6章_4
五郎が那古野から戻って、五日になる。
留守の間に溜まった書付は、一日かけてあらかた片づいた。国が五つになってから、駿府へ集まってくる紙の量は、父の代の倍では利かない。訴訟の裁許、寺社への安堵、境目の争論、商人からの願い出。安房守と右筆が先に選り分け、五郎の目を通さねばならぬものだけが手元へ回ってくるのだが、それでも一日に幾十通かになる。十日も館を空ければ、机の上が塞がるのは当たり前であった。
朝のうちに書付を片づけ、昼を過ぎてから奥へ回った。館の奥は、婚儀の前に大御台様の指図で手を入れてある。廊下の板を替え、南向きの一間を朝姫の居間にした。障子を開けておくと、庭の楓の若葉が畳の上まで色を落とす。
朝姫は文机の前に座っていた。この二月ばかりで顔の輪郭が変わり、座り方も変わった。膝を横へ流して、腹の前に手を置いている。医者は夏の終わりだろうと言った。
懐妊が知れてから、奥は少し賑やかになっている。大御台様が女房を二人つけ、日に一度は様子を見に来る。三河や遠江の家からも祝いの品が届きはじめ、そのたびに礼状を書く者が要るというので、右筆を一人、奥へ回した。祖母は朝姫を気に入っているし、母の方も、今のところ表立って何も言わない。
「よろしいのでしょうか、尾張は」
おずおずと朝姫が言った。五郎は意図的に精いっぱいの柔らかな声を作った。
「治部が気にすることではございませんよ」
「ですが、上洛なさるならば気にする必要があるのではないでしょうか」
「ご安心ください。何一つとして問題はございませぬ。穏やかなものでございます」
朝姫が少し奇妙な顔をしている。
尾張のことは、家中でも知る者が限られており、奥へ入るはずの話でもない。それがここまで届いているのは、駿府の館へ出入りする者の数が、この半年で倍ほどになったからであった。婚儀に集まった商人がそのまま番頭を置き、尾張や三河の国人が挨拶に来る。人が増えれば話も流れる。流れる先に奥がある。
妻の里は北条である。北条は今川と盟を結んでいるが、盟は永久のものではない。今川の立ち位置が変わりうる、盟も変質しうる上洛の話は、駿府の館で口に出すことを禁じていても、北条からの文で伝わるのだろう。
相当な大事であるそれを、大丈夫だと言って済ませたのだから、奇妙な顔にもなる。
五郎が婚儀からこちら、奥へ来るのは三日に一度ほどである。用があって来るわけではなく、来て、茶を飲み、四半刻ほど話して戻る。話す種は毎度そう多くないが、妻は関東の話をすると気が晴れるらしい。
幸い今のところはそれを使い、会話がおかしな方向に進まないように誘導出来てはいる。ただそれもそろそろ通じなくなるだろう。
ふと、世の夫婦というものがどのように暮らしをしているか気になった。世間では十年、二十年と添い遂げている男女がいるというのが、信じられなくなる。
五郎はつい先日と同じように、関東のことに話を移した。
「朝姫殿、舅殿からも文がございましたのでしょう。なにか面白い話はございましたか」
「はい、いつぞや話された鶴岡八幡宮。復興が始まったと」
凛とした朝姫の表情がふと緩んだ。
「それはよろしゅうございました」
「治部殿もお力添えをされたとか。言葉もございませぬ」
鶴岡の社が焼けたのは去年である。安房の里見が海を渡って鎌倉へ入り、火をかけた。社殿はあらかた焼けたと聞いている。
あの社は、関東の武家にとってはただの社ではない。源頼朝が鎌倉へ入って建てて以来、関東の家はそこへ参り、そこで元服し、そこへ願書を納めてきた。関東管領も、その下の家も、代替わりのたびに同じことをする。焼けたまま置いておけば、関東を治めるべき者がいま誰もいないと言っているのと変わらない。
婚儀を終えた朝、朝姫に話を聞いた後、そのことを聞いた。参っていた鶴岡八幡宮は、里見に燃やされました、と言われたときの声が頭から離れなかった。
それで立て直しに当たって、五郎は、内々で鶴岡八幡宮に材木や銭の喜捨を行っていた。個人的な私費と切り分けている費用の中から、二度出している。一度目は婚儀の後。二度目は懐妊が知れてからである。そのどちらも祈祷を依頼している。
子宝祈願、安産祈願、その両方だ。
ただ、そのことを口に出すのはどうにも憚られた。
「何のことはございませぬ。武運長久を祈るうえ、やはり鶴岡八幡宮と思うたまでにございます」
「確かに、仰る通りでございますね。国家鎮護の上洛ともなると、やはり鶴岡八幡宮がようございます」
また妻が凛々しい顔になった。
それを見ているうちに、ふと口が動いた。
「いえ、少し嘘がございました」
「はい?」
と朝姫が小首をかしげた。
「少し別のことも祈りました。私事ゆえ情けなく」
朝姫はそれで察したようだった。
「その、それはなんと申しますか」
朝姫が言葉を探して、そこで止まった。
「舅殿の庭先でいらぬことをしたと、気恥ずかしく思っておりまする。朝姫殿もどうかお忘れください」
そう言うと、朝姫は少し咳払いをした。
「お心遣いありがたく。八幡宮の加護があれば無事生まれて参りましょう。そうなれば次も考えねばなりませぬ」
五郎はそのまま、ふと顎に指をあてる。次となると、側付きか、手習いの師などだ。誰が良いだろうか。譜代や一門から数人付けるのもよい。だが、いっそ甲斐など新しい地のものを付けても面白い。自分が遠江と深く結びついたように、信濃、甲斐、三河と言った土地の心を掴む強みにできるかもしれない。
「治部様。また先々を考えておられませぬか。そうではございませぬ。名前でございます」
ああ、と納得がいった。
「確かに、名前は然りと考えておくべきことでありましょう。男子であれば、そう、竹千代、女児であれば」
そこまで言うとふと朝姫が口を挟んだ。
「男児は龍王丸ではいかぬのでしょうか。考えるのも女児だけでよろしいのでは」
「龍王丸は少し悩ましいことにございます」
「良き名に思えます。縁起もよろしい」
「いえ、その名が家中で呼ばれると、つい返事をしそうで」
そう言うと少し朝姫が笑った。
龍王丸は父と五郎の幼名である。
祖父が三十を過ぎたばかりで死に、家督は叔父に押さえられた。父はまだ幼く、母に連れられて駿河を出て、京の縁者を頼って身を隠した。名を戻すのに十年近くかかっている。家を取り戻して元服し、氏親と改めたのは十七か十八のときだと聞いた。
さらに言うならば五郎も同様の経験をしている。家督相続を一時は絶望視され、遠江に流された。挙句、流された先の代官地も没収され、蟄居になった後、当主になった。
ゆえに、今川の家中で龍王丸といえば、幼い当主が国を追われ、それでも戻ってきたという話とひと続きになっている。縁起がよいと言う者もある。ただ、一方で、国を追われる名では、とささやく声もある。
ならばいっそ、家が安泰しそうな竹千代の方が望ましいと、五郎は考えていた。
朝姫はそんな五郎の内心はともかく、涼やかな目元に皺を寄せて笑った。
「由緒ある名前というものは、そのようなものにございましょう。良いではないですか、龍王丸。強そうにございまする」
「あまり親に懐かず、好き勝手やる鼻つまみ者に育つやもしれませぬ」
「五国の太守なれば、それくらいでなければなりませぬ」
そんなものか。
うんうん、頷いていると、また朝姫が笑った。
「それに二代続けた名前を与えられぬというのも、可哀想に思えますれば」
「それは、そうでしょうな」
確かにそうだ、とまた頷いていると、廊下から声がかかった。
「御屋形様。御歓談中申し訳ありませぬ」
ちらりと外を見れば、飯富兵部少輔の弟、源四郎がいた。廊下の端に膝をつき、こちらが顔を向けるまで動かずにいる。
小姓として置かれた子であり、生粋の甲斐者であったが、駿府の水があったのかすくすくと育っている。
以前、兵部少輔と話した折、褒美として与えた駿河の千石は、源四郎が継ぐとのことだった。
歳に見合わぬ豪胆と機転で評判の子である。館の者に用を言いつけるときの声の張り方が、すでに家中の年嵩の者と変わらない。まず、気の利く家臣がつけば問題はないだろう、五郎はそう考えていた。
「源四郎、どうした」
「庵原安房守様が急ぎお耳に入れたいことがあると」
顔は見ていないが、声に張りがない。下がり切った眉が安々と想像できる声だった。
待たせるのは哀れである。
「申し訳ありませぬ。また顔を出しますゆえ、どうか楽に」
「はい、いってらっしゃいませ」
そう言って、外に出る。やはり源四郎が申し訳なさそうな顔をしていた。
「待たせた。済まぬな」
「いえ、とんでもございませぬ」
五郎はそれ以上言葉をかけずに、足早に廊下を進んだ。
奥から表へ抜けるには、庭を回って渡り廊下を二つ越えねばならない。婚儀の前に手を入れたのは奥の方だけで、表へ近づくほど板は古く、踏むと鳴る場所がいくつかある。廊下の角で庭掃除の者に会い、頭を下げられた。
ご苦労、などと声をかけそうになり、口を閉じた。
武家の当主が気遣いをしないのは、明確な弱みである。だが、それを軽々に表に出すのも、同じく弱みである。
子供ができるとなって、自分は甘くなっているのかもしれない。だとしたら、これは良くない傾向でもある。
小さく、頭を振り、屋敷内の一室に入った。
それを見送った源四郎は、小さく頭を下げ、外に控えた。
部屋の中には庵原安房守と見慣れぬ男がいた。
見慣れぬ男は異形であった。手の皺からまだ若さがうかがえるが、片眼は隻眼で、指もそろっていない。浅黒い肌とぎょろぎょろとした三白眼が印象的である。蜥蜴か何かが化けている、そんな風に言われた方が納得する人相である。
ただ身なりは悪くない。継ぎの当たっていない小袖を着て、髪も結ってある。安房守が支度をさせたのだろう。膝から下は袴で隠しているが、座り方が左へ傾いていた。
「待たせた」
「いえ、御台様とのお時間をお邪魔してしまい申し訳ございませぬ。まことにお家の大事にございまするからな」
この男は懐妊の話を聞いてから、こういう軽口を聞く節が増えた。
不快には思わない。だが、不快に思わないということが不味いとも考えだしている。
「して、何用か。そちらの男に関することか」
五郎が目を異形の男に向けた、男は体を身じろぎし、睨むように目を尖らせる。
「は、なんと言いましょうか」
異形の男が腕だけで、身を乗り出した。それで分かったが、この男、足も片方がない。
「お初にお目にかかりまする。大林源助というものにございます」
「大林」
「御存じでしょうか」
男、源助の眉が上がった。
「安房守の文に以前築城のうまい男が居ると聞いて、名が挙がったことがあった」
「某、牧野の家老にございました」
五郎がふぅん、と唸ると三白眼がぎょろついた。
「負けた家には興味ござらぬか」
「これ、源助」
「よい、安房守。治部の悪癖が出た。源助殿も許されよ」
五郎は顎を撫でながら、記憶を探った。大林、牧野とたどっていくと随分前に見た文に思い当たった。
「牛窪か」
源助の目がまたぎょろついた。いや睨まれた。
「関口彦三郎が落とした城にあったはずだ。そこの家老が、大林勘左衛門。今は城代として、三浦次郎左衛門の寄騎であるな」
「養父にござる。とはいっても、某がおらぬ間に、もう別の養子を迎えていたようでござるが」
五郎は言葉を区切って、また頭を巡らせた。そして得心がいった。
男の体の様子、帰らない間の養子、牧野方、負け。ここまでくると一つにつながる。
「源助殿、昔日、牧野の軍勢にいたな。おそらくだが、あの挟撃を生き残った」
三河の東が今川の手に入ったのは、五郎が家督を継ぐ寸前のことである。
牧野と戸田は、東三河で長く並び立っていた家であった。二つとも今川に押されて所領を削られ、押し返す機会をうかがっていたところへ、甲斐から知らせが入った。武田が駿河の境目へ兵を出すという話である。今川の主力は東へ向く、その隙に旧領を取り返せ、という筋であった。
実際には、武田は動かなかった。動かぬと分かっているものを動くように見せたのは、こちらである。牧野の勢が東三河から出たところで、五郎が甲斐から牧野本拠の吉田城を奪った。牧野方は急ぎ、戻ってきたが、そこを伏せた兵で挟み込んだ。
挟まれた側は、急行した疲れ、奇襲の驚きもあり、まともに戦えず、もたずに崩れ、当主が討たれた。
完勝である。だが、裏を返せば、徹底的に血を流させた凄惨な戦でもある。
あの日の首帳は駿府に残っており、五郎も一度は目を通した。大林の名は、そこになかった。討ち死にとも、逃げたとも書かれていない。書く者が数え落としたのか、生きて帰った者を数えなかったのか、いまとなっては分からない。
「ずいぶん昔のこともよう覚えていらっしゃる。頭は悪くござらんな」
ふんと、源助が鼻を鳴らす。
「源助、そなたな」
言いかけた安房守を手で制した。
五郎は頷き、源助の全身を再度舐めるように見た。源助がわずかに身を震わせた。
「大したものだ」
「皮肉にござるか」
「本心だ。治部ではまず死んでいた。家中でもあれを生き残れるものはそうはおらん。よく生き残られた」
「そのような褒め方は気に入らぬ」
「では、なんと褒めればよい」
源助は思いっきり腕を組み、こちらをにらんだ。片腕を組むというのは、ずいぶん窮屈な形になるものだと思った。
「先の戦、某は止め申した」
「牧野をか」
源助は頷く。
「甲斐からの知らせは明らかに遅く、都合が良い。これをもって動くは遅きに失する、捨て駒にしかならぬと。だが、受け入れられなんだ」
「源助殿に責はなかろう。牧野、戸田、ともに治部を恨んでおられた。前に出る理由があれば出られただろう」
源助はまた大きく鼻を鳴らした。
「して、源助殿は何をしにまいられた。いまさら報復でもあるまい」
「そこの狸殿に呼ばれただけにござる。屋敷の片隅で書ばかり読んでおらず、城を建てるにあたって、腕を振るって見せろと。ただ、名門の今川治部殿にお気に召される城など、」
「ああ、それでか」
五郎はそこで合点がいき、懐の帳面を取り出した。栞が入った項を開き、ざっと床に置く。
城を建てる地形と要点だけが書いてある。
平地に石垣を設ける。城主が国を見渡せるような高い建物を、最上層に設ける。二の丸を置き、そして家臣らの家族も含め纏められる武家街も、はじめから設計に含めてある。書いてあるのはそれだけで、寸法も普請の順も入っていない。そこを埋めるのが、この男の仕事になる。
山の上へ城を築けば、攻められにくいかわりに、麓との行き来に人手がかかる。荷を上げるにも人を集めるにも半日を潰す。平地へ下ろせば、蔵も市も家臣の屋敷もひと続きに置けるかわりに、囲まれれば逃げ場がない。どちらを取るかという話ではなく、これから先の尾張と美濃で、今川が何を人に見せたいかという話であった。
「これだ。分かるか」
五郎は指で項をなぞった。
「見ての通り、大して守りは考えていない。守る城は好みではないし、平地で守ったところでという話でもある。かといって前に出るための付け城というわけではない。城の目的としてはいうなれば威圧よな。こう、見るだけで今川に付いたほうが得であると、一目でわかる城。攻めるのが馬鹿らしくなる城がいる。これが難しい。守りは考えないといっても、隙だらけの城を作っても、意味がない。塩梅が必要に、」
「御屋形様、しばらく。聊か言葉が多く」
止められ、口を閉じる。見れば源助が唸っていた。獣のようにだ。
「まだやると決めたわけではござらん」
「左様か。確かに難しい仕事ではある。直ぐに決める必要はない」
「やらぬとも言っておらぬ」
源助は一層むっつりとした様子で言った。
「できぬことを命じても、互いに辛かろう」
「できる」
ふぅん、と唸ってしまった。源助に睨まれる。こういう男は初めてである。
「御屋形様、お耳を」
安房守が声を潜めた。
「無理やりにでも使わねば動きませぬ。そして時折、褒めねば機嫌を損ねまする。褒めても機嫌を損ねまするが」
なんだそれは。
「そこまでして、使わねばならぬか」
五郎が声を潜めずして言うと、源助が一際眼を鋭くした。
「それは今川殿が決められよ。だが、五か国の太守と言えど、某以上に築城名手は見つけられまい」
ちらりと安房守を見ると、確かに頷いた。
安房守は大きくなった今川の領地においても、人事を預かることが多く、それゆえに才人と見れば家に置くのも珍しくない。降った家の子を小姓に取り、寺にいた者を右筆にし、算勘の立つ商人の伜を蔵方へ入れる。
農民の子でさえも、これはという噂があれば磨こうとし、玉となれば駿府の館に推挙するのだ。今のところ、安房守が太鼓判を押した人間に外れはいなかった。
ただ、あの承菊もこの男が推したのが始まりと思えば、全幅の信頼もできない。
五郎は少し考え、一人二人も変わらぬかと結論付けた。
「左様か。では源助。一つ頼む。天下の名城として、相応しきものを」
源助は何か気に障ったように、そっぽを向いた。
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暫くすると源助は側付きの者に付き添われて出ていった。板の間を突く音が遠ざかり、庭の方へ回っていく。
残されたのは五郎と安房守だけである。
城をどこへ建てるかは、まだ源助に言っていない。だが、それでも今与えた情報だけでも動き出せる男のようだった。
去っていく独特な足音を思いながら、五郎はふと切り出した。
「して、本題は」
「あの城を作る場所の件にございまするな。尾張で新三郎様と斯波の姫君、まあ養女にございまするが、こちらとの婚姻話がまとまり申した」
婚姻の話は受け入れられた。ただ年頃の姫がいないこと、また相手の新三郎が幼いこともあり、現状はひとまず婚約という形で納められた。これは互いにとっても都合よい話でもあった。
少なくとも当代の斯波は、本当に今川と婚姻を結ぼうなどと考えてはいないだろう。
「して、婚姻の話がまとまったとなれば、斯波殿は動いたか。承菊が相当にしつこく焦らしたのだろう」
安房守が頷く。顔は少し苦いものが浮かんでいる。聡明であるが、毒を見せねばならない承菊である。これに手を焼くのはこの男の日常でもあった。
「早速にございますが、斯波家では岩倉織田家の方に、守護代の解任を命じたそうにございます」
五郎は湯呑に手を伸ばした。入れ直したばかりの茶は仄かに暖かい。その温かさが、内心の驚きを和らげた。
「予想より大きく動いた。精々が注意ぐらいであると思っていた」
「安房守も同じにございまする。どうやら今川家の伸長前に、少しでも力をという腹らしく」
「そのあたりの勘働きは流石か。して、解任の理由は」
「婚姻を邪魔した。今川家の上洛の邪魔、ひいては大樹の命の邪魔をしたということであったと」
五郎は眉間を揉んだ。言った安房守も顔を顰めている。
承菊が持っていった文には、尾張の静謐を願うという一句しか入っていない。
その一句を、婚姻を邪魔する者は上洛の邪魔であり、上洛の邪魔は大樹の命に背くものだ、などと言う文言はない。
静謐を願うという程度の文を、あそこまで伸ばしたのは斯波の側であり、伸ばして構わぬと吹き込んだ者は承菊に違いはない。
とはいえ、現守護代を解任するということ自体に無理はない。
尾張の守護代は、清洲と岩倉の二つある。もとは一つの織田から分かれ、国の南と北をそれぞれ押さえて、境目でしじゅう小競り合いをしている。
斯波はその両方の上に名だけを載せている形で、書付も銭も、まず守護代の手を通る。これを僭越、守護代の身を超えた専横と見るのは自然であり、これを解任するのも自然である。
ただ、これが行えなかった理由は、斯波の没落に他ならない。日本各地にあったはずの領地を失い、兵を出すことさえかなわない名門になり果てた。そこに今川が力を貸すといえば、こうなるのもおかしな話ではない。
「今少し、上手く動いてくれぬものかな。それでは清洲も離れよう」
どちらかの守護代をつぶすのは確定の路線である。だが、つぶし方が悪いともう片方が暴発する。
「承菊によると、斯波殿はそれを狙っている節もあられると」
「両方とも今川がすりつぶすか。なるほど策士か」
「厚顔に過ぎる話にございましょう。ただ、これは承菊が入れた空気にございますれば、安房守も文句も言えぬことであります。ここまで前のめりになられるとは、己の不明を恥じいるばかりにございます」
「それを言うならば、承菊を外に出した治部の不明でもある。許すといった範疇であるが、早すぎる」
許すと言ったのは事実である。構想が出来たら文にせよとも言った。
事前に承菊に対して、このあたりまではやってよい。こういう当主に判断を必要とする言葉が出たら、ここまでは譲ってもよい。そしてできればこういう形でおさめよ。それ以外は任す。そう言う取り決めはしていた。かかる銭もあらかじめ予算を組んでおいた。
だが、承菊はそれらの取り決めの上限、下限ぎりぎりを突っ走っている。五郎や安房守が頭を悩ませることも算段に入れているあたり、確信犯だろう。
無論、ある程度はそれを承知で外へ出したのだから、文句を言う筋合いは薄い。
「如何されますか。岩倉方は難しゅうございますが、まだ清洲と斯波は結びつけられましょう」
五郎は茶を飲み、思案に暮れた。
特に考えるのは承菊のこと、斯波のこと、そしてこれからのことだ。
確かに承菊の動きは、火遊びを楽しんでいる節が見え隠れしている。名門斯波と大国尾張が自分の思う通りに動くのが楽しくて仕方がない、そんな打ち筋がうかがえる。
かと言ってそれだけで手を止める理由はない。斯波が突き進む方向も、強引すぎるが決して不都合なものではない。そして何よりいまさら止めようとすれば、却って綻びが出る。
コンコルド効果。そんな言葉が浮かばないでもなかったが、五郎は息を吐いた。
「進めさせる他あるまい。承菊の手の速さはともかく、斯波殿が動く流れは悪くはない。承菊の話した通り、兵も動かし、当初の予定通りとしよう」
「では三浦次郎左衛門殿でしょうかな」
安房守が名前を挙げた。朝比奈と並ぶ先手の大将格である。朝比奈が動くときは、こちらを守りに置く。逆に朝比奈を動かさないときは、必然的に次郎左衛門が前に出る。
確かにそれは、妥当であるが、五郎は安々と頷けなかった。
「いや、次郎左衛門には上洛の準備をさせている。長く戦うことになるやもしれぬゆえ、今は休ませたい」
「そうなると朝比奈備中守殿、ですがこちらも随分と使っておりまする。信濃、関東と、出ずっぱりでございまする。功はありますし、実直故使いたくなる男ではございますが」
五郎は喉を鳴らした。
「確かに贔屓しすぎか」
「いえいえ、その分苦労もされておられるので、羨ましいと思うものは少ないかと。ですが、そろそろ信濃、甲斐も大きく動かしてよいかと」
「ようやくそこもとも認めたか」
「安房守めは反対などしておりませぬ。ですが駿河の譜代衆が煩うございます。ただ、信濃衆、甲斐衆ともに先の関東での戦で逃げ崩れぬ姿も見せておるとあらば、譜代衆も多少は納得するかと。して、どなたを動かしまするか」
五郎は、頭の中で名簿を開いた。
ある程度兵を動かせる者。機転の利く者。そして斯波ともめた際に最低限の名代ができる格の者を挙げる。
そして、そこから今動かせる状態の者だけを選んだ。
「小幡、多田など武田の旧臣、それと小山田と穴山。信濃は此度は良い。その代わり三河より松平七郎」
「今川の譜代がおらねば締まりませぬが」
確かにそうだ。駿河衆が血を流していない、そう言う目が向くと固まりだした今川家が崩れかねない。
五郎はまた名簿を浮かべ、気に留めていた家を挙げた。
「福島孫九郎と弥四郎がいたな。福島一門と共に七郎につけておく。七郎は東条吉良の世話もしている、反発はすまい。あとは由比。それで良しとしよう」
孫九郎は甲斐で戦死した福島兵庫助の嫡男であり、未だ幼く本来ならば元服するべき年ではない。だが、本人の希望、福島家中の希望もあり、元服し戦場へと出ることを望んでいた。これはおそらくだが、朝比奈や三浦らの出世への焦りもあるのだろう。
福島一門の弥四郎は最近とみに分別が付いている男である。この男と福島家の一門が側に付けば、多少のことでは問題も起きないだろう。
名前を挙げ終わると、安房守が感慨深そうに頷いていた。
「どうした」
「いえ、福島の名が再び挙がる様になりほっとしておりまする」
「孫九郎が兵を指揮するには早かろう。福島家中も今回は、教えるだけに留まろう」
「ええ、手塩にかけて育てられておりますゆえ。機は見計らわねば。まずは楽な戦でということですな」
五郎の胸中にふと、不安が湧いた。
「あまりそれを表に出すな。手伝い戦などと浮かれると、腰が引ける」
「ですが、兵数が兵数にございまする」
「此度は備中守も次郎左衛門もおらぬ。崩れれば脆い。これは杞憂か」
「それは」
安房守が、笑みを消し、口を閉じた。
つい昨年、五郎は圧倒的な兵数を誇る関東勢を打ち払っている。兵数で勝り、少数を押しつぶすのは王道であるが、それだけで勝てるならば、乱世はここまで極まっていない。
五郎は西に視線をやった。
「自分が前に出ない戦か、気を揉むものだな」




