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5章_17

 神田山の南の端に、五郎は馬を止めていた。


 江戸城が、そこから見下ろせる。


 冬の日は低く、堀の水が銀色に光っている。城は、初めて聞いたときに思い描いていたものより、平らな作りに見えた。台地の先端を削って、堀と土塁を幾重にも回してある。攻めるより籠る方に手のかかった城である。小田原と、そのあたりが似ていた。


 夜襲から幾日か経った。


 囲みはあらかた解けている。小弓公方の勢も、房総の里見も、日を置かずに南へ引いた。武蔵の国衆は、待たれもせずに自領へ帰っている。


 城の周りに残っているのは、扇谷と山内の旗と、それらに縁の深い幾つかの家の旗だけであった。数はもう、上から数えられるほどになっている。ひと月前は、旗を数えることなど誰も考えなかった。


 葦原は、焼けたところと焼けていないところが斑になっていた。幕を畳んだ跡が、地の色の違いで残っている。竈の跡には灰が白く残り、そこだけ丸く見えた。


 荷を積んで北へ動いている列が、いくつか見えた。急いでいる列と、そうでない列がある。急いでいない方は、手負いを運んでいるのであろう。


 江戸城は、そのすべてを堀の内から見ている。櫓に人影が立っていた。


「さて、さて、残りはいくらでしょうかな。扇谷が怪我人含め一万に足らず、山内も同じくらいでしょうかな。同じ上杉で仲がよろしい」


 天野宮内が馬を寄せて来た。笑みが一段と深い。軍勢が風が吹くだけで崩れていく、それが面白くてたまらぬといった様子であった。


 感想はともかく、軍勢に関しては勘定は合っているだろう、と五郎は思った。

 この男は数を外さない。関戸で焼いた蔵の数も、丘の上で見た旗の数も、あとで聞けばこちらの見立てとほとんど違わなかった。

 

 ただ、あえて言うならば、


「山内の方が辛いか」


「でありましょうな。当主が腕を落とされた。国元では義弟が此度の敗戦を責めようと手ぐすねを巻いている。これはつらい。ですが家自体を見れば扇谷も先行き暗いと言えましょう」


「江戸城は取り戻せず。領地は燃えたか」


「国人らの離れ具合を見ますに、総じて上杉の名は堕ちた。そう言えましょうな」


 上杉は半年かけて十万を並べた家である。並べたときには、関東の家はどこも動いた。動いた家の幾つかは、いま自領の焼け跡で年を越そうとしている。


 五郎はふと西へ体を向けた。

 甲斐の方角である。山が重なって、その向こうは見えない。あちらでは、いまも二万が峠を塞いだままになっているはずであった。文のやり取りをした者もまだあちらにいるだろう。


「承菊と文のやり取りをした者、なんといったか」


「確か小幡と安中でしたかな」


「まさか本当に治部が甲斐に行ったと申すとはな」


 言ってから、五郎は自分の言い方が可笑しくなった。行ったと申せと言わせたのは、こちらである。


「甲斐方面に追いやられ、大分憤懣が溜まっておられたご様子。そもそも御舎弟の竜春丸様に近いものゆえ、土産を渡せば嘘ぐらいはつきましょう」


「山内側の被害は、土産に釣り合うものではないがな」


「承菊殿の口車に乗るべきではなかった。夜襲の被害を聞けば後悔なされましょうな。もっともこれで竜春丸殿が当主になられるのだから、良しとしていただきたいものです」


 五郎は甲斐口へ行っていない。


 行ったことにしたのは、先に挙げた山内方の将二人と、それに繋がる幾人かの将である。彼らは山内方の国元に文を送った。今川の三万五千が甲斐口へ回り、山内勢と睨み合っている。そういう文である。きっと山内の本陣にも届いただろう。


 この絵を描いた承菊が文を書き始めたのは、小田原へ入るより前であった。

 誰に何を書くかは、あの坊主が一人で決めた。決めたことをこちらへ報せに来たのは、話が半ば通ってからであった。


 ただまったくの嘘では、さすがに露見する。


 だから兵も少しは動かした。数百に旗を多く持たせ、峠道を上らせ、夜は火を多く焚かせた。焚く場所も、離して並べさせている。遠くから見れば、数千に見える。国もとから山内へ届く知らせは、その火を数えたものであった。


 残りの二万は、ここにいた。


 その二万で、払暁に江戸の陣へ入った。


 北条との話がまとまりかけているという時である。軍を退く算段が始まり、荷を国もとへ送り出している最中であった。誰も、こちらが来ると思っていない。夜回りの数も減っていたと聞く。


 家宰の長尾但馬守が陣を離れる日を選んだのは、こちらの算段である。あの男が本陣にいれば、少なくとも同士討ちだけは収まった。収まれば、二万で二万を相手にすることになる。


 ただ、その日が分かったのは運であった。約定を固めに行くと北条方が漏らしたため、この日と決めた。

 運がよかった、という言い方を、五郎は好まない。好まないが、他に言いようがなかった。


「御屋形様、北条新九郎殿とその弟の長綱という僧がこちらに参っております」


 側付きが走って来た。息が上がっている。丘の下から一息に上がって来たのであろう。


 丘の道に目線をやれば、正装をした新九郎と、坊主が一人、こちらへ歩いて来る。供は五、六人で、それも麓のあたりで止まっていた。二人だけで上がって来る形になっている。


 坊主の方は、夏に駿府で盟を確かめたときにも脇にいた。あのときは名も知らなかったが、弟であったらしい。


「構わぬ。会おう」

 

 五郎の言葉に、宮内がまた口角を挙げた。


「おや、よろしいので。承菊殿や安房守殿がおらぬゆえ、煙に巻けませぬぞ」


「よい、どうせ勘づいておられる」


 勘づいていないわけがない。だが刀を抜くような話でもない。

 さようで、と言って宮内は一歩下がった。


 五郎は馬を下りた。

 鞍から降りると、この数日の疲れが腿の内側に残っているのが分かる。手綱を側付きへ渡し、袴の埃を二度払ってから、二人を待った。


 近づいて来る二人は、顔が対照的であった。


 新九郎の方には、どこか朗らかなところがある。歩き方にも急いだところがない。正装だが、あまり重いものは着ていない。丘を上がることを承知の上での支度であった。


 一方の僧の長綱は、明らかに平静ではなかった。

 剃った頭に泥がついている。落としてから来る間がなかったのであろう。眉の間に深い皺が刻まれ、そこが動かない。首にかけた数珠を、右手で握っていた。握ったまま、歩く間ずっと離さない。

 また袈裟の裾にも泥が跳ねている。この数日、どこかを走り回っていた者の身なりであった。


 気がつけば、新九郎が目の前にいて、小さく頭を下げた。


「治部殿、この度は援軍かたじけなく。見ての通り江戸城の包囲が解け申した」


「お気になさることはございませぬ。東の守りは今川の利であればこそ、手は抜けませぬ」


「にしても、凄まじいものでござった」


「ええ、まさか山内方が内輪もめをするとは」


 ぴくり、と長綱の肩が震えた。身じろぎに合わせて、数珠が鳴った。

 新九郎はどこ吹く風である。口元は笑みを浮かべているものの、目は笑っていなかった。

 その奇妙な面持ちで、新九郎は神妙に頷いた。


「確かに上杉は大きな家でございますからな、色々あるのでしょう」


 五郎は唸った。十分に唸ってから聞いた。


「新九郎殿は何が起きたか、真相をご存じなのでしょうか」


「いえ、ただ山内方の間で、先代の実子を担ごうとする者らが当主の陣に夜襲をかけたとばかり」


「左様ですか。して、山内の当主、左馬頭殿は御存命なのでしょうか」


「それは御身がご存じでしょう」


 言葉を挟んだのは長綱であった。じっとこちらを上目遣いで睨んでいた。


「長綱、無礼ぞ。治部殿、申し訳ない。弟は先日まで少し方々を走り回っておったゆえ」


「いえ、お疲れでしょう。お気になさらず」


 長綱は、頭を下げなかった。下げよと言われるのを待っているようでもなかった。ただ、数珠を握る手の力が強くなった。


 ここに至るまで、新九郎も五郎も互いに、本音は言っていない。

 だが、お互いに確信に近い察しがあった。


 まず、北条が内々に山内の竜春丸を煽る一方で、左馬頭とも繋がろうとしていたこと。

 双方に通した話の内容も推測できる。片方には家を継げと囁き、片方には無事に帰してやると言う。どちらが勝っても、北条は江戸城を救える。上手くやれば恩も売れる。


 左馬頭にどこまで今川の内情を教え、どこまで足を引っ張ろうとしていたかは、まだ見えていない。

 あくまで勘だが、今川を討たせようとはしていないはずだ。

 ただ、こちらの兵が痛むぶんには構わぬ、とは思っていたかもしれない。


 長綱を目を細めて見ていると、新九郎が切り出した。


「今後、治部殿は如何なさるおつもりでしょうか」


 先ほどよりも中身のある問いであった。五郎も一歩分、真面目に答えた。


「聊か疲れ申した。駿府に引き上げさせていただきたく」


 五郎はそう言って肩を回した。やはりひどく凝っている。

 その様子を新九郎はほほえまし気に見ていた。


「しかし、欲がござらぬ。今前に出れば、甲斐から上野を窺えましょう」


 新九郎の言葉に少し冷たさが増した。


「山内殿は関東管領にございます。この所領に手を伸ばすなど、治部には畏れ多いことにございます。ただ山内殿の所領が荒れるようならば、その当主と結び、甲斐の安定は図らねばと考えておりまする」


「ほう、左馬頭殿と結ばれるか」


 五郎は曖昧に笑った。さて、新九郎殿はこれで満足するか、そう考えたところで、新九郎の顔から笑みが消えた。

 この不毛なやり取りに飽きたようだった。


 新九郎は一歩踏み出すと、声を低くして問うた。


「武蔵は如何される。欲されるか」


「いり申さぬ。ままにされよ」


「そう仰るのであれば、修理大夫の首、取っていただきたかった。北条は楽ができ申した」


「勝手なことを申される。仇の名は今川、実入りは北条などと御免こうむりたく」


 すっと場が冷えた。

 脇に控えていた側付きが、身じろぎもしない。不満を顔に出していた長綱でさえ、目をむいている。数珠を握っていた手が、そこで止まった。

 

 五郎はじっと、父親に似たこの男を見ていた。父に似た男であれば、この程度で引かないとも見ていた。

 

「山内上杉はどうなさる。派手に割られたゆえ荒れまするぞ」


「あれは放っておいても割れたでしょう。割れたとするならば先代の咎。治部のやることは精々、竜春丸殿と仲良く縁をつなぐ程度にございまする」


「縁をつなぐ、恩を売る相手は、左馬頭殿でも良かったのではないかな」


「北条にとってはそうでしょうな。今川を甲斐から抑えられる者に恩を売れた」


「にしても腕を切り落とすだけにとどめたのは質が悪い。いっそ首を取ったほうが情けではござらんか」


 なるほど十三の子である。

 その年で腕を落とされ、家中には義弟を担ぐ者がいる。これから何年、その体で家を保たねばならぬのであれば、この場で散らせる。

 その話は分からないでもない。

 

 だが、


「義兄弟でもめるからこそ、今川が仲裁に入れるのではございませぬか」


 新九郎が目を細めた。


「存外あっさりと目論見をお話になる」


「なにも目論見など話してはおりませぬ。何を言っても新九郎殿の疑念は晴らせぬゆえ、戯言にお付き合いさせていただいた」


 新九郎が北を見た。


 江戸の北である。武蔵の平らな地が、そちらへどこまでも続いている。焼けた跡も、そこからは見えない。見えるのは、冬枯れた野と、その先の霞だけであった。

 取るは易くとも、まとめること、富ますことははるかに難しい。きっとこの新九郎の一生を費やしても叶うかどうかは分からない。


 新九郎の目線が、再びこちらを向いた。ひやりとする鋭さを湛えた瞳である。敵を見る目でも、味方を見る目でもない。

 その目の冷たさを隠さぬままに、新九郎が口を開いた。 


「此度はまこと馳走になり申した。いつかお返しをさせていただきたく」


「その義は無用にございましょう。親族として良しなに。互いに敵は多い。争っても得る物は少ないかと」


 弓矢を交えることの利はない。これ以上の策謀の掛け合いも不要のはずであった。

 そうこうしている間にまた視線が絡んだ。


 父に似ている、と五郎はまた思った。


 似ていると思って見るから似るのかもしれない。だが、こういう場で口の端がどう動くかまでが似ていた。夏の座敷でもそう思い、そのときは重ねまいと首を振った。いまは、そう思うことに抗う気が起きない。


 面白さを覚えた。


 絡み合った視線がほどかれた。新九郎は鼻を鳴らした。それから笑みを浮かべた。一目で作りものとわかる、薄く張り付けたようなものである。

 五郎も同じものを貼り付けた。


「確かに、治部殿のおっしゃる通り。血族同士で争うよりは、北条は関東を進ませていただきたく。これからも良しなに。今後は裏で手を回すことなく、表で手を取り合いたく」


「まったくの同感にございます」


 その言葉に嘘はなかった。心から手を取り合いたい。少なくとも、当分の間は。


 新九郎がすっと手を差し出した。

 五郎はその手を握った。


 夏の座敷で握ったときと同じ、厚く乾いた手であった。あのときは、小細工を詫びると言って頭を下げてから差し出した手である。むしろ好感が持てた。この強かさ、薄汚さを常に五郎も持ち続けねばならない。


 手を握り合う中で、新九郎が耳もとで呟いた。


「してやられた。だが、援軍と差し引きで今日は許そう」


 五郎も、耳もとで返した。


「十万の軍を打ち払ったのであれば、貸しにございます」


 互いに口を離した。

 手も離れ、一歩引いた。互いに作り物の笑みを浮かべた。長綱が、その二つの顔を順に見ている。


「まこと治部殿は良きお人よな。縁をつないでくださった伯母上には頭が上がらぬ。幸運によって得た縁、途切れぬように強くせねばな」


「新九郎殿ほどの方にそう言われるとは、関東を駆けた甲斐がございました」


 そう言って、互いの目の奥を探り合った。


---


 上杉が退いたのは、それから数日後である。


 想定よりも遅かった。新九郎を通じて聞いた限りでは、どうやら今の状態で今川の襲撃を恐れ、また山内方内部の疑心暗鬼で動けなくなっているとのことだった。

 五郎はあらためて両上杉へ兵糧を貸し与え、退く間は決して攻めぬという文を書いた。二通とも五郎の自筆で、花押を押した。

 俵も焼いた蔵から出したものはなく、駿河から運んだ米である。焼いた側が焼かれた側へ米を貸す形になったが、そこを気に病んでいる者は、こちらにも向こうにもいなかった。


 文と俵が届いてようやく安心したらしく、彼らは北へ発った。互いに見張り合いながら、ゆるゆると歩を進めていった。


 旗が武蔵の野の向こうへ消えるのを見届けてから、五郎は陣を払った。


 最後まで見ていたのは、退く上杉軍の足の速度である。苛立ちを覚えるほどに遅い。

 手負いを乗せた荷駄が多く、日のあるうちに進める距離は知れていた。あれで河越まで何日かかるか、と思った。


 帰路の途中、小田原には寄らなかった。

 新九郎は形だけは残念がった。五郎も形だけ名残惜しそうにした。


 あくまで陣中で新九郎に持て成してもらった、ということにして、街道をそのまま西へ抜けた。城下に入れば、こちらの兵をどこかへ入れねばならず、酒も出る。つまり、おそらくだが、死人も出る。それは御免であった。


 葛山中務少輔は残念そうであった。

 城下で一晩は持て成せると思っていたらしい。ずいぶん前から兄と話をつけていたようで、支度の中身まで並べてきた。


 残念そうであったが、それ以上に嬉しそうでもあった。兄の家を救い、今川と北条の縁をつないだ。そのことが嬉しいらしい。別れ際に、兄からの言伝をこちらへ丁寧に取り次いだ。取り次ぐ声に、詰まったところが一つもなかった。


 新九郎は、この男に裏側を言っていないようであった。おそらく今後も長く使うつもりなのであろう。

 嬉しそうな顔を後ろめたく思いながら、五郎は緩やかに兵を進めて自領へ帰った。


 駿府へ着いたのは、小田原を素通りしてから数日後である。


 駿府で盛大な凱旋を行い、大仰に皆を褒め、旅装を解いた。

 そして、そこからが仕事の本番だった。


 まず感状と褒賞である。


 感状についてはまず問題なかった。腕がちぎれるほどに筆を動かせば済んだ。

 問題は褒賞である。

 

 此度の戦で、今川の所領は一寸も増えていない。武蔵は要らぬと自分で言った。増えていないのだから、土地を与えるのは難しい。

 だが、大功のあった備中守と兵部少輔に何もなしというわけにはいかなかった。無いところから出すのが、いちばん頭を使う。安房守と二日かけて算盤を弾いた。


 まず、備中守については、褒美を先に渡してあるようなものである。信濃の旗頭に据えたのが、それであった。ゆえに銭束や馬、太刀などをうんと積んでどうにかなった。


 兵部少輔はそうはいかない。


 五郎は、悩んだ結果、ちょうどよいとばかりにこの男の役を上げた。駿河の譜代を移した跡地が空いていたので、そこへ千石ほどを与えた。おそらく弟に分けるだろうと見ていた。それから、甲斐で二千を預かる守備の頭から、駿府詰めの将へ移し、役料も上げた。


 足りない分は、北条から出た銭で埋めた。

 随分な大盤振る舞いだと、兵部少輔は喜んでいた。頭を下げたまま、しばらく上げなかった。

 喜ばせたのはよいが、これで周りの目が集まる。甲斐から下って三年の男が、一部の譜代を追い越したことになる。次に同じ使い方はできないだろう。


 それらが済むと、次は戦死した者の遺族への文である。


 こちらも自筆である。

 銭を添え、名を書き、討たれた場所と、その者が何をしていたかを一行だけ入れた。関戸で郷倉を焼いた者、小野路の谷戸で槍を使った者、江戸の陣へ夜に入った者。

 書きながら、思い出せる顔は少なかった。ほとんどは、名簿の上でしか会ったことのない者である。それでも、書くのは自分でなければならなかった。


 結局、十日あまりかかった。今後はこのあたりの仕事も何か考えなければいけないと、肩を落とした。


 それらの仕事を終えた日、五郎は一人、庭を眺めて肩を回した。

 肩が固い。この一月、鞍の上にいるか、机の前に坐っているかのどちらかであった。


 一人と言ったが、護衛はいる。庭師の身なりをした者が二人、松の根方で枝を拾っていた。女中に紛れているのが幾人か。草の者である。

 幕府の使者を追い返し、関東に出てからはこうすることになった。手段を選ばない敵が増えたため、もはや我儘は言えなくなった。 


 今後もさらに自分の自由にできるところは減っていくだろう。だが、それはきっと大したことではないのだろう。

 

 そう考えていると、向こうから人影が歩いて来た。


 背筋の伸びた北川殿。走りだそうとするのを必死にとどめている芳菊丸。それとおずおずと歩を進める朝姫。この三人とその側付きらが一塊になってこちらに来ていた。

 

 一団は五郎の少し前に止まり、先に上げた三人だけが前に出た。口を最初に開いたのはやはり芳菊丸であった。

 もう我慢が出来ぬとばかりに、わっと言葉を浴びせた。


「御屋形様、この度は戦勝おめでとうございます。十万の軍、鎧袖一触であったと聞き及んでおりまする。是非にこの戦について芳菊丸にご教授くださりませ。それに関東は如何でしたか」


 五郎は自分の肩を揉んだ。やはりひどく凝っていた。


「芳菊丸も駿府の守りご苦労。戦については話半分にせよ」


「相手の総数は五万程度であったということでしょうか。確かに軍記物なども実際は号した数の半分もあればよいですが」


 芳菊丸は鼻息を荒くした。何かがこの子の琴線に触れているらしい。芳菊丸は普段どちらかと言えば冷静な方である。あまりの変わりように五郎は少し引き気味に答えた。


「号して十万、そこに嘘はないが。十万を真っ向から打ち払ったわけではない」


「と、仰りますと」


「芳菊丸。戦でお疲れの御屋形様を煩わせるのが家臣のやることですか」


 助け舟を出したのは北川殿であった。


 芳菊丸が引き下がった。心底聞きたくてたまらぬ、という顔で、恨めしそうに頭を下げる。


「申し訳ございませぬ。無作法でございました」


 芳菊丸は欠片も納得のいっていない顔である。五郎はため息をついた。


「芳菊丸。宮内を捕まえて聞け。あれはずっと付いていた。許す。下がれ」


 それを聞くと、芳菊丸の顔がぱっと明るくなった。

 呆れた顔をしている北川殿を一瞥し、それから深く頭を下げて、早足で去って行った。庭木の陰を曲がるとき、もう小走りになっていた。


「宮内殿と近づけるのは感心いたしませぬ」


「股肱にございまする。質が悪いのは否定しませぬが、承菊より幾分ましかと」


「どちらも変わりませぬ」


 北川殿が額に手を当てた。

 脇で、朝姫が目を白黒させている。北川殿の後ろから半歩下がったまま、動かずにいた。


「霧姫殿、京にお戻りになられましたよ」


「でしょうな。そんな顔をしておりました」


 大館伊予守と話した日である。

 廊下を歩く背へ、庭先や部屋の陰から幾つかの目が向いていた。そのうちの一つが、何かを訴えるような、縋るような目をしていた。


 あのとき、どう思われるかは捨て置いた。どうなるかは想像できたが、これも捨て置いた。結果、成るようになっただけである。


「正親町三条の御先代が体調を崩されたそうです。表向きはそう申されて帰りました。治部殿には挨拶もできず申し訳ないと、丁寧に礼を申しておりました」


「内実、治部に愛想がつきたのでしょう。姫は治部に京に上洛し、正しき武士としての責務を果たすことを望んでおられた」


「そう単純な話ではございませぬが、まあ、間違ってはいませぬ」


 北川殿が深く息を吐いた。


「治部殿、御身が散々甘やかした我が曾孫。あれは相当苦労いたしますよ」


「存外、頭は悪くありませぬ。猫もかぶれますれば、嫁ぎ先はさほど困りはいたしませぬでしょう」


「年頃の女人を、年頃の男が際限なく甘やかす。治部殿が思うより大変なことにございまする」


「そう思わば、止めればよろしかったのでは」


「口では娶らぬと言いつつも、最後は腹をくくる。そう見てもおりました」


「治部は、やらぬと言ったことはやりませぬ」


「ええ、そうでした。すっかり忘れておりました」


 北川殿は疲れた顔をして、踵を返した。額に手を当てたままである。

 援軍のことで何か言われるものと思っていた。北条は甥の家である。その甥のために孫が兵を出し、四日も囮を務めた。

 

 何か言葉が出ると身構えていた。思うほどのことはなかったのだろうか。

 いや、きっと忘れたのであろう。現に歩いて行く祖母の背中は、来たときより丸くなっている。


 見れば、残されたのは朝姫だけであった。

 北川殿について下がる頃合いは、幾度もあったはずである。下がらずに、そこに立っていた。胸の前で合わせていた袖が、いつのまにか解けている。


 周りの者も、いつの間にか一人もいない。松の根方にいたはずの庭師も、廊下の端にいたはずの女中も、煙のように消えている。

 どこの誰の指図か、いまさら確かめる気にもならなかった。指図した者が何を望んでいるかも、この娘をここへ残した理由も、いまさらであった。


 五郎はまず頭を下げることにした。


「朝姫殿、お気になさらず。援軍に行ったことと霧姫が帰られたことはさして関係がございませぬ。治部の性根の話にござれば」


「治部殿におかれましては、先の管領様との縁も切られ、重ね重ね、御恩ばかり」


 言いながら膝を折りかけている。そのままだと床へ頭をぶつける勢いであった。

 五郎は縁側に腰を掛け、朝姫から目を逸らした。


 上を見れば、空がぐずついている。今夜あたり、降るかもしれない。できれば雪がいい。上杉が困る。


「御恩と申されますが、そう思っておられるのは朝姫殿ばかりでございましょう。きちんと北条殿には含みを持たせました」


「は」


 朝姫がきょとんとした。

 やはりこの娘は、驚いたときだけ娘に戻る。それ以外は武士のようであった。


「お気になさらず」


「そう仰せられても、北条を御救いいただき、今川にばかり泥を被られては、申し訳が立ちませぬ」


 やはり頭を下げた。

 見てもいないのに、ごつん、と床に頭がぶつかる音がした。


 この生真面目さは、母方の血かもしれない。

 少なくとも伊勢方のものではあるまい。丘の上で笑いながら踏み込んで来た新九郎と、その脇で数珠を握り締めていた長綱を思えば、そう思うほかなかった。


「朝姫殿、ここに」


 そう言って、横を指した。

 朝姫は唾を呑み、ためらいながら横へ坐った。


 弓を引いていたときも、この娘は同じように坐った。あのときは、坐ってから体が固くなった。今日は初めから固い。

 裾が翻り、香の匂いが鼻をくすぐった。以前はつけていなかったはずである。


「治部は甲斐で随分人を殺しておりまする。罪のない村々を焼いて回り申した」


 朝姫がはっとした。

 構わず続けた。


「初陣では、東三河で飢えた民らを三千ほど峠に落としました。他にも塩座の商人を何人か、ありもしない罪で首をつるしたこともございます」


「あの、さきほどからなにを」


「つい先日も武蔵で甲斐と同じことをしてまいりました。農村を焼き、逃げ惑う者らに矢を射かけました。老若男女、許しを請う者、抗う者、区別なく惨く扱い申した」


 朝姫は息をのんだものの、それでも途切れ途切れ言葉をつないだ。


「それは、北条を救うため、でございましょう」


「無論、そういう面もございます。されど北条を強くしすぎないため、少々の小細工も致しました。こちらはまあ、御父君の新九郎殿もご存じですが」


 朝姫が今度こそ黙った。

 顔が伏せられているので、表情は分からない。ただ、喉が何度か上下した。膝の上の手は、指を揃えたまま動かない。


 庭では、風が松の枝を鳴らしていた。


「治部はそのような男にございます。ゆえ、どうやら思いを寄せていたらしき霧姫殿も本性を見て帰られました」


 言うと、はっとこちらを見た。

 その目には、幾つかのものが混じっていた。当惑、憂い、失望。そして、わずかな怒り。


「なぜそれを今、朝姫に申されるのです」


「朝姫殿が治部に嫁がれるからです」


 目が見開かれた。朝姫は聞いてはいたはずだが、明らかに驚いていた。


「これは断ってもよい、などとは言えぬ話にございます。なれど、朝姫殿が受け入れられぬというのであれば、また別の落としどころを考えたく」


「落としどころとは」


「さて、それはまだ考えておりませぬ。されど、余白で許される部分で最大限配慮いたします」


 嘘であった。


 正室として置いておき、子は別に作ればよい。そう考えている。無論、生んでくれる女性がいるか、これは見当もつかない。だが、朝姫に拒絶されれば迫るまいと決めていた。

 また、朝姫が男を引き入れたところで、うるさくは言わぬつもりであった。さすがに子ができれば困るが、それ以外なら無体には扱わない。


 考えてある落としどころは、初めからそれ一つである。別のものを考えるつもりも、いまのところなかった。


「一つお伺いしても」


「いくらでも」


「なぜ、今それを申されたのです。黙っていてもよいではないですか」


「治部の如き愚物に身を預けるのはお辛いでしょう。形だけで済ませたいとお思いならばそれでよいと思った次第にて」


 朝姫が眉を寄せた。

 しばらく黙り込み、それから、同じように空を見上げた。


 二人並んで空を見ている形になった。庭の向こうで、下男が桶を運ぶ音がする。人払いの外までは手が回らなかったらしい。


 朝姫がまた口を開いた。先ほどよりも言葉がはっきりしている。


「御言葉に甘えて、もう一つ。先ほど申された余白とは」


 そこに引っかかるのか、と思いつつも、五郎は答えた。


「今川の当主としての責務の外にございます。この外ならば何に気を払おうが許されましょう」


「甲斐や武蔵を焼いたるはその余白の内にございましょうか」


 五郎は息を吐いた。白い息が上へ流れた。白さはそのうちにどこかに消えた。


「どう答えようが卑怯ゆえ、お許しください」


 また朝姫が黙った。黙り込み、考え込んだ。

 だが、それから、すくと立ち上がり、縁側から離れた。


 五郎は、そこで考えを切り替えた。


 まず、朝姫の離れを建てねばならない。館の東の、日当たりのよい方がよかろう。

 番匠は年明けでよい。世話役には心得た者を置く。奥のことだから、母に一度は通しておかねばならぬ。


 家が傾かぬ程度の我儘であれば、すべて許してやればよい。それで話は済む。


 そう思った先で、また、ごつん、と音がした。


 見れば、朝姫が平伏し、床へ頭をぶつけていた。


「不束者にございますが、よろしくお願いいたします」


 そう言ってから、頭を上げた。

 額が赤くなっている。


 気の強そうな眼差しが、こちらを射抜いていた。

 どうやら、自分の婚姻は成ったらしい。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


また書き溜め出来次第投稿させていただきます。

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― 新着の感想 ―
北条が助けてもらってなお今川相手にやや強気に出ている、強気に出ようとするのがわからない。10万を打ち払ってもらって尚、何か言えることってあります? 自前で河越してないわけですしね。 内心どう思っていよ…
腹の座った姫君、さすがは早雲の娘ですね
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