6章_3
四月も末になって、五郎は那古野へ出た。
三河から尾張へ入るころには、街道の両側がすっかり青くなっていた。田には水が入り、畦では百姓が鍬を使っている。水を張った田の面に雲が映り、風が渡るたびにその影が崩れた。
海の方から来る風にはまだ涼しさが残っていたが、日が高くなるにつれて、袷の内が少し汗ばんだ。
五郎の後ろには馬廻り衆が続き、そのあとを水野ら尾張の国衆と、松平七郎の一行が来ていた。境を越してから、尾張衆の口数が増えた。道から見える林を指して、あれは誰それの領分だと言い、橋を渡れば、その川はどこへ流れると話した。自分たちの土地へ帰って来たのである。
五郎は話を聞きながら、ときどき道の方を見た。
三河から来た道は、ところどころ荷車がすれ違えるほど広げてある。尾張へ入ると、急に細くなる場所があり、雨に削られた轍を土で埋めただけのところもあった。村と村の境で普請が途切れている場所もある。
兵だけなら、どうにでも通るだろう。平地である。今川の軍を招集し、さあ、行けと背を押すだけでどこまでも進軍することさえもできる。
だが、尾張が荒れていては上洛出来ぬ、と答えたことは、言い逃れだけではなかった。
おそらくであるが、いざ大軍を並べたとき、尾張衆は一枚岩となり反抗しうる。そうなっては濃尾平野の利を活かし切ることはできない。
五郎は頭を振った。焦り過ぎである。軍で如何こうしよう、という意識が勝ち過ぎている気がした。
那古野に来るのは、去年の秋以来だった。
駿府を長く空けるつもりはなかった。新しく妻を迎え、その腹には子がいる。関東から帰ったばかりでもある。しばらくは領内を見ながら静かにしていたかったが、そうもいかなくなった。
城下へ入ると、人家が増えたことが分かった。
去年は空地だった場所に板屋が建ち、道端には材木が積まれている。桶を並べた店の向かいでは、筵の上に魚を干していた。大工が二人、軒の下で板を削っている。
熱田へ下る道には荷を担いだ者の姿もあった。
五郎の一行を見ると、道端に避けて頭を下げる。誰の一行か分かっている者もいれば、旗を見て取りあえず頭を下げた者もいるのだろう。
悪くない、と五郎は思った。
那古野は現段階でまだ大きな町ではないが、熱田と清洲の間にあり、東へ行けば三河へ出る。人と荷が通れば、町は自然に大きくなる。
城へ近づくと、鼓の音が聞こえて来た。
二度、短く鳴って、それきり止んだ。
今日は新三郎が能を用意していることは聞いていた。近頃は随分これに凝っているらしい。
門を入ると、前庭に人が並んでいた。
先に立っているのは弟の新三郎氏豊だった。その一歩後ろに、名児耶蔵人高重がいる。そしてさらにその後ろへ、那古野の家臣たちが並んでいた。
一同が頭を下げた。自然な動きであり、そこに違和感は覚えなかった。
五郎は馬を下り、新三郎が顔を上げるのを待った。
「背が伸びたか、新三郎」
「すくすくと伸びられております」
蔵人が言った。
新三郎は照れくさそうにした。
去年の暮れ、関東へ出る前に会ったときより、たしかに大きくなっている。頬から子供らしい丸みが少し抜け、肩も前より広くなっていた。袖から出た手首も、以前より骨張って見える。
「環境がいいのかもしれない。那古野があっているのだろうな」
「駿府も楽しゅうございました」
「兄が問題ばかり起こすので気が休まるまい。最近少し関東で面倒を起こした。聞いているか」
新三郎と蔵人が少し、戸惑いながらも頷いた。
関東の話は、この城にも十分届いているらしい。新三郎の後ろにいる家臣の中にも、わずかに顔を上げた者がいた。
「話すか。済まぬが中に入れてもらってもよいかな。それに能もそろそろであろう」
新三郎の顔が少し明るくなった。
庭の端には、すでに囃子方が控えていた。小鼓を膝に載せて紐を直している男がいる。笛方は柱の陰に座り、布で笛を拭いていた。
広間へ通された。
庭に面した一間で、戸は広く外してある。庭先には仮の舞台が組まれ、その向こうに一本の松があった。若い葉が午後の日に光っている。
五郎が上座につき、新三郎と蔵人がその下へ座った。松平七郎、水野ら国衆は左右へ分かれ、馬廻りの一部は廊下に控えた。
茶が出て来るころに、笛が鳴った。
座が静まった。
庭先から面をつけた者が現れ、ゆっくり舞台へ上がった。
女の面だった。
五郎は能に詳しくない。旅の女が昔のことを語っているらしいことは分かったが、しばらくすると詞を追うのをやめた。笛が長く鳴り、間を置いて鼓が入る。その間に、舞う者の足が板を擦る音が聞こえた。
新三郎はよく見ていた。
舞い手が向きを変えると、その目もそちらへ動く。囃子の調子が変わる前には、わずかに身体を起こした。
最近これに凝っていると聞いたのは、本当らしい。
城内で自分でも稽古をしているという。
ほどほどにするよう、あとで言わねばならないかもしれない、と五郎は思った。
もっとも酒でも女でもないので、急いで止めるほどのことではなかった。
人を苛む趣味でもない。可愛いものだろう。
五郎は正面から目を外し、座の者を見た。
能の最中は誰も話さない。こういうときの方が、人の様子は見やすかった。
那古野の家臣はおおむね舞台を見ている。尾張の国衆には、舞より五郎の方を気にする者がいた。馬廻りの人数を見たり、廊下に置かれた槍へ目をやったりしている。
関東から帰った今川の当主が、なぜ今この時期に那古野へ来たのか。その方が気になるのだろう。
松平七郎は膝に両手を置いて、舞台を見ていた。
この男が能を好むのかどうかは分からない。
一番が終わった。
舞い手が退き、囃子がやむと、急に城の内の音が戻った。厩の方で馬が鼻を鳴らし、廊下を小姓が走る音がした。
座の者たちも少し膝を崩した。
膳が出た。
筍を煮たものと、小さな川魚の焼物が載っている。五郎は筍を一つ口に入れた。まだ少し青い匂いがした。
新三郎が居ずまいを直した。
「兄上様、この度は関東での大勝利おめでとうございまする。十万の軍を打ち払ったこと、是非に我らにも聞かせていただきたく」
「どの弟にも言ったが、話半分に聞いておけ。後で付き添った人間を貸す、それから聞くとよい」
「ありがとうございまする」
新三郎がわずかに口惜しそうに頭を下げた。
縁側寄りの国衆にも、聞きたそうな顔があった。
関東で十万を破ったという話は、尾張へ来る間に相当膨らんでいるのだろう。実際は十万を一度に正面から打ち破ったわけではない。敵を分け、疑わせ、敵の敵と裏でつながり、そのうえで敵を動かしてから崩したのである。
五郎が自分で話せば、その話になる。
華々しく相手の敵将の首を取った、最後の言葉を聞き届けた。そう言う美しい話は思いつかなかった。妻にも外で言うなと止められている。
そこから察するに、新三郎が聞きたいのは、自分の口からは出てこないだろう。
「関東での大勝利。御台様のご懐妊。誠今川にうれしきことが続きまするな」
蔵人が屈託のない笑みを浮かべた。
「頼りになる身内が西を抑えたゆえ、無茶ができた。随分面倒もかけた。七郎と蔵人殿には頭が上がるまい」
「そのような」
蔵人が手をつき、七郎もそれに倣った。
謙遜ではなかった。関東に出ている間、西で何か起これば、吉田城に詰めた三浦や、あたりの者が最初に動くことになっていた。何もなかったから、何もなかったで済んでいる。それでも、後ろを気にせず三万五千を関東へ出せたのは、この者たちがいたからだった。
「ただ、今後は少し西は楽になるかもしれぬ。一つ面倒ごとを越え次第ではあるが」
「やはり、先のお話誠でありましたか」
蔵人の言葉に、尾張の国衆が背を伸ばした。
「大館伊予守に捕まった。出先で待ち構えられ、平伏され文を渡された。上洛と、それに付随して尾張の静謐を命じられた」
思ったほどには座が動かなかった。
蔵人も七郎も驚かない。新三郎まで、そうだろうという顔をしている。
「驚かぬな。どの弟もそうであったが」
「畏れながら、兄上様。公方様と道永殿が兄上を呼ばないというのは、考えにくいことかと」
新三郎が神妙な顔で言った。幼い顔には責めるような色味があった。
駿府にいたころには、五郎の前でこういう話へ口を出すことは少なかった。存外皮肉屋なのかもしれない。
五郎は首を横に振る。
「命に従えぬ者など陣においても邪魔であろうよ。かねてより大樹を支えられた朝倉殿や六角殿の面目も潰しかねぬ。やはり、治部などは放っておくのが良いだろうに」
「武威というものがございまする。御身が兵を率いてくれば、まず京は靡きましょう。現に即位式に千貫、大葬と合わせ四千貫は公家らにとっても中々に無視できぬものでございます」
蔵人が付け加えると、尾張衆、今川家中も銘々に納得した様子だった。
ただ、五郎の意見は違った。
「相手にもされてはおるまい。官位も礼も要らぬと言ったら、本当に何もない。それで家中がへそを曲げた」
しばらくは、銭蔵も開かないだろう。まだ余裕はあるはずだが、公家衆の求めは厳しく見る腹積もりのようだ。
「兄上様はどうお思いなのでしょうか。やはり位は上がってほしかったのでしょうか」
「治部が馴染んできたゆえ、変えたくはない。ただ礼の文でも来るかと思った。いや、二条の文で大分懲りているらしい。しばらくは大人しいだろう」
ありがとうの一言であれば、それで終わる予定だった。それ以上は求めるつもりもなかった。
「京の方々も、出す手、出す手が悪手になっておられまする。しばらくは、得意の文も、下向も軽々にはできぬことかと」
「左様か。あまり気にする必要もないのだがな。中御門の叔父上も母に文でも出せばよいものを」
五郎はもう温くなっていた茶を飲んだ。那古野に商人が入るにつれ、熱田がこちらに与するにあたり、尾張に今川の品が入り込んでいる。東尾張ではこのような茶も珍しくなかった。
庭では、次の能の支度が始まっている。面を入れた箱を抱えた者が通り、小者が舞台の端を布で拭いていた。
新三郎がそばにいた家臣を呼び、短く何か言った。
家臣はすぐに立ち、庭へ下りて行った。囃子方のところへ行き、二言三言話して戻って来る。
五郎はその様子を見た。
駿府にいたころの新三郎なら、人へものを命じる場面をほとんど見なかった。
この城では、それが普通になっているらしい。
蔵人も口を挟まず、黙って頷いていた。目が合うと少し照れを浮かべ、会釈をした。
弟は徐々に家中に強く根を張りだしているらしい。
「して、次はそこもとの話よな。新三郎」
新三郎の背筋が伸びた。
「先ほど申したが、今川は上洛せよと大樹から言葉を預かった。尾張の慰撫、鎮護も合わせてな」
「行われるのでしょうか」
「本気で取り組む。腰を据え、尾張が上洛の際、揺らがぬように固める。無論、斯波殿を立ててな」
座の空気が変わった。今まで五郎は一貫して上洛に関して消極的、むしろ上洛とは逆向きの動きを取っていた。それを翻すと言ったのだ。
那古野の家臣の間から低い声が洩れた。国衆の何人かは隣の者と顔を見合わせた。
言葉の裏を読んでいる者は、多くない。あらかじめ話した松平七郎とその近辺ぐらいだろうか。
五郎は言い訳をするように、そっと付け加えた。
「ただ、そこから先は朝倉殿次第となろう。朝倉殿が美濃の騒乱を収めてくだされば、前に出て上洛は叶おう」
此方に反応した者は少なかった。
皆もう、尾張のことを考えているらしい。
五郎は新三郎を見た。頬はわずかに上気し、唾を飲み込んでいる。兄の言葉と、那古野の地の重さを噛みしめているようだった。
「それゆえに、新三郎」
名前を呼ぶと、新三郎が膝を進めた。
「は」
「そなたは斯波家との婚姻を結ぶ運びとなる。堪忍できるか」
急に斯波の話をすると、また場が騒いだ。尾張衆の目が露骨にこちらに向いたことにも気が付いていた。
これは聞かせるための話でもあった。
この話に、新三郎はすぐには返事をしなかった。
先ほどまでの少し大人びた顔が消え、歳相応の顔になった。
「その、できないと申せば」
「これ」
蔵人が叱ると、新三郎は少し首を縮めた。
五郎は口角を挙げた。
駿府にいたころなら、こういう返事はしなかっただろう。言われたことには、まずは、はいと答える子だった。
那古野へ来て、少し変わったらしい。
それなら悪いことではなかった。
「困る。ゆえ、別の相手を見繕わねばならぬ」
「どなたかおられるのでしょうか?芳菊丸殿でしょうか。」
あれは扱いを考えている。尾張には置かない。
「いや、そなた以上に尾張に馴染み、斯波との凝り固まった因縁を解いていけるそんな男を一から探すことになろう」
「それは、また」
到底無理な話をすると、新三郎が困った顔で笑った。
斯波と縁を結ぶなら、今川の一門であれば誰でもよいわけではない。
氏親の代、両家は遠江をめぐって長く争った。その因縁が五郎の代になっただけで消えるものでもなかった。
斯波を立てて尾張を静めると言うなら、その間をつなぐ者が要る。
駿府から一門を送り込めば、尾張の者には今川から来た男にしか見えまい。
新三郎は違う。
すでにこの城で暮らし、家臣を持っている。今日も門では、那古野の家臣たちが新三郎を先に立てて並んでいた。
それに、まだ若い。斯波側も取り込もう、と一歩踏み込んでくるかもしれない。
一歩でも寄ってくれば、今川の間合いになる。
「できれば是非に頼みたい」
新三郎は少し黙った。蔵人は急かさなかった。
庭から、笛を試す短い音が聞こえた。
新三郎がふと、顔を上げる。その顔には少しの気負い、それと稚気があった。
「一つお願いをしたく」
「許す。申せ」
蔵人が軽く咳払いをした。
新三郎はそちらを見たが、そのまま言った。
「兄上様の口から関東の話を伺いたく」
「あれは長い。疲れる。どの弟にも家臣に任せた。治部よりも上手く話せるものもいる」
「兄上様に是非にお願いしたく」
新三郎は引かなかった。やはり、気になってはいたらしい。
五郎はため息をついた。
座の端で誰かが小さく笑った。それをきっかけに、那古野の家臣の間にも笑いが洩れた。
蔵人まで口元を緩めている。
「わかった。その代わり、斯波の件一つ頼む」
新三郎が長く頭を下げたあと、顔を上げた。年相応の笑みが浮かんでいる。
それを待っていたように、庭で笛が鳴った。
鼓が続き、二番目の能が始まる。
新三郎はすぐに舞台の方へ目を向けた。
五郎はその横顔を見て、能についてほどほどにせよと言うつもりだったことを思い出した。
だが今日は、言わずにおくことにした。
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日が落ちてから、承菊は在所の道を歩いた。供回りは少数である。
提灯は持たなかった。僧形の男が夕方の村道を歩いていても、田から上がってくる百姓は挨拶をするだけで、どこの者かとも聞かない。駿府を出るときからこの形でいるのは、そのためである。今夜の場所は、清洲から一里ほど北の、田の中に立つ小さな寺であった。
供回りは門前までで、そこからは一人、庫裏の奥の一間へ通された。畳は四枚きりで、あとは板のままの部屋である。
柱際に灯明が一つ置いてあるほかには道具らしいものもなく、住職と小僧は本堂の方へ下げてあると、案内に立った寺男が小声で言った。この寺を選んだのも、日の落ちてからにしろと言ってきたのも向こうであるから、承菊はそれに従っている。
半刻ほど待った。膝が冷えてきたころ、外の道を馬が通り、それが遠ざかってからまたしばらく間があった。
板を踏む音が近づき、戸が開いた。入ってきたのは二人である。供は山門の外へ置いてきたらしく、庭の方で低く話す声が二つ三つ聞こえた。
先に膝をついたのは山本大隅守であった。尾張の斯波家では古い家柄で、文のやり取りはこの男を相手に、去年の暮れから続いている。会うのは三度目だが、会うたびに肉がついていた。もう一人を上座へ座らせてから、自分は半歩下がって座った。
その一人は、頭巾で顔を隠していた。
承菊は、誰であるかを聞かぬことにしている。聞けば向こうは答えねばならず、答えたことは後で必ず問題になる。ただ、頭巾の際から覗いている地肌に、髪の生えている気配がなかった。
少々の稚気が承菊の脳裏をよぎった。その稚気のままに口を開く。
「おや。そちら様は、大隅守殿」
「高貴な方である。水掛け論など詰まらぬゆえ、ご用意させていただいた」
すっと頭巾の男を隠す様に大隅守が立った。それだけで頭巾の下が誰であるか、凡その察しもついた。
答えが分かれば、面白さなど何分の一にも縮まるというものである。
「ああ、さようですか。では此方も用意したほうがよろしいでしょうか」
「我らは下らぬひっかけなどせぬ」
「左様ですか。今川も致しませぬので、立会人など不要では」
頭巾の男が呟いた。くぐもった声であるが、しっかりと耳に届く。
「もうよい。始めよ。それとも話自体なしにするか」
大隅守がわずかに背筋を伸ばし、承菊に目礼をした。
「して、よろしいか承菊殿」
「ええ、舌がほぐれて参りました」
頭巾の男の目が、不快気に歪んだ。
承菊は、それを気にすることもなく、懐から文を出し、膝の前へ置いた。
「こちら、公方様よりいただいた文にございまする。尾張に静謐を願うという一文がございまする。どうぞお手を取ってくださりませ」
写しである。ただそれは伝えなかった。
大隅守が両手で受け、灯明の方へ寄せて読んだ。眉間に皺が寄り、苦しむように顔を顰めて見せた。
それから読み終えると、頭巾の男へと恭しく渡した。男は膝の上でそれを開いたきり、しばらく動かなかった。
尾張の前守護としては気に入りませんか、斯波殿。などとは声をかけない。尾張という国は聊かに面倒がある。
まず尾張の守護は斯波家である。これは幕府も認めていることだ。
だが、この守護である武衛と呼ばれる者、頭巾の男の息子は清洲の城にいて、その城は守護代である織田のものであった。守護の名で出る書付は守護代の手を通り、守護の名で集まる銭も、まず守護代の蔵へ入る。名は斯波にあり、実は守護代の織田にあるというのが、この国の形であった。
このあたりの事情は、駿府にいたころから調べがついていた。主君である五郎は、淡々と熱田商人や草の者を飛ばし、十日ほど経つと、凡そのことを掴んで見せた。
ただ、調べがつくのと、力のある清洲織田の目を盗み、武衛側の側近と膝を突き合わせるのは別の話である。
無論、話の筋としては責められる筋ではない、公方が守護に関する話に守護代が口出しをするなと叱り飛ばすこともできる。
だが、現状の斯波では、文のやり取りすらできぬというので、文は大隅守の私信という体裁で往復させざるを得なかった。
飛脚は使わず、商人の手を借りている。
小心なことだ。と承菊は内心で呟いた。
「京もお困りか」
頭巾の男が膝元の文を睨みながら言う。言葉にはわずかに刺が見えた。
承菊の脳裏にまた稚気が湧いた。
「失礼ながら今の公方様は近江にさがっておられるので、京ではございませぬな」
「承菊殿、無礼であるぞ」
大隅守の声が高くなったが、それすらも承菊は笑う。
「この場は非常に難しい場でございまする。言葉一つ違えられぬ場ゆえ、正したまで」
頭巾の下で、男が鼻を鳴らした。文は返ってこず、膝の上に置いたままである。そのうちに頭巾の男が、文の文面を指でたたいた。
「大層な御文であるが、今川はこれをもって如何する」
「無論、言葉通りかと」
頭巾の男の声が低くなる。
「ほう、やはり尾張を奪うか」
「御文を良くご覧くださりませ。そのような言葉はどこにもございませぬ。ただ名門たる斯波様を立て、尾張に軍勢が通れるように整えるのみ。それ以外は許されておりませぬ」
「では簡単よな。斯波が断る。それで終わりよ」
「御方。それは」
頭巾の男がピシャリというと、大隅守が手を差し出し止めた。承菊はそちらへ膝を向けなかった。
「ええ、簡単にございまする。なにより楽にございまする。されど斯波様が、頭に血が上った道永殿に睨まれまするな。自分たちが近江の古寺で逼塞しているのに、楽をして邪魔するかと。その腹立ちをおさめるために、次は討伐の命が下るやもしれませぬ」
「なにを」
「お待ちください」
頭巾の男が膝を崩した。腰に刀があれば柄を握っていただろう。だがやはり大隅が止める。
膝を頭巾の男に向け、平伏して見せた。
「御方、お言葉でございますが、あり得ないとは言えませぬ。今の公方様は追い詰められておりますれば、今川を敵にせぬため、多少の譲歩はなさるかと」
「馬鹿者。将軍が斯波を切れるか」
二人が向き合って言い合いになった。将軍がどこまでやれるか、やれぬかという話で、承菊に向けられた言葉ではない。斯波の家中では、おそらく幾度も繰り返されてきた言い合いなのだろう。
承菊は膝の上で数珠を持ち直し、外の声が途切れるのを待ってから咳払いをした。
「御歓談中申し訳ありませぬ。まずは今川方の話をお聞き願いたく」
頭巾の目が細くなり、そのまま横を向いた。大隅守の方が、おずおずと頷いた。
「主君、治部太夫にとってみれば、これ以上家が膨らむは難しき事、と判断しておりまする。尾張を手中になど、とんでもございませぬ。ゆえに斯波様を立て、上洛だけ急ぎ行い、公方様に頭を下げる所存にございまする」
「信じられぬ」
頭巾の男が憮然として言う。頭巾の口元が尖った。きっと唇を尖らせているのだろう。
「なにが、でございましょう」
「尾張を手中に収める機会を得た、前に出ぬ理由などない」
「そう思われる根拠というものはおありでしょうか」
頭巾の男が、布の下であざ笑うような音を鳴らした。
「無礼者。見ればわかる。治部が表に立ってから、どれだけ領地を増やした。信濃、三河、甲斐。遠江だけでも不遜極まるのに、今では五か国の守護よ。いまさら謙虚ぶったところで、誰が信じよう」
遠江、というところで声が近くなった。先代の今川修理大夫氏親に斯波家は遠江を奪われている。
この遠江に譜代を植え、在地の国人達を今川化している五郎も、この頭巾の男にとっては許せぬ者のようだった。
「御言葉でございますが、順番が異なりましょう。甲斐、信濃、三河、ともに公方様より守護を与えられた故、おさめておりまする。尾張においては斯波を立てろと命じられた故、これに従うほかございませぬ」
「治部は上洛の命を堂々と無視しておったではないか。忠臣など良く言える」
「公方様の命に従えぬは、先代の喪に服していたまで。されど関東に出たのは、盟を尊ぶゆえにございまする。この二つがなければ堺に船にて乗りつけていらっしゃいました」
頭巾の男の膝が動いた。
僅かだが、響いた。と承菊は感じ取った。
「詭弁である。信じられぬ」
「そこは御身の心でありますゆえ、拙僧にはどうにもできませぬ。ただ、公方様はとにかくすぐに治部太夫に上洛せよと申されておられます」
「脅しておるのか」
頭巾の男の語気が荒くなり、大隅守が腰を浮かせかかる。承菊は笑みを深くし、頭を下げた。
「いえいえ、誤解を招き申し訳ありませぬ。ただ、由緒ある斯波様を押しのけ、尾張を平定などはどうあってもできぬ、こういう所存にございます。まず、大国尾張の平定など、治部太夫をしても十年はかかりましょう」
頭巾の男が黙った。膝の文へ手をやり、位置を直しただけで、また動かない。
十年と言ったが、承菊はその半分で足りると見ている。いや、主君が本腰を入れれば一年もいらないかもしれない。あの男は、正常な人間であれば立ち止まるところで止まらない。
ただ、その見立てはこの座で口にしてよい数ではなかった。
今回の尾張の仕儀は、承菊の仕切りである。
五郎は、庶弟の縁談も含め、あとの諸々を承菊に任せた。報告を挙げると訂正されることもあるが、それでもまだ尾張は承菊の手の内にある。
少々、上手くいかなかったからと言って、主君の手腕ですべて片す。これは許せないことだった。
承菊は閉じた口の中で、口蓋を舐めた。
「できぬから結ぶ。なんともつまらぬ話よな」
頭巾の男が試す様にして言った。承菊は首を横に振る。
「まず、先に文にて記した通り、治部太夫は、寵愛深き弟の新三郎様、これと斯波家の姫との婚姻を望まれておりまする。これが、斯波様に対する誠意でなく何でありましょうか」
「あれは庶弟であろうよ。誠意になどなるまい」
「同腹の弟よりも、遥かに可愛がっておられる弟にて。なにせ実父の愛用の御太刀を与え、居城の那古野を整えるのに、大枚をはたいておられる」
頭巾の男が大隅守を見た。大隅守が頷く。那古野へ幾ら出たかは、この二人も掴んでいるらしい。
ただ今川の銭蔵全体から見て、どれだけつぎ込んでいるかなどは知らぬらしい。
「その寵愛深き弟を鎹に、斯波と今川が手盟を結ぶということか」
「それを心から望んでおられまする。先に申し上げました通り、治部太夫は義理堅い男にございます。これは十万の軍を一切恐れず、突き進んだことからもお分かりかと」
頭巾の男が唸った。
また響いた。承菊はここで踏み込もうとした。
だが、
「よろしいか」
と大隅守が言った。
「ええ、大隅守殿。御身との会談でありましたのに、どうしたものかと怯えておりました」
内心の苛立ちを隠しながら口を開くと、少々刺が乗った。そのため、大隅守が憮然とした顔になった。
この男は腹の内をそのまま顔へ出すたちで、文の上でもそうであった。
「承菊殿、先ほどから聞いておりましたが、失礼ながらこの盟、成っても斯波家に利があり申さぬ」
「ふむ、今川が今後一切攻めぬ。これは利ではございませぬか。どこの家もこの誓を欲しがっておられますれば」
「今川に領土欲がない、そう申されたのは承菊殿ではありませぬか。もともと我らの手にあるものを、あると教えられたところで、どれほどの利にはなりましょう」
「おお、確かに。して、何を望まれましょう」
「さて、今を時めく今川殿に何かを頼むのは恐ろしく」
承菊は少し考えた。考えた振りである。内心では喜びがあふれてくるようだった。
駿府を出る前に五郎と詰めた落としどころに、どんどん話が転がっていく。そのことが面白くてたまらなかった。
承菊はわざとらしく唸り声をあげ、十分に顔を顰めた後、絞り出すようにして言った。
「そうでありますな。失礼ながら、領地というのは如何かな」
「遠江か」
飛びついたのは頭巾の男である。承菊は小さく笑い、頭を下げた。
「お許しくださいませ。それをもっていけば、拙僧が切られまする。申し上げたいのは、尾張にございます。岩倉、清洲。どちらかの領地を己の直轄地とされる。これは如何か」
「何を言っておる。あれは家臣ぞ」
声が高くなった。だが、遠江かと聞いたときの声とは違っている。
断る声ではない。探る声だ。
承菊はわずかに勿体ぶった。
「ふむ、で、ありましょうか。ただ、まことの家臣と言う者は、主君の影すら踏まぬ者です。影を踏むもの、名を好き勝手に使い、私腹を肥やすものは佞臣にございましょう。主君であれば討つのもやむなしかと」
おそらくだが、その言葉に則れば、自分の主君は死ぬ。
「承菊殿、剣呑ですぞ」
大隅守が板の間の方をうかがった。
「ああ、いえ、これは別に、斯波様の御家中に火をつけよう、ということではございませぬ。こう考えられませぬか。起こる問題を先に消すと」
「どういうことだ」
頭巾の男が前に乗り出した。そのようだから今川に負けるのだ。
「そうですな、まず、今川の大軍が美濃に進んだ時、少々の問題は起こりましょう。そうなったとき、治部太夫は足を止めざるを得ませぬ。そしてそれは、おそらく佞臣により引き起こされると見るのが自然かと」
「無いとは言えぬ」
まあ、大半が清洲織田と岩倉織田の領地を通るのだから、そうなるだろう。
「して、そうなったとき公方様の怒りはどちらに向かいましょう。守護代ではなく、斯波様、というのが自然でしょうな」
「まて、なぜそうなる」
「尾張守護は斯波家ゆえ。守護代など名すら上がりませぬ」
頭巾の男が黙り込み、目だけで承菊を睨んだ。
気が付けば灯明の火が細くなっていた。大隅守が手を伸ばして芯を出す。明るくなった分だけ、頭巾の布の皺が見えた。
空いた間を埋めたのは大隅守であった。
「して、承菊殿。仮にその不忠者をどうする。不忠なれど力は疑いない」
情けのない言葉に微笑みつつ、承菊は指を中空で躍らせた。
「今川の兵でつぶす、というのは如何か」
二人が息をのんだ隙に、承菊は言葉を重ねる。
「無論、治部は前に出ませぬ。武威と領地は斯波様にございます。残った守護代も首を垂れ、斯波様の力は尾張でうんと増しましょう」
言うだけのことは言った。返事を今夜のうちにもらえるとは、初めから思っていない。
この座で決められる者は一人しかおらず、その一人はまだ頭巾を取っていなかった。
だれも言葉を発しなくなったのを見計らい、承菊は頭を下げた。畳へ両手をつき、額が手の甲に触れるまで下げた。
板の冷えが、膝から腿へのぼってくる。夜が明ける前に、この在所を出なければならなかった。
頭巾の男は黙り込んだままだった。




