6章_2
今宿へ出たのは、朝のうちである。
駿府から大川の方へ下る道は、去年の秋から普請が続いている。地を均し、通りを一本増やし、その両脇へ地割りをして家を建てさせる。まだ屋根の乗らぬ骨組みが並び、削り屑と生木の匂いがした。人足が丸太を担いで道を横切り、その後ろから、塩俵を積んだ車が軋みながら追い越していく。川の方では、船着きに寄せた舟の板を鳴らしていた。槌の音は、日が高くなっても止まない。
新しい通りには、もう戸を立てた店と、まだ床を張っている途中の店とが並んでいた。仮屋で握り飯を売る女がいて、人足が腰を屈めて銭を出している。冬に来たときは、杭と縄しかなかったところである。
供を表へ待たせて上がった一間は、その通りに面していた。障子は下半分を落としてあるので、音も光も遠慮なく入ってくる。畳はまだ新しく、縁の藺草が青かった。先日、公家に出したのは白湯だが、この三人には茶を運ばせている。三つとも、まだ湯気を立てていた。
堺の革屋、武野新五郎とは、遠江にいたころからの付き合いになる。こちらの綿と紙を買い、堺の品を持ってくる。もとは革を商う家だと聞いたが、いまは上方の物なら何でも動かす。今川様のお陰ですと、以前謙遜をしつつ教えてくれた。上物の小袖を色地味に着ているが、膝は崩さぬまでも袖の扱いが楽で、こういう場でも姿勢が固くならない。
その隣が、同じ堺の天王寺屋、津田宗達である。領内の品を長く扱ってもらいながら、顔を合わせるのは今日が初めてになった。紺の小袖に帯を高く締め、指の節の太い手を膝の上へ揃えている。
三人目は熱田の顔役の一人、加藤図書助であった。袴をつけ、日に焼けた首をして、座ってから一度も肩の力を抜いていない。
「忙しい中、申し訳ない」
「いえいえ、婚姻なされ、今を時めく治部様に比べれば、どれほどのこともございませぬ」
答えたのは革屋である。茶碗へ手も伸ばさぬまま、口だけがよく回る。
「天王寺屋は初めてだな。色々と今川領内の品を扱ってもらっていたが、中々会えないでいた」
「これは申し訳ございませぬ。堺がどうにもあわただしく」
天王寺屋は畳へ両手を落として詫びた。
形は丁寧だが、顔は上げたままである。図書助はその隣で、勧めた茶にも手を出さずにいた。
「聞き及んでいる、そのあたりも聞きたいが、今は皆に関係ある話をしよう」
五郎は膝の前へ一枚の紙を置いた。すでに領内へ店を出している商家が合意しているものである。
一つ、商家は駿府に手代か番頭を常駐させ、今川はその居住を保証する。
二つ、商家は定めた役銭を納め、今川は領内の関銭と市役を整理して減免する。
三つ、商家は今川の法度と裁定に服し、今川は商家の出した訴状を家中と同様に裁く。
四つ、戦と飢饉の折には御用の調達と輸送を先に請け負い、そのかわり平時は領内で広く商いをしてよい。
と四か条きりの短いものである。堺の豪商、革屋も一年ほど前にこれを了承していた。
二つ目の項を、五郎は指でたたいた。
「これが肝要であろう。だが物珍しくはあるまい」
天王寺屋と図書助が頷いた。口を開いたのは天王寺屋である。
「畏れながら六角家でも見た覚えがございまする。しかしながら、」
「今川はこれらを守る。必要とあらば大社で誓紙でも交わすか」
「いえ、それは遠慮させていただきたく」
天王寺屋、図書助の二人は顔を見合わせこそしなかったが、止まったところは同じらしい。天王寺屋の手が、紙の端をまっすぐに直している。
関を減らす、市の役を軽くする、と書いた紙ならどこの家でも出す。
書いた者がそれを守るかどうかで、商人は身の置き所を決める。
「遠江より十年近く、新五郎が駆け出しの折より商いをさせていただいておりますが、治部様が約定を破られたことはございませぬ。まず、やる、やらぬと取り決めたことは守られる方かと」
革屋が助け舟を出した。
「言葉にしていないところで、人に言えぬことはしている」
革屋が苦く笑った。
「このような方でございまする。まあ、血腥い話は嘘ではございませぬが、良き話も嘘ではありませぬ。商売の相手としてはまず良き方かと」
天王寺屋は茶碗に手をつけぬまま、紙を自分の方へ引き寄せた。
「いや、そこは疑っておりませぬ。ただ当方としてはこちらをどうとるべきか」
そう言って、三つ目の項を叩く。太い指が、その一行の上で止まっている。
「法度というもの。商家と武家がもめた際も同じように扱われるのでしょうか」
「待て」
「畏れながら、堺の一件がございますゆえ、無礼は承知なれど確かめたく」
「いや、そうではない」
五郎は手で制して立った。図書助が身を固めた。
部屋の隅に、布をかけて置かせた物があった。抱え上げると腕に来る重さで、布を取ればただの紙の束であった。
ただ、記載されていることは中々に重い。
「近々の訴訟、商人に関する物になる。写しであるが、まずこのように裁いてある」
上から数枚を、天王寺屋の前へ置いた。訴訟が起こるたびに、真新しい内容であれば別に概要を分けて記載するようにさせている。商人のものは今川でも珍しく、起こった全てを新たに書き記させるほどだった。
例えば、国人が商人の通る道へ関を立て、銭や荷を取ろうとした折には、国人を裁いている。この時は関は潰させ、取った分は返させた。
また、商人が取り決めより高い利子を国人から取ろうとした折には、商人を裁いている。証文は破らせ、余分に取った銭を戻させた。
諏訪大社で誓った通り、どちらの側にも例外を作らなかった。
天王寺屋は目を丸くしていた。膝を進め、置かれた写しを畳の上へ並べ直す。
「これらは、外に出して良いのですかな」
「確かに裁定の基準を示すのは不味いか。どこにも水際を探ろうというものはいる。だが、裁かれた側も恣意的な裁きと疑えば従うまい」
何が違法かは伏せ、庶民を縛り付ける。これは有用でもある。だが今、法度を定め、国を固めようとしている今川がやると万事がなし崩しになるように見えた。そのため、五郎はこうしていた。
「いや、そうではございますが」
五郎は図書助の前にも一枚滑らせた。
「そこもとも目を通しておけ」
「は、いえ」
図書助は袴の膝で手を拭いてから、紙の端をつまんだ。読むというより、扱いかねている手つきである。
革屋が息を漏らした。直ぐに袖で隠す。
「いえ、失礼を。兎に角このような方にございます。我らが当初の決めごとを守る限り、今川家もまず破りませぬ」
「新五郎、そう急かすな。天王寺屋、直ぐに四か条に名を書けとは言わぬ。ただ今川領のどこぞの街一つで商いをするのであれば、役銭だけでよい。その街で、領内で大きく商いを上手くやれるか見ておけ」
「天王寺屋さん。ご助言いたしますが、良き場所は取られまするぞ。街並みを整え、通りを増やしておりまするが、場所ができる端から埋まります」
その間も、外の槌の音は続いている。人足が何か言い交わし、車がまた一つ通っていった。
「新五郎、急かすな。気にするな天王寺屋。今度は街ごと作る予定がある、納得してからでも間に合おう」
三人がぎょっとした。
たしか、言っていなかったと思い出す。だが領内の大川に手を入れ、瀬を浚わせた。船の通り道が増えれば、荷が水と陸で入れ替わる場所も増える。荷の集まるところには人が住み、蔵が建ち、飯を食わせる家ができる。
誰かがそこを押さえねばならぬというだけの話である。今宿の普請も、そのうちの一つに過ぎない。
天王寺屋が唾をのみ、膝の前に手をついた。
「治部様にご無礼をいたしました。是非にご領内で商いをさせていただきたく存じ上げます」
「即断を迫るつもりもない」
「いえ、熟考の末にございますれば」
五郎はふと天王寺屋の目の奥を覗き込んだ。最初にあったわずかな怯えや、訝しみは霧散している。
何がそれを成したかは思い当たらなかった。だが、決して今川にとって損ではない。
五郎も小さく頭を下げた。
「堺が落ち着くまでやもしれぬが、よろしく頼む」
五郎はそれから、図書助の方へ膝を向けた。
この男は熱田そのものではない。熱田の返事を持って帰る者である。
「そこもとはどうする。というより熱田はどうする」
「もっと別の道はと申せば、用意されましょうか」
低く唸るようにして図書助は言った。
「そちらに関しては当家の承菊が伝えた通りだ。今頷いてくれれば、広く商いができる。守りもしよう。だが、断られれば互いに困る」
「熱田を燃やされましょうか」
何か試すような口調だった。
「目の前に立つならば」
にわかに部屋が冷えた。先ほどまですぐそばにあった、香の匂いが掻き消える。外の車の音だけが、間の抜けた具合に続いていた。図書助が喉を上下させた。
「して、如何される。そこもとは今決めよ」
五郎が言うと、図書助も居住まいを正した。裾をさばき、膝を揃えてから、畳へ両手をつく。
「無作法をいたしました。五か国の太守に対しての重ね重ねの非礼、申し訳の次第もございませぬ」
「よい、侮られるのは気が楽だ」
三人が顔を引きつらせた。
「ああ、妻を迎えてから冗談を言うようにしている。この場にはそぐわぬゆえ、忘れよ」
五郎は静かに頭を下げた。革屋が乾いた笑い声をあげ、それでようやく部屋の中の物音が戻った。
「して、話を戻すが、京は如何した」
革屋は茶碗に手を伸ばし、冷めた茶を飲み干した。口元を袖でぬぐって、息を吐く。
「ああ、そうでしたな。あえて口にいたしましょうが、前の管領様、大敗にございます」
堺を出た船が着くのに三日、そこから継いで駿府まで幾日、と指を折りながら、話は始まった。
「京の西に桂川がございます。あれを挟んで、西が丹波の柳本様と阿波の三好勢、その二手が山崎で一つになり、東の道永様方とにらみ合ったと」
道永は川の東岸へ長く陣を延ばしたらしい。南の鳥羽から北の鷺森まで、川筋に沿って並べたのだという。
その場には大樹がいた。場所は道永の後ろであり、六条にいたという。
「して武田殿はどうなった。若狭から援軍に来ていたのであろう」
五郎が聞くと、革屋が首をひねった。
「それが妙なのでございます。というより援軍と呼ばれた六角様も妙で」
若狭武田勢だけが、道永の陣から北へ離れた川勝寺に置かれていたらしい。これでは連携などできない。
また六角も陣容が妙だった。当主本人は出ず、被官の三雲、馬淵の勢が三千程度が、北白川まで来て、そこから動かなかったらしい。
「幾らかの矢を掛け合って、そのうちの明朝に三好勢が川を渡り、武田様の陣にぶつかったそうで御座います」
「前管領様の正面ではなかったので」
つっ込んだのは図書助である。革屋は首を横に振った。
どうやら、武田勢は若狭から出てきたばかりのところを狙われたらしい。それで武田勢は陣が崩された。
結果、道永は自ら救援へ回ったが、負けた。それで東の近江へ退いた。
しかもこの時、道永の親戚であった、日野大納言が討たれている。
「阿波方の追撃はどうした。思惑通りの勝利ゆえ、前に出るだろう」
「それが阿波方も無傷ではなく、三好様の一門らしき将も相当な重傷を負われたとか。それで追撃も十分にできなかったと」
ふうん、と五郎は唸った。
人の並べ方を誤ったのではないかと、考えたのだ。
道永勢は長く延ばした陣の外へ、他国から来た勢を一つだけ離して置いている。そこを抜かれれば、残りは川へ向いたまま横腹をさらすことになる。後知恵ではあるが、そこは家中の中でも勇将を置くべきだっただろう。
「して大樹はどちらに」
図書助が息をのみながら尋ねた。
「前管領様が大樹を奉じて坂本へ落ちられました」
「いつものこと、ではないのだな」
五郎が言うと、革屋と天王寺屋は顔を見合わせた。革屋は空になった茶碗を膝の脇へ置いた。
「評定衆も、奉行衆も、揃うて京を出ておられまする」
「それは京は大変なことになるのでは」
と図書助が言葉を濁した。
確かに大事である。
訴えを受け、裁き、書付を出す者が、まとめていなくなったわけである。
「ああ、ただ、そこは阿波方も心得たもので。三好様の軍が京へ入り、押し込みを禁じ、市を開かせて、町の宣撫を始めておりまする。ただ、どうもまだ京は慣れぬといいますか、中々物の値も落ち着かぬ次第にて」
図書助は信じられないとばかりに、日に焼けた額へ玉のような汗を浮かべていた。かすれた声で問う。
「そうなると堺はどうなりましょうか。形勢が決まるとなれば、阿波方も腰を据えておられるのでは。堺ほどの街であれば、阿波方も粗略には扱いますまい」
天王寺屋も茶碗に手を伸ばした。一口だけ含んで、膝の前へ戻す。
「特別扱いはされております。軍勢を堺に留め、御所のように扱っておりまする」
「段銭で済めばよいのですが、場合によってはそれ以上を求められるやもと会合衆も各々動いております」
革屋が付け加えた。天王寺屋が茶碗から手を離す。顔はやはり苦々しい。
「博多に支店を置く方もおられるようです。ただ身共は革屋さんに誘われまして」
「恩の売り時と見まして、つい」
「どちらに売られたおつもりなのか」
革屋が口元を袖で隠した。
図書助は神妙に頷いている。この男の耳には、堺の話も熱田の値のうちに聞こえているのだろう。
そこで、ふと革屋の視線がこちらへ向いた。袖から手を下ろしている。
「当代の六角様は名将でございまするが、それでも阿波方の勢いを止めることは能いませなんだ。今しばらくは阿波方の天下、そう思われる方も少なくございませぬ。恐れながら治部様のご所見は如何でありましょうか」
「大したものではないが、あえて申さば、朝倉殿がおられるゆえ心配無用。さしもの阿波、というより三好殿でも宗滴殿はどうにもなるまい」
「商人の口からはっきり言えることではございませぬが、道永様と大樹は泥縄というものかと」
「それは言ったも同じではある」
確かに、道永は信を無くし、起こったことを埋めるにあたって、さらに周りの家臣を無為に使っている。
革屋の言葉をもとに考えれば、室町幕府は家臣にそっぽを向かれ続けることになるだろう。
図書助は今の言葉に唇をかんだ。渡した写しを膝に載せたまま、まだ手放していない。
「革屋さん、それは少し口が過ぎましょう」
呆れるような天王寺屋の言葉に、革屋が静かに頭を下げた。
「確かに申し訳ございませぬ。ですが、身共の申し上げたいこととしては、道永様も大樹も治部様を呼ぶ声を大になされるということにございます」
「堺を戻したいか。治部がとっても法度で縛るだけであろう。元には戻るまい」
「そちらの方が革屋にとっては幾分やりやすうございまする」
五郎は自分の茶を飲んだ。ぬるくなっている。それを飲み干してから口を開いた。
「あいにくと上洛の声はまだ来ていない。駿河の如き田舎など天下の趨勢には関係ないようだ」
「おや、さようですか。では追い越しましたかな」
五郎が目を細める。膝の写しを揃え直してから、天王寺屋が言いづらそうに言葉を紡いだ。
「前管領様に挨拶された近江商人によると、陣にて幾度も治部様の名前が挙がったらしく。十万の関東勢を打ち払えるのならば、阿波方も容易いと道永様が仰られたとも」
五郎はまた喉を鳴らした。
そう言うところが、此度の負け、そして波多野兄弟が叛いた原因であると分からないらしい。
「幕臣の伊予守殿には酷いあしらいをしてしまった。会わせる顔がない。しばらく駿河よりご勝利を祈ろう」
室内の三人は三者三様に、五郎を見ていた。
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足が痺れている。
上段に座って、義晴は下座の二人を見下ろしていた。前管領の細川道永と、近江の六角弾正少弼定頼である。二人は互いの家臣らを放り出し、向かい合い、お互いだけを向いて話していた。話が長くなると、こちらへ顔を向ける回数がだんだん減る。今朝はもう、四半刻ばかりこちらを見ていない。
義晴は爪を噛んでいた。やめろと言われた癖であるが、おさまらない。
いまさらここで膝を突き合わせて話して何になるのか。考えれば考えるほど、頭に血が上り、膝が勝手に動いた。
庭では、寺の者が梅の落ちた花を掃いていた。竹箒の音が、話し声の切れ目に入ってくる。掃き終われば、湖の方へ下りて行くのだろう。
義晴は門の外へ出ない。出れば人目につき、人目につけばこちらの人数を数えられる、と道永が言うからである。数えられて困るほどの人数しかいない、ということでもあった。
負けた分際で将軍の一挙手一投足を指図できると思っている、道永にはうんざりだった。
あそこで勝っていれば人数がどうだとか、気にするはずもない。
桂川で負けた翌る日、義晴は輿で京を出た。急がせるので揺れがひどく、外を見る余裕もなかったが、途中で一度、山際の道から町の明かりが見えた。あれが京かと思ったのを覚えている。連れて出たのは、道永と、その日に間に合った者だけである。
近江の坂本へ移って、ひと月半ほどになる。日吉の社の裏手にある寺の書院を御座所にしているが、上段の畳も、肘を置く脇息も、この寺の物であった。京から持って出たのは身のまわりの物だけである。膳の菜は日ごとに減り、供の者は町家や近くの坊に散って宿を借りている。
この生活は、はっきり言って、義晴にとって不愉快極まるものである。
朝は経で目が覚める。これも気に入らない。
経を読み終わるころに湯が来て、膳が出てくる。これも不愉快である。
何よりも不愉快なのは、一々自分の部屋に人を呼びつけ、人が上がってくるのを待たねばいけない。京にいたころ、全て自分の言葉を待つばかりだった。
そんな生活を送らされていて、漸く弾正少弼がやってきた。先の戦での家中の不甲斐なさでも詫びるのかと思いきや、ずっと道永と話し込んでいる。
やれ銭がどうとか、援軍がどうとかそういう話だ。そういうつまらないことを言っているから負けた、とも思う。
それに負けたのならば、今すぐにでも前に出るべきだと思った。あの阿波の推す男が、京に御所に居座っていると思うと腹立ちが増した。しかも許せないことに、三好などは、天下人面をして京の差配なども、行っているらしい。
こちらは湖の畔にいて、それを拝むだけだ。そう思えば、また義晴は爪を噛み切った。
「弾正少弼殿。次の陣立てのことお頼み申す。これは天下の理にございますれば」
道永が言った。桂川で負けてから、この男は物言いが早くなった。急いでいるのが声に出る。
「何度も申しますが、直ぐには出すべきではございませぬ」
弾正少弼は湯呑にも手を触れずに答えた。怒りもせず淡々としている。普段の弾正少弼は嫌いではないが、家臣が不甲斐ない戦いをしたにも関わらず、許しも請わないこの男の様子は、気にいらない。
弾正少弼は、目線を揺らしもせず、口を開いた。
「まず堺を取られておりますれば、戦の費えを賄えますまい。反面、向こうは堺に足場を置き、これを固めておりまする。以前の戦よりも、条件は悪し。よって、今出れば、負け戦にございましょう。これを覆すにあたり、まず兵の数をそろえるところから、ではありませぬか」
弾正少弼は道永だけを見ていた。弾正少弼の身に着ける物はすべて、義晴のものより上物であるように見えた。いま自分が必要な者、本来持たねばならない物を持っている男である。
近江は戦の外にあり、この寺も、坂本という土地も、もとはこの男のものであった。
そう思うと急に弾正少弼が憎くなった。
「兵数と申されたが、その儀なれば、案じ召されますな」
道永の膝が、わずかに前へ出た。
「と申されると」
「越前にござる。朝倉がこちらへ参るという話が来ておりまする」
義晴は爪から口を離した。腹立ちだけが胸をしめている。
痛いほどの空腹、弾正少弼の有り様、道永の態度、全てが腹立たしい。
自分をそこまで苛立たせていて、出た言葉が朝倉というのも許せない。
「いつじゃ」
「公方様」
下座の端で、大館伊予守が膝を動かした。止めるつもりで声を出したのだろうが、義晴の手の方が早かった。脇息が横へ飛び、畳を滑って柱の根元で止まる。寺の物である。
「いつじゃと聞いておる」
「まだはっきりとは、分かりかねまするが、朝倉殿はどこぞのものと違い、道理をわきまえたるものにございまする」
「時を聞いておる」
立ち上がり床を蹴った。床板が軋み、梁から埃が落ちた。こんな寺に主君を押し込めている。そう思えばまた頭に血がのぼった。
それになにが、分かりかねますなのか、と胸の中で言った。分からぬものを頼りに、こんなところで待てと言う。
肩に力が入った。腹が立っているのはこれだけではない、なにより堺である。
あちらには義晴の代わりに据えられた者がいて、御所のように扱われている。京にいた者が幾人も出入りしているという話は、坂本まで届いていた。
誰が行ったか、名まで挙がる。挙がったところで、呼び戻す手立てがない。義晴の名で出した書に、返事の来ぬことが増えた。書く者はこちらにいる。読む相手が、こちらを向いていないだけである。
「堺の者どもは、なにゆえあのように振る舞える。誰ぞ答えよ。のう、大館」
「それは、」
「答えられぬか、馬鹿者め」
今度は硯箱が飛んだ。蓋が外れ、墨が畳へ転がって、白い縁に黒い筋を引いた。
誰も拾わない。
後で寺の小坊主が来て拭くのだろう。京にいたころは、投げる前に人が下がった。ここでは、皆の見ている前で投げることになる。
投げたところで話は一つも進まぬ。それは分かっていたが、この座で義晴の思う通りに動くのは、投げた物のほかになかった。
そうだ、負けさえしなければ京に居たのだ。もっと言えば、波多野兄弟が裏切らなければ。
義晴は道永を睨んだ。
「負けたからだ。そして、それは本をただせば、道永。そなたが」
「何でございましょう」
言葉が返ってきて、そこで詰まった。この男は怖い。
一度京から追い出してもしぶとく戻ってきた。しかも敵対したものを追い詰める執拗さも知っていた。
義晴は首を回して弾正少弼を見た。弾正少弼は黙って頷いた。義晴はわずかに安堵しながらも、声を落として続きを述べた。
「そなたが香西を討ち、そして此度の戦で負けたゆえであろう」
「香西の件は公正な裁き。戦に関しては、次に勝てばよいと、申し上げております」
「いつまで待てと申す。待つ間に向こうは固まるのであろう。弾正少弼も今そう申したではないか」
「では、いかがせよと仰せられます」
道永の声が低くなった。
いかがせよ、などと知るわけがない。道永がやらかして、負けた戦の尻拭いなど考えたくもなかった。
だが、義晴は返す言葉を探した。衆目のなかやり込められるなど御免であった。
そして探しているうちに、思いついた。道永の口から散々きいた言葉である。
「決まっている。今川であろう」
「その名は、この座でお出しくださるなっ」
道永が突如吠えた。
その声が書院の外まで届いたはずである。
義晴は肩を引いた。引いてから、引いた自分に腹が立った。
去年、義晴の名で、今川に一万の軍を出せと申し送っている。勝手に出されたことも腹が立ったが、後になって断られたと聞いたときも腹が立った。
そのあとで今川は三万五千を関東へ動かし、上杉の大軍を破った。兵がないから出せなかったのではない。将軍のためには出さなかったと道永が暴れたのを覚えていた。
正直言えば気に入らぬ相手ではある、だが道永をあそこまで怒らせる相手ということで嫌い抜いてもいない。
「だが、気にせざるを得まい。して、どうなのでござる、道永殿」
弾正少弼がふと言った。道永は剃った頭に血管を浮かべながら、振り向いた。
「何が、でござる」
「今川のことでござるよ。十万を打ち倒した相手でござろう。しかもその十万が、次は今川へ向かうと幕臣の誰かが脅したと聞き申した。それゆえ機嫌を取られたのではござらぬか」
「待て」
義晴は割って入った。聞き逃せない言葉があった。
「なにゆえ、こちらが今川の機嫌を取る」
弾正少弼は義晴を見ずに言った。
「下手をすれば挟まれまする。まあ、尾張と美濃がありますので、直ぐにとは成り得ませぬが、それでも敵にはできますまい」
「そうではなかろう。わしは今、今川を使うかという話をしている。そこにどうして今川の小僧の機嫌など関係がある」
「左様ですか」
弾正少弼はどこかを見て息を吐いた。その態度に義晴の腹立ちと声が一層大きくなった。
「あれはまだ小僧であろう。親が死んで、家臣や北条にいいように軍を使われておるのなら、こちらも使えばよいだけであろう」
言いながら、腹の底が重くなった。年でいえば、その小僧の方が下のはずである。下の者が五か国を持ち、十万を破り、軍神を名乗り、のぼせ上っている。そう考えると今になって今川治部が憎くなった。
「さほど容易い相手ではござらぬ。何ぞ手を打たれませ」
弾正少弼の言い方は変わらなかった。目線も義晴を向かない。
義晴は立ち上がった。痺れた足に力が入らず、立ち上がりざま、脇息のあったあたりを蹴った。もう何もない。
「許さぬ」
「許さぬとは」
弾正少弼がようやく、こちらを見て言った。
「機嫌などとってどうする。与えるのは罰であろう」
自分でも高い声が出た。
「将軍が古寺に逼塞しておる。これに助けを出さぬ者を、不忠と申さずして何と申す。まずは守護を一つ取り上げよ。信濃でよい。小笠原が残っておるのであろう。伊予守、行け。上手く申せ」
「公方様、その儀は」
伊予守が口ごもると、弾正少弼が横から引き取った。
「畏れながら、その儀は難しゅうございましょう」
手が香炉を掴んで、床へ叩きつけていた。欠片が飛んで、弾正少弼の膝のあたりに当たる。
弾正少弼は顔色も変えずにそれを拾い、脇へ置いた。
拾われてしまうと、次に言う言葉がなくなった。義晴は立ったまま、袖の内で指を握った。
「先ほども申し上げましたが、妙なことをなされば、敵に回るだけでござる。今ですら脅して、半ば敵に回しておるようなものでござろう。もともと父が死んで、難儀しておるときでござる」
「なれど、北条には援軍を出しております。難儀しておる時に援軍を求めたと、我らばかりが責められる謂れはありますまい。むしろ後々を見れば、治部こそが、幕府を軽んじておる、そう責められるべきなのではござらぬか」
先ほどまで黙っていた道永が口を挟んだ。声は幾分穏やかである。だが、剃った頭に血管は浮かんだままだった。
「道永の言、道理である。北条へ出せて、こちらへ出せぬという筋はない」
不愉快な男であるが、道永の言葉に納得感はあった。義晴は頷き、弾正少弼を睨んだ。
だが、二人がかりでも弾正少弼は変わらなかった。ただ、深く息を吐いた。
「どうでもよいことでござる」
弾正少弼が裾を直して立った。
「失礼。されど、今はあの治部の腹など、分かり申さぬ。不忠か忠義者かも分かり申さぬ。なれど、同じ国持ちとして、今川は決して動かぬことは、分かり申す。ゆえに、大人しく朝倉をお待ちなされませ。今川は敵にさえ回さねば、それでよろしい」
それだけ言うと、弾正少弼は一礼して、廊下へ出て行った。被官の二人が続き、板の軋む音が遠ざかった。
こちらが止める暇もなかった。
直ぐに表で馬を引く声と、人の返事が幾つも重なる。
門の外に、あれだけの供を待たせていたのかと思った。義晴が京から連れて出た者より多い。自分の館へ帰るだけの男が、である。
書院に残ったのは三人になった。庭の箒の音は、いつのまにか止んでいる。障子が鳴り、畳の墨が乾きはじめていた。
義晴は座り直した。道永は膝を崩さぬままでいる。目の下が落ちくぼんで、桂川より前より、十ほど老けて見えた。
「道永。わしは早う京へ戻りたい。いや、将軍として御所を空けるべきではなかろう。のう」
子供のような言い分が先に出たため、慌てて言葉を変えた。道永は答えずむっつりと目をつぶっていた。
不遜な男である。先ほど、言葉を認めて損をした気になった。
「今川は動かせぬのか。伊予守、何ぞ知らぬか」
義晴は伊予守を見た。
関東での戦のあと、直ぐに道永はこの男を駿府へやった。戻ってから暫く経つ。しかし、持ち帰ったものを聞いた覚えがない。
伊予守は今日何度も見た、渋い顔のまま言葉を濁した。
「御不快と思われまするが、治部殿には会うこと叶わず。しかしながら、家臣の庵原と申す者と話しましてございまする」
「家臣か」
呟いてまた爪を噛み切った。
将軍の使者を、当主が受けぬ。
やはり自惚れている。軍神などと名乗り、将軍より上に立ったつもりであろうか。
「まあよい。申せ」
伊予守が道永の方を見た。道永がのっそりと顎を動かし、頷いた。伊予守はそれを見てから、口を開いた。
将軍に答えるのに、管領の許しを待つ。義晴は、また爪を口に入れかけた。
「庵原殿曰く、上洛はしたいが、道が塞がっておる、と」
義晴は鼻で笑った。
「尾張と美濃じゃな。通ればよかろう。山道でもあるまい」
「尾張は斯波が家中で揉めており、美濃でいざこざを起こした者まで逃げ込んで、治安がよろしくござりませぬ」
今話した理屈が、義晴にはとんと分からなかった。
揉めておらぬ国など、いま日の本にあるまい。だがそれでも六角は動いた。朝倉もいつかは分からぬが来るという。
「理由になっておらぬではないか」
「と仰りますと」
「馬鹿者。押しのけて参れと申せ。戦は強いのであろう。今川は足利の一門ぞ。斯波に話を付けて、通らせてもらえばよい。誰も邪魔立てはせぬ。戦自慢の小僧を突こうなど誰も思わぬわ」
そんなことも分からないのか、と義晴は嫌になった。
だが、
「さにあらず」
と道永が首を振った。
「斯波と今川は、散々にやり合うております。特に先代の今川への恨みは深うござる。斯波も安々と通しは致しますまい」
斯波が通さぬ。自領も治められぬ無能が将軍の邪魔をするという。
義晴はまた鼻で笑う。
「ならば、やればよい。美濃と尾張。その代わりに上洛して戦えと申せ」
「大国を二つも与えると仰せられますか。なりませぬ」
「では朝倉を待つのか。いつ参るとも知れぬのに」
「今川へ二国与えたとて、すぐ参るとは限り申さぬ」
「負けた者が、よう言うわ」
道永が顔を上げた。目だけをこちらへ向けている。
「何と仰せられました」
義晴は座り直し、袖の中で手を組んだ。組んでから、膝が浮いているのに気づいて、静かに下ろした。
この男に睨まれると声が出なくなる。悔しいと思うこと自体、既にこちらが下であった。
「しばらく、しばらく」
下座で、伊予守が膝を進めていた。この男が自分から前へ出るのを、義晴は初めて見た。
「道永様も、今川の軍は不要とは思われぬ、これはよろしいか」
「堺から来てくれれば良い。一万でも来ていれば、先の戦は勝った。ただ、今はそれも無理であろう。近江の商人にも言うたわ。あれが来れば勝てる、とな。まことに腹立たしい」
商人に、と義晴は思った。管領が、京の外の商人を捕まえて、あれが来れば勝てると言っている。腹立たしいのはこちらである。
いったい、何のために専横を許してやったのか分からない。
「ならば、尾張は、慰撫と鎮圧だけに留める。これは如何でございましょう」
伊予守の声が、少し高くなった。
「国を与えることは、流石に恐ろしき仕儀にございます。ゆえ、静めよ、大人しくさせよ、斯波を立てよ、と仰せになる。これならば、たとえ取られましても、上洛の後に口を出せまする。幕府の命を破ったのであれば、明確な謀反人。道永様が咎め立てしても、悪評などもたちますまい」
「美濃はどうする。あれも荒れておるが」
道永の言葉に伊予守が頷いた。
「美濃は、朝倉様にお頼みになられるが良いかと。ただ、朝倉様の手が回らぬとあれば、尾張と同じく、守護の土岐を立てよ、と仰せになれば宜しいかと」
道永が黙った。また目をつむり、のっそりと黙り込んだ。
何を悩んでいるか義晴にはやはり分からない。
伊予守の考えは良案であるように思えた。
大国二つを与えるのではない。静めよと申し付けるだけである。動くなら安いものであり、動かぬならこちらは何も減らない。取られたところで、上洛の後には堂々と増長した小僧を討てる。
顔を上げると、下座の二人がこちらを向いていた。
朝からこの方、二人が揃って上段を見たのは、これが初めてである。
義晴は背を伸ばした。
「よい。そうせよ」
道永が目を細めていた。いや、睨んでいた。
そちらから目を逸らし、声を大にした。
「そうせよ。もう待てぬ。待つべきではない」




