6章_6
五郎が船をおり、漸く尾張の岩倉城にたどり着いたとき、岩倉城の門は焼けていなかった。
土居の上に頭を出している櫓に矢の跡が二つ三つ残っているだけで、門柱にも塀の板にも新しい継ぎはなく、あらかた去年からの色をしている。攻め落とした城というより、貸してあったものを返させた城の按配であった。五郎は馬を降り、腰を折った門番の頭の向こうに堀の水を見たが、それも濁っていない。
本丸の広間は障子を開け放ってあり、庭が見えるように床几が据えてある。庭の隅に板を立て、首が並べてあった。数は十を越え、二十には足らず、日を置いていないらしくまだ形が崩れてはいなかった。
板敷に四人が前に出て平伏していた。先頭が承菊、その後ろに松平七郎昌景、福島孫九郎、小幡山城守が控えている。七郎は此度の主将であるから当然そこにいるが、法衣の坊主がその前へ出ているのは、この一件を最初から仕組んだのがこの男だからであろう。
そして、それらの後ろに、庭の端に斯波方の兵や、岩倉方の降将らが肩を落として頭を下げていた。時折五郎を覗き見ては、直ぐに平伏するを繰り返している。
「お早いおつきでございますな」
承菊がいち早く言った。
「船だと早い。そなたも慣れたほうが良い」
「御屋形様、人は鞍上で物事を考えると、良き案が浮かぶものなのですよ」
承菊が膝を進めた。
「船でもそうだ。壮大な考えが浮かんでくる」
五郎の言葉に、承菊が大きく息を吐いた。
「禅宗の教えにて、船上で浮かぶ考えは残酷なものと決まっておりまして」
「船上で座禅を組めば善良な考えも浮かぼう」
「それは間違った修行というものにございます」
この男は船が嫌いらしい。
五郎は嫌いではなく、むしろ水軍を徐々に増やし、自分も船にのって移動する機会を増やそうとしている。
五郎の領国の内三つが、海沿いである。馬で移動するよりも船で移動したほうが明らかに早く、多くの物が運べる。それになにより湊の発展具合を見れば、その地が栄えているか、問題があるかなど一目で良く分かるところも気に入っていた。
ただ、家中においては武勇でどうにもならぬ海難事故を恐れ、五郎が船に乗ることを嫌う風潮もあった。
五郎が床几に腰を下ろすと、庭の板に据えられたものに目線をやった。首、首、首と、どれもこちらへ顔を向けて並べてあった。
「して、こちらの方々は」
五郎が晒された首を見て口を開くと、七郎が聊か億劫そうに頷いた。
「岩倉織田の一党にございまする。斯波様が守護代の役職に疑問を持たれ、説明を求めたところ反旗を翻し、挙句斯波様を奇襲し討ち取った者にございます」
七郎は極めて嫌そうな顔でいい、その後に承菊を睨んで下がった。
板には名が書いてあるが、書いていないものが端に三つあった。随分雑な扱いである。
「承菊。主将に泥をかけるな、そう言い含めたつもりでもあったがな」
「泥はかけておりませぬ。ただ、この泥を飲めるかと問うたまでにございまする」
承菊の声から、船の話をしていたときの軽さが落ちた。
「それは泥をかけるのと同じこと。やるなら敵だけにしておけ。承菊、そこもとの差し出す泥は毒が強い」
承菊はへばりつくような笑みとともに一礼した。
もともとこの坊主に尾張を任せたのは五郎である。
斯波と話をつけろと言い、どこで何を出すかは全て任せると言った以上、出てきた形について今から文句をつける筋ではない。
ただ、七郎に泥をかぶらせるのは許してはいない。三河の者を主将に立てたのは、三河衆の心を寄せるためでもある。そのことを知らなかった、忘れていたでは扱いが異なる。
どうしてやろうか、そう思いながら承菊を睨んでいると、そこに一歩踏み出すものがいた。
話に聞いていた梁田弥次右衛門である。
二十の手前と見えるが、肩から力の抜けた立ち方をしており、具足は着けておらず、小袖の膝が土で汚れていた。岩倉方に攻め寄せた戦場からそのまま、方々を纏めるため動き回っていたらしい。
一目見てどこか信のおけぬ、という印象がぬぐえない。事前に聞いていた話がなくとも、側に置けないそんな顔に思えた。
「今川治部太夫様に置かれましては、お初にお目にかかりまする」
弥次右衛門は頭は下げたが、上げるのが早い。
「梁田弥次右衛門殿だな。当家の者ではどうしても、贔屓がある、あらためて戦場で何が起こったか聞かせてくれぬか」
弥次右衛門は平伏した後、淡々と語りだした。
どういうわけか、斯波父子が今川の軍勢と距離を置こうとしだした。これはなぜかと問うと、どうも福島勢がこちらを狙っていると、討たれかねないと言い出したらしい。
それで戦の最中、夜半にも関わらず、陣を下げ清州城に帰ろうとした。そして、そこを岩倉方に捕まり奇襲をかけられたとのことだった。
語り口は落ち着いていて、日付も、渡した瀬の名も、下げた兵の数も澱みなく出てくるのに、斯波父子が何を見て福島を疑いだしたのかというところだけは、誰が誰から聞いたとも分からぬ伝聞の形になって丸くなっていた。
喋りながら弥次右衛門は一度も庭を振り返らず、五郎の膝から下あたりへ目を落としたままでいる。
五郎は目を細めた。そしてあらためて周囲を見渡した。
斯波方の者、岩倉方の者の生き残りが庭にいる。具足を取り上げられた恰好で四十人ばかりが座らされていた。戦場にて斯波父子と共に下がった者らはあらかた討ち取られているから、ここにいる斯波方のものは戦場に残された五百弱の兵である。
つまり、ほとんど承菊の策を知らない者だ。
五郎は、承菊が立てたお膳立て通りに問うた。
「福島勢が狙うか。あり得ぬことだ」
弥次右衛門は頷いた。その言葉を待っていたとばかりの様子だった。
「で、ありましょう。福島勢はその旗下にいる兵は多くございますが、ほとんどが治部太夫様から借り受けた兵にございましょう。勝手に動くなどもってのほかにございます。それに迂回する動きを見せたのも、兵站の護衛のため。斯波家に攻めかかるなどあり得ぬと、この身もそう申しました」
「だが聞かなかった」
弥次右衛門が悲痛な顔をした。
随分な役者を承菊は見つけて来たものだと感心する。
「弥次右衛門殿、福島孫九郎が。斯波殿に牙を向くなどあり得ぬこと。それは治部太夫が誓えることである。先代の当主福島兵庫助は、先代修理大夫の股肱の臣であった。その子である孫九郎も頼りにしたく、手元で見ておる。ゆえその性根もよく知っている」
孫九郎が神妙な顔で頭を下げたが、首の据わりは去年より太くなっている。
兵庫助が死んでからこの子を駿府に置き育てたのは、福島の家を大人しくさせるためでもあった。そして、福島の血をひく今川の後継者候補と、どのように接するか見ておくためでもあった。
どちらにおいても、福島家、孫九郎ともに五郎に不審は抱かせなかった。
「決して、大恩ある御屋形様に泥をかける真似などいたしませぬ」
孫九郎がそう言うと、弥次右衛門が悲痛な顔のまま頷く。
「無論でございまする。されどこの身が言っても聞かず、承菊殿が陣を下げると危うい、と申されても聞きませなんだ。その結果、このような仕儀になり申した」
そこに承菊が口を挟んだ。弥次右衛門に負けず劣らずの悲痛な声である。
「されど、御屋形様、我らは、不敗の軍神の軍にございまする。おめおめと総大将を討たれ、帰るわけにはまいりませぬ。直ぐに後方に念のためおいていた予備の五千と合わせ、岩倉城を攻め落としました」
承菊の口が、軍神と言った後、笑みを作ったのを見逃さなかった。このことは覚えておかねばなるまい。
五郎はそう思いながら、ふぅん、と唸った。
「随分早いな。一瞬で落ちたということか」
「御屋形様が、吉田城や二連木を落とした時と比べると遅いぐらいでありましょう。ただ、愚僧の見るところによると、軍の威容に押され、勝手に末端の兵が開城したようにございますが」
確かに岩倉城は、門も焼けず、堀の水も濁らず、塀の板は去年の色のままであった。
また承菊の思わせぶりな口ぶりから察するに、岩倉方に内通の手があったのだろう。でなければ、落城はともかく、斯波父子を正確に奇襲できるはずがない。
五郎は再び庭の首を見た。
おそらく、その内通者とやらはこの並んだ首の中にあり、板に名の書いていない三つがそれであろう。
そこで弥次右衛門が重々しい声で言った。
「岩倉方の城兵の内通ですが、確かに不忠ではありまする。守護代解任だけならともかく、守護様の弑逆は下の者にとっても恐ろしいことでありまする。ゆえ、付き合い切れぬ、そう考えることは責めにくく」
「おお、梁田殿。ご安心くださいまし、御屋形様は兵の心を知るかたですぞ」
崩れ落ちた弥次右衛門を承菊が起こす。
付き合いきれず、五郎は七郎に目をやった。七郎も嫌気がさしたという顔で、顔を振る。
おそらく、五郎が到着するまで、この下手な芝居に延々と付き合わされたのだろう。根が真面目な男にとっては相当な苦痛のはずだった。
また、七郎にはこの坊主と孫九郎が顔を突き合わさないようにと、間に立ってもらう役目も果たしていた。つらいはずだ。
「良い、許す。されどここからどうしたものか」
五郎は台本通り、呟いた。
すると、生き残った斯波方の家臣、矢野内記寛倫が声を上げた。斯波方の家臣ではあるが、戦死した大隅守などと比べると明らかに身分が低いらしい。膝の脇に置いた手は土で汚れているのに、声だけは遠慮なくこちらへ踏み込んできた。
「斯波を立てられるのでは、ございませぬのか。それが盟であったはず」
五郎が何か言う前に、山城守が腰の刀に手をかけた。岩倉方、斯波方双方が息をのんだ。
目で制すると山城守は静かに、刀から手を離した。
五郎は穏やかな声色で言った。
「その盟を疑い、陣を下げられた。挙句のことだ、これを履行するというのは難しかろう」
五郎が言うと、庭の者、斯波方の者らは顔を見合わせた。
その中でも内記は、声を張り上げながら問うた。
「新三郎様と姫の婚姻があられたはずでは」
「婚姻は、斯波殿のご意向もあり、あくまで約束ということにおさまっている。斯波殿がこうなった手前、履行は難しかろう」
弟の新三郎に斯波の姫を娶らせるという話は、承菊が在所の寺で誠意として出したもので、証文にはしていない。証文にしなかったのは斯波の側である。
「治部太夫様、愚見を申し上げても」
弥次右衛門が声を上げた。頷くと咳払いをした。この男、一々仰々しい。
「内記殿、斯波家において相応しい御血筋を持たれる方は、確かに居られる。だが、その方を今立てても、畏れながら難しいのではないか」
「何を申される」
内記の膝が浮いた。
「治部太夫様が一歩ひかれると、斯波家は岩倉や清州に、もう指一つ動かせぬ形に追い込まれうる、という話でござる」
「そのような」
内記が口をもごつかせたが、弥次右衛門は内記を見ずに、五郎の方へ向いたまま続けた。
「現に岩倉方は御屋形様に対し、相当なものを突き付けて来もうした。清州側が大人しかったのは今川様の影を見たからにほかならぬのでは」
内記を始めとした、生き残った斯波方の兵らは顔を突き合せた。
内記はしばらく、じっと自分の膝を見つめていたが、それでも腹をくくったようで、ゆっくりと口を開いた。
「弥次右衛門殿。そこもとが言わんとしていることはわかった。新三郎様を立てる、そう言うことであろう。だがな、我らは所詮木っ端ぞ、誰それを立てるなど決められるわけがない」
その通りであった。当主父子が同じ夜に死に、供をした重臣も同じ夜に死んでいるから、斯波の名で物を決められる者は、いま尾張に一人もいない。庭に座っている四十人は、たまたま生き残った物頭達であり、家督を云々する立場ではなかった。
五郎は床几から立ち、板敷を庭の方へ二歩ばかり踏み出した。斯波方、岩倉方の者らが息を呑んだ。目を見開き、微動だにしなくなった。
「武衛殿の御舎弟も亡くなられている。だが、御先代の御舎弟は御存命であろう。こちらを立てては如何か。われらは一旦、上洛をあきらめ申す」
五郎は先代の舎弟らしき男を詳しく知らない。調べたがあまり興味の引く男ではなかったので、直ぐに頭から消した。だが、一応名前を挙げて見せると、斯波方の反応は顕著であった。
またも顔を見合わせ、それは、などと其処かしこ声が上がった。相当に評判の良くない、というより頼りにならない男のようだった。
そして、それに対して弥次右衛門が首を横に振る。
「見ての通りにございまする。それでは尾張がまとまりませぬ。岩倉織田家が反旗を翻し、斯波の跡目も決まらず、清州織田家は日和見。これでは、美濃の草刈り場になりかねませぬ」
そこで弥次右衛門がかっと目を見開いた。
「治部太夫様、御不快に思われるでしょうが、あえて申しまする。ここで手を引かれるは卑怯にございまする」
まだこの演技に付き合わなければならない。これが億劫だった。五郎は憮然とした顔で、言葉をつないだ。
「言わんとしていることはわかる。なれど、斯波家を立てろと公方様は仰せになっておられる。今川が尾張を取れなどとは仰られてはおらぬ」
ここで承菊が立った。
「よろしいですかな」
だめだといってやりたいが、台本にはない。五郎は頷いた。
承菊が緩やかに頷き、笑みを深めた。
「斯波家に置かれても家督は決められず、かと言って、ここで今川が引くは悪し。そう言うことですな」
「皆にそう聞いたわけではございませぬが。まあ、そうなりましょう」
そこに、弥次右衛門が合いの手を入れた。
承菊が数珠をならし、さも高尚な説法のように勿体ぶって言った。
「では、こう致しましょう。御屋形様はまず、暫定的に、斯波家の所領や、岩倉方についた者らの所領を安堵いたします。これは上洛のために、必要なことでございまする。そうして今一度、公方様には事の真相をお伝えし、斯波家の当主を認めていただく。これは如何ですかな」
明らかに庭の者らがざわついた。そこに承菊は畳みかけた。
「ただ、これをお認めいただけなければ、岩倉方の方々を今度こそ、上洛を邪魔したものとし、討ち果たさねばならなくなりまする。ただ、あくまで暫定的に所領を安堵する。そう言う物にございまするゆえ、さほど反対する理由もないのでは」
そう言うと、少し岩倉方のざわつきが減った。納得したのではなく、苦々しく黙り込んでしまった。
何度も暫定と付け足さなくても良いだろうとは、五郎は思った。
そして、承菊がそこで手を打った。
「これにてまずは仕舞といたしましょう。この後はまず、御屋形様が岩倉方の所領を安堵し、しかる後上洛に向け動きましょう」
「しばらく」
そこに、一つ声がする。
これは台本にないことである。
庭の四十人が一斉に首を回した。五郎もともに外を見れば、城の外で大きな声を出したものがいる。それを見ながら声を潜め承菊に尋ねた。
「承菊、そこもとの仕込みか」
「いえ、御屋形様では」
声の者は数人の供をまとってこちらに呼び掛けており、城門の守りが押しとどめている。ただ、その男らが武装もなく、正装なのでどうしたものかと考えあぐねているようだった。
「某は、清州織田家臣、織田弾正忠信秀と申すものにござる。今川治部太夫様にお目通りを願いたい」
織田信秀。その言葉を五郎は舌で転がす。
日本史に疎くとも、その名前ぐらいは知っている。織田信長の父で、信長飛躍の土台を作った男だ。
弾正忠は城下から何度も同じことを言い、そのたびに供の者が下がれと言われている。
外を見ながら、承菊が顔をゆがめた。
「矢を射かけまするか」
「やめよ」
「しかし、あれは邪魔でございましょう」
「そなたにとってはな。己の独り舞台を邪魔されたからと言って、消しにかかることはなかろう」
「何を仰せられるか、御屋形様のお役に立ちたい、その赤心を邪魔されたゆえの腹立ちにございます」
「腹立ちで人に矢を射かけるな。腐っても僧であろう」
「腐ってはございませぬが、修行中故仕方ありませぬ」
小声で話しながら、じっと見ていた。言い合っている間も門の外の声はやまず、同じ名乗りを節でもつけるように繰り返しているから、庭の四十人にも一句ずつ届いているはずであった。
すると、弾正忠の目とこちらの目が合った。
自然と五郎の口角が上がる。ああ、これはと思うところがあった。古い記憶で武田五郎とぶつかった折、近い記憶で松平次郎三郎と寺で話した折、それと同じく琴線に触れるところがあった。
「治部太夫様、一つ申し上げたくっ」
弾正忠が声を上げた。こちらに向けた勢いのある声である。
「聞いてはいけませぬぞ。御屋形様」
承菊が顔を顰めていたが、五郎は手で制した。
あの手の男が一歩前に出たとき、相手をするのは不味いと知っていた。だが、その第一手ぐらいは拝んでおきたかった。
弾正忠の声が一層大きくなった。
「清州織田家は、岩倉織田家と繋がり、尾張守護様を弑逆奉り申したっ。弾正忠が証言申し上げまするっ」
五郎は笑ってしまった。あまりに露骨だった。武田五郎の大きさとも、次郎三郎の鮮烈さとも違う、合理の塊に喉を鳴らしてしまった。
五郎は、その可笑しさのまま、外に身を乗り出した。
「織田弾正忠信秀、入ってこい。話を聞きたい」
不味いと思いつつも、大声で返した。
庭の四十人はそのままに残して、弾正忠だけを板敷へ上げた。承菊と七郎が横に控え、孫九郎と山城守は庭へ下りて四十人の後ろへ回った。清州の名が出た以上、この話は庭へ声の届く場所でやったほうがよい。
弾正忠は五郎より一つか二つか上に見えた。
瓜実顔、というより公家顔である。
物々しさはないが、今川軍や斯波、岩倉の残党に囲まれても微動だにしない様子は、この男の胆力をありありと示していた。
「お会いいただき、恐悦至極にございまする。織田弾正忠信秀にございまする」
「今川治部太夫氏景にござる。名前だけはお互いに知っておられよう」
「無論。大葬、即位式と先に出されましたな。弾正忠も公家らに毟られ申したが、御身の出した額が大きく、影に隠れ申した」
先の帝が亡くなられ、次の帝が立たれるまでの入費を、諸国の大名、財のある武士が受け持った。
誰がどれだけ出したかは京で数えられ、数えた者の口から御所へ流れていく。ただ、その御所に流れていく名前には限りがある。精々が、一番銭を出したもの、一番早く銭を出したものである。
そのどちらも五郎が占めていた。
「それは惜しいことをした、だが張り合っても公家が喜ぶだけではないかな」
五郎は淡々と言ったが、弾正忠は膝を崩さない。冗談とも思っていないようだった。
「どうせ出すならば、一番記憶に残るべし、そう思い銭蔵を開き申した。しかしながら、こうなってしまい、いささか口惜しゅうございます」
五郎はまた喉を鳴らした。
弾正忠が眉を挙げた。
「如何され申した」
「いえ、まず津島の件で文句を言われると思うておりました」
「それは後で言わせていただきたく。こちらの言い分の後でなければ、動く者も動きますまい」
こちらを動かせる言い分は持ってきているらしい。
「それもそうですな。して、弾正忠殿のいい分とは」
弾正忠が居住まいを正した。着こなしは甘い、袖口に墨が付いていた。
だが、それを責めさせぬ圧があった。
「先に申し上げた通り、清州織田は、岩倉織田と繋がっており申した。でなければ、清州織田が兵もつけずに武衛様を前に出すなどあり得ますまい。それに清州城の近くで奇襲された際、駆け付けぬのもこれが理由かと」
庭で息を詰める音がした。弾正忠は、承菊の舞台を終わらせ、あっという間にこの場の主役にと躍り出た。
だが、そこに承菊が口を挟んだ。声色は穏やかだが、目が細く切れ味を秘めていた。
「失礼ながら、御身の御立場はなんでしたかな」
弾正忠は坊主の方へ首も向けず、五郎に向かって答えた。
「清州織田の家臣、清洲三奉行の一家、と申してもわかりますまい。簡単に言えば、清州織田の重臣にして諸流にございまする」
分からぬはずがなかった。熱田を握ってからは、津島へ何がいくら入ったかを数えて駿府まで上げさせているのだから、清州の政を回している三家の名も、どの家がどの町から銭を取っているかも、書付になって手元にある。
「ふぅむ、して清州織田家は何でしたかな。斯波家にとってどういう御家であったか」
承菊が言うと、間髪入れず弾正忠が答えた。
「謀反人にございますな」
「では御身も謀反人の一派でございましょう。分が悪いと見て裏切りに参りましたか」
「左様にござる」
承菊が鼻白んだ。五郎は喉を鳴らした。
弾正忠はそこで、承菊に振り返り平伏して見せた。
「失礼いたした。そう申さねば納得されぬと思い、虚言を申しました。ただあくまで、清州織田家のやり様には納得がいかず申したまでにございまする。このまま謀反人を担ぎ、運命を共にとは考えられませぬゆえ」
承菊が気を取り直した。そしてそのまま少し声を荒くした。
「主君に背いた清州織田家。これに倣い、弾正忠殿も主君に背きますか」
「君君たらずんば、臣臣たらず」
「それは誤謬にございますな。正しくは、君君たらずとも、臣臣たらざるべからず。至らぬ主君を支えるべきこそ家臣の有り様にございましょう」
「そこまでにせよ」
五郎はそこで止めた。
おそらくだが、弾正忠は次は今川か、足利をなじる。そんな気がした。それでこの会談を終わらせるのは惜しくなった。
「して、弾正忠の言い分はわかり申した。そこもとの言をもとに考えれば、この度の斯波殿の一件も納得がいき申した。だが、証はあろうか。家が滅びるかの瀬戸際であるゆえ、間違いだったでは済まぬことでありましょう」
「そんなものはございませぬ」
「で、ありましょうな」
五郎がそうあっさり返すと、弾正忠は唾をのみ、それから一拍を置いてからまた口を開いた。
「証はございませぬが、弾正忠家の当主がここにきて主家の非を言葉にした。これが証でなく何になりましょうか」
「清州織田の当主がここにきて、それは嘘だと申せば、如何いたしまする」
「あの方がここに来るなどあり得ませぬ」
五郎は頷いた。
「争っている弾正忠殿が先に踏み入った城などに、足を踏み入れはすまいか」
そこで初めて弾正忠の顔が固まった。
調べていないわけがなかった。熱田という巨大な経済基盤を握る弾正忠家、それを継いだ若き男に対して、その主家が何をしでかしているかなど少し調べれば嫌というほどに出て来た。
熱田から流れて来る商人らの言葉もあり、二人の関係も今でははっきりと絵にすることができるほどだ。
「弾正忠殿の言が正しい」
そう言うと弾正忠が頭を下げ、少しだが肩から力が抜けている。頭をあげたときにはもう、眉すら微動だにしない顔があった。
お互い清州織田家が本当に裏切ったなどとは思ってはいない。
ただ、そう言った方が得だからそうしただけのこと、それを認めたほうが得だからそうしただけのことであった。
五郎はそのまま弾正忠の目を見た。
「弾正忠殿、この言、公方様にも申し上げること適いましょうか」
「無論、どこでも同じことを申しましょう」
言い方に力みがなく、前から決めていた文句であろう。
「ありがたく。弾正忠殿のお陰で、あらためて尾張に潜む不忠ものを見つけ出し申した。ひいては公方様に申し付けられた上洛も安泰となりましょう」
五郎はここで少し試した。
「幕府のお力になれるとあらば、図らずも弾正忠の面目も立つというものにございます」
「して、治部太夫は弾正忠の助力に何を返せましょうか」
部屋の男たち、特に板敷にいた今川家臣らが、にわかに動いた。かすかだが鍔鳴りの音さえ混じっている気さえした。また、明らかに承菊などは不満げに数珠を鳴らしていた。
弾正忠はこちらの内心を察したのか、そうでないのか、微塵も欲を見せなかった。
豪胆さのままに、ただ小さく頭を下げて見せた。
「過分にございまする。ただ清州織田家のやり様を知った時には、すでに遅く、武衛様の身を助けること能いませなんだ。まして治部太夫様の褒美をいただく筋にはございませぬ」
「確かに、筋はありませぬな。もっともなことにござる」
五郎は頷いた。そして言葉を噛みしめた。
弾正忠は、伸長し続ける今川の矛先から逃れるため、主君を売った。だが、かと言って五郎の下にはつかないらしい。であるならば、致し方なし。放し飼いにするには、弾正忠は大きすぎ、五郎の器は小さすぎる。
五郎はふと承菊に目をやった。心からの笑みで頷いて見せた。
しかし、そこに弾正忠が声を出した。
「されど弾正忠は、尾張守護様には頭を下げる所存にございまする」
「尾張守護様はいまだ定まっておらず。幕府のことも考えれば、斯波家の跡目からお預けせねばなりませぬ」
五郎は返すと、弾正忠は膝を打った。
「おお、ではその折に改めて頭を下げる所存にございまする。それまでは上洛にもご協力いたしましょう。そうなれば、尾張守護や斯波家の家督も早く決まりましょう」
「違いありませぬな」
弾正忠がそこで一歩前に出たが、膝で進んだのではなく、腰を上げて足で来た。
「そのためにも一つ、一つご相談がございまする」
「津島のことでありましょう」
そう言うと弾正忠が頷いた。
「どういうわけか、熱田の商人が近頃津島に寄りませぬ」
知っている、五郎が圧をかけている。
圧はかけているが、それだけでは商人は動かず、単純に尾張の商人らが今川の商圏や、湊、品を選んで腰を据えるようになっただけだ。関の事実上の撤廃や、五か国守護の名で行った税制の制定など商いにおいての優位がいくつもある。津島の商人が多少あがいても、どうにもならない物が今川の商圏に積み上がっていた。
五郎は目を細めた。
「素晴らしい。弾正忠殿はまこと心細やかな方であらせられる。商人の不満も見逃さぬとは」
「いえ、そのような者ではございませぬ。ただ、どうにも頼られると断れませぬ」
五郎はそこで考え込んだ。考え込んだふりをした。それから弾正忠の望む言葉を吐いた。
「治部は商いに嘴を突っ込むことはないゆえ、大きなことはできませぬ。だがぜひとも弾正忠殿のお力にはなりたいと思うております」
「勿体なきことにございます」
弾正忠が平伏したが、形だけだと、その伸びた背筋から察せられた。
「どうでしょうか、上洛の道を通すのと普請に津島商人の力も借りたく」
そう言うと弾正忠の顔が少し変化した。
一つは明らかに喜色である。大がかりな普請は津島商人に一息をつかせるものとなりうるし、それは弾正忠の懐も潤すだろう。
だが、もう一方で弾正忠の顔に、違うものが見えた。不審。そしてわずかな怯え。それらが目の奥に明滅した。
その懸念は正しい。五郎は内心で頷いた。
「名児耶殿とも話しましたが、治部の拠を移そうと思うておりまする。上洛のための居城ということになりましょう。那古野城が今川の重要な城であると考えておりまする。大きなくくりで見れば、隣人となります」
そう言うと、明らかに弾正忠の顔が険しくなった。
五郎はここで、言葉を平素のものに直した。
「一つよろしく頼む。弾正忠」
清州織田、岩倉織田、それらがいなくなり弾正忠家の天下。などという夢はあり得ないのだ。




