ならば、そこまでの道を広げるのが初め。次に川を作る。この順にござる」
言いながら、源助は堀の向こうを顎で指した。土の山の裾に、杭の縄が幾筋も張り渡してある。縄は城の外へ向かって伸びていて、どこまでが城でどこからが街なのか、そして何が川なのかもはっきりしない。
だが、源助には整理された順序で進められた普請に見えるらしい。
「川を掘るか。最近は多いな」
矢作川でも同じことをした。あの時は水の逃げ道を逃がそうと、米津に新しい川を作った。
「その言葉は驕りにござる。大川の普請ができる財を当然のものとされる、結構にございますな」
何か琴線に触れたらしい。源助は眉間に皺を寄せた。
「驕りではなかろう。手慣れているというだけだ。それに使う額は今まで一番多い」
源助が睨むように顔を顰めた。
「よろしいので」
「よろしかろう。源助殿の求めた額であるが、こちらも目を通してある。申し訳ないが監査も挟むゆえ、窮屈であろうがそれで進めよ」
まず不正蓄財などはできない。監査役はもちろん、駿府の家老衆まで巻き込まねば、銭束一つ懐に入れられないだろう。
ただ、例外を挙げるならば、津島と弾正忠だろう。
あそこは清州織田家をつぶすのに一つ恩がある。多少甘やかすのも想定の内だった。
「ではなく、」
源助が遮りかけた。五郎はその先を取った。
「新参者に大仕事を任せたこと。などとは申すな。表に出ておらぬだけで、源助殿は諸々の普請で成果を出している」
後になり安房守に話を聞いたところ、矢作川の普請、天竜川の普請など、諸々で指図はしていたとのことだった。本人が名前を出すのを嫌がったため、五郎まで上がってこなかったが、それを考慮すると普請でかなりの経験を積んだことになる。
五郎がそう返しても、源助はむっつりとこちらを睨んでいた。
「それでもござらん。上洛のことにござる」
ああ、それかと五郎は相槌を打った。
源助は言葉をつないだ。
「今川の銭蔵については詳しく知り申さぬ。だが、さすがにこの額を出し、人足を動かし、材を使い、さらに上洛となるというのは厳しゅうござらぬか」
「確かに」
「確かにではござらぬ。今川の御曹司は銭勘定すらできぬのか」
五郎の護衛が剣呑な空気を出した。無意識だろうが、腰のものに手を出そうとしていた。それを察して、五郎は声をあげて笑った。護衛ははっとして腰のものから手をどけた。
「確かに、源助殿の申す通り。最近は銭束を己の手で数えておらぬ。だが、心配はあるまい」
「どんぶり勘定にござるぞ。戦が強くてもそれでは」
五郎は床几から立った。膝の後ろが固まっていた。
だが、そのまま歩み寄った。腰が引ける源助をしり目に、耳打ちをした。汗と土の匂いが鼻をついた。
「上洛はせぬ。安心して城と街を思う通り、造るとよい」
源助はぎょろついた目を見開いたあと、ひと際顔に皺を寄せた。
そして憎々し気に口を尖らせ、吐き捨てるように言った。
「今川治部太夫はするといったことはする。せぬといったことはせぬ。そのような方であったと思うが」
「今言ったことが全てだ。それに上洛についてはいくつか条件があった」
源助はしばらく腕を組んだ。義足のほうへ体重が寄って、土が少し崩れた。わずかな間思案し、それからまた吐き捨てるように言った。
「美濃にござるか」
「然り。美濃に道がなければ通れぬ。そう言う話になっている。そしてその道を作るのは、今川ではない」
「詭弁であろう。それでよろしいのか」
「足利一門としてはよろしくなかろう。不忠よな」
だが、と五郎は言葉を置いた。それから胸の内の言葉をそのまま、するりと出した。
「今川の当主としてはこれでよい。海内を守り、育てる。他に行くといった道はなし」
「それも嘘ではござりませぬか」
五郎は喉を鳴らした。
「お見事。そう取られても致し方ない。尾張では随分嘘をついた」
「本当のことの方が少のうござる」
ふんと源助が鼻を鳴らした。
「書にしたことは、一切破っていない。公の場で口に出したことは、全て本当だった」
「その代わり御家中の御坊が随分はしゃいでおられた。あれは御身の好みであろうか」
五郎は岩倉城で承菊の芝居に付き合った時、嘘は言わなかった。だが嘘を認めはした。
五郎は身を引いて、口をゆがめた。
すると、源助はしてやったりとばかりに鼻で笑った。
槌の音がまばらになっていた。人足の列が、道具を担いで堀の外へ出ていく。
「そう思われたくなくば、せめてこの城に関しては張子の虎ではなくなるように、手をかけていただきたい。三年で政務が執り行えるようにというのは相当に銭と人手が要る故」
「承知した。源助殿の望むとおりに用意しよう」
そう言うと源助は我が意を得たりとばかりに頷いた。




