6章_5
斯波家の前当主、斯波安心入道は岩倉城を睨んだ。
岩倉城は、田の切れたところに低く据わっていた。
櫓が二つ、土居の上に頭を出しており、城の前には二千の兵が横に伸びて、旗が数えられるほどの間を置いて立っていた。
朝から動かない。
安心入道は床几を据えさせ、日の高いうちからそれを見ていた。こちらは八百で、背には川がある。
渡ってきた瀬が浅いことは知れているが、八百を押し返されて渡るための瀬ではない。渡ったのは昨日の朝で、渡り終えてから陣を張るまでに半日かかった。
斯波が岩倉織田家に守護代の職を返せと申しつけたのは、この春のうちである。
もっとも、いきなり職を取り上げると言ったのではない。まず年貢の上がりと、津島や熱田の商人から取り立てている津料の帳を出せと命じた。津料は湊から上がる銭で、守護代の蔵に入ったあとは斯波の帳に載らない。
理由は明白で、尾張守護として今川家の上洛の軍に助力するとなれば、道の普請も、渡しの支度も要る。どれだけの銭と人夫が出せるかを知らねば、助力の約束もできぬ。この筋には清洲の織田からも大きな反対は出なかった。
安心入道が短くしたのは、期限だけであった。数日のうちに出せ、出せぬなら当主が自ら釈明に参れと言いつけた。
岩倉方はさすがにそれは無理と引き延ばそうとし、清洲方も、そこは緩めていただきたいと言い含めてきた。安心入道はどちらも押しのけた。上洛の邪魔をした、幕府に対する不忠である、よって守護代の職を罷免する、そう書いて出した。
無理筋である。それは安心入道が一番よく知っていた。
息子の左兵衛も同じことを思ったらしく、文が出た日の夕方に、情けない顔をして館へ来た。
「さすがにそれは急ぎすぎではないでしょうか」
これも退けた。愚か者、と叱りつけて、兵を率いる支度をせよと追い返した。
お前がもっとしっかりしていれば、こんな真似をせずに済んだのだ、というところまでは言わなかった。
馬鹿正直に今川の策へ乗ったつもりはない。ただ、このままぼうっとしているのが最も悪いことは、安心入道にも分かっていた。斯波は細川、畠山と並ぶ三管領の家であり、尾張の守護でもあるが、名と実がそろっていたのは祖父の代までである。
自分が若い時分、今川などは家の争いで駿河一国すらまとめられぬ家であった。
伊勢宗瑞の力を借りて、ようやく形がついた程度である。それが遠江を取った。先代の修理大夫氏親が病に伏したと聞いたときは、これで遠江も取り戻せると思った。実際にそう口にもした。
ところが、跡を継いだ治部太夫がとんでもなかった。あっという間などではない。瞬く間に甲斐と東三河を取り、驚いている間に信濃と西三河、そして尾張の東へ根を張った。
今では関東で十万の軍を蹴散らし、尾張を通って上洛しようとしている。しかもそれに助力せよ、助力せねば幕府への謀反であると言って、斯波の家を掻き回している。
気に入らない。できれば己の手で縊ってやりたい。承菊とかいう坊主に在所の寺で会った夜、心底そう思った。思ったその夜に、安心入道は自分の手を見た。皺だらけの手である。枯れ木のようでもあった。
叶うまい。と、すとんと思い至った。
ここで抗えば斯波が潰える。上洛の邪魔をしたとばかりに今川の軍勢に踏み潰され、清洲も岩倉もそれを見た後、新しい主として治部太夫を仰ぐ。目に見えた。
ならばどうするか。
決まっている。
あの坊主の言葉に乗るのは癪だが、斯波自体が力を持つしかない。
大国尾張の何郡かを直轄として治め、今川の縁者として時を待つ。
そうして治部太夫の死を待つ。斯波の男として、情けなくも思うが、頼りない次代を思えば、多少無茶をしても岩倉織田を飲まねばならなかった。
そうせねば、今川も幕府も斯波を無視し続ける。
安心入道はため息をつきながら、再び岩倉城を睨んだ。
「数が足らぬが、わが方に分があるな」
山本大隅守が相槌を打つ。
「清州方が出しておれば、今少し威圧もできましたな」
清洲織田家はこの戦に兵を出していない。清州方は、安心入道にこういった。
どちらの言い分も理解できる、今川軍の往来も邪魔しない、代わりに兵も出さぬ。
状況が分かっているのかと言いたくもなったが、飲み込んだ。清洲が出てこないということは、岩倉の領地は斯波が手にできるということでもある。
安心入道は川を背に、悠然と岩倉方を見やった。そこに左兵衛がおずおずと近寄ってきた。
「父上、岩倉方二千。動きませぬ」
「であろうよ」
「ですが、よろしいのでしょうか」
「戦場にまで出てきて、まだいうか、左兵衛」
目を尖らせると、左兵衛の腰が引けた。
「そうではございませぬ。文句ではございませぬ。敵方はこちらの倍にございます、にもかかわらず川を越えてにらみ合う。これがよろしいのかということにございまする」
多少は軍略を心得ているらしい。ほっとするが、その分だけ余計に腹が立った。
「愚か者、丘の向こうに今川の軍が来ておる」
「旗は見えませぬが」
安心入道は歯を食いしばった。これは何度も言ったことだったが、覚えていないらしい。怒鳴りつけてやろうとしたところに、山本大隅守が間に入った。
先の会談でもそうだが、ここぞというところで、決め手に欠ける男である。だが、間の取り方だけはいつも良い。
「御屋形様、此度の陣立てはあくまで斯波の軍にございまする。今川側も大きな旗や、名の知れたものは出さず、数で押すとしておりまする」
「それは、どうなのだ大隅守。勝てるのか」
「それはなんといいますか」
大隅守が言葉に詰まった。言いにくいことである。
これも安心入道が左兵衛に言ったことだが、やはり忘れているようだ。安心入道は怒りよりも呆れを覚えて、頭を振った。
「治部太夫やら朝比奈、三浦らが直々に軍を率いれば満足か」
「それは、そうでしょう」
「では、治部太夫らが直々に数万の兵を率いて、岩倉方の城を全て落とした後に、では今後はこの城は我らが預かる、そう言った時、叱り飛ばせるか」
ぐっと、左兵衛が言葉に詰まった。眉が下がり、一層情けのない顔になる。治部太夫と同じほどの年であろう。なんだその様はと叱りつけたくなった。
「向こうも気を遣った。それに上洛のことを思えば、温存もさせたいのだろう。納得せよ」
左兵衛は何度も頷いた。
その有様に安心入道は深く息を吐いた。那古野に養子に入った新三郎という治部太夫の弟は、左兵衛より十も下だが、それでも幾分出来が良く見えた。もし新三郎が治部太夫の同腹の弟であれば、いっそ養子にでもした方が良かったかもしれない。
「あと、なにより岩倉方も腰が引けている。己から攻めかかりはすまいよ」
安心入道の見るところ、岩倉方は実のところ穏当である。今川の影を恐れてもいるが、それでも唐突な守護代の罷免に対して、返してきた書付は勇ましい文言ではなかった。
曰く、この一件は、安心入道が今川を引き入れて御政道を乱したのである。よって入道は政務から退くべきである。
また左兵衛は守護代両家の意見を聞いて旧来の仕置へ戻るべきである。
その初めとして今川勢を尾張から退去させ、岩倉への罷免と所領没収を撤回されたい。
こういう書きぶりであった。
己の完全な隠居を条件に入れてくるあたりは気に入らない。だが、書付では左兵衛を武衛と呼んでいた。武衛とは斯波の当主を指す言い方で、そう書くかぎりは家督を認めるという意味になる。名門に対する遠慮が、そこだけ垣間見えている。
この遠慮と、今川の武威がある限り、己から攻めかかりはしないだろう。
そして、その遠慮が命取りでもある、と安心入道は唾をのんだ。
「大殿、御屋形様、承菊殿がいらっしゃいました」
使いの者が声を上げる。そちらを見れば、いつぞやの小癪な坊主がいた。襟元も足元も汚れていない。
半日馬に乗ってきたはずだが、埃をかぶった様子もなかった。その坊主が歩くだけで、自然と頭が下がる気がした。
その承菊が、場に見合わない軽やかな声を出した。
「今川方五千、東に布陣しておりまする。主将は治部の義弟であらせられる、松平七郎昌景様にございまする。いつでも攻めかかれると」
「五千」
左兵衛が不満げな声を出した。叱りつけたかったが、今川の前ではできず、安心入道はそっと拳を握った。
「申し訳ございませぬ。せめて一万と治部には申したのですが、遠慮せよと仰せつかりまして」
「一万あればすぐに片付いたろうに」
左兵衛がまた言った。
「武衛殿、あまり軽々しく口を開くのはよろしゅうない」
安心入道がそう言って睨むと、左兵衛が背筋を伸ばした。義弟の松平七郎という名は聞いたことがない。いや、治部太夫が松平の者に、一門の娘を父の養女として嫁がせた、これは知っている。
だが、松平七郎なるものが、どれだけの男なのかはとんと耳に入っていないのだ。
「いえいえ、確かに一万あれば、するりといったやもしれませぬ。ですが動きが悪くなりまする。今川は焼き働きに慣れ過ぎておりまするし、ここは絶対に忠実なもので固めるということで、治部に頼み込んだ次第にございます」
「お気遣いいただいた。ありがたい。して、いつ攻めかかる」
そう言うと、承菊がはて、と小首を傾げた。
「てっきり、一番槍は斯波様方が取られる、そう思うておりました」
安心入道は鼻を鳴らす。
「盟は何であったかな」
「無論、斯波様が守護として、持つべき実を持たれることにございまする」
「今川はこれを何をもって成す」
「槍と兵をもってお助けいたしまする。代わりに、過去の遺恨を捨て、上洛のご助力を願いたく」
「斯波は過去の遺恨を捨てた。これは新三郎との婚姻を見れば明らか、次は今川でござろう」
遺恨など捨ててはいない。憎くてたまらない。だが、今川の軍に背を預けるなどできるはずがなく、絶えず優位な場所を取り続けねば、納得などできなかった。本当ならば人質も取りたかったが、あの治部太夫に、それを言うことはできなかった。
承菊は、数珠を鳴らしながら考え込み、しばらく後に、よろしい、とただ言った。
「御言葉もっともにございまする。今川方が攻めかかりましょう。治部太夫からも、斯波様を粗略に扱わぬようにと申しつかっておりますゆえ」
おお、と左兵衛が声を上げた。
軽輩の如き声を上げるなと、叱りつけたかった。だがやめた。今は少なくとも、斯波が血を流さずに実を取り戻す、その一歩を踏み出せたのだから。
だが、それから幾日もたったが、今川軍は動かない。兵を構え、言葉合戦などしているだけだった。
朝のうちに岩倉方の足軽が、川端まで出て、斯波の家が負けたとき誰が支えたのかと訴える。今川の足軽が、織田はもともと誰の代官かと返す。その繰り返しで、日が高くなると双方引き、昼を寝て過ごす。
夜だけは今川方はきちんと夜番を立て、火を絶やすことはないが、決して夜襲をかけるという動きも見せない。相手を寝させないために、騒音を立てたりもしない。静かなものである。
これに対して岩倉方も動かない。最初は夜襲を試みようとする動きもあったが、今川方がすぐに反応し、何もせずに城へと戻っていった。今川もこれを追うことは決してなかった。
そうして両方が動かぬまま、田の水が減っていく。
その内に安心入道は焦れた。そして、承菊を呼び出した。
呼び出された承菊は最初と同じく、一切の汚れなどない装束だった。悪びれたところも一切ない。
安心入道は憮然として言った。
「今川軍は随分腰が重い」
承菊は淡々と返した。
「斯波様のご威光に傷を付けぬようにと慎重に動けと、申し付けられておりまする」
「治部太夫が見ておらねばこんなものかと、岩倉方に笑われよう」
「それはよろしい。当家の戦法の一つに相手に侮られるというものがございます」
承菊は涼やかな笑みを浮かべた。
「おろ、」
思わず、愚か者と息子に対する言葉が出かかったが、それですぐに口を閉じた。相手は重臣庵原の一門で、治部太夫の師匠でもあった男らしい。不愉快でも罵倒は不味い。
「はて、おろ、とは何でございましょうか」
そこにまた大隅守が間に入った。
「なんでもよろしい。ただ、こちらから見て動きがないことが気になっており申す。率直にお答えいただきたい、今川軍は戦う気があられるのか」
「ございます」
承菊はするりと答えた。
「ではなぜ矢を撃ちあわぬのです。岩倉方を打ち払い、岩倉城に攻め寄せぬのですかな」
「これもすべて斯波様の御為にございまする」
そう言って承菊は頭を下げた。剃り上げられた頭がこちらに向けられる。安心入道は舌打ちを堪えながら口を開いた。
「斯波がためと申すが、即座に城を落とすのが最も助かる」
承菊は頭を上げ、説法をする坊主のように首を横に振った。手に持った数珠が音を立てた。
「口に出すのも憚れる話でございますが、行けと申さば今川兵は今にも攻めかからんとしておりまする」
「ならばそうせよ」
「岩倉方の首が区別なく落ちましょう」
陣の片隅にいた左兵衛が唾をのんだ。だが、安心入道は言い切った。
「不忠ものの首など知ったことではない」
既に守護代の罷免を命じているのだから、ここで引けば何も残らない。
「案じておるのは、その後のことにございまする。ここで岩倉方を一斉に討ち果たすと、僭越ながら、この旧領を治めるのが難しくなられる、と愚考したしだいにて」
「それは」
余計なお世話と怒鳴りつけたいが、図星でもある。
岩倉織田家が治めているのは北尾張の四郡である。今の斯波家でそれを扱い切れるかと問われれば、即答できなかった。
まず安心入道には郡代に据える者の顔が、四人分そろわない。
斯波の家に残っているのは大隅守の家をふくめて数える程で、あとは代々清洲か岩倉のいずれかに付いており、いま呼べば来る家ではなかった。
安心入道は内心を隠しながら、言葉を強くした。
「それは、斯波は名門故、人など集められる」
「左様ですか。それならば、何一つとして問題はございませぬ。こちらとしては、岩倉織田家の姫などを斯波様が娶られる、そう言う形になると、するりと片付く。そう思うておりましたゆえ」
「家中のことに口出しは無用」
承菊はその言葉にまた小首をひねった。
「と申しますが、この度は次に上洛もありまする。岩倉方を平定するは、今川軍が通る折、問題が起こらぬように、という意味合いもございます。これに差し障りが出るような戦の運びは、聊か進めにくく」
その言葉に大隅守が顔を顰めた。安心入道も唸らざるを得ない。承菊はその様子に気も払わず、静かにまた一礼した。
「上洛で問題が起こった折、公方様に咎められるは、治部太夫のみとしたい。これが我が主君の言葉でありましたが、確かに僭越にございました」
顔を上げる。そこには徳の高い僧はおらず、武家の男がいた。
「明日より前に出て、果断に城を落とす所存にございます」
そして承菊は、その場にいた男たちへ順に視線を飛ばした。安心入道、大隅守、左兵衛と見た後、言葉をつないだ。
「血の気の多い者らが、獣の如き戦いを見せることになりましょう。どうかご承知くださりませ」
そう言って、それでは、と礼をし、法衣を翻した。
颯爽と去るその姿に、誰も二の句は告げなかった。
承菊が去った後、一先ず夕餉を取った。
質素な食事である。麦の飯に干した菜と味噌、それに水。陣中でそもそも大したものは出ないが、それ以上に食が進まなかった。
今川が本気で戦う。獣の如く戦う。それを聞くと気が少し沈んだ。明日には丘の向こうの陣が動き、岩倉の城下から煙が上がるはずである。
そこに声がかかる。
「御休息中、申し訳ありませぬ。御屋形様が相談することがあると供連れでいらっしゃっておりまする」
大隅守である。これ以上疲れたくなかった。それで一つ大きなため息を吐いた。
「よい、入らせよ」
「失礼いたします。父上」
そう言って左兵衛が足を踏み入れた。側には梁田弥次右衛門という、息子の近臣がいた。
中背で肩の張らぬ体つきをしており、具足の胴は借り物のように新しいのに、顔だけが陣中の者らしく日に焼けている。
この息子は弁の立つ弥次右衛門を寵愛しているようで、時折連れ立って自分の前に立つから、珍しいことではない。
「その、父上」
まごつく様子にまたため息が出た。
「申せ。陣中で遠慮は無用ぞ」
そう言うと、左兵衛は唾をのみ、身を乗り出した。言うぞ、言うぞと気を入れている様子は一層滑稽でもあった。
「父上、畏れながら陣を下げるのは如何でございましょうか」
愚か者。
疲れがなければ、そう怒鳴っていたかもしれない。安心入道はただ顔を顰めることしかできなかった。
「左兵衛、これは斯波の戦ぞ。今川に任せ、戦場から逃げては立つ瀬があるまい」
「ですが、一度陣を見せ、開戦の号令をかけた以上、もはやなんと言おうと斯波の戦の形は整い申した」
「多少なりとも姿を残しておかねば、城を寄越せと言われても動けぬぞ」
「治部太夫の目的は、いち早く上洛すること。そのための足掛かりにございます。これ以上のもめごとは、望んで起こしますまい」
ふとそこで気が付く。息子の弁が立つ。
左兵衛はいつも通り、肩を怒らせながら必死に言葉を紡いでいるが、内容はきちんと受け答えが出来ていた。
ちらりと弥次右衛門を見ると、然りと頷いた。なるほど随分、仕込んだらしい。
ならば、もうこちらと話した方が早そうだった。
「して、何が言いたい」
そう言いながら、二人に目を向けた。左兵衛は息飲んだあと、繰り返した。
「陣を下げるべきかと」
「それはもうわかった。なぜだ。何をもってそれを成したい。それをしても問題がない理由は、弥次右衛門から後で聞こう。だが、なぜ退きたいのか、それはそこもとの口から申せ」
左兵衛の化けの皮はそこで剥がれた。あわあわと視線を泳がせ、しばらくのちに身を縮めた。
「今川が恐ろしゅうございます」
かすれた小さな声だった。
「愚か者」
怒鳴りつけはしなかった。
ただどっと疲れを感じた。深く深く息を吐くと、弥次右衛門が口を挟んだ。
「畏れながら」
「よい、最初からそなたと話しているようなものではないか」
弥次右衛門は苦々しい表情で頭を下げ、話し出した。
「御屋形様の御懸念は、ただ今川の噂話を聞いてのことにではありませぬ。ただ今の今川方の陣容を見、今川を忌避するに至った。つまり、的を射たものと思えまする」
忌避するなどと高尚なものではないだろう。そう思いつつ、顎をしゃくって続きを促した。
「して、愚息に、恐ろしゅうございます、などと言わしめた陣容とは」
「今川の軍、陣容に福島がおりまする」
安心入道は鼻で笑った。
「甲斐で負けた福島か。それがどうした。主将を外され、今は幼い子倅が率いておるのだろう」
福島が甲斐でつまずいたという話は、去年のうちに尾張まで流れてきていた。どこの峠で何があったかは伝わらず、ただ今川が一度だけ足を止めたということと、その将が福島であったということだけが残った。話を持ってきた津島の商人も、それより先は知らぬと言った。
「ご認識の通り、三浦、朝比奈に水をあけられた福島にございまする。手柄に飢え、領地に飢えておりまする」
三浦も朝比奈も、治部太夫が国を増やすたびに名の出てくる家である。左兵衛は膝に手を置いたまま、弥次右衛門の口だけを見ていた。
「言わんとすることはわかる。血気に逸る余地があるようだ。してそれがどうして、陣を下げるほどの恐れになろう」
僅かに弥次右衛門が身を乗り出し、声を潜めた。
「福島、上洛を打ち壊してでも領地を取ろう、そういう節がございまする。つまり尾張に根を張ろうとしておられる。そして、それを成すために、御屋形様と大御所様をなし崩しで害しうるかと」
「な、」
言葉に詰まった。大声を出し、何を言うのかと問い詰めたかった。
だが、悲痛な弥次右衛門の顔で思いとどまる。安心入道も身を乗り出し、声を潜めた。
「それはどういうことだ」
「確証はございませぬが、あまりの動きの悪さに今川の陣中を見舞った折、そのような声が漏れ聞こえ申した。無論、その場でどういうことかと咎めましたが、聞き間違え、と逃げられ申した」
「そんなことは良い。それよりそう思う確信はあるのか」
「は、畏れながら福島の陣、徐々に下がり、迂回する動きがございまする。後方を確保するため、と申しておりましたが、どうにも血気に逸る福島孫九郎の様子からは、到底信じられず」
そこで安心入道は身を起こした。重々しい頭が軽くなる様に、眉間を揉んだ。
「あり得ぬぞ」
「ですが、父上。福島は以前の甲斐攻めでも、駿府の意向を無視し、前に出ました。武功に逸る家なのです」
「そのようなことも、」
あり得ぬ。という言葉は形にならない。裏切る家は裏切り、強い家は強いというだけのことを、この年まで幾度も見てきた。
そう思えば、福島の血筋を否定しきれなかった。
そこに大隅守が間に入った。
「今川の治部太夫は相当な強権にございましょう。福島のそのような目論見、今更許しましょうか」
弥次右衛門が首を横に振る。
「吉良に養子に入った者、母親が福島にございまする。それを思えば、福島の派閥が相当に強くなっており、止められぬのかと。むしろ、今川の強権は、福島を押しとどめようとして失敗した。その跡とみるべきでは、ございませぬか」
「にわかには信じられぬ。承菊殿に、」
大隅守が立ち上がろうとしたとき、弥次右衛門がその手を取った。
「承菊殿と話すのはよろしい。ただ、疑いをぶつけるのは、今少しお待ちくださりませ。もし今、弥次右衛門の如き軽輩以外が、疑いを口に出し、動きなされば、福島が走りだしかねませぬ」
そこまでか、と安心入道は頭を抱えた。
首輪をつけているつもりでいた家が、内側で誰にも押さえられていないのだとすれば、こちらの八百は今川の陣の前に置かれた餌に過ぎない。
そこに左兵衛が声をかけた。それは震えながらも、そっと慰めるような、労わるような声である。
「ただ陣を下げる。それで、よろしいではないですか。仮に福島が動かなかったとしても、今川にも恨まれず、損もございませぬ。それに清洲方を見張るという理由を付ければ、これも武功にございまする」
「それでよいのか、左兵衛。そなたは」
同年代の今川治部が軍神などと持ち上げられ、それよりも尊貴な家柄の男が踏みつけられる。
そのことを許せるのか。そう問うた。
だが左兵衛は、わずかに震え、眉を下げながらも答えた。
「斯波は三管領の一つ。多少武功など気にして何になりましょう。堂々と今は力を付けましょうぞ」
その言葉を聞いて、ふっと胸の内が軽くなった。確かに多少笑われても、何にもならない。
北尾張の四郡を得る。そして治部太夫が朽ちるまで持たせることこそ目標なのだ。
そして、左兵衛はそれを受け入れるらしい。
安心入道は、ふっと息を吐き、言った。
「急ぎ承菊を呼べ。人目を憚るよう心せよ」
弥次右衛門が深々と頭を下げた。
承菊はすぐにやってきた。戦の寸前、夜半にも関わらず、乱れたところが一切ない。やはりそれが腹立たしかった。
「お呼びとのことですが、拙僧に御用でありましょうか」
そう言って、承菊は深々と頭を下げた。安心入道はそれを見て、態度を取り繕った。
最初に会った時と同じく、心を許さぬ傲岸な斯波の前当主を作り上げた。
「斯波は陣を下げる」
承菊の目が一瞬見開かれた。
それから、数珠を手繰り、幾度か操った。この男らしからぬ、動揺であった。
「それはいかなる仕儀にございましょうか」
「いかなる仕儀もない。斯波は下がる、承知せよ」
「お待ちくだされ。今川は確かに腰が重くございましたが、これより攻めると約束した次第にございまする。当然、これに対する後詰があるものと、陣立てを大隅守殿とも相談しておりました」
大隅守が視界の端で目を逸らした。
「獣の如き戦いぶりを見せるといったのだろう。ならば我らは不要であろう」
そう言って、腰を上げた。そこに承菊が食い下がった。
「お待ちくだされ、斯波様がおらねば、岩倉織田家も無用な抵抗をなさるやもしれませぬ」
確かにそうだ。その言葉に納得し、足を止めそうになる。
だが、咳払いが聞こえた。弥次右衛門である。
いかぬ、と考えを改める。
「幕府の威光を使うとよい。上洛の邪魔をするな、槍を置かねば謀反人ぞ、と脅すとよい」
「あくまで、今川が仰せつかったのは、斯波様を立てての静謐にございまする。内々の話ならばともかく、公にそれを申すは、」
「下がる、もう決めた。下がり清洲方を見張らねばならぬ。これも重要なことであろう」
そう言うと、承菊は眉間に大きく皺を寄せた。
今初めて知ったが、この男は困ったり、悩んだりすると身振りが大仰になる。端正な顔立ちも相まって、まるで役者のようだった。
承菊は、眉間に皺を作ったまま言った。
「畏れながら、戦場で総大将の陣が離れるのは、危うきことにございまする。今川の陣近くに布陣し、離れるべきではない。そのように愚考いたしまする」
その今川の陣、福島が危ういのだろう。貴様らが首輪をつけておれば、こんなことにはならなかった。そう言い放ちたい心情をぐっと抑えた。
弥次右衛門の話では、福島は五千の内三千を率いているらしい。急ぎ清洲城近くまで下がらねば、もろともつぶされかねない。
言葉を探していると、弥次右衛門が前に出た。
「某、梁田弥次右衛門と申すものでござる。愚見を申すが、これだけの軍勢。斯波家の軍が、今川軍に紛れてしまうことの方が危のうござる。獣の如く戦われるとあらば、同士討ちもあり得ましょう」
危うい言葉であるが、承菊には響いたようだった。苦しそうに唸っている。
「ですが、やはり今川だけに血を流せ、というのはあまりにも」
承菊の声が低くなった。軽やかなところが落ちて、寺で会った夜の声に戻っていた。
「そういう盟であったかと。お言葉ながら、遠江を奪ったことの禊、大御所様のご心痛を思えば、まだ軽いことにござらぬか。それとも承菊殿は、ここで揉め、治部殿と幕府の命に逆らいまするか」
弥次右衛門は言葉を強くした。そして承菊とにらみ合った。ついと、視線を先に伏せたのは承菊であった。
「尾張守護、斯波様の言葉とあらば」
そう言って、また深々と頭を下げた。
弥次右衛門はその隙に、こちらに視線をやり、申し訳なさそうに目礼をした。
安心入道はその夜のうちに、陣を下げた。
かつて越えたはずの川を南に渡り、鎌倉街道を進んだ。渡しは灯を使わず、馬を先に泳がせた。
人と荷を渡し終えるのに一刻かかったが、その間、川向うの陣では篝を落とさずにおいた。
街道に上がってからは早く、月のない夜であったが、踏み固められた道は白く見えた。
途中、下津を越えたあたりで、漸く一息がついた。ここまで来れば清洲はもう少しで、街道は開けている。
ただ、周囲にいるのは三百ほどの兵である。残りの五百の兵と、弥次右衛門をはじめ一部の家臣は、未だ川向うに陣取っていた。
全てをそのまま返すと福島勢が勘付く、そう言う弥次右衛門の言葉を受け入れてのことだった。
安心入道は幾分減った兵らを見ながらも満足をしていた。
「左兵衛、あの弥次右衛門という男、大切にせいよ」
左兵衛は馬を寄せ、嬉しそうにした。
「無論にございます。父上も聞きましたが、あの坊主の悲痛な声。なんともまあ、大仰で恥ずかしい」
年相応にはしゃぐ声である。
普段ならば、斯波の当主が浮かれるな、などと叱りつけた。だが今日はその気がない。
先に見せた忍耐と、良き家臣を見抜ける器量。これらを思えば、多少は容赦しようというものである。
「確かに、遠江を奪った禊として血を流せ。あの一言は胸がすいた」
「で、ございましょう」
調子のよい息子を相手にしつつ、安心入道は馬上にてこれでよかったと納得しつつもあった。
きっと、岩倉城は凄まじいことになる。
そこに斯波家の者が、止められる場所にいたとなると、今後の尾張統治に支障が出かねない。今川が汚名を負うならばそれが一番良い気がした。
安心入道は手綱を握りつつ、左兵衛に話しかけた。
「あの坊主はともかくとして、治部には言葉を考えておけ」
「そこも、弥次右衛門が申すには、寵愛深き新三郎を通じればよい、と考えておりまする。どうやら治部は相当な寵愛ぶりで、あの那古野の城で、大きな普請までするそうです。これを見るに、新三郎の言葉なら、治部に安々と届きましょう」
「なるほどな」
治部太夫は動くには早く、戦もうまいが、存外内側を納めるのは下手なのだろう。
贔屓の弟や力のある家臣を扱い切れていない。
斯波が言えることではないかもしれないが、斯波が通った道でもある。ならば、付けこむ隙は大いにあるはずだ。
そう考えた矢先、安心入道の耳に馬の嘶きが響いた。
物見が帰ってきたのか、そう考えたが、引っ掛かりもする。
西の物見は、出してから四半刻も経っていない。そんなに早く戻ってくるものだろうか。
それまで田で鳴いていた蛙が、いつからか聞こえなくなっていた。
「何かあったか」
左兵衛が、父上と情けのない声を上げた。
先ほどまでの得意げな顔はどうした、とまたため息をついた。
ますます、今川の陣から下げて正解であったかもしれない。まず戦の空気から教えなければなるまい。
息子に光るものを見いだせたのは良い。だが、足りない物も多すぎる。
安心入道は、周囲の者らを見て声を上げた。
「急ぎ、清洲まで下がる。その後は西に物見を再度、」
その時、わあ、わあという声が西側から響いた。なんだ、と目を凝らすと旗と篝火がいくつも上がっている。篝火は夜の中で目立ち、旗を夜闇に浮き上がらせた。
いやというほど見た、瓜の紋。
安心入道は呟いた。
「織田木瓜、岩倉だと」
「かかれ」
という短い号令がどこからか響いた。
すると、そのかがり火と旗が一斉に動き、こちらへと向かってきた。
「父上、父上、あれは」
左兵衛が泣き出しそうな顔で、馬を寄せる。
「なんだ」
集団は近寄り、周囲の軍勢をなぎ倒していった。
此方において戦える兵はすべて川の向こう側においてきたも同然である。
少しでも戦える兵はあちらにという弥次右衛門の言を、そのまま受け入れたのだ。
そこでようやくはっとした。
「裏切ったのか。弥次右衛門」
「父上」
一際大きな声が上がる。見れば左兵衛に矢が刺さっていた。
幸い鎧が致命傷を防いでいる。だが、馬が駄目だった。
馬は大きな嘶きと共に大きく立ち上がり、左兵衛を振り落とした。わぁ、という声と共に、左兵衛が落馬した。
身の丈に合わぬ大鎧が夜闇に一際大きな音を立てた。
「いたぞ、あそこだ」
そんな声がした。見ればこちらに寄せる兵らが自分たちを指さしている。
「討ち取れ」
その号令が響き、突き出された槍が間近に迫った。




