8
翌日、千代丸は来なかった。
雨はまだ止まない。
朝方には細くなり、昼には庭の土が少し乾くかと思えた。
だが、夕刻になると、また雲が低く垂れ、軒先から雫が落ちた。
畳も、柱も、衣も、どこか水を含んでいる。
火を入れても、部屋の奥までは乾かない。
廊下を歩く者の足音も、いつもより鈍かった。
龍王丸の前に、女房が控えていた。
千代丸を伴ってはいない。
「千代丸は」
龍王丸は、書から顔を上げずに言った。
女房は一瞬、答えに詰まった。
それから、静かに頭を下げる。
「咳が出ておりますゆえ、本日は控えさせました」
病の子を、若君の前へ出さぬ。
当然のことであったので、龍王丸は何も言わなかった。
千代丸については、たびたびあったことであった。
年だけを見れば、千代丸は龍王丸より幾分上である。
だが、発育が悪く、ぱっと見ただけではどちらが年長か分からない。
たびたび寝込み、そのたびに食うや食わずの期間があった。
その分だけ、彼の体は小さく押しとどめられていた。
そして、その小さな体と青白い肌が、彼のひ弱な印象を強くした。
誰もはっきりとは言わないことであったが、名門由比の嫡流に近い男子でもある千代丸は、期待されてはいない。
正確には、期待されなくなった。
頭の回転も、胆力もある。
だが、館に上がってから寝込むことが多くなり、元服は難しいと実の親でさえも考えている節があった。
龍王丸は千代丸の生い立ちを頭の隅に追いやると、女房に問うた。
声色は穏やかに。
淡々と用件だけを。
短くした、意識的な問いだった。
「水は」
「湯を冷ましております」
「敷物は」
「替えております」
「熱は出ているか」
「少しございますが、半年前、長く寝込んだ時よりは低うございます」
だから大丈夫、ということだろう。
ただ、龍王丸は少し納得しなかった。
半年前の千代丸は、今の千代丸より頬が豊かだった。
日々見ていると分からないが、徐々にあの幼子は痩せているのだ。
「息は穏やかか。眠れているか」
「はあ、落ち着いてはおります。眠りも深いと、同室の者が言っておりました」
龍王丸はふと気が付いた。
というより、答えに引っかかった。
「部屋を分けるよう申しつけなんだか。同じ部屋で寝ていた者は」
女房は顔を上げた。
少し戸惑い、大いに恐れていた。
「若君」
老側付きが、低く声をかけた。
渋い顔だ。
「女人をあまり細かく詮議するものではございませぬ」
老側付きの声は、強くはなかった。
詮議か、と龍王丸は疑問に思った。
この時代、熱を正しく量る術も、胸の奥を見る術もない。
とにかくこれを与えておけばよい、という薬もない。
素人の真似事だとしても、一つ一つ確認するしか、せめてあの幼子が生き残る可能性を上げる手段がなかった。
踏み込むか、踏み込まざるか。
また懊悩が龍王丸を襲った。
特に脳髄をかき乱すのは、昨日の御台様のとやり取りだった。
言いたいこと、やりたいこと、それを成すのが酷く重い。
ゆえに老側付きを見て、短く言った。
「うつるやもしれん。急ぎ分けよ」
誰もすぐには返せなかった。
龍王丸は、それ以上は説明しなかった。
「同じ部屋の者の名を教えよ。千代丸は大事にされている。難色を示すならば、私が」
老側付きの顔がさらに渋くなった。
彼の皴だらけ、傷だらけの手が、衣の裾を強く握りしめる。
どこかで雷が落ちた気がした。
老側付きが何事か決心したのを、龍王丸は感じた。
龍王丸も心を決めた。
そして、その間に与一郎がすくと立ち、紙を引き寄せた。
「控えます。申しつけがあるのであれば、与一郎が承ります」
老側付きがはっとした顔で、一歩下がった。
龍王丸も目を離した。
視線は、与一郎の持ってきた紙に落とす。
逃げたな。
卑怯者め。
龍王丸は自分を嘲笑った。
だが、その嘲笑も頭の隅に追いやる。
些事であるからだ。
すらすらと与一郎の筆が走った。
千代丸。
同じ部屋の者。
咳。
湯冷ましの水。
敷物。
熱。
龍王丸の述べたこと、確認したいこと、それぞれの確認内容ごとにどうするかも明確に記される。
ずいぶん字がうまくなった。
龍王丸はそんなことを思った。
親の縁で文書係を任された与一郎だが、当初は戦働きを望んでいた。
当然、字も虫が這いずったもので、龍王丸は顔をしかめそうになった。
それが少しずつ、読める字になっている。
今川の当主や重臣に出すには不足であるが、若手の文書係としては十分な水準だった。
変わらぬのは、悪くなっているのは二つだけだ。
一つは、千代丸の体。
もう一つは、龍王丸自身。
その両方をどうすればよくなるのか、龍王丸には見当がつかない。
---
二日目、千代丸はやはり来なかった。
雨はまだ降っていた。
同室の者は別の部屋に移り、千代丸は一人部屋になった。
寂しそうにしていたとは、水や重湯を運んだ女房の言だが、龍王丸は聞かなかったふりをした。
代わりに、また問う。
「重湯はこなせたか」
「半分ほどですが、何とか」
「水は飲めているか。咳はどうだ」
「飲んでおります。少し、先日より多いようです」
「熱は。医師は、何と言っている」
ここで女房が言葉に詰まった。
欲しいのは、内証を診ることに長けた医師だった。
今川家にも何人かいる。
彼らの多くは難しい漢書を読み解き、明より伝わる医の学を学んだ者たちだった。
「熱も昨日より高いと思います」
「医師は」
う、と女房が詰まった。
龍王丸は自分の失態を知る。
「いや、よい。公家衆のどなたかを回っているのだったな。戻った時に頼もう。以前、千代丸が飲んでいた薬湯は用意できるか」
「医学を修めたものでないと、難しいと。それに何を煎じたのかも、皆分からず」
葛根、麻黄、桂皮だ。
どれもどこにあるか、龍王丸は覚えていた。
以前、配合を見ていた。
医の書も読んだ。
だから、おおよそ理解していた。
そのことを口に出そうかと考えた。
だが、やめる。
素人知識で薬などいじるべきではない。
各生薬の分量、薬研でのすり潰し方、湯の温度、どれ一つとっても間違えられない。
余計に悪くなったらどうする。
公家衆の屋敷で歓待されている医師は、すぐに戻るのだ。
待てばよい。
「若君?」
女房は、黙り込んだ龍王丸を見ていた。
老側付きも龍王丸を見た。
その目には、何か言いたげな色があった。
だが、何も言わなかった。
龍王丸は眉一つ動かさず、何事もないかのように口を開いた。
「よい。よくやってくれている。医師が戻れば頼んでくれ。今日の昼には戻ろう」
女房と老側付きが頭を下げた。
言うべきであったか。
前に出るべきであったか。
分からない。
どうすればよいのか。
どうすれば間違えないのか。
龍王丸は分からなくなってきた。
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三日目、館の奥で咳が増えた。
雨がひどくなってきている。
雨粒が音を立てて降っている。
まるで、弥七の一件があった日のようだった。
増えた咳は、千代丸だけのものではなかった。
ほかに咳き込む者が増えた。
初めは廊下の端で、庭番の一人が咳き込んだ。
次に、厨の近く。
料理番の見習いだった。
その次に、女房部屋の奥。
新たに奥で働きだした若い女房だった。
まだ、館は大騒ぎはしていなかった。
誰かが倒れ伏したわけでもない。
この時期、この長雨ゆえに、珍しくもないと話にも出なかった。
庭番は同輩と膳を少し離し、料理番は口に当て布をし、その日は炭を運ぶようにした。
若い女房は、部屋の片隅で裁縫などをしていた。
気にしていたのは、龍王丸だけだった。
龍王丸は、戻ってきた医師を尋ねた。
薬草の匂いで満ちたその部屋には、二人の若い医師だけが薬研で何かをすり潰していた。
強い生姜の匂いがした。
二人は龍王丸を認めると、手を止め、背筋を伸ばした。
「桐島はどうした。戻っている頃だが」
居残りの医師のまとめ役である、中年男の名前を挙げる。
いささか金に汚いところ、女にだらしないところがあるが、藪ではないと評判だった。
今川家中では二番か、三番手の腕だ。
一番は、お館様の遠江鎮撫に付き添っている。
若い医師が答えに詰まる。
まただった。
「四辻様の御屋敷で歓待されております。姫君がすっかりよくなったとのことで、参議様が大変お喜びになられまして」
今川の金で立てた屋敷で、今川の金で用意した医師を、今川の金で宴を開きもてなす。
家中の者を後回しにしてだ。
龍王丸は自分の眉が少し上がるのを感じた。
だが、二人の医師に気づかれる前に、眉は下げる。
重要度は違う。
投資効果は大きい。
この二人は関係ない。
龍王丸の心が乱れるのを、たたかれた算盤が防いだ。
「咳をした者が増えている。千代丸という以前そなたらが診た者が特に酷い」
医師二人が顔を見合わせた後、水を得たかのように語りだす。
「千代丸様でしょうか。確か、以前は葛根を煎じたと」
「お体に合っておりましたようなので、まず此度もその処方がよいかと。ただ、念のため診察にうかがい、それから薬湯を用意させていただきます」
生薬が詰められたいくつかの棚を、片方の医師が開く。
小分けにされた生薬の棚が開かれるたび、部屋の匂いがきつくなった。
生薬の棚には番号が振られている。
若い医師が手を伸ばしたのは、十、二十一、三。
龍王丸の記憶にある棚の番号とは、最後が異なっていた。
半年前、最後は五だった。
龍王丸の口が開きかける。
だが、思いとどまった。
きっと場所を変えたのだろう。
邪魔をすべきではない。
このことも頭の隅に追いやり、別の事柄を口に出した。
「あと、庭番の五平。料理番の茂吉。最近屋敷に来られた女房の春殿も少し気になる。茂吉、春殿、五平の順で見てやってくれ」
移った範囲が広そうな者。
線の細い者。
まだ猶予のある者。
順に挙げる。
それを書き留めた医師の一人が、は、と頭を下げた。
やり取りを終えると、龍王丸は邪魔したとばかりに足早に医師の詰め所を出た。
本当は、桐島何某が千代丸を見るべきだ、宴席から連れ戻してこい、そんなことを言いたかった。
危うさを減らすには、それが一番良いと龍王丸は考えていた。
ただ、それは今までと何も変わらないやり方だった。
周囲に合わせなければいけない。
徳、仁、信、道義を重んじなければいけない。
「これでよい」
自室への道を歩みながら、龍王丸は言い聞かせた。
四日目、千代丸の熱は下がらなかったそうだ。
そのこと自体に、龍王丸は引っかかるところはなかった。
薬湯は、数百年後の薬とは異なる。
じわりじわりと効いていくものだ。
ただ、気になることがないでもなかった。
まず、千代丸の体調が昨日より悪いことだ。
医師の勧めで重湯ではなく粥に変えたが、二口飲んで残した。
水も少ししか飲めない。
夜はうなされているとのことだ。
次に、桐島何某が戻らないこと。
遊んでいるのではない。
四辻の縁で、最近駿河に下向した家を回っているとのことだった。
つまり、家中の面倒を見たのが、あの若い医師たちだけということになる。
女房がそれらを報せに来た時、龍王丸は腕を組み、雨雲をにらんだ。
眉を寄せ、眉間にしわを作った。
これは、決して普段はしないことだった。
若君、という老側付きの言葉で、龍王丸ははっとした。
女房がひどく怯えていた。
常の表情を作ると、普段よりゆっくりと問いをかけた。
「千代丸の咳に何か変わったところはないか」
「咳をすると、痛むと。あとはお耳汚しではございますが、痰が少し濁ったものが出ます」
「そうか」
龍王丸は短く言った。
それだけだった。
懊悩が渦巻く。
懸念が懸念を呼ぶ。
いっそ、己で診るべきか。
馬鹿な、と考えを追いやる。
病人を見舞い、うつされでもしたら、側付きだけでなく千代丸の実家にまで波及する。
「医師は何と言っている」
「じきによくなる、とだけ。滋養のよいものを体に入れれば、明日にでもと。可能ならば、卵を粥にとくべしとも」
与一郎の肩が、ぴくりと動いた。
「それはやめさせよ」
龍王丸は後悔した。
ぴしゃりと言った言葉に、冷たさが混じったことを自覚したからだ。
固まった女房をほぐすように、柔らかな声色を作る。
「医師たちはほかには何か申したか」
「何もございません。お二人とも、ほかのところに向かわれました」
「庭番らのところだな」
「いえ、新たに下向されたお公家様たちの御屋敷に。なんでも人手足らぬと桐島殿が申したとかで」
龍王丸は目を閉じる。
口も閉じた。
顔も一切動かさない。
力を抜けば、何かが漏れ出す気がした。
漏れ出した何かは、過ちを生む確信がした。
数を五つ数えた。
それから思考を巡らせた。
「御台様が許したのだろう。私の言付けで戸惑わせた医師らには、それとなく詫びを」
はい、と女房が頭を下げた。
彼女は龍王丸の胸中を察しなかったようだった。
そのまま、ご苦労と下がらせようとしたが、一つ、龍王丸の思考に引っかかった。
今度は聞いた。
これくらいは、と自分を許した。
「千代丸の顔は見たか」
問うと、女房はきょとんとした。
当然だ。
水を替えたり、汗を拭ったりと世話を焼いているのは彼女だ。
千代丸の顔は今朝も見ただろう。
「千代丸の小鼻は落ち、いや、鼻が細く尖って見えたか」
女房が小首をかしげながら、視線をさまよわせた。
「おぼろげですが、言われてみればそのように見えました」
みしり、と音がした。
音の出どころは、龍王丸の手元だった。
畳を小さな手がひっかいていた。
若君、と心配そうな声に、龍王丸は顔を上げた。
与一郎の金壺眼が間近にあった。
女房が、老側付きが、怪訝な顔で龍王丸を見ていた。
「若君、いかがされました。いささか顔色が」
龍王丸は彼らを見なかった。
見たくなかった。
分厚い雨雲に顔を向けた。
睨んだ。
問いの最中に、微動だにしなくなった若君を前に、周囲の困惑が強くなる。
いっそ人を呼ぶかと、老側付きや与一郎が腰を浮かせかかる。
それを押しとどめるように、龍王丸が言った。
「いや、大事ない」
穏やかな声だった。
「だが、少し疲れた。今日の手習いは休みたい」
その言葉に、老側付きは驚愕を隠さなかった。
龍王丸が乳飲み子扱いから、今の若君の待遇に変わり一年ほどたつ。
その間、一日たりとも手習いを休んだことはなかった。
休みたいと言ったこともなかった。
むしろ、暇な時間があれば書を手に取り読み返し、礼法の練習を行っていた。
老側付きは少し悩んだ素振りを見せた。
だが、これを喜ばしいことと受け取ったようだった。
「無論、ようございます。というより、十日に一度はお休みいただきたく。なにせ、指導役は教えることがなくなることを危惧しだしておりましたゆえ」
室内にいた者が、こくこくと頷いた。
「すまぬな」
龍王丸のその一言で、室内の皆が一部の世話役を残し、立ち去ろうとする。
その中に、与一郎の背中があった。
「与一郎」
龍王丸はその背中に声をかけた。
与一郎は足を止め、その場で跪いた。
退出しようとしていた者たちが、一様に停止した。
「遠間でよい、千代丸に声をかけてやれ」
「はっ」
「褒めて欲しがれば褒めてやれ。何を言っても叱りつけるな。すべて聞いてやれ」
「はっ」
二度目の了承の言葉には、疑問が混じっていた。
しかし、生真面目な与一郎は、命を静かに受け止めた。
「私がどうしているかと問われれば、何も変わらぬと答えよ。何も気にしてはおらぬし、淡々と書でも読んでいたと答えよ。また、体が治れば気になることは答えると伝えよ」
「はっ。千代丸めはきっと喜び、明日にでも床から這い出てきましょう」
龍王丸は、それには答えなかった。
また雨雲を見た。
雨雲に視線を向けながら付け加えた。
「千代丸の縁者が駿河にいるのであれば、見舞いに来るよう伝えよ。許す」
それだけだ、と締めくくると、与一郎は深々と頭を下げた。
立ち止まっていたほかの者たちと足並みをそろえ、部屋から去った。
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五日目の朝、小雨の中、桐島が戻った。
龍王丸が着替えの最中のことだった。
医師の詰め所の方が騒がしくなり、側付きの一人が様子を見に行った。
しばらくして、その側付きは顔をしかめて戻ってきた。
そして、事の次第を龍王丸に伝えた。
桐島は、どうやら相当な歓待を受けたらしい。
朝だというのに、足元がわずかに怪しかったという。
酒の香りを漂わせたまま医師の詰め所に戻り、若い医師に報告を受けている最中に、とうとう座したままうつらうつらしていたそうだ。
それを、たまたま通りすがった重臣の一人が見つけた。
そして、憮然とした顔で桐島の前に立った。
怒鳴りはしなかったが、相当険しい顔で言ったそうだ。
「よほど良い酒であったと見える。御台様は失礼のないようにと申したが、数日宴を共にせよなどとは命じておらぬはずだが」
それだけだった。
桐島の顔から血の気が引くのが見えたと、側付きの一人が言った。
しかし、さすがは桐島何某。
その後の動きは早かった。
奥へ下がって水で顔を洗うと、急ぎ詰め所に戻り、留守の間の記録を血眼でさらった。
若い医師二人には、庭番、料理番の見習い、女房部屋の若い女房を見るように指示した。
肝心の自分は、千代丸のところへ足をもつれさせながら向かい、すぐに戻ってきて、生薬の棚を漁り、薬湯を拵えたとのことだ。
廊下を行き交う者たちが、桐島の姿を何度も見た。
普段もあれほど動けばよいものを、と誰かが低く漏らした。
そこまで語った側付きは、しかめ面のままだった。
重臣の怒りが移ったかのような顔だった。
龍王丸は漢書に視線を落としながら、その側付きに尋ねた。
「そなた、桐島が薬を用立てるところを見たか」
はい。
酔いが回ってはおらぬかと、しかと見張りました。
そのように側付きは答える。
「では、桐島はどの棚の生薬を手に取った」
側付きは虚を突かれたようだった。
だが、つい先ほどのことであったため、指折りをしながら数え、答えてみせた。
「確か、薬研にて擦った生薬は三つでありました。棚は十、二十一、五のものを取りました」
「誠か」
「は。というより、桐島殿の足取りがおぼつかなかったため、某が頼まれ、棚から取りましたゆえ、間違いありません」
五の棚。
やはり最後は三の棚ではなかった。
否、だから何だというのだ。
病状は日々変わる。
あの時は三の棚のものが必要だったかもしれない。
もはや、詮なきことである。
「ご苦労だった。朝から手間をかけたな」
側付きは怪訝な顔をしたまま、一礼し一歩下がった。
それを見計らったかのように、与一郎が前に出た。
千代丸の遠縁にあたる、由比小次郎を伴っていた。
「若君。千代丸の件ですが」
「咳は止まらず、水も飲めずと聞いた。それよりも、千代丸の母君は見舞われたか」
与一郎は鼻白んだ。
そのため、そこから小次郎が引き継いだ。
「千代丸にお気遣いいただき、ありがとうございます。千代丸の母もありがたいことと頭を下げておりましたが、いかんせん子を産んだばかりでございます。本人はぜひ日頃の礼と見舞いにと考えておりましたが、周囲が畏れ多いことであると申しまして」
「分かった。よい。そなたが少し見てやれ」
短く、龍王丸は言った。
今度は小次郎が鼻白んだ。
「与一郎も、今日は千代丸の方でよい。ただし、同じ部屋には入るな。明日も千代丸が悪ければ、そのままでよい」
ご苦労だった、とその場を締めた。
与一郎が深々と礼をし、続けて小次郎が頭を下げた。
二人が退室した後、龍王丸は外を見た。
今日は少し雨が落ち着いている。
長雨も終わるか、と女房衆が喜んでいた。
恵みの雨も、度が過ぎれば天の怒りだ。
根が張っていない稲は、雨や増水で簡単に浮き、流されていく。
「大雨になるな」
龍王丸は呟いた。
生臭いような、土っぽい匂いがしたためだ。
---
六日目、館の中はいくらか落ち着いた。
庭番の咳は軽くなった。
料理番の見習いも、熱は上がらなかった。
若い女房は奥で休んでいたが、大事ではないという。
千代丸のことだけは、誰も口にしなかった。
龍王丸も、聞かなかった。
その代わり、雨が強くなった。
何もかもが気怠くなるような、ひどい雨だった。
雨を差し引けば、龍王丸には何も変わらない一日だった。
いや、あえて挙げるなら二つほど違う点があった。
一つは、下向してきた公家が龍王丸を呼び出し、筆を執らせたことだ。
珍しいことではない。
今川の御台、龍王丸の母は藤原北家、勧修寺流の中御門家の出である。
そのつながりを頼って、政情不安の京から下向する公家は珍しくない。
とはいえ、ただ戦火を恐れて逃げ出すのは聞こえが悪い。
ゆえに、大抵は雅楽、蹴鞠、和歌、書道、有職故実などの教えを授けに来たという形式を取る。
今川の御曹司に教えを授けるのも、もはや月次の行事に近いものだった。
「若君。先日申し上げました『庭訓往来』の文、覚えておいででございましょうか」
飛鳥井家の庶流と聞く男が、いつものように香を焚いた衣をまとい、静かに問うた。
龍王丸は、筆を置いて顔を上げた。
「雨中の返り状にございます」
指導役は満足そうに、少し楽しげに目を細めた。
「今日はそれを、こちらで一つ書いてみせていただきとうございます。ただ写すのではなく、若君のお言葉で」
老側付きが、わずかに姿勢を正した。
女房たちも、少しだけ視線を寄せた。
そして視界の端に、与一郎と小次郎の姿があった。
本来なら、二人は千代丸の側にいるはずだった。
何か言いたげであったが、龍王丸は目を向けなかった。
しばらくして、二人の気配は消えた。
これが二つ目の日頃と異なる点だった。
与一郎は、龍王丸の申しつけを破らない。
龍王丸は、何も言わずに紙を引き寄せた。
筆を取る。
さらさらと、墨が紙の上を走った。
記載する内容は、その場で考えた。
初めに時候。
次に、雨中の道を気遣う言葉。
その後に、相手の無事を喜ぶ文。
末には、無理に使者を急がせぬよう添えた。
文は短い。
だが、足りぬところはなかった。
指導役は、初めは微笑んで見ていた。
やがて、その笑みが少し薄くなった。
龍王丸の筆は最後まで乱れず、書の結びを記した。
「これでよろしいでしょうか」
指導役は乾くのを待って、紙を受け取った。
しばらく見ていた。
目が紙面を舐めるように行き来する。
言葉の選び方、字の運び、文字と文字の間、そして全体の余白まで。
それから、ゆっくりと頷いた。
「よう、おできでございます」
声は穏やかだった。
だが、少しだけ感心が勝っていた。
「礼も崩れず、言葉も過ぎませぬ。末の収めもよろしゅうございます。これならば、直すところはございませぬな」
老側付きが満足げに頷いた。
女房たちも、ほっとした顔をした。
龍王丸は深々と頭を下げた。
その所作にも、指導役は頷く。
指導役は月に一度やってきて、これこれの題材で文を書けと命じる。
書けと命じたものを、龍王丸は短い時間で書く。
まず大きな指摘はされない。
ここ数度の指導では、よくできた、それだけだった。
指導役はこの後、饗応を受け、御台様に龍王丸はよくできていると報告をする。
その証拠である書を出し、御台様の産んだ子を褒める。
それだけで、今川御曹司の指導役に恥じない礼金を得る。
屋敷内では、龍王丸の指導役は良い商売だと噂されている。
あれなら荷駄役でもできるという者もいる。
無論、この指導は、京との将来のつながり、飛鳥井本家との縁を保つためという面が強い。
だが、楽な仕事であるというのは否定しようもないことだった。
「それにしても若君は、筆運びに迷いがございませぬな。いやはや、心揺れず最後まで書き切ること、なかなかできることではありますまい」
今日の指導役は多弁だった。
少し楽をしすぎたという罪の意識が見え隠れした。
龍王丸は頭を下げる。
「恐れ入ります」
それだけ述べる。
「この長雨で気もそぞろになる者もおられますが、若君はさすが駿遠二国の太守の子であられる。修理大夫殿が遠江の慰撫で館を離れられていても、泰然自若としておられる」
「ありがたきお言葉でございます。今後の今川の名に恥じぬように励みます」
龍王丸は形式通り、そのように返した。
指導役はたいそう満足そうであった。
---
七日目の朝、雨はひどかった。
夜半から降り方が変わっていた。
横合いから殴りつけるような、すべてをなぎ倒すような大雨だった。
その豪雨の中、駿府館は昨日同様に始まった。
龍王丸の一日もだ。
誰に起こされるでもなく、寝所から出て朝の仕度をする。
あくびを堪えた側付きに手伝われ、衣を替える。
そして、見計らっていた老側付きが部屋に入り、一礼した。
今日の予定を口にする。
本日は公家衆への返礼。
書の清書。
御台様への伺い。
そして、雨が強いゆえ外へは出ぬように、との注意。
いつも通りだった。
龍王丸は、いつものように頷いた。
昨日と変わらない朝であった。
少なくとも、そこまでは。
朝餉を待つ間、廊下を走る音がした。
駿府館の奥で、走る音は好まれない。
公家が館に足を運ぶことも珍しくない。
拡大中の勢いのある武家でもあるため、様子見に来た国人衆が挨拶に来ることもある。
格を下げるようなことをすれば、重臣たちが叱りつける。
まして若君の座敷に近い廊下で粗相をしたとなれば、厳しく申しつけられることは想像に難くない。
ひときわ礼儀に厳しい老側付きが眉をひそめた。
「誰ぞ」
どしりとした声だったが、それに対して返事はなかった。
足音は止まらず、近づいてくる。
襖の向こうで、何かがぶつかる音がした。
次いで、荒い息。
「騒々しい。若君に無礼ぞ」
二度目の注意にも返事はなかった。
老側付きが襖を開けた。
「与一郎、何事か」
髪を乱した与一郎が、美しい姿勢で頭を下げている。
「そのようなところで、早う若君に挨拶せい」
与一郎は言われたまま部屋に踏み入ったが、いつものように膝を進めることもできなかった。
片手を畳につき、もう片方で襖の縁を掴んでいる。
龍王丸は、ずっと頭を下げたままの与一郎を見た。
昨日から衣が変わっていなかった。
そのあたりで、龍王丸には用向きが分かった。
「千代丸だな」
与一郎の顔が跳ね上がる。
歪んだ顔だった。
その名を先に言われたことで、胸の奥にあったものが崩れたようだった。
「若君」
「申せ」
命じると、与一郎は息を吸った。
だが、口を開閉するだけで言葉が出てこない。
溺れているようだった。
見かねて老側付きが一歩進む。
「落ち着け。何があった」
与一郎は、老側付きの声を聞いていないようだった。
龍王丸だけを見ていた。
「千代丸が」
そこで言葉が切れた。
「千代丸が、先ほど」
唇が震える。
「息を、引き取りましてございます」
座敷の空気が止まった。
与一郎に水を差し出そうとしていた女房の一人は、小さな悲鳴とともに足を止める。
老側付きは、目を伏せた。
雨音だけがした。
龍王丸は手に取っていた漢書を文机に置いた。
吐息を一つこぼしたのち、
「そうか」
それだけだった。
与一郎の両眼が開かれ、龍王丸を捉えていた。
今にも泣きだしそうな顔に、別の色が混じった。
その色に、龍王丸は見覚えがあった。
今生ではない。
前世だ。
前世の死の間際に見た、ほの暗い失望の色。
ことここに至って、自分が与一郎に憎まれる理由は思い至らなかった。
ただ、思い至らぬ自分が、人の上に立つべき人物ではないということだけは、はっきり理解した。
開き直れば、懊悩は薄れ、頭の重みは軽くなった。
せめて良きように運ぶよう取り計らうぐらいはできるのだから。
「千代丸の母は呼んだな」
与一郎は何かを隠すように頭を下げた。
そして、神妙な声色で答えた。
「夜半、危ういと思われた際、連れて参りました。部屋には立ち入ることは許さず。そのことで少しもめましたが、今は落ち着いています」
「由比方、由比の一門へは」
「小次郎が知らせに」
「では、僧はまだだな」
龍王丸はそこで、老側付きの方を見た。
声は荒くなかった。
むしろ、いつもより静かだった。
「いくつか申しつける。すでに行っている場合はよい。一つ、千代丸の母を一人にするな。二つ、由比方へ正式に使者を立てよ。御台様からの使者になる。その際、私の名前を添えよ。三つ、僧を呼べ。遺骸はこちらへ運ばなくてよい。寝所にて整え、騒がせるな。四つ、同じ部屋の者は今日は動かすな。水桶と敷物は改めよ。五つ、弔いの費えは、今川より出すように私が御台様へ願い出る。由比に恥をかかせるな」
老側付きは、少しだけ目を見開いた。
「ほかに何か不足、見落としはあるか」
老側付きは顔をしかめ、言い出しそうにした。
「この大雨でございます。僧の到着が遅れましょう。遺骸の運び出しも手間取るかと。そうなれば」
千代丸を荼毘に付すか。
あの幼く屈託のない子を灰にするか。
老側付きが、暗に聞いた。
「僧や由比方がもたつくようならば、こちらで荼毘に付すよう取り計らえ」
雷鳴。
ひどく近かったが、誰も身じろぎ一つしなかった。
老側付きは、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
命じると、老側付きだけでなく、女房たちも動き出した。
先ほどまで部屋にいた人間は、もうほとんどその場にいない。
ただ与一郎だけが、まだ動けなかった。
頭を下げたまま、微動だにしない。
「与一郎」
与一郎は動かなかった。
「千代丸は、何か言い残したか」
頭は上がらない。
何事もすぐに答えるのが、与一郎という男である。
人を少しも待たせるのさえも気に病む。
そんな男が、主家の若君を待たせていた。
「お仕えできて、幸せだったと」
嘘だと分かる。
千代丸は殊勝さとは無縁である。
その嘘に対して、龍王丸は本心で答えた。
「そうか。至らぬ主であった」
与一郎はまだ頭を上げない。
また、部屋に入ってから一寸も動かない。
根が張っているのではと思うほどだった。
気の済むまでいさせてやりたかったが、千代丸のことも、御台様のもとへの相談も、願い出もある。
「与一郎、下がってよい」
そう言うと、与一郎はようやく立ち上がり、部屋を後にしようとする。
だが、頑なに龍王丸を見ようとしない。
至らぬ主で申し訳ない。龍王丸はそう思った。
だから、最後に言葉をかけることにした。
ほんの少しでも、その荷を軽くしてやりたかった。
「そなたの目は、間違っておらぬ。龍王丸は器にあらず」
与一郎が龍王丸を見た。
唖然とした顔だった。
龍王丸は、それ以上何も言わなかった。




