7
雨はまだ止まなかった。
細くなったと思えば、また太くなる。
軒から落ちる雫は絶えず、庭の土は黒いままであった。
昨日の問答の後、龍王丸の周りは少し広くなった。
誰かが下がれと言ったわけではない。
ただ、龍王丸が座る場所の周りだけ、畳一枚分ほど空くようになった。
岡部与一郎などの側付きも、変わらず龍王丸の近くに控えている。
ただ、以前より半歩ほど後ろである。
龍王丸は、気づいているのかいないのか、何も言わなかった。
そこへ、由比千代丸が来た。
足音は軽い。
軽いというより、細い。
女房の一人が、廊下の端で小さく声をかけた。
「千代丸殿」
止める声であった。
千代丸は立ち止まり、恭しく頭を下げた。
龍王丸の許しを待っている。
龍王丸は読みかけの書から顔を上げた。
「千代丸」
「はい」
「近くに」
千代丸は、畳一枚分の空白の端に座った。
その場にいた者たちの息が、わずかに変わった。
千代丸は気づいているのかいないのか、静かに座っている。
あれだけの渦中にいたにもかかわらず、けろりとしていた。
龍王丸は、しばらく千代丸を見た。
千代丸は少し身じろぎした。
わずかに震えている。
だが、その震えのほどは、以前と変わらなかった。
「何用か」
「はい。お伺いしたいことがございます」
千代丸は答えた。
ただ、すぐには続けなかった。
「許す」
龍王丸は短く言った。
千代丸は、膝の上の手を少し握る。
「若君は、どうして分かったのですか」
「何が」
「帳のことです」
与一郎は、はっと顔を上げた。
だが、千代丸は続けた。
「蔵のことも。米のことも。あの者の名も」
弥七の名は出さなかった。
口調に責める色はない。
心底、分からないといった具合であった。
龍王丸は、少し考えた。
いつぞやのように中空へ視線を泳がせ、それから相手へ目を戻す。
「帳だけを見たのではない」
「帳だけでは」
「何も分からぬ」
「ですが、若君は帳しか見ておられませんでした」
千代丸は首を傾げた。
龍王丸も、少し黙った。
言葉を探していることが、はた目にも分かった。
それから、膳の端に置かれていた箸置きを一つ取り、畳の上に置いた。
「これは米だと思え」
千代丸は、こくりと頷いた。
龍王丸は、与一郎を見た。
「碁石」
「は」
与一郎は慌てて、側に置いてあった碁盤の上から碁石を取った。
龍王丸は、それを十ほど並べる。
「蔵に十ある」
「はい」
「帳に、二つ出したと書く」
龍王丸は碁石を二つ、横へ動かした。
「なら、残りは」
「八にございます」
「そうだ」
龍王丸は、残った碁石を指で示した。
「帳が八、蔵も八なら、ひとまず合う」
「はい」
「帳が八で、蔵が七なら」
「一つ、足りませぬ」
「帳が七で、蔵が八なら」
千代丸は少し考えた。
「一つ、多うございます」
「そうだ」
龍王丸は頷いた。
「足りぬ時も、多い時も、おかしい」
千代丸は、畳の碁石を見ていた。
「でも、数え違いかもしれませぬ」
「その通り」
龍王丸は言った。
「だから、すぐ罪とは見ない。その場で直せるあやまちだ」
与一郎は、そこで少し息を止めた。
龍王丸の発する言葉には、時折、黒いものが混じる。
だが、その声はいつも通り静かだった。
「もう一度数える。別の者にも数えさせる。帳を書いた者を聞く。鍵を持った者を聞く」
龍王丸は、碁石を一つつまんだ。
「それでも合わぬなら、次に道を見る」
「道ですか」
「米は勝手に歩かぬ」
千代丸は瞬きをした。
「誰かが運ぶ。人か、馬か、舟か。舟なら川が要る。川なら水かさを見る。雨が続けば、渡しが止まることもある」
龍王丸は、庭の方を見た。
「動けぬ日に動いたことになっていれば、帳か人のどちらかが違う」
千代丸は、少しずつ頷いた。
「では、帳と蔵と道を合わせるのですか」
「あとは人だ」
「人」
「誰が見た。誰が運んだ。誰が書いた。誰が鍵を開けた」
龍王丸は、碁石を元の場所へ戻した。
「帳は言葉だ。蔵は物だ。道は時だ。人は手だ」
千代丸は、聞き逃すまいとするように龍王丸を見ていた。
「言葉と、物と、時と、手」
「うん」
「それらが合わぬと」
「おかしい」
「おかしいと」
「調べる」
「調べると」
「腹落ちすることもある」
龍王丸は、そこで碁石から手を離した。
「此度は、名に届いた」
座敷が静かになった。
「始めから名を探したのではない。誰かが何かをしでかした、と見ていたわけでもない」
龍王丸は、畳の上の碁石を見た。
「合わぬところを辿ったら、名に届いた」
千代丸は、しばらく黙っていた。
それから言った。
「ですが、皆は若君が見通していたといいます」
「見通していた?」
「はい。何もかも、ひと目で」
龍王丸は首を横に振った。
「ずいぶん盛った話だ」
その言い方が少しだけ可笑しかったのか、千代丸は目を瞬かせた。
「そなたもその場にいたな。私の目は何度、帳を行き来した」
「何度も見ておられました。同じ帳を、もう一度見ることもありました」
「頭でこれをやっていた」
龍王丸は碁石を二つ動かし、また戻した。
「繰り返し、気のせいではないかと否定し、別のところから見、それから口を開いた」
ははぁ、と千代丸が小さく唸った。
年の近い二人が、碁石で悪戯をしているようにも見える。
だが、座敷にいる大人たちは誰も笑わなかった。
「もし、あの場で帳や蔵や人がすべて正しかったら、どうなされました」
龍王丸は少しだけ考えた。
「腹落ちし、世話をかけたなと頭を下げた」
千代丸が、ぽかんと口を開けた。
「それでは、本当にあれは、たまたまだったのですか」
龍王丸が柳眉を上げた。
不快げではない。
「そうなる。今川の帳や蔵のことが分からぬので見せてもらった。その結果、図らずもあのような仕儀に至った」
千代丸は、その言葉を何度か口の中で転がすようにした。
それから、ふと顔を上げた。
「では、若君にも分からぬことがあるのですね」
その場にいた者たちの背が、ぴたりと固まった。
女房の一人が息を呑む。
老側付きの指が膝の上で止まる。
与一郎も、思わず千代丸の名を呼びかけた。
昨日の出来事が、周囲の舌を重くしていた。
それゆえに、千代丸は続けてしまった。
「龍王丸様も、人なのですね」
座敷の空気が凍った。
だが、龍王丸は怒らなかった。
少しだけ目を細める。
そして、喉の奥で低く笑った。
「くく」
それは、声になりきらぬ笑いだった。
「ほかの何ものでもあるはずがない。それとも、名前通り龍とでも思っていたのか」
千代丸は、慌てたように首を振った。
「いえ、そういう意味では」
「よい」
龍王丸は言った。
「人だ。見えぬものは見えぬ。間違うこともある。間違ってばかりだ」
座敷は、まだ固まっていた。
千代丸だけが、少しほっとしたように瞬きをした。
そこから先は、誰も聞いてはならぬところだった。
「では、あの仕儀は間違いだったと?」
千代丸、と誰かがかすれた声で呼んだ。
男か、女かすら分からない声だった。
龍王丸の目から、一瞬だけ力が消えた。
彼は静かに目を閉じる。
再び見開いたときには、いつもの眼光が戻っていた。
「人が死んだ。間違いだった。では済むまいよ」
ぴしゃり、と間を分ける声だった。
「が、もし次があれば、もっと良いところに落とす」
「人が死なぬようにですか」
「死なずに済むなら、それがよい」
そこで、岡部与一郎が立ち上がった。
「若君、龍王丸様。つぎの手習いがございますぞ。千代丸風情にかまうのは、その後にいたしましょう」
龍王丸の目が与一郎を射抜く。
与一郎は背を丸めながらも、千代丸と龍王丸の間に立った。
非礼である。
だが、知ったことかという勢いがあった。
龍王丸は、手の中の碁石を見た。
強く握りしめられていた。
それらを畳の上に置くと、息を吐いた。
「そうか」
龍王丸は、ゆるゆると立ち上がった。
彼にしては珍しい所作だった。
「千代丸、またな」
千代丸は慌てて頭を下げた。
それで与一郎は、この場は済んだと思った。
しかし、こほん、と咳がした。
龍王丸の足が止まる。
皆が咳の出どころを見ると、千代丸が慌てて口元を押さえていた。
龍王丸の目が動いた。
「いつから」
千代丸は、口元を押さえたまま瞬きをした。
「今朝から、少し」
「寒いか」
「少し」
「腹は」
「痛くはありませぬ」
「寝所は湿っていないか」
千代丸は困った顔をした。
「分かりませぬ」
「敷物は」
「少し、冷たかったように思います」
女房が顔を上げた。
「すぐに改めます」
「水は」
龍王丸は続けた。
「どこの水を飲んだ」
老側付きが、わずかに身じろぎした。
千代丸は答える。
「朝は、部屋の水を」
「汲んだままか」
千代丸が頷く。
「湯を冷ましたものにしろ」
龍王丸は女房に言った。
「水は、そのまま飲ませるな。寝所を濡らすな。腹を冷やすな」
「はい」
「咳が増えたら、知らせろ」
女房は頭を下げた。
与一郎は、龍王丸と千代丸の間に立ったまま、動けずにいた。
「若君」
ようやく声を出した。
「手習いが」
「わかった」
龍王丸は短く言った。
だが、立ち去りはしない。
千代丸が立ち上がろうとして、また咳をした。
二つ。
千代丸は、少し恥じたように頭を下げた。
「失礼いたしました」
「よい」
龍王丸は言った。
「つらくなる前に申せ。今日はもう下がって休め」
「はい」
千代丸は女房に付き添われて下がった。
廊下の端で一度振り返り、もう一度頭を下げる。
龍王丸は何も言わなかった。
千代丸の足音が遠ざかる。
すべてが終わった後、与一郎は、ようやく自分がまだ立ったままだと気づいた。
慌てて膝をつく。
「若君、先ほどは」
「よい」
龍王丸は、畳の上の碁石を見ていた。
「与一郎」
「はい」
「皆は同じ場所で寝起きするか」
与一郎は一瞬、問いの意味を測りかねた。
「側付きの子らは、おおむね一所に」
「そうか」
龍王丸は雨雲を見ていた。
与一郎は、千代丸のように問いを投げかける真似はしなかった。
ただ、この幼い若君が言葉を放つのを待った。
「千代丸の寝所は分けよ」
「はい」
「ほかに体調を崩した者がいれば、その者もだ」
「承知いたしました」
与一郎は頭を下げた。
否はなかった。
畳の上では、並べられた碁石の列が少し乱れていた。
誰も、すぐには直さなかった。
庭では、雨が同じところを叩いていた。




