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雨はまだ止まなかった。


細くなったと思えば、また太くなる。

軒から落ちる雫は絶えず、庭の土は黒いままであった。


昨日の問答の後、龍王丸の周りは少し広くなった。


誰かが下がれと言ったわけではない。

ただ、龍王丸が座る場所の周りだけ、畳一枚分ほど空くようになった。


岡部与一郎などの側付きも、変わらず龍王丸の近くに控えている。

ただ、以前より半歩ほど後ろである。


龍王丸は、気づいているのかいないのか、何も言わなかった。


そこへ、由比千代丸が来た。


足音は軽い。

軽いというより、細い。


女房の一人が、廊下の端で小さく声をかけた。


「千代丸殿」


止める声であった。


千代丸は立ち止まり、恭しく頭を下げた。

龍王丸の許しを待っている。


龍王丸は読みかけの書から顔を上げた。


「千代丸」


「はい」


「近くに」


千代丸は、畳一枚分の空白の端に座った。


その場にいた者たちの息が、わずかに変わった。

千代丸は気づいているのかいないのか、静かに座っている。


あれだけの渦中にいたにもかかわらず、けろりとしていた。


龍王丸は、しばらく千代丸を見た。


千代丸は少し身じろぎした。

わずかに震えている。

だが、その震えのほどは、以前と変わらなかった。


「何用か」


「はい。お伺いしたいことがございます」


千代丸は答えた。

ただ、すぐには続けなかった。


「許す」


龍王丸は短く言った。


千代丸は、膝の上の手を少し握る。


「若君は、どうして分かったのですか」


「何が」


「帳のことです」


与一郎は、はっと顔を上げた。


だが、千代丸は続けた。


「蔵のことも。米のことも。あの者の名も」


弥七の名は出さなかった。


口調に責める色はない。

心底、分からないといった具合であった。


龍王丸は、少し考えた。


いつぞやのように中空へ視線を泳がせ、それから相手へ目を戻す。


「帳だけを見たのではない」


「帳だけでは」


「何も分からぬ」


「ですが、若君は帳しか見ておられませんでした」


千代丸は首を傾げた。


龍王丸も、少し黙った。

言葉を探していることが、はた目にも分かった。


それから、膳の端に置かれていた箸置きを一つ取り、畳の上に置いた。


「これは米だと思え」


千代丸は、こくりと頷いた。


龍王丸は、与一郎を見た。


「碁石」


「は」


与一郎は慌てて、側に置いてあった碁盤の上から碁石を取った。


龍王丸は、それを十ほど並べる。


「蔵に十ある」


「はい」


「帳に、二つ出したと書く」


龍王丸は碁石を二つ、横へ動かした。


「なら、残りは」


「八にございます」


「そうだ」


龍王丸は、残った碁石を指で示した。


「帳が八、蔵も八なら、ひとまず合う」


「はい」


「帳が八で、蔵が七なら」


「一つ、足りませぬ」


「帳が七で、蔵が八なら」


千代丸は少し考えた。


「一つ、多うございます」


「そうだ」


龍王丸は頷いた。


「足りぬ時も、多い時も、おかしい」


千代丸は、畳の碁石を見ていた。


「でも、数え違いかもしれませぬ」


「その通り」


龍王丸は言った。


「だから、すぐ罪とは見ない。その場で直せるあやまちだ」


与一郎は、そこで少し息を止めた。


龍王丸の発する言葉には、時折、黒いものが混じる。

だが、その声はいつも通り静かだった。


「もう一度数える。別の者にも数えさせる。帳を書いた者を聞く。鍵を持った者を聞く」


龍王丸は、碁石を一つつまんだ。


「それでも合わぬなら、次に道を見る」


「道ですか」


「米は勝手に歩かぬ」


千代丸は瞬きをした。


「誰かが運ぶ。人か、馬か、舟か。舟なら川が要る。川なら水かさを見る。雨が続けば、渡しが止まることもある」


龍王丸は、庭の方を見た。


「動けぬ日に動いたことになっていれば、帳か人のどちらかが違う」


千代丸は、少しずつ頷いた。


「では、帳と蔵と道を合わせるのですか」


「あとは人だ」


「人」


「誰が見た。誰が運んだ。誰が書いた。誰が鍵を開けた」


龍王丸は、碁石を元の場所へ戻した。


「帳は言葉だ。蔵は物だ。道は時だ。人は手だ」


千代丸は、聞き逃すまいとするように龍王丸を見ていた。


「言葉と、物と、時と、手」


「うん」


「それらが合わぬと」


「おかしい」


「おかしいと」


「調べる」


「調べると」


「腹落ちすることもある」


龍王丸は、そこで碁石から手を離した。


「此度は、名に届いた」


座敷が静かになった。


「始めから名を探したのではない。誰かが何かをしでかした、と見ていたわけでもない」


龍王丸は、畳の上の碁石を見た。


「合わぬところを辿ったら、名に届いた」


千代丸は、しばらく黙っていた。


それから言った。


「ですが、皆は若君が見通していたといいます」


「見通していた?」


「はい。何もかも、ひと目で」


龍王丸は首を横に振った。


「ずいぶん盛った話だ」


その言い方が少しだけ可笑しかったのか、千代丸は目を瞬かせた。


「そなたもその場にいたな。私の目は何度、帳を行き来した」


「何度も見ておられました。同じ帳を、もう一度見ることもありました」


「頭でこれをやっていた」


龍王丸は碁石を二つ動かし、また戻した。


「繰り返し、気のせいではないかと否定し、別のところから見、それから口を開いた」


ははぁ、と千代丸が小さく唸った。


年の近い二人が、碁石で悪戯をしているようにも見える。

だが、座敷にいる大人たちは誰も笑わなかった。


「もし、あの場で帳や蔵や人がすべて正しかったら、どうなされました」


龍王丸は少しだけ考えた。


「腹落ちし、世話をかけたなと頭を下げた」


千代丸が、ぽかんと口を開けた。


「それでは、本当にあれは、たまたまだったのですか」


龍王丸が柳眉を上げた。


不快げではない。


「そうなる。今川の帳や蔵のことが分からぬので見せてもらった。その結果、図らずもあのような仕儀に至った」


千代丸は、その言葉を何度か口の中で転がすようにした。


それから、ふと顔を上げた。


「では、若君にも分からぬことがあるのですね」


その場にいた者たちの背が、ぴたりと固まった。


女房の一人が息を呑む。

老側付きの指が膝の上で止まる。

与一郎も、思わず千代丸の名を呼びかけた。


昨日の出来事が、周囲の舌を重くしていた。


それゆえに、千代丸は続けてしまった。


「龍王丸様も、人なのですね」


座敷の空気が凍った。


だが、龍王丸は怒らなかった。


少しだけ目を細める。


そして、喉の奥で低く笑った。


「くく」


それは、声になりきらぬ笑いだった。


「ほかの何ものでもあるはずがない。それとも、名前通り龍とでも思っていたのか」


千代丸は、慌てたように首を振った。


「いえ、そういう意味では」


「よい」


龍王丸は言った。


「人だ。見えぬものは見えぬ。間違うこともある。間違ってばかりだ」


座敷は、まだ固まっていた。


千代丸だけが、少しほっとしたように瞬きをした。


そこから先は、誰も聞いてはならぬところだった。


「では、あの仕儀は間違いだったと?」


千代丸、と誰かがかすれた声で呼んだ。


男か、女かすら分からない声だった。


龍王丸の目から、一瞬だけ力が消えた。


彼は静かに目を閉じる。

再び見開いたときには、いつもの眼光が戻っていた。


「人が死んだ。間違いだった。では済むまいよ」


ぴしゃり、と間を分ける声だった。


「が、もし次があれば、もっと良いところに落とす」


「人が死なぬようにですか」


「死なずに済むなら、それがよい」


そこで、岡部与一郎が立ち上がった。


「若君、龍王丸様。つぎの手習いがございますぞ。千代丸風情にかまうのは、その後にいたしましょう」


龍王丸の目が与一郎を射抜く。


与一郎は背を丸めながらも、千代丸と龍王丸の間に立った。


非礼である。

だが、知ったことかという勢いがあった。


龍王丸は、手の中の碁石を見た。


強く握りしめられていた。


それらを畳の上に置くと、息を吐いた。


「そうか」


龍王丸は、ゆるゆると立ち上がった。


彼にしては珍しい所作だった。


「千代丸、またな」


千代丸は慌てて頭を下げた。


それで与一郎は、この場は済んだと思った。


しかし、こほん、と咳がした。


龍王丸の足が止まる。


皆が咳の出どころを見ると、千代丸が慌てて口元を押さえていた。


龍王丸の目が動いた。


「いつから」


千代丸は、口元を押さえたまま瞬きをした。


「今朝から、少し」


「寒いか」


「少し」


「腹は」


「痛くはありませぬ」


「寝所は湿っていないか」


千代丸は困った顔をした。


「分かりませぬ」


「敷物は」


「少し、冷たかったように思います」


女房が顔を上げた。


「すぐに改めます」


「水は」


龍王丸は続けた。


「どこの水を飲んだ」


老側付きが、わずかに身じろぎした。


千代丸は答える。


「朝は、部屋の水を」


「汲んだままか」


千代丸が頷く。


「湯を冷ましたものにしろ」


龍王丸は女房に言った。


「水は、そのまま飲ませるな。寝所を濡らすな。腹を冷やすな」


「はい」


「咳が増えたら、知らせろ」


女房は頭を下げた。


与一郎は、龍王丸と千代丸の間に立ったまま、動けずにいた。


「若君」


ようやく声を出した。


「手習いが」


「わかった」


龍王丸は短く言った。


だが、立ち去りはしない。


千代丸が立ち上がろうとして、また咳をした。


二つ。


千代丸は、少し恥じたように頭を下げた。


「失礼いたしました」


「よい」


龍王丸は言った。


「つらくなる前に申せ。今日はもう下がって休め」


「はい」


千代丸は女房に付き添われて下がった。


廊下の端で一度振り返り、もう一度頭を下げる。


龍王丸は何も言わなかった。


千代丸の足音が遠ざかる。


すべてが終わった後、与一郎は、ようやく自分がまだ立ったままだと気づいた。


慌てて膝をつく。


「若君、先ほどは」


「よい」


龍王丸は、畳の上の碁石を見ていた。


「与一郎」


「はい」


「皆は同じ場所で寝起きするか」


与一郎は一瞬、問いの意味を測りかねた。


「側付きの子らは、おおむね一所に」


「そうか」


龍王丸は雨雲を見ていた。


与一郎は、千代丸のように問いを投げかける真似はしなかった。

ただ、この幼い若君が言葉を放つのを待った。


「千代丸の寝所は分けよ」


「はい」


「ほかに体調を崩した者がいれば、その者もだ」


「承知いたしました」


与一郎は頭を下げた。


否はなかった。


畳の上では、並べられた碁石の列が少し乱れていた。


誰も、すぐには直さなかった。


庭では、雨が同じところを叩いていた。


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