6章_1
おかしなことになった。
膝の上で重ねた手が、打掛の重みで少し痺れている。朝姫は、その痺れを指先でたしかめながら、まだそんなことを考えていた。人質であったはずである。母の家格も高くない。相模から駿河へ送られ、側室として置かれれば、それで話は済むはずであった。それが、いつの間にか五カ国を治める男の正室になっている。
初めて会ったときの印象は、いまでもうまく言葉にならない。
いや、あえて言うならば魔性であった。切れ長の目、柳の眉、鼻は通り、唇も薄い。ついぞ男らしいとも、坂東武者らしいとも言えぬ顔である。だが、顔から視線を外せなかった。此方の無作法とは知りながら、穴が開くほど見てしまった。
その無作法とは別に、初めての会談は、はっきり言えば無理筋の話であった。北条が大きくなるために仕掛けた戦で、上杉が本気になった。関東の勢を集めて十万を数えようとしている。これに立ち向かってくれ、という話である。まず断られる。そう思った。だが、夫は烏合と笑い、先代と関係は変わらぬと言った。
義理難い男なのか、とも思った。が、最初に感じた妖しさから、そうは思えない。
目に熱がないのだ。人の心を汲んで、どうこうしようという部分がない。
此方が相手の意図を読めぬまま、この身は駿府に留め置かれることになった。扱いは、親族を預かった、というだけである。
それだけであり、中御門殿のご厚意で、館の奥に一間と、女房を二人つけられた。庭に面した部屋で、朝は縁側の板が足の裏に冷たかった。
側にいて、少しわかったことがある。
一つは、あの男が極めて勤勉であることだった。夜半に渡殿を通ると、離れの一間にだけ灯が残っている。障子に映る影は動かず、時折、紙を繰る音と、文箱の蓋の鳴る音がした。
少し聞いた範囲では、自分の寝所にまで文やら書状を持ち込んで、眠る寸前まで頭と腕を動かしているという。そして、誰よりも早く起きて続きをする。
朝姫が朝の膳の前に座るころには、もう表の方で人の出入りが始まっていた。五カ国の太守として相応しきことである。が、それにしても行き過ぎでもある。
かと言って、外に出ないわけでもない。発つのはたいてい暁で、庭のむこうで沓音と蹄の音がして、しばらくすると静かになった。五カ国の各地へ機を見つけては顔を出す。国人らや寺社にも顔を突き合わせ、時に訴訟を捌き、縁談を纏め、人と銭を動かす。戻りは夜になることもあったが、翌朝には離れの灯がまた点っていた。休む暇もない。
そんな話をしたとき、火桶の炭を継いでいた古参の女房が、手を止めもせずに言った。
「あの方は昔からそうですので」
昔から休まない。酒も女もやらず、お気に入りの家臣を出世させたりもしない。
時折絵などもかくらしいが、そのうちに地図やらを書き出して、やはり仕事に戻るという。
あの方は少し違うから。そんな風に、家中では誰からも一歩ひかれている。
心のうちに入れている者は、どうやら一人もいないらしい。
一人例外を挙げるとするならば、天野宮内という家臣だそうだ。幼少期から側にいるという。ただこれも、夫を休ませたり慮ったりする側ではない。むしろ、どこまでも働かせようとする側に見えた。
その様な中で、ただ、一人だけ別の扱いをされている者もいた。霧姫殿という女性である。
聞いた話であるが、霧姫殿は忙しい夫の側へ寄って、大市を見たいので供を付けろ、忙しくとも歌会に出よ、などと強請れるらしい。
誰も恐れて近づけぬ相手に、面と向かってあれやこれやという。
当時の家中では、この方が夫の正室になってくれないか、そんな風な話があった。
女房たちが火桶を囲んでそう話しているのを、朝姫は歌の指導を受けながら聞いた。
正直に言えば、少しほっとした。
あの妖しい人間に、自分が妻として側にいることができるとは思えなかったのである。
ただ一方で、申し訳なさがあった。霧姫殿の邪魔になるのではないかということ。そして、あの父を亡くしたばかりでも必死に働く男に、北条との同盟が邪魔になっているのではないか、ということ。
何も返せぬのに、十万の関東管領と戦えと言っている。それでも、そんなことはやらないでいい、とは口が裂けても言えなかった。
そんな懊悩を抱えている中、夫と話す機会を得た。
的場の隅にはまだ霜が残っていた。夫は弓を引いていた。存外にうまい。弦音のあと、矢の当たる音が続けて三度した。供の者が、冬の間もこうして鍛錬を欠かされませぬ、と言った。袖の中で指を握りながら、朝姫はそれを見ていた。
はっきり言えば、少し哀れでもあった。そこまでしないと、五カ国の太守は務まらぬのか。日々の仕事だけでも十二分であるのに、そんなことまでやる。
そう思うと、やはり十万の軍のことが頭から離れなくなった。
思わず、同盟などやめてしまえばいいのでは、と口から出そうになった。
だが、夫はお気になさらず、と此方に気を遣った。此方にも利がある、上杉とは戦う、とそう言った。胸は軽くならなかった。やはり申し訳なさが勝った。
その申し訳なさは、その日の昼過ぎに、途方もなく重くなった。
幕府の使者が着いたのである。大館伊予守という男であった。表の対面に朝姫が出ることはないが、伊予守の声は奥の廊下まで届いた。
上洛を求めていた。大きな声で、兵を京に出せと言った。
出さねば幕府に対する不忠であるとした。
事情はわからないが、名代では足りず、夫本人がいかねばならないという。どうするのか。そう考えているうちに、伊予守は脅した。
十万の軍が北条を打倒した後、今川にも来るぞと仄めかしたのだ。ただ同時に逃げ道も用意していた。幕府が上杉を仲裁してやるとも、付け加えた。
先は見えた、と思った。
きっと、夫は上洛する。十万の兵と戦うよりもずっと妥当であり、京からの覚えもよい話である。同盟も粗略にはしていない。
だが、夫は上洛などしないと言い切った。
京が燃えても構わぬ、と言うのが聞こえた。その足で軍備を始めた。
廊下へ出てきた夫と行き合った。夫は一瞥しただけで、そのまま歩き出した。振り向いた先に霧姫殿が立っていて、目が合った。打ちひしがれたような顔をしていた。そのことがずっと胸を重くしていた。とんでもないことをしてしまった。
軍が発つ日、館の表は暗いうちから人と馬の音で埋まり、それが遠ざかると、館は急に音の減った場所になった。奥に残るのは女ばかりである。
考え込み、眠れない日が続いた。
夜具の中で火桶の火が落ちる音を聞いているうちに、外が白んでくる。きっと、夫は関東から帰ってこない。そんな予感があった。
報せは飛び飛びに届いた。どこそこの城が開いた、境目で小競り合いがあった、というだけの短いものである。
次の便りまで十日以上空くこともあった。そのたびに女房たちは指を折って日を数え、朝姫も一緒に数えていたが、そのうちに数えるのをやめた。
幾度か庭に凍蝶が来て、落ちた。
口上を聞いても、いま勝っているのか負けているのか、朝姫にはわからなかった。夜になると、離れの一間は暗いままである。
これはだめなのかもしれない。そう確信した。
だが、その予感はいとも簡単に裏切られた。
夫は勝った。
十万の軍を半分以下の兵で打ち破り、関東管領の腕を自ずから切り落とした、などという話が聞こえてきた。
最初はあり得ないと思った。そんなことがあり得るわけがない。
今川家中はすんなり受け入れていた。あの方ならばやるだろう、という顔である。
宿老の庵原安房守殿などは粛々と受け止めたうえで、この勝利をいかに大きくするかを考えているようだった。
祝いの使者と商人の出入りが増え、奥にまで人の声が戻った。軍神、軍神と称えられる中を、夫は軍を率いて戻ってきた。
帰着の日は、朝から街道の方が騒がしかった。
兵はほとんど減っていない。顔つきも、人を見るときの冷たさも、出ていったときのままであった。
夫には言わなければならないことがあった。
詫びねばならないことがあった。
霧姫殿が帰られたのである。祖父が病で倒れられたとして、荷を纏めて帰った。実のところは、十万の軍が駿府にやってくることを恐れての帰京であった。
二人の関係を壊したのが北条の同盟であり、この身であるという自覚があった。それゆえ、機を見計らって夫のもとへ顔を出した。
夫は以前と変わりなかった。
冷めたまま、自分の歩いて来た道を訥々と語った。悍ましい話である。民草を踏みにじり、罪をでっち上げ、関東も燃やした。
そんな話を淡々と挙げたのだ。そして、そのうえで、自分の正室になるか、形だけの正室となるか決めろと言った。
自分を形作るものの十の内八が、正室など無理だと言っていた。上手くやれるわけがないと訴えていた。それで膝を立て、その場を去ろうとしたとき、夫の背中を見た。
何処か寂し気で、そのうちに掻き消えてしまいそうな空気をまとっていた。そしてそれを良しとする虚しさがあった。
ゆえに、自分を形作る残りの二が別の答えを出した。
この人を一人にするべきではない、と。
それで気がついたら、床に手をつき、額を下げて、婚姻を受けていた。
婚姻の日取りはすぐに決まった。盛大な式である。今川家中の家臣、一門らが五カ国から集まった。
商人も領内だけでなく、堺、熱田、博多など、つながりのある商人がやってきた。
公家は少し少ない。帰京させた申し訳なさもあるのだろうか、どこか肩身を狭そうにしており、一門衆らの顔を見ることさえできずにいる。
北条側からも出席者が出た。さすがに父、新九郎は出ていないが、父と同腹の叔父左馬助氏時や、外交の折に顔を出す叔父長綱が座に加わっている。
左馬助叔父は感慨深そうにしていたが、長綱叔父の方は苦い顔のままである。
幾度目かの銚子が座を回っていた。痺れた手を組み直し、見通せぬほどの参列者をみながら、夫がそばにいた。
冷めた目である。さすがに緊張の一つもしないか、と文句の一つも言いたくなった。
だが、夫はこちらを見ると、申し訳なさそうな顔をした。
「今少しですので、お許しください」
そう言うことではないが、少し気を入れ直した。この人はきっと最後まで誰かのことを考えて死ぬのだろうと、そんなことを考えた。
「そうですね。お互い力を入れましょう」
夫は少し奇妙な顔をしていた。
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まだ暗いうちに、五郎は寝所を抜け出した。そのまま同室の机に膝を寄せた。
昨日のうちに文机に持ち込んだ紙と、硯箱がそのまま置かれている。
火桶は側にあったが、いじらなかった。音を立てるのが嫌だった。静かに、息を殺すように墨を磨った。
夜明け前の冷えが板間に残っていた。
その寒さを全身に受けながら、そっと筆を動かす。書いているのは礼状と安堵状である。
三枚目を書き終えて紙を替えたとき、足音がした。
「それは」
と声がした。片膝を回して振り向くと、朝姫が立って、文机の上を見ている。すでに髪を整え、小袖の上に一枚重ねていた。
「朝姫殿、起こしてしまい申し訳ない」
「いえ、これぐらいの時間には鍛錬に起きておりまする。それより何を」
武家の男子よりも過酷な生活をしているらしい。
そう感心しながら、五郎は文を裏返した。幸い墨は乾いていた。
「礼状にございます」
朝姫は眉をしかめた。明らかに納得はしていない。部屋に入って一間ほど離れて座り、膝の上に両手を置いた。
その手は、それきり動かない。五郎は火桶を朝姫の方へ押しやって火を入れた。
「まあ、ありていに言えば此度の婚儀に訪れた方への感謝と、こちらからも今後ともよろしくという話にございます」
「であれば、私からも、」
五郎は首を横に振る。
「表のことにございます。それにあまり愉快な話ではございませぬ」
朝姫がそっと目を伏せた。
「ああ、いえ、どこぞを燃やすなどと言う話ではなく。そうですね、」
五郎は言葉を選んだ。書きかけの一行が残っていたので、そのまま二字ばかり続けた。
「先の勝利はそれなりに大きいですが、治部を同じように大きく見ている者が多い。それで誼を結ぼうという家も多い」
五郎がそう言って笑みを深めると、朝姫が黙った。何も言えない夫で、申し訳なく思った。これは謀略の内側の話なのだ。
話が来たのは、尾張の家である。
水野、近藤といった、弟である新三郎氏豊の那古野までの道筋の家であった。
彼らは結婚式に顔を出し、旗色を鮮明にした。そのうえで、今後は今川の法度に従うと内々に誓紙を出した。
五郎はそれに対して、礼状と安堵状をしたためようとしていた。裏返した紙の下に、まだ十数枚が控えている。
筆を硯の縁に置き、指の墨を懐紙で拭った。
「やめましょう、もっと面白い話もさせていただきたく」
「面白い、といっても、私は歌などもあまり返せませぬ」
「それは良い。こちらも一々返歌など考えたくはありませぬ。できれば関東の話を聞かせていただきたく」
「関東の何を聞きたいのでしょうか」
手燭の火が細くなっている。五郎は油を足さず、体ごと文机から向き直った。朝姫の手は、まだ膝の上にある。
「なんでもありがたく。食事の話も是非に伺いたく、どの寺社に参りに行くなども気になっておりました」
「参っていた鶴岡八幡宮は、里見に燃やされました」
これは失敗した。いや、これは朝姫の失敗かもしれない。
どちらにせよ、互いに距離を掴むのが下手のようだ。五郎はひとまず取ってつけた笑みを浮かべた。
「ああ、それはお辛いでしょう。ただ、歴史のある寺社でありますから、修繕をと望む方も多い。直ぐに直りましょう」
「戦もございましたし、しばらくかかりましょう」
「舅殿も終戦と勝利を内外に示すため、力を注ぐように思えます。ご安心ください」
言っているうちに、少し気が晴れたようだ。膝の上で重ねられていた手が、袖の上でほどけている。
そしてそのうちに日が昇った。五郎は立って障子を細く開け、手燭を吹き消して、裏返した紙を表へ返した。
妻帯者としての初めての一日が始まったらしい。
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中御門前大納言宣秀と、その子の左少弁宣綱を、五郎は自室で迎えた。
早朝に雨が上がって、障子の下半分に庭の明るさが出ている。脇には、寿桂尼と号している母が座り、膝の上に数珠を置いていた。
二人の公家は敷居に近いところへ膝を揃え、前へどうぞと勧めても動かない。
先の婚儀でも上座に近い席を用意させたはずだが、二人の希望もあって、随分と端の方へ移っていたという。
緊張した面持ちである。前大納言は畳んだ扇を膝の脇へ置き、左少弁はその少し後ろで背を立てていた。出した湯には、二人とも手をつけていない。
どういうことだろう、などととぼけるつもりはない。
「大変良い婚儀でありましたな」
切り出したのは父親の方だ。背筋が伸びた様は、肝が据わっていると見えた。
「ええ、皆々様のお力もあり、漸く治部も当主として認められたように思います」
「そのようなことはございませぬ。こちらは何もしておらぬゆえ」
確かに代替わりの折、幕府など京から圧を受けたが、親族たる中御門家からは助け舟はなかった。
視界の端で寿桂尼もつらそうな顔をしていた。数珠を持った手が、膝の上で動かない。
息子らが外に出て、霧姫も帰京した今、明るい話があまりない。北川殿は朝姫を気に入ったが、寿桂尼は正直あまり合わないようにも思える。
ならば、手早く終わらせ、間に立った方が良い。
「こちらの文ですが、返答は必要でしょうか」
五郎は懐から一枚の紙を取り出して、膝の前に置いた。送り主は二条前関白である。実に迂闊なことに直筆である。
「それは」
と左少弁が漏らした。
「内容は今となっては詮なきものでございますが、摂家の方から御文とあらば、返り文がないのも無礼と思うておりました」
その文は迂遠かつ謎解きが多いものであった。だが、簡潔にまとめればこうである。
上杉の十万の軍、こちらならばどうにかする手立てがある。即位式の銭を出せばよい。
その即位式に北条、上杉の双方を呼び、和議を成してはどうか。またその際は、今川領内の公家荘園についても譲歩をすること。
このようなことを典雅な言葉で飾って送ってきた。相当に以前大葬の折送った、三千貫が忘れられないようである。
言っていることは幕府と変わらないが、厚かましさはこちらが勝るかもしれない。
文が届いたのは、五郎が関東で囮として駆け回っている時だったらしい。
庵原安房守などは、いっそ銭蔵を独断で開けることも考えたという。だが、五郎が関東から出した文で思いとどまった。
五郎の文は簡潔だった。
関東勢、烏合。一月以内に破る。譲歩は不要。
そして、諸々の結果、二条前関白の文は手元に残った。五郎は十万の関東勢を蹴散らして、今ここにいる。
「どうぞ、お持ちくだされ」
「よろしいので」
前大納言が訝し気に言った。
「お持ちになられぬのであれば、廊下にでも飾りまするが」
「治部殿」
寿桂尼がたしなめた。というより懇願に近かった。冗談の練習はまた後にした方がよさそうではあった。
五郎はまごつく二人の前に文を滑らせた。つかみ取ったのは左少弁である。
「左少弁、やめぬか」
「ですが、父上」
揉め出したため、これを好機と見た。もう話すことはなかった。
「では、治部はこれにて」
「治部殿お待ちくだされ」
そういって立ち上がろうとしたところで、前大納言から制止がかかる。畳に両手がついていた。五郎が視線を二人にやると、左少弁が身をこわばらせた。
「なにか」
「御腹立ちは御尤もと理解しておりまする。そのうえで一つ願いたく」
五郎は前大納言ではなく、寿桂尼を見た。窒息しそうな顔をしている。
実のところ、この場では席を立っても、話を聞いてもどちらでも良かった。だがどちらでも良いということは、少しは夫を亡くしたばかりの寿桂尼に寄り添ってもよいということでもある。
五郎はそっと座り直した。障子の明るさは、いつのまにか二人の膝の上まで来ている。前大納言が喉を上下した後、口を開く。
「まずは御大葬の件、帝が喜びあそばされたこと嘘ではございませぬ。されど、機を見て即位式の費えを引き出そうとしたこと、確かに無作法であること重々承知してございまする」
「父上、武家にそのような」
と左少弁が泣きそうな声で言った。黙っておれ、と前大納言が扇の先で息子を制した。
それから疲労の浮かんだ目で、五郎を見ている。
「されど今の京におかれては治部殿しか頼るあてはございませぬ」
「大樹や大内殿は如何された。他にも尾張、近江や越前にも力のある方はおられるゆえ、即位式にまで前に出るは僭越にございましょう」
「京の一件、お聞き及びであるかと」
「多少押されていると、堺の商人らから文が来ておりまする。道永殿からはお叱りの文にございました」
嘘である。堺の革屋が言うには、阿波方の勢いは止められず、堺は半ば彼らの本拠地となっている。
道永はこれを対外的には当然認めず、五郎に上洛へ応じない不義をなじっていた。
「ただ、京が忙しなくとも他の方がおられましょう」
「大内殿は今は出せぬとのこと。他家にも足を運んでおりますが、色よい返事はなく」
「それはお辛い」
他の状況が良くないことは承知していた。
このような時、頼りになるのは京にほど近く、力のある商業地とそれを持つ守護である。
例を挙げれば津島、熱田などを持つ尾張、琵琶湖の水運という強みがある近江などである。
ただ尾張の商人のうち、熱田はほぼこちらに流れている。津島はこちらから圧迫しており、あまり勢いがない。近江に関しては、阿波勢との戦に向けて余力がないのかもしれない。
五郎はふと、中御門父子の手元を見た。湯は二つとも減っていなかった。前大納言は膝を動かさず、左少弁だけが袖の位置を直している。
その気まずげな様子より、公家らは言葉通り全国を回って金の無心などしていないだろうと察した。
ただ、こちらの腹を探るついでに利を得ようとしているだけか。それとも京ではいまだに五郎を単なる銭蔵と見ているか。
五郎はふと何気ない風に尋ねた。
「ならば、今は考えを変えては、如何でございましょうか」
「と申されると」
「機にあらず。僭越にございますが、今、即位式となっても公武が揃い寿ぐ、という形に成りはいたしますまい。ゆえに細川家の内訌が治まるのを待つ、互いに争うに疲れ刀を納めたいと考える時を見計らい、即位式での和睦を切りだされるというのは如何でしょうか」
「それは」
前大納言がつぶやいた。
「そのときであれば細川家、堺も喜び即位式を支えようとなされるのではございませんか」
じっと見ていると、左少弁が身じろぎする。
胃でも痛いのか、衣ずれの音を立てて体をよじった。父親の方の前大納言も苦い顔であるが、こちらは身じろぎはしない。
前大納言が眉間に皺を寄せながら頷いた。
「その儀、一理ございまする」
「ええ、今川もその折であれば、僭越にならぬ程度にお力添えをさせていただきたく」
「なれど、こうも考えられませぬか。即位式により細川家の内訌が大きくなることを未然に防ぐ」
ふぅん、と唸った。左少弁が泣きそうな顔をした。
実際のところ、前大納言は相当に上から言いつけられているのだろう。
急ぎ即位式をすることで帝の立場を固め、幕府に対して交渉を行いたいのか、それともまた別か。
どちらにせよ、中御門家は引かぬらしい。
五郎はどこまでの本気か探ろうと、もう一歩踏み込んだ。
「恐れながら、細川家の内訌は、もはや火が着いておりまする。これに近づくは良き結果にならぬかと。いっそ前大納言様におかれては、駿府に下向されては如何でしょうか。公家屋敷が空き申したので、お好きな屋敷をお選びいただくことも出来まする」
「治部殿、そのように」
また寿桂尼に止められる。左少弁が吐きそうだ。
確かに、今のは聊か嫌味に聞こえる。公家が今川が倒れると見、逃げ出したのをなじるようだった。
五郎は薄く笑みを貼り付け、頭を下げた。
「これは失礼いたしました。しかしながら、下向に関しては一考いただきたく」
さすがに、今は十万の兵に攻め込まれるようなことはありませぬ。などという一文は付け加えなかった。
前大納言は苦い顔のままだったが、そのうちに目を見開き、扇を畳へ置いて身を乗り出した。
「治部殿は帝の威光をどうお考えなさる」
「不可侵かつ無比かと」
少し嘘を言った。
三百年、四百年ほど前ならば、そうであった時もあったろう。今はどうだろうか。
「では、その威光は細川同士の諍い如きに掻き消えるものでしょうか」
「それは両細川の陣に問う物ではございませぬか。治部に問うても両陣の心はわかりかねまする」
「治部殿はどう思われる。治部殿が両細川のどちらかであれば、どう思われる」
「無論。争う愚を悟らせ、刀を納めるに能うものと思うておりまする」
左少弁が少し驚いている。そしてにわかに喜色を浮かべていた。
五郎は今度はそこに一言付け加えた。
「公家は前例を重んじまする。先の帝の即位式を思えば、戦が止まるか否かなど申すまでもございませぬ」
改元をしたところで天災は収まらない。即位式でも武家は争う。
左少弁が唾をのんだ。そしてうつむいた。烏帽子が前へ傾いたまま、しばらく動かない。
「左様にございますな。即位式の重きは申される通り。ゆえ、あらためて即位式にご助力願いたく」
ふぅん、と五郎はまた唸った。やはり引かないようだった。
方々への工作費用の予算は積んである。こちらは余裕があるため、三千貫程度は出せる。
だが、即位式はまずうまくいかないように思える。阿波方にとっては千載一遇の勝機なのだ。前に出るだろう。即位式をして、戦を止めようとすれば、きっと即位式ごと有耶無耶にするくらいのことはやる。そしてそれを止められる人間はどこにもいない。
ゆえ、
「承知いたしました。前大納言様がそうおっしゃるのであれば、否はございませぬ」
左少弁が信じられないものを見た顔をする。
母は何か嫌なものを感じたようで、口の端をゆがめ、直ぐに裾で隠した。前大納言はほっとしつつも、何処か痛みを覚えているようだった。
「無論、あくまで武家としての奉仕にございますれば、礼なども不要にございまする。ただ即位式のことのみをお考え下さいませ」
露骨に左少弁が息を吐いた。道永に睨まれている五郎に、新たに官位をというのはできぬ話なのだろう。
あまりにわかりやすい息子であるが、もう前大納言も叱咤はしない。ただ五郎を見て、申し訳なさそうに眉を下げている。
ただ、またそこに一言加えた。
「二条様によろしくお願いいたしまする。治部はどうも駿府からしばらく動けませぬゆえ、これぐらいしかできませぬ」
前大納言が畳の扇を取り上げ、両手をついて頭を下げた。
左少弁が遅れて倣う。顔に浮かんでいるものはそれぞれ違っていたが、心苦しさは同じであるようだった。
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五郎は肩を回しながら、執務用の部屋に戻った。
襖をあけ、足を踏み入れ、そして、かすかに眉を挙げた。
胡散臭い笑みを浮かべる、坊主、承菊がいた。
側にはその親族の安房守もいる。
承菊は唐突に口を開く。あまりに無礼であるが、もはやだれも咎めない。
「おお、御屋形様。一つお伺いしたく」
「許さぬと言っても聞くのであろう。許す」
五郎は文机の前へ戻り、寄せてあった書状の束を引き寄せた。話しながら、会談中に増えた分に目を通した。
「関東では銭をどぶに捨てる遊びでも流行っておられるのですかな」
「いや。向こうでは小癪な坊主を弓の的にするのが流行っている」
「なんと野蛮な。御屋形様が典雅な方で嬉しゅうございます」
五郎は承菊を指さし、安房守の方に顔を向けた。
「関東に送っておいてくれ」
「向こうで何をしでかすかわかりかねますゆえ、こちらで仕事の山を背負わせるがよろしいかと」
「この坊主殿は最近はこなれてきて、大抵の難事も手早く片づけるようになった。それで少々困っている」
承菊が笑みを深くした。端正な顔立ちなのに、不快感を覚えるのが不思議である。
「お褒め頂きありがたく。して、公家を甘やかす件についてお言葉をいただきたく。今川の銭蔵は多大なれど、無尽にはあらず。使う先はまだまだございましょう」
「確かに即位式は成るまい。まあ無駄金と言われればそうよな」
「であれば、」
「ただ道永殿はもういかぬ。少し他の権威によっておきたい」
安房守がふむ、と顎に手を当てた。
「道永殿、というより大樹には六角、朝倉などがついておられまするが」
「阿波方はそれを承知で前に出た。勝ち目があるのだろうな。それに道永殿を果敢に攻めているのは、かつての味方。内を纏められぬ以上、如何なる名将がいてもいかしきれまいよ。これは過去からもわかること」
束から一通を抜いて脇へ置いたところで、承菊が口を挟んだ。
「道永殿を見限った御屋形様のことですかな」
「太田道灌を切った扇谷上杉の話をしている」
ああ、左様で、などと頷く坊主。
本当に関東におくべきか悩んだ。
「承菊やめよ。して、そうなると今後、今川は阿波方と朝廷に近づくと」
安房守が尋ねた。五郎は首を横に振る。
確かに阿波方から熱心に声をかけられている。関東での勝利の後、道永よりもこちらの方が早く祝いと誘いの文が来た。
「さて、それも今川が捨て駒として使われるだけ。今少しこの立ち位置でよかろう」
「十万を蹴散らした忠臣が幕府に意趣返しですかな。焦らしておられる」
承菊が笑みを深めた。
「そう思われている立ち位置が良い。それを保てば、多少は幕府方も焦れて飴をくれるやもしれぬ」
「拙僧の見るところ、今の幕府は飴で済みませぬぞ。糸の繋がった餌にございまする。吊り上げられ阿波方との最前線に連れて行かれましょう」
「そうであるな。半分程度はそれが実現すればよいと思うておる」
安房守が眉を寄せた。承菊は、合点がいったとばかりに、頷いた。
「なるほど、それがよろしいかと存じまする。ちょうど熱田もこちらに寄っておりまするゆえ、するりと行きましょう。ただ、より良き形にするは小細工が必要かと」
「許す。構想が出来たら文にせよ」
「拙僧の見立てならば、少々銭もかかりまするが」
「今川の当主は銭を溝に捨てる優雅な趣味を持っておるらしい。良かったな」
「僧に銭を渡すは喜捨にございます。浄財として褒められましょう」
「僧が甲斐で腹の膨れた女に銭を渡すことはなんというのだ。手切れ金か、迷惑料か」
「これも善行かと」
やはり関東に送るか。
そう考えたところで、承菊は何かを察したようで、すっと頭を下げて部屋を出た。
残った安房守が顔を渋くした。五郎は束を脇へ寄せた。
「当家のものが申し訳ございませぬ」
「あれは、ああいう生き物なのだろう。手綱を握っているうちに、何をしでかすと不味いかは理解したゆえ、切るには値せぬ」
「確かに御味方をどうこうすることはございませぬが、聊か毒も強くなっておりまする。山内方の一件など閉口した次第にて」
「治部が許した。ゆえ安房守も許せ。謀議で数万の兵が片付き、味方が増えるのならば毒も飲まねばならぬ」
安房守が息を吐いた。それからふっと外を見た。
「今川も随分大きくなり申した。まさか天下分け目においてここまでの大駒になるとは」
「まだ足らぬだろう。百年、二百年の安泰を求むならば、指し手にならねば」
安房守がまた息を吐き、頭を振った。
「確かに、まだ御先代の遺命には足りませぬな」




