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雨は、夜明け前から駿府の街を塗り潰していた。


劇的な激しさを持たぬ、細く、それでいて肌にまとわりつくような密な雨だった。

いうなれば、際限なく垂れ下がる無数の灰色の糸のようだった。

今川館の広大な瓦屋根を絶え間なく叩き、端々から太い水滴となって軒下に落ちていく。


庭の黒土は、ぬかるんだ泥の海へと姿を変えている。

また泥は、生き物のように庭石を這い回っていた。

公家衆の謳う長雨の風情などなく、ただただ全てが雨と泥で汚れているようだった。


その雨の音に混じって、館の奥からはかすかに、しかし確実に、日常とは異なる足音が響いていた。

すり足の、衣擦れの、そして重い沈黙を運ぶ足音。

それらは葬儀の参列者のものであった。


幸い、千代丸の弔いの支度は、その雨の障壁をものともしなかった。

大今川の極めて組織的に、恐ろしいほどの迅速さで進められていた。


「水を。もっと清浄なものを運びなさい」


「由比方への早馬はすでに出ました。遅くとも未の刻までには、一門の代弁者が到着いたしましょう」


「千代丸様の御母堂には、手慣れた女房を三名付けました。お取り乱しにならぬよう、沈香を薄く焚いております」



廊下を足早に行き交う近習や女房たちの声は、いずれも低く抑えられていた。

そこには「不浄」を館から一刻も早く排除しようとする、強固な意志が介在していた。



千代丸は死んだ。


今川家の直臣である由比の一門から、若君、龍王丸の学友兼小姓として差し出されていた、わずか数え年七つの少年だった。

生まれつき肺が弱く、ここ数日は激しい咳込みと共に熱を出して寝込んでいた。

大人たちは医者も見た、薬も飲んだと安心していた。

だが、先日、夜明けの四半刻ほど前、誰に看取られることもなく、冷たい寝所の中で息を引き取っているのが発見された。


発見したのは、同じく若君の小姓として仕える岡部一門の倅、与一郎であった。


与一郎は、朝一番、千代丸の様子を見に行いった。

若君の申しつけ通り、病がうつらぬようにそっと、遠間からのぞいた。

なにかおかしいと思ったのは、千代丸の息遣いが全く聞こえなかったからだ。


あっ、と声を漏らした与一郎は、驚愕のあまり部屋に入り、千代丸の脈をとった。

そして、それから若君の部屋へと駆け込んだという次第だった。

これらはすべてはほんの数時間前の出来事に過ぎない。


だが、館という巨大な機構と、聡明な若君と御台様、そして手慣れた重臣らは瞬く間に動き出した。

応仁の乱、先代の急死、小鹿との内訌といった難所を超えてきた者たちである。

由比の童一人では、足を止めることさえできない。


具体的な手配として、千代丸の遺骸についての沙汰があった。

千代丸は常日頃若君と仲が良かった。

相対的にそう見えた。


心の底を決して見せず、しくじりもしない若君が、屈託のない千代丸には笑いかけることがたびたびあったのだ。

年のころは逆だが、もの知らずの弟に兄が一つ一つ手取り足取り教えるさまにも似ていた。

そのようだから、家中では若君にお目通りさせるか、などという話もあった。


だが、名門今川の法が千代丸の遺骸を「若君の座敷」へと運ばれることを許さなかった。

死は穢れであり、次期国主たる龍王丸の視界に、その穢れを一時たりとも近づけてはならない。

それが館の、そして駿府の論理だった。


そして、ほかでもない若君がそれを望まなかった。

何か家中の重臣方が命じる前に、


「無用、万事急ぎ取り図ること」


の一言で議論を打ち切らせた。


家中の者は、そのことに胸をなでおろしたが、どこかそのわきまえた態度に寒々しさも覚えざるを得なかった。


千代丸は、彼が息を引き取った狭い寝所のまま、手早く湯灌を施され、白装束に包まれた。

すぐに駿府近くの禅寺より招かれた老僧がその枕元に座し、低く濁った声で読経を始めた。


雨の音が、その経文の声を何度もかき消そうとする。

しかし、木魚の規則正しい音だけは、館の細部にまで染み渡っていくようだった。




「与一郎、突っ立っている暇があるなら、由比方から到着されるお荷物の受け入れ準備をせよ。

縁側の雑巾がけも怠るな。館の床に泥を上げることは許されん」


老側付きの冷徹な声に弾かれ、与一郎は「はっ」と短く頭を下げた。

胸の奥に、言葉にならない鉛のような塊が居座っている。

千代丸とは、ほんの数日前まで、この廊下で何度もすれ違った。

今日もその曲がり角で顔を合わせそうな予感がある。


与一郎が思うに千代丸は、頭が良いというより耳が良い少年だった。

主君、龍王丸は時折幼子らしからぬ鋭い問いかけをする。

皆、その意図が分からない。分からないことが恥ずかしい、それで固まってしまう。

また龍王丸の揺れぬ眼差しが羞恥と恐怖を呼び起こすのだ。

だが。与一郎の見立てでは千代丸だけは少し違ったように思う。


あの鋭い問いや命に怯えながらも必死にその意図を汲み取ろうとした。

事実、できていたのだろう。

あの静かな声のわずかな抑揚や、戸惑い、溜め、を聞き分けることができていたのだろう。

このまま長じれば、千代丸だけはあの怪物の心に寄り添えることができたと、与一郎は思った。


それなのに、彼はもう、この世のどこにもいなかった。

ただ、白布に覆われた一塊として、雨の降る奥座敷に押し込められている。



そのことがはっきりと憎々しい。淡々と行われる葬儀が与一郎に受け止めずらい。


---


正午を過ぎた頃、雨の勢いがわずかに弱まった。

霧のような細雨へと変わる、その一瞬の隙を突くようにして、千代丸の遺骸は館の通用門から静かに出された。


由比方から駆けつけた数名の身内の者が、声をあげることも許されず、ただ俯いてその棺を担いでいった。

葬列とも呼べぬ、隠密めいた出棺だった。



龍王丸は、出棺を見なかった。


見るべきではないと、誰からも明確に禁じられたわけではない。

ただ、その場に彼が存在することは、この今川館の調和において「正しくない」ことだった。


若君の座敷に、死の気配を近づけぬこと。

由比方の面目を傷つけぬよう、大ごとにせず処理すること。

千代丸の母を必要以上に騒がせぬこと。

そして、この激しい雨の中で、無駄に多くの人間を動かさぬこと。


そのすべてを完璧に成立させるために、大人たちは動き、そしてその目論見は見事に完遂された。

乱れは、毛筋一本ほどもなかった。

それを成すにあたって、老側付きがよく働いた。

老側付きは、何度も龍王丸の座敷へと足を運び、短い、業務的な報告を繰り返した。


「若君。僧、参りましてございます」

「由比方より、一門の方がお越しに」

「遺骸の支度、滞りなく相済みました」

「女房がつき、取り乱さぬよう手を尽くしております」

「乳飲み子は別室に移し、不浄の気には触れさせぬようにいたしました」


それらすべては龍王丸が命じたことであった。

龍王丸は葬儀の邪魔にならないように、それら一つ一つに小さく返した。


問題がないことは、訪れた由比一門や僧、葬儀の流れを見ればわかったからだ。

用意した段取りは水が流れるようにこなされていき、懸念事項は発生する前に摘み取られた。


だが与一郎は、そんな龍王丸をじっと、ただじっと影から見つめていた。

見るといっても、龍王丸の顔や姿を目に焼き付けるといった風ではなかった。

龍王丸の歩いた後、足跡、何かの痕跡をたどるように見ていた。


龍王丸はふと、与一郎のことの胸中に思い至った。

彼は自分の言葉通り、龍王丸を見限ったのだ。見限ることができたのだ。

そう思うと、あの御台様との問答以降沈んでいた心が弾んだ。


「若君、如何されました。お疲れなされましたか」


「大事ない」


---


未の刻を過ぎた頃、御台様の居所から、正式な返答を持った使者が戻ってきた。

さすがは中御門の姫であると龍王丸は感心した。

その沙汰が、非の打ち所がないものだったからだ。


千代丸の弔いに要する一切の費用は、今川家の内蔵より切り出す。

僧への過分なる布施、由比方への丁重なる見舞い金、そして残された母親への慰みの品。

いずれも不足のないよう、今川の威信にかけて整えるべし。

ただし、これらすべての施しは、「今川の慈悲による差配」として処理する。


今川家が家臣をいかに大切に思っているかを示すと同時に、主導権は常に主家にあることを知らしめるものだった。


龍王丸は、その沙汰を聞くと母の居所の方に頭を下げた。


「ありがたきこと」


ただ一言、そう呟き、深く、深く頭を下げた。

知らせを持ってきた使者が、葬儀を実質差配していた重臣が、老側付きがそれを見て頭を下げた。


いまさら、この幼い若君の所作に驚くことはない。

ただ、慣れしたんだ小姓の死に直面しても、騒ぎ立てることなく、背伸びをして葬儀を主導しようとすることもない。

分限を見極めたうえで、一礼して見せた、異質な「聡明さ」に頭を下げざるを得なかった。


ただ、外で降り続く雨の音だけが、遮るもののない静けさの中で、いつもより不気味なほど近くに聞こえていた。


---



夕刻が近づくにつれ、雨は再びその密度を増した。

その大雨の中で、由比方の使者として、改めて挨拶に訪れたのは、初老の武士であった。

名を由比美作守という。由比の一門に連なる重鎮であった。

千代丸の父親よりもはるかに年上で、戦慣れした厳めしい骨格を持っていた。


彼の深い額の皺には、これまでくぐり抜けてきた修羅場の数が刻まれているようだった。

ただその頑強な肩は、雨の湿気を含んで重く垂れ下がっていた。


美作守が座敷に通されると、張り詰めた沈黙が部屋の空気を一気に凍りつかせた。

男は龍王丸の正面へと進み出ると、音もなく両手を畳につき、静かに頭を下げた。


「此度は、若君ならびに御台様の破格の御厚情を賜り、由比一門、骨の髄まで深く忝なく存じます」


その声は、驚くほど落ち着いていた。

しかし、落ち着きすぎている。

それがかえってその胸中の空虚さ、情念が周囲に強く訴えていた。

聞くところによると、美作守は千代丸をかわいがっていた者の一人ということだった。

ひ弱な千代丸がせめて身を立てられるようにと、小姓に推挙したのも美作守だった。


龍王丸は、その微動だにしない美作守の頭頂を見つめていた。

龍王丸の脇には老側付きが、そして少し離れた下座には、与一郎が平伏している。

与一郎は朝から一瞬たりとも休んでいなかった。

泥に汚れた衣こそ着替えさせられたものの、疲れや不安定な情緒が彼の口元を硬直させている。


いっそ、下がらせるべきだったか。

いや、今は気にするべきではない。と与一郎のことは頭から押し出す。


龍王丸は、ゆっくりと上体を由比の男へと向けた。


「すべては、御台様の御差配である。私は何もしておらぬ。礼を言われる筋合いはない」


その物言いは、冷淡とも取れた。実際、それを聞いて与一郎の肩がピクリとはねた。

しかし、主家における序列を完璧に弁えた言葉でもあった。

美作守は、さらに深く頭を下げ、畳に額をこすりつけるようにした。


「それでも生まれつき病弱であったあの子を、日々お気にかけていただきましたこと、あれの母も、我が一門も、決して忘れることはございませぬ」


その言葉を受け、龍王丸は押し黙った。

座敷を支配するのは、屋根を叩く雨の音だけとなる。

一呼吸、あるいは二呼吸分の、張り詰めた間が置かれた。

龍王丸は与一郎の視線を感じた。わずかににじむ怒気もだ。


好きにせよ。これが愚物の龍王丸である。



「千代丸は」


龍王丸の声が、静かに響いた。


「よく仕えた」


その瞬間、下座にいた与一郎の肩が、わずかに、しかし明確に跳ね上がった。


「小さき身であったが、私の言葉をよく聞き、耳は聡かった。」


千代丸は見計らい、間をとるのだ。

きっとそれは思考してのことではない。生来懐に入るのがうまいのだと、今になって思った。


「時折発する問いも、実に鋭いものがあった。龍王丸には、過ぎた者だった」


美作守は、頭を下げたまま、動かなかった。

その広い背中が、わずかに震えているようにも見えた。


龍王丸は一点の噓偽りなく胸中の言葉にした。

淡々としたものだった。


「至らぬ主であった」


許せとは言わなかった。言えなかった。


だがその一言が放たれた瞬間、座敷の空気が、底なしの深みへと沈み込むように重くなった。

老側付きが、与一郎が、美作守が、驚愕の表情を作った。


龍王丸の言葉は明確な「悔い」の言葉だった。

主君が家臣に対して口にするには、あまりにも重すぎる敗北の宣言。

だが、それを口にする龍王丸の声は、全く乱れていなかった。

あまりに静かで、あまりに完璧な調子であった。

そのためそれが本心からの言葉なのか、それとも由比方を懐柔するための言なのか室内の人間は判別できなかった。


美作守は、深く、長く胸の空気を吸い込んだ。

畳に落とされた彼の声は、わずかに湿り気を帯びていた。


「過分なる、実に過分なる御言葉にございます。若君にそのように仰せいただければ、早世いたしましたあれも、冥府の底で必ずや報われましょう」


「そうか」


「はい」


美作守は、ゆっくりと顔を上げた。

その目は、隠しようもなく赤く潤んでいた。


「されど、若君」


「何だ」


「千代丸は果報者でございましたが、由比としては、これで若君の御側のご用を欠くことになってしまいました」


その言葉が出た瞬間、龍王丸の横に控えていた老側付きの目が、わずかに鋭く動いた。

与一郎もまた、はっと息を呑んだ。

千代丸の縁者としてではなく、今川家の臣、由比としての顔が出たのだ。


美作守は、表情を変えずに言葉を続ける。


「現在、今川の境目は、他国との関係も含めいささか騒がしゅうございます。このような時に、由比が御奉公を怠った、主家への忠義を欠いたと思われては、一門の大いなる恥にございます。千代丸の代わりには到底なり得ませぬが、我が一門より、しかるべき若き者を、もう一人、すぐにでも御側へ差し出したいと存じますが」


与一郎の腰が浮いた。歯が食いしばられている。その目は龍王丸から離れ、美作守に向いている。


千代丸の隙間を埋めるのか。

その空白さえも明日には埋められてしまうのか。

一日さえも悲しみに費やすことさえしないのか。


そんな声が聞こえてきそうな形相だった。


龍王丸は、すぐには答えなかった。


龍王丸の視線は、美作守から外れ、開け放たれた障子の向こうにある庭の雨へと向けられていた。

幾千、幾万の水滴が、地面を叩き、砕けていく様を、ただ見つめている。


やがて、龍王丸は由比の男へと視線を戻した。


「由比は、実によく仕えている」


やはり声には、一切の迷いがなかった。


「千代丸が死んだからといって、由比の忠節を疑う者など、この館には一人もいない」


美作守の太い眉が、ぴくりと動いた。


「ありがたき、お言葉ですが、」


「今すぐ代わりの者を出すには及ばぬ。まずは千代丸を、手厚く弔え。そして、その母を十分に休ませよ。それが今の由比の務めである」


美作守は、再び深く頭を下げる。

しかし、龍王丸の言葉はそこで終わらなかった。


「御台様、そして留守居の御一門衆とも、私から相談をしておく。」


筋目の話だった。


「遠江へ出陣されているお館様が戻られてから、改めて正式な沙汰があろう。

ただ少なくとも、由比の面目を潰すような真似はさせぬ。千代丸の代わりの話などというものは決してさせぬ。

どのようなところに落ち着こうとも無体な話にならぬよう、私から強く願い出ておく」


その瞬間、由比美作守は、この日初めてその厳格な表情を大きく崩した。

ほんのわずかな、唇の震え、そして目元の緩み。

室内に入ってからずっと強張っていた美作守から、力が抜けた。


「若君」


美作守の声は、今度こそ完全に震えていた。


「由比一門、この御恩、未来永劫、」


美作守の言葉を遮る。老側付きが口を尖らせた。

言わせてしまえば、この屈強な武士を縛れる言葉だった。それゆえに龍王丸はさえぎった。


「今川からの恩にあらず」


龍王丸は、表情一つ変えずに言った。


「千代丸は至らぬ主に命を賭してよく仕えた。何も返せなんだ分、由比に返すだけだ」


美作守は、もはや言葉を失ったように、畳に額を押し付けた。

傍らの老側付きも、部屋の隅に控えていた女房たちも、一様に静かな、しかし深い安堵の息を漏らしていた。

座敷の中に張り詰めていた、あの破滅的な緊張感が、まるで嘘のように霧散していく。


その光景を、与一郎はただ見つめていた。

しばらく、見た後、ふいに顔をそむけた。


---



由比美作守は、何度も何度も頭を下げながら、畏れ多そうに座敷を下がっていった。


老側付きは、その背中が廊下の角を曲がって見えなくなるのを見届けた。

それから満足げな笑みをその老顔に浮かべ、龍王丸へと向き直った。



「若君よう、お収めになられました。お見事でございます。葬儀の差配、由比へのお答え、まこと、まこと」


渋い顔が平常時の顔となって久しい男の賞賛だった。

だが、龍王丸はその長い睫毛を伏せ、自身の小さな手のひらを見つめた。


「御台様の御差配によるものゆえ、賞賛に能わず」


「それでも、にございます」


老側付きは、一歩前に進み出た。


「由比の心をつかまれました。これは大きいことでございます」


与一郎はその言葉に、心がささくれ立っていくのを感じた。

では千代丸のことは小さいのか。寝不足と疲れで蕩けた思考が、怒りで冴えていく。


それに対して龍王丸は答えなかった。

うんとも、すんともいわず、無言であった。視線は庭の雨だけを見つめている。

この若君の独特の間は、今までは恐れを生んでいた。少なくとも与一郎にとっては怖かった。

だが、今この間は敬意と頼りがいに似た空気を生み出していた。


そのことが、与一郎は気に入らなかった。



与一郎は、その夜、自室の最暗部で龍王丸を思い返していた。

眼が冴えていた。眠りたくなかった。

眠れば、すべて受け入れ、忘れ、新たな自分になって歩みだしてしまう。

憤怒、失望、哀悼、すべて糧としてしまう。まっぴらごめんだった。


それゆえに、与一郎は暗闇の中で龍王丸の横顔を繰り返し思い返した。

あの主君のことを考えていると、頭の芯が恐ろしいほどに冴えるのだ。

実際、理性を働かせてみれば、龍王丸の初動の差配は完璧だった。


もし龍王丸の迅速な指示がなければ、自分たちはまず御台様にお目通りを願うために右往左往して時間を浪費していただろう。

あるいは、死病を恐れる女房衆が館の中で大騒ぎを始め、それを鎮めるところから始めねばならなかったはずだ。

そこは認めざるを得ない。与一郎はしぶしぶ頷いた。


千代丸の母親への対応についても、今思うと不足はなかった。

もし龍王丸が事前に冷徹な線を引いていなければ、母親が荼毘に付された直後の息子と無惨な面会をさせられたということもある。

そうなれば、千代丸同様、病弱そうな母親が狂乱するという事態もあり得た。

与一郎の脳内に、千代丸とその母親を並べて行う葬儀が浮かんだ。


それに、千代丸の病が重いという事実を、事前に由比一門へ細かく伝えさせていたことも大きい。

龍王丸が母親を館に呼び、見舞いを公式に許したという前提があったことも重要だ。

それで由比家は今川に対して一切の疑念を抱かずに済んだのだ。


そこまで考え、与一郎は頭をかぶり振った。

あり得ない。たまたまだ。

気まぐれが的を得ただけだ。


では由比美作守との会話はどうだ。龍王丸の言で由比の家は恥をかかなかった。

だが、千代丸の死を責めず、自分の至らなさを認め、忠誠も引き出さなかった。


ふんと与一郎は鼻を鳴らす。

ああ、なんと情けない主君だろうか。

あそこは病弱な小姓を推薦した美作守を責め、病をまき散らしたとでも言ってしまえばよかったのだ。

美作守は激高するだろう。だが、それをすれば由比一門は今川に一つ大きな借りができる。


次の瞬間、与一郎は己の思考の醜悪さに激しい嫌悪を覚えた。

ふざけるな。

もし若君があの場で、本当にそんな非道なことを口にしていたら、自分はその瞬間に、あの怪物の首をこの手で叩き切ってやったはずだ。


「ああ、くそ」


与一郎は頭を抱え、低く呻いた。

自分は一体、何を考えているのか。自分の中に渦巻いているこの感情の正体が、全く分からなかった。


龍王丸の手腕が見事であればあるほど、与一郎の目には、あの若君という存在が、人間の血の通わぬ異形の石像のように映った。

胸の内の忠義のようなものが、恐怖と寒さで、急速に冷えていくのを止めることができなかった。


だが、人間ではない、血の通わぬ怪物として龍王丸を見ることをやめたとき印象はがらりと変わった。

心の距離を離して一人の主君として見つめ直した時、そこには忠義に値する聡明な若君の姿しか浮かんでこないのだ。


千代丸の死に際し、ただの一滴の涙も流さなかったあの冷酷な龍王丸が、尊く、気高い人間にしか見えなくなっていく。

その事実こそが、与一郎にとってはおぞましい現実だった。


「至らぬ主であった」


「そなたの目は、間違っておらぬ」


それらは低く小さな言だった。

だが、それらが暗い夜の雨音に混じり、いつまでも与一郎の耳の奥深くで、冷たく鳴り響き続けていた。

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