5章_16
時は払暁であった。
左馬頭はこのところ寝つけない。
褥に入っても、目を閉じているだけで、朝になる。夜のうちに幾度か起き、また横になる。それを繰り返して、今日も外がうっすら白んできた。
医師は薬を置いていったが、よく眠れるという話であり効果に嘘はなかったが、飲むと昼まで頭が重い。それゆえに二日で飲むのをやめた。
飲まねば眠れず、飲めば眠りすぎる。どちらにしても、こちらの都合で目が覚めるということがない。何もせぬか、やってほしくないことまでやるか、まるで山内上杉そのものに思えた。
左馬頭の眠りを妨げているのは、家中への不満だけではない。
扇谷の修理大夫が倒れたのだ。ちょうど五日前であった。
病である。医師は疲れが溜まったのだと言ったという。
あの日、幕を出て行くのに両脇から支えられていた背中を思えば、驚くほどのことではなかった。
きっと、あの男も眠れなかったのだろう。
見舞いを出すかどうかを、こちらが尋ねる前に、但馬守が使者を立てていた。文面も見せられていない。
それを潮に、江戸の囲みは徐々に解かれつつある。
北条との内談は、もう決まったに等しい。
小弓公方の勢も、房総の勢も、日を追って陣を離れている。急に引き払うのではなく、少しずつ人が減っていく。内情は聞いていないが、今川の火が自領に及ぶのを恐れたのだろう。旗自体は減っていないが、嫡男などを戻しているようだった。
左馬頭は但馬守によいのか、と聞いた。返ってきた答えは、見て見ぬ振りをしろ、山内上杉のことを第一に考えろ、というものだった。
但馬守の言葉は正しい。今、今川に睨まれているのは山内上杉だけである。
今川は甲斐口へ回り、山内の兵と睨み合っているという。国元からの知らせがあった。
こちらは今川領の甲斐に軍勢を差し向けている。敵意を向けられるのは当然のことでもある。
左馬頭は少々肝を冷やしていたが、但馬守はどこ吹く風であった。
それは撤退のあとで話し合えばよい、むしろ国境を決めるのに役立ちましょう、といった具合である。
北条側を通じてこれを抑える算段が出来つつあるようだった。
信用できるのか、と言い縋る左馬頭に対して、但馬守は万事お任せくださいと頭を下げるだけである。
左馬頭が口を挟む隙がなかった。
国もとへ兵を戻す手配も、もう始まっていた。誰がどこへ何人という書付が全て決まった後、こちらに回ってきている。
どれもこれも、こちらの与り知らぬところで進んでいた。決まってから耳へ入る。決まる前に相談されたことは、この半月に一度もない。
どれも、悪い決め方ではなかった。悪くないから、こちらも異は唱えなかった。唱えないでいるうちに、訊かれなくなった。
それが怖かった。
このまま、自分は何もせずに帰るのだろう。そして十万の軍を率いながら、何もできなかった当主として責められる。
嫌になる。そう考えながら、左馬頭は幕の天井を見ていた。
耳を澄ましても、人の動く音がしない。
ひと月前まではそうではなかった。
夜明け前になると、江戸城の方へ人を出して声を上げさせた。城の中の者に眠らせぬためである。寝ずの番が交代する足音があり、馬を曳く音があり、火を焚き直す音があった。厠へ立つ者の咳払いまで聞こえた。
それが今はない。人が減ったぶんだけ、静かになったのではない。残っている者も、動かなくなっていた。
そうやってぼうっとしているところに、音がした。
陣太鼓である。かすかに、遠くで鳴っている。
左馬頭は身を起こした。幕の外に控えていた護衛が、こちらの気配に気づいて顔を向けた。
「如何されました」
「いや、陣太鼓の音がした」
「気のせいでございましょう」
そうよな、と思った。もうここで戦いなど起きるはずがない。
北条は何もせずとも江戸城の包囲が解ける。こちらも攻められない。今川も甲斐を救いに行ったと聞く。
疲れすぎている。
そう考え、横になり、目を閉じた。
そこへ、突如として怒号が来た。
「山内勢だ、山内勢が切りかかった」
「竜春丸方だ」
「味方じゃない、切れ」
跳ね起きた。
起きたときには、もう遅かった。
あちこちで矢の飛ぶ音がする。幕の上を掠めて行くものがあり、どこかの柱に当たったらしい音が二度した。何かが倒れる音がして、そのあとに火のはぜる音が続いた。
馬蹄が幕のすぐ外を過ぎていく。一騎ではない。過ぎて、少し先で止まり、また走り出した。
怒声は一つではなく、幾つも重なって、どれが誰のものか分からない。
切れ、という声と、待て、という声が同じ場所から上がっている。
幕を割って、人が入って来た。寝ずの番についていた者である。
左馬頭は具足を着けていない。少しでも眠れるようにと幾日も前から、就寝時は夜着の上に小袖を引っかけただけである。刀は枕もとにあったが、掴んだきり、鞘から抜くことも帯びることもしていなかった。
「なにが、なにがあった」
「夜襲にございます。竜春丸様の手勢がこちらへ攻め入ったと」
竜春丸は先代の実子。左馬頭を追い落とそうとしている派閥の神輿だ。どれだけ自分が邪魔でも、夜襲などかけるはずがない。
だが、事実夜襲は起こっている。
「そんなわけ」
言っている間に、火の手が上がった。
幕の布地が、外から赤く染まる。染まったところが、揺れるたびに形を変えた。
馬が嘶き、そこかしこで悲鳴が上がり始めた。悲鳴は、上がってすぐ止むものと、長く続くものとがある。
「どうすればよい」
訊いてから、寝ずの番の顔が歪むのが見えた。
この男は、こちらに訊かれると思っていなかったのであろう。失望しつつも、気を取り直す。
ああ、そうだ。
自分が命じなければならない。
だが、何を言えばよいのか。誰がどこにいて、どれだけ来ているのかも分からない。分からぬまま命じれば、味方が味方を切る。外で上がっている声が、まさにそれであった。
「た、但馬守を呼べ。急げ」
「御屋形様、但馬守様は今陣を離れておりまする」
あ、と思った。
そうであった。
北条との話をつけるため、内密に向こうの家臣と会うと言って、昨日から出ている。どこで会うのかも、いつ戻るのかも、聞かされていない。聞かなかったのはこちらである。訊けば教えたのかもしれないが、訊かなかった。
そこへ、また外から声がした。
「但馬守が裏切った」
「但馬守は竜春丸に寝返ったぞ」
ぐらん、とした。
立っているつもりで、足の裏が畳から浮いたようであった。何が起きているのか分からない。分からないまま、外の混乱だけが大きくなっていく。
「ま、誠に但馬守が裏切ったのか」
あの男は裏切りなどしない。
ずっとそう思っている。頼りにして来た。家中で誰が何を言おうと、この男だけはこちらの側にいると思っていた。
だが、それが揺らいだ。
先日、修理大夫をあっさりと切り捨てた顔が、目の裏に残っている。扇谷側に汚名を背負わせ、軍を引ければだれも責めは致しますまい。子供に言い聞かせるように、そう言った。
あのとき、この男は北条の文を先に持っていた。北条や小弓公方と話を付けた後、こちらには最後に見せた。
「わしも、切り捨てるのか」
声が掠れた。
護衛が顔を歪めながら、こちらの腕へ手をかけた。分厚い手であった。掴まれたところから、少し意識が戻った。
「但馬守様のことはわかりかねます。この夜襲についてもです」
寝返り、寝返り、という声が、外でどんどん大きくなっていく。
屈強な男が、泣きそうな顔をしていた。それでも、二の句を継いだ。
「御屋形様、一先ず軍を纏めるほかないかと。ここを脱さねば何もわかりませぬ」
そうだ。そうしなければならない。
まず軍をまとめる。まとめて、夜襲をかけた者どもを追い返す。
「だれか、だれかあるか」
左馬頭は声を上げた。
陣の外は火と音で溢れている。
走る足音は幾つも通り過ぎる。過ぎるだけで、こちらへ寄って来る者がない。旗は幕の脇に立ててあるはずだが、夜明け前の薄明かりでは、外から見えているのかどうかも分からなかった。
「だれか」
その声が、喧騒に飲まれて、自分の耳にも遠く聞こえた。
そこへ、数騎が駆けて来た。
薄暗闇の中、目を凝らせば確かに山内の装いである。
左馬頭は、肩から力が抜けるのを感じた。
だが、すぐに身を固くした。
馬上の者たちが、槍を振り上げたのである。
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長尾但馬守と北条側とのすり合わせは、落としどころに至るまで丸一日を要した。
江戸城にほど近い寺の一間で、北条方の僧と向かい合ったのが、前日の朝であり、終わったのも朝である。
ただ落としどころ自体は、驚くほど明確である。
城については北条方とする。城から北の領については、白紙とする。この簡単な約定を詰めるのに、夜通しかかった。
紙に落としたのは二枚である。一枚は寺に預け、一枚は但馬守が懐へ入れた。
判はまだ押していない。押すのは軍を退いてからということにした。
ちなみにごねたのは北条側である。
僧は歳のいった男で、口ぶりは終始柔らかであった。柔らかいまま、こちらの言い分を一度も呑まなかった。
扇谷が壊れたことの重さを、向こうもよく分かっていた。それでもう一押しされたくなければ、今少し手土産を、と暗に欲した。
事実、扇谷の軍が崩れたいま、武蔵の大半はいま主のいない土地も同然である。山内が認めさえすれば、国人らも北条に靡く余地は大いにあった。
ゆえに、長尾但馬守は、江戸に山内の二万がまだ残っていることを述べ、甲斐口の二万は一兵も損じていないことも付け加えた。これで僧がひるんだので、追い打った。山内以外の関東の家々も、動かそうと思えば動かせる、そう匂わせたのだ。
結果、僧が引いた。
左様ですか、無論当初の文の約定は崩すつもりはございません。などとしゃあしゃあと言ってのけた。
腹立たしいが、ここを責めるつもりは但馬守にはなかった。
今川の三万五千が怖い。
ただ、今川の兵が怖いからと言って江戸城以北は譲らない。というのも今川兵は怖いが、北条にとっては借り物である。借り物を前に置いて話をするわけにはいかない。無論、それはこちらも同じことである。ゆえに、互いに匂わせ、話を二巡、三巡としただけで終わらせることができた。
十万の兵を率いて負けたにしては、簡単に済んだものである。
それにこれで扇谷にも土産ができた、と但馬守は内心で喜んだ。
江戸城から北は白紙である。武蔵の北は扇谷の膝元だから、これで扇谷は多少は面目を保って軍を引ける。山内が退く理由として泥をかぶってもらったが、その分の見返りはこれでできたはずだ。
修理大夫は寝込んでいるが、美濃守に見せれば渋々でも納得すると見ていた。
これでまず撤退は上手くいく。
そう思いながら馬を出し、江戸城の陣が見えるあたりまで来て、但馬守は息を呑んだ。
「待て、なんだあれは」
但馬守の側付きが指を指した。
その指の先、江戸城の陣から火が上がっていた。
火だけではない。陣に立っている山内の旗が、明らかに少なかった。半分ということはない。それよりも少ない。
「行くぞ、急げ」
「但馬守様。お待ちください」
追従する者らの制止を放って、馬の腹を蹴った。彼らはすぐに追いつき、但馬守の周囲を囲んだ。
一行が近づくにつれ、有り様が分かってきた。
道の端に、傷を負った者が坐り込んでいる。手当ての済んでいない者が多い。布を巻いてもらった者は、巻いた者がそのまま隣にいた。
焼けた陣幕が、支柱ごと倒れて煙を上げていた。人が倒れており、動かないものと、まだ呻いているものとがある。呻き声は一つではなかった。
馬が三頭、綱の切れたまま道端の草を食っていた。鞍が横へずれている。
「但馬守様、あれを」
指さした先を見ると、知った国人衆の陣幕が、丸ごと焼け落ちているのが目に入った。
誰の家かはすぐに分かる。触れを回したとき、いちばん先に応じた家である。人を立てて頼み込む前に、向こうから兵の数を書いて寄越した。あの返事が来たとき、これで他の家も動くと思った。
その陣幕の近く、兵糧を積んでいた場所も焼けていた。
俵の形のまま黒くなって崩れ、まだ煙が出ている。焼けた米の匂いが、道まで流れて来た。
その脇で、兵が数人立ったまま見ていた。何もしていない。消せるものが残っていないのであろう。一人が竿で灰を突いて、また戻していた。
「何人かはここで話を聞いてこい」
「但馬守様は」
「馬鹿者、本陣だ」
但馬守は側付きを叱りつけ、また馬の腹を蹴った。
目に見えるものはそこから大して変わらなかった。本陣に近づいてもましにならない。
但馬守の動悸が激しくなった。
これはもしや、という思いが治まらなかった。
あまりに長く感じた道のりを踏破し、主君の陣幕の前で、但馬守はようやく馬を下りた。
本陣の有様を見て側付きが目を見開いた。
まず幕が切り裂かれている。三箇所ほど、上から下へ真っ直ぐに割れていた。そしてその割れ目の縁が、黒く汚れている。血であった。
「まさか、御屋形様」
「馬鹿者、滅多なことは申すな」
否定はした。だが内心では但馬守も同じである。
それゆえに、知らず知らずのうちに走り寄っていた。
だが、あと一歩というところで、止められた。
左馬頭の護衛の男である。名までは覚えていないが、顔は知っていた。具足の左肩が裂け、そこから下が黒く汚れている。立ち方が、片足へ寄っていた。
側付きのものが怒鳴りつけた。
「無礼者、但馬守様である。良く見よ」
「恐れながら、お入れできませぬ」
何をふざけているのか。
今度は但馬守が怒鳴りつけようとしたところで、幕の中から人が出て来た。
箱を抱えている。医師の格好であった。着物の袖と胸に、血がついている。乾きかけていた。袖の血は、拭った跡が幾筋も重なっている。
「お待ちしておりました、但馬守様」
「言っておる場合か。御屋形様はどうした」
但馬守が言うと、医者はどこか胡乱気な目でこちらを見た。それから何も言わず、ただ道を空けた。
「御屋形様がお会いしたいと」
生きているのか。
但馬守は、胸を撫で下ろした。撫で下ろして、踏み出そうとしたところを、また護衛が止めた。
「刀はお預かりいたします。それから側付きの方はご遠慮願いたく」
「先ほどから無礼であるぞ」
側付きが間に立った。
「お許しください。されど、出なければ通せませぬ」
山内上杉の家宰である。家格で言えば、この男などは口をきくことも許されない。
だが、有無を言わせないものがあった。目の据わり方が、昨日までのこの男のものではない。
但馬守は眉間に皺を寄せ、鞘ごと刀を引き抜いた。
「馬鹿者が」
そう言って、投げるようにして渡した。
言い争っている暇はない。そう自分に言い聞かせて、幕の中へ入った。
「御屋形様、御無事で」
まず目に入ったのは、横たわる主君である。思わず言葉を無くすが、胸が小さく上下しているのを見て、深く息を吐いた。
左馬頭は生きていた。
ただ褥の上に臥し、天を仰いでいた。
だが、決して無事などではない。右腕の、肘から先がなかった。
巻いた布が幾重にもなっていて、その端が赤黒く滲んでいる。
布は新しく替えられたばかりらしく、外した古い布が枕もとの盥に沈めてあった。
顔には血の気がない。青いというより、灰色に近い色であった。その顔で、こちらを見ていた。
脇に、怪我を負った近習が数人いる。皆どこかに布を巻いていた。その者たちが、左馬頭の上体をゆっくりと起こした。起こすまでに、しばらくかかった。
「但馬守、貴様か、わしを」
「なんでござろうか」
微かな声のため、良く聞こえなかった。但馬守は膝を進めた。褥の脇の畳が湿っている。何かが染みて、まだ乾いていなかった。
左馬頭が、左手を伸ばして但馬守の胸倉を掴んだ。掴んだまま、耳もとへ口を寄せた。
「わしを売ったのか」
底冷えのする声であった。
十三かそこらの、古河公方の御曹司が出せる声ではない。先日の修理大夫と同じである。人というものは、これほど短い間に変わるものかと思った。
但馬守は、驚きを内へ収めて、唾を呑んだ。
それから、極めて穏やかに、その左手を自分の両手で包んだ。
冷たかった。指の先が氷のようで、握っている力も弱い。この手で胸倉を掴んだのかと思うほどであった。
「何も、売ってなどおりませぬ。北条との内々の会談に出払っていただけにございます」
左馬頭は、じっとこちらを見ていた。
包んだ手を、振りほどこうとはしない。ただ、力も抜けない。
ひどい目である。
初めて会ったときのこの子は、屈託のない子犬のような目をしていた。古河から養子に来て、家中の顔ぶれを一人ずつ覚えようとしていた。誰の名も間違えなかった。
それがいま、飢えた野犬のようになっている。血走って、瞳孔が開いていた。
但馬守は目を逸らしたかったが、逸らさなかった。長く家宰を務めた勘が、ここが肝要と訴えていた。
勘は正しかった。
そのうちに、ふっと、左馬頭の左手から力が抜けた。
「許せ。夜襲を受けた。そこもとが竜春丸に付いたと、わしを討ちに来たと、夜襲の最中に聞こえた」
それでか、と思った。
それでこの有様なのである。旗が半分どころではなくなり、味方の陣幕まで焼けている理由が、それで分かった。
「但馬守は疑われるだけのことをしております。致し方ありませぬ。今はただ御命があっただけで何よりにございます」
「すまぬ」
それだけ言って、左馬頭の体からも力が抜けた。
糸の切れた人形のように、但馬守の体へもたれかかってくる。
「御屋形様、お気を確かに」
呼びかけたが、答えがない。
医師がすぐに寄って来て、左馬頭の体を褥へ横たえ、左の手首を取った。しばらくそうしていた。
「御眠りになられただけにございます。今すぐにどうこうにはなりませぬが、安静にするほかございませぬ」
無理もない。
腕を一本、落とされたのである。
但馬守は深く息を吐き、眠っている左馬頭を見下ろした。
子供の顔であった。目を閉じてしまえば、ただの十三の子供である。夜着の下で、右腕のあるはずの場所だけが、平らになっていた。
それから、医師たちへ頭を下げた。
「御屋形様のことよろしくお願いいたす」
医師も近習も、一様に頭を下げた。
但馬守は幕の外へ出た。この場で騒げることではない。
出口で、護衛が刀を差し出した。受け取るとき、その顔を見た。申し訳なさそうな顔をしていた。
「許す。当然のことである。その代わり知っている限りを申せ」
護衛が静かに頭を下げた。
「夜襲のことでございましょうか」
「まず、何処のものだったのだ。どれだけやられたのだ」
護衛は、ゆっくりと話し出した。
ことの始まりは払暁であったという。
突如として、山内上杉が裏切った、竜春丸が寝返った、但馬守が竜春丸に付いた、という声が上がった。声はあちこちから上がり、それとほぼ同時に、方々で火が着いた。
どこから火が出たのかは分からない。分からぬうちに、味方が味方を切り始めた。
誰が敵か分からないので、動いている者を切る。切られた側もまた切り返す。切り返された者が声を上げると、その声を聞いた者がまた駆けつけて切る。それが陣中に広がった。
止めようとした者もあったという。止めようとして前へ出た者から先に切られた、とこの護衛は言った。
その最中、数騎が本陣へ入り、左馬頭に斬りつけた。
装いは山内のものであったという。旗も差物も、こちらのものと変わらなかった。だから、寄って来たときに誰も止めなかった。
日が昇るころには、同士討ちと合わせて、江戸に詰めていた二万程度の山内勢は大きく数を減らしていた。
「それだけか」
但馬守が問うと護衛が顔を顰めた。
それから、おずおずと口を開いた。
「二つございます。一つは此度の夜襲で、同士討ちも相まって、小弓、房総勢も少々被害を受けておられました」
はっと息をのんだ。それから小弓、房総勢の陣取っていた方角を見た。
当然だが何もない。但馬守は声を潜めた。
「まさか、こちらに敵対をしたのではないだろうな」
「いえ、一先ずは江戸城から離れられただけにございます」
痛い、と但馬守は思い、眉を寄せた。
この戦で、小弓とも房総とも、間を良くしておくつもりであった。北条を相手に一つの陣を張ったという形は、あとあと使える。半年かけて触れを回したのは、そのためでもあった。
それが逆に転んだ。今度のことで、あちらは山内を数に入れなくなる。
ただ、こちらへ兵を向けていないだけましである。北条の目の前で馬鹿をやらぬだけの思慮は、向こうにもあった。
但馬守は頭を抱え、髪をかき乱した。
「してもう一つは」
「兵糧が」
それがあった。来るときに、焼け落ちているのを見た。
「扇谷に、いや、難しいか」
扇谷から借りる、武蔵衆から出させる。どちらも、まず無理であった。
扇谷も武蔵衆も、自領を広く焼かれている。焼かれていない家もあるだろうが、いま関東勢のために蔵を開けるかどうかは分からない。下手に手を貸す姿を見せれば、次に今川に焼かれるのはその家である。
誰もがそれを知っている。知っているから、開けない。
この一年、この関東で何が起きたかを、いちばんよく学んだのは国人衆である。
「但馬守様。此度の夜襲、やはり竜春丸様が」
「やめよ」
護衛が言い出しかけたのを、但馬守は制した。
「やめよ。敵方の策に決まっておろう。先代様の御子様がそのようなことをなさるはずがない」
「ですが、北条とは話が固まっていたはずにございます。今川は甲斐口。ならば、やはり竜春丸様が」
「それ以上、申せば首を落とすぞ」
「某の首などいり申さぬ。御屋形様はあの御年で腕を落とされたのですぞ」
あまりの剣幕に、言葉が詰まった。
この男の見立ては、筋が通っている。
現状、北条が前へ出る理由はない。話は固まり、山内方は軍を引くと決めた。山内方を今さら叩けば、江戸城の包囲を解く、江戸城を北条方のものと認める話自体が壊れる。
また今川に関しても、甲斐口にいると、国元から知らせが来ている。
左馬頭に刃を向けうるものの内、残るのは竜春丸を担ぐ者である。
だが一方で納得もできていない部分があった。本当に、竜春丸がこんなことを命じたのか、という点が飲み込めない。
同じ山内上杉相手に夜襲を命じるはずがない、と言っているのではない。
当主の首を狙う者が出るのは、家というものにはよくあることである。
そうではなく、同じ家の者同士で、陣ごと焼き払うような夜襲をかけられるか、という話であった。
焼けたのは本陣だけではない。国人衆の陣幕も、兵糧も焼けている。竜春丸を立てたい者にとって、あれは自分の兵であり、自分の兵糧である。
村を焼き、道を潰し、人を追い払い、二万を誰にも見せずに回した。あれと同じ手つきである。
まるで、これらは今川のやり方であった。
そう考えたところで、但馬守の中で何かが繋がった。
北条と山内上杉が繋がったように。
こちらが寺で僧と向かい合い、城から北は白紙と書いていたそのときに、ほかの者らが繋がらないと、なぜ言えようか。
「まさか、そこと繋がったか」
但馬守は唖然とし、天を仰いだ。




