10
遠江の空は、幾日も重く垂れ込めていた。
風は湿気をはらみ、掛川の陣所に張られた今川の二つ引両の陣幕を重々しく揺らしている。
床几の足元には、長雨が残した黒い泥が、こびりつくように固まっていた。
陣中に漂うのは、濡れた具足の革の匂い、錆を防ぐための丁子油、そして大勢の男たちが発する汗と獣脂の饐えた臭気である。
京の雅を愛する駿府の館とは、まるで別の国であった。
今川修理大夫氏親は、無造作に積まれた書状の山に目を落としていた。
遠江の国人たちからのものである。内容は雑多。
嘆願もあれば、ただの礼、怒りに任せて書かれたようなものもある。
これこそが遠江の縮図であると、修理大夫氏親は気を重くした。
斯波氏を退け、一応の平定を見たとはいえ、遠江という土地は未だ煮え滾る泥鍋のようなものであった。
先代氏忠の折より待ち望まれた旧領の奪還であるが、当主氏親はもとより今川諸将も諸手を挙げて歓迎はできない。
遠江の民自体、今川だ、斯波だといったところで小首をかしげるありさまである。
事実、長きにわたって遠江は守護による支配から遠かったのだ。
その結果、国人衆が割拠し、寝返りと裏切りを繰り返してきた。
つまるところ、遠江は危うい。
頼りになる歴戦の将を引き連れ重しとなさなければ、あっという間に荒れる。
「申し上げます。犬居の天野より、名代として宮内右衛門が罷り出ております。先の約定にありました三百貫の安堵の件、ならびに兵粮の遅参につきまして、御弁明をしたき由にございます」
陣所の入り口で、近習が低く声を張り上げた。
氏親は、手元の書状から目を離さずに「通せ」とだけ命じた。
引き入れられた天野宮内右衛門は、平伏しながらもその背中には明確な不満と警戒を張り付かせていた。
犬居の天野氏は、長らく遠江の山間部を支配してきた土着の雄である。
今川の軍勢に頭は下げてはいる。しかし、その心と行いが一致しているとは陣中のだれも信じてはいない。
「御屋形様におかれましては、遠州御平定、誠に大慶の至りに存じます」
平定はずっと前に終わっている。
ただ、大雨や信濃、甲斐で騒乱があると遠江の国人がにわかに殺気立つ。
それを抑えるため、氏親はたびたび軍勢を率いて遠江に来ざるを得ない。
「世辞はよい。兵粮の遅参、いかなる言い分か」
氏親の声は、決して荒らげられてはいなかった。
だが、その底冷えのする静けさがあった。
今川修理大夫氏親は、安穏と今川家の当主に座ったわけではない。
内訌による京への脱出、そして京での動乱、駿河に戻ってからの御家騒動。
いやというほどくぐった修羅場が、氏親の言葉にぬぐい切れない冷たさを宿している。
天野宮内右衛門は、わずかに喉仏を動かしてから口を開いた。
「はっ。先日の長雨により、天竜の川が氾濫いたしました。道はことごとく泥に沈み、荷駄を運ぶ人足どもも足を取られ、やむなく出立を延期した次第にございます。決して御屋形様への忠節を軽んじたわけでは」
「備中」
氏親は、視線をすっと天野の男ではなく、陣中の朝比奈備中守へ向けた。
備中守はその屈強な肉体を、豪奢な大鎧に包んでいる。
彼が頭を下げると、大鎧の草摺りが音を立てた。
「天竜の川が溢れたのは、いつだったか」
「さて、備中めの記憶違いでなければ、五日ほど前であったかと」
「ならば奇妙なことよ」
氏親は、手元にあった別の書状を無造作に放り投げた。
書状は畳まれたまま、天野の膝の前に落ちた。
「川を挟んで隣地に居る飯尾の荷駄は、三日前にここ掛川の陣所へ届いておる」
備中守がほうほう、とつぶやきながら頷く。
「であれば、飯尾殿の人足は、泥水の上を浮いて歩く術でも知っておるのやもしれませんな。
飯尾殿、天野殿、双方忠義のものと申します。加えて、双方天竜の川の先に領地をもつとあらば、それくらいしか思いつきませぬ」
「戯言を申すな。きっとその疑念は宮内右衛門が晴らそうぞ」
天野宮内右衛門の顔から、さっと血の気が引くのが見えた。
川の氾濫は事実であった。ただそれを口実に今川の出方を探ろうという考えもあった。
斯波に対しては、このような試みはうまくいった。徐々に奉公は形骸化し、天野は力を蓄えられた。
「い、飯尾殿の領地と我らの領地では、道の険しさが異なりますゆえ」
駿河の人間にはわかりかねるだろうが、そんな声を氏親は読み取った。
それゆえに、そこで話を打ち切った。
「天野には、前言通り所領の半分のみを安堵。残る半分は今川の直轄とし、代官を送り込む」
「御、御屋形様、なにとぞ、なにとぞそれは御容赦を。川が引き次第、直ちに荷駄を」
天野の遅参は初めてではない。
一度目は許し、二度目は追加の任を与え、三度目がこう。
「遅参の咎めは受けねばならぬ。兵粮は三日以内に納めよ。不足があれば、犬居の城に火を放つ。下がれ」
弁明の余地を一切与えぬ宣告だった。
怒鳴ることもなく、ただ沙汰だけを放り投げた。
天野の男は、それ以上何も言わなかった。
蒼白な顔で何度も額を泥にこすりつけ、逃げるように陣所を退がっていった。
氏親は、小さく息を吐いた。
これが遠江であった。
国人、寺社、地侍。彼らは皆、隙を見せれば嘘をつき、利をかすめ取ろうとする。
怒鳴って怯えさせるだけでは一時の抑えにしかならない。一つ一つ、試し、許し、罰し、家ごとに今川に適した形で組み入れていく。
手間がかかるが、今川の地として握るには必要な沙汰であった。
「国人の小賢しい嘘など、御屋形様の前では児戯にも等しきもの。見事なお裁きにございますな」
傍らに控えていた備中守が、白い歯を見せて笑った。
ただその表情にいささか残念そうな響きがあった。
天野がどのように跳ねるか、見てみたかったのだろう。
そこへ、陣所の外から再び慌ただしい足音が響いた。
今度は、泥を跳ね上げる馬の蹄の音も混じっていた。
「申し上げます。駿府より、早馬にて書状が届きましてございます」
その声に、陣所の空気がわずかに張り詰めた。
書状を受け取ったのは、宿老の庵原安房守であった。
安房守は、氏親の家督相続においても力になった思慮深い老臣である。
封を切り、文面に目を走らせた庵原の太い眉が、いささか困惑したように寄せられた。
「留守居の三浦方より、内々の御報告にございます」
「読め」
氏親は、床几に深く腰を掛け直して命じた。
安房守は書状に目を走らせると、重々しい溜息をついてから顔を上げた。
「若君の御様子についての報告にございますが」
そこで安房守がためらった。
氏親が先を促すと、ようやく続ける。
「どうやら駿府の大人どもは、若君を持て余しておるようです。書状の結びには、いささか畏怖しているとまで記されております」
「畏怖と?」
備中守が、怪訝そうに顔をしかめた。
「若君は数え年四つである。留守居の三浦どもは何に怯えておるのだ」
安房守が分厚い書状を指でなぞる。
「もともとご聡明な方ではありましたが。事の始まりは米蔵での鼠とありますな」
「鼠を素手でたたきつぶしたか。それぐらい朝比奈の家では珍しくござらん」
鼠、と氏親は言葉を頭で反芻する。
言葉通りではあるまい。
「備中殿。鼠とは質の悪い下役人でござる。どうやら若君は御膳に供された粥に微量の粟が混じっていることを見抜き、そこから帳を改めさせたようです」
悪くない。と氏親は思う。
まず調べ、把握し、それから沙汰。急ぐ場ではないので腰を据えるのもよい。
「奇妙なのは、そこからであった。米の出入りを記した帳簿をご覧になった折、一瞥しただけで心得違いをした者がいると当てて見せたとのことです。」
氏親は興味がわいた。
龍王丸にではない、誰がどのようにそれをやったかだ。
幼子がそれを成したとは信じていない。誰か算術に強いものが、助言したのであればその者の名が知りたかった。
「蔵役の横領を白状させたとも」
その言葉に、福島兵庫助が鼻で笑った。
それを安房守が目で制した。
「若君がご聡明であることは喜ばしい。なれど兵庫が腹立たしく思うのは、館の奥にこもる女房や文官どもがみだりに騒ぐことにござる。
お館様の御心を掴もうとしてのことと思うが、一度叱りつけるぐらいせねば腰が据わりませぬ」
留守を任せたものがこれではおちおち遠征などできない。
おおむね諸将も同意見のようだった。
「兵庫殿の申される通りだ」
備中守も同調して笑い飛ばした。
「若君は唐土の書物などをよくお読みになると聞く。それがどうこじれたのか、下役人の一件と結びついたのであろうよ。
とはいえ家中の者どもに甘く見られ、侮られる若君よりよほど頼もしゅうございますぞ」
いかにも武断派らしい、あっけらかんとした物言いだった。
しかし、安房守は二人の言葉に賛同せず、静かに首を振った。
「のみであればよいが、ちと懸念がござる」
先ほどよりもさらに言いよどんでいる。
「構わぬ申せ。わが子のこと、駿河のこと、耳に入れておくべきと思うたがゆえ、奥は文をしたためたのであろう」
は、と安房守が畏まった。
「その粗相を言い当てられたるもの弥七と申しますもの。その日の夜半に自害いたしました」
「ほう」
兵庫助が片眉を上げた。安房守がかまわず続ける。
「若君の問いに耐えきれず、自らの些細な嘘を見透かされた恐怖によるものと、もっぱらの噂にございます」
「ならば当然のことよ」
兵庫助は冷たく吐き捨てた。
「主を欺いた者が腹を切るのは道理。若君が無言の責めのみで腹を切らせたというなら、それはすでに確たる武威が備わっておる証拠。
やはり駿府の留守居どもは、いくさの泥を忘れて骨抜きになっておるのだ」
それには備中守は賛同しなかった。氏親も疑念を抱いた。
「されど兵庫殿。下役といえど今川の臣。若君の独断で自害を命ずるは越度ではござらんか。そうなれば、留守居がお館様に文を出すのも当然かと」
安房守が続ける。
「若君は何も命じておらぬとのこと。ただ、名前を呼んだのみ。それだけで弥七めは盗んだ米を蔵に戻し、借銭をはじめとした方々への借りを清算。その後に満足そうに喉を突いた、というのが事の次第と」
「満足そうに、か」
氏親がつぶやくと、安房守が頭を下げた。
蔵の米を盗むような卑賎な人間。それが神妙に罪を償うであろうか。
先ほどの天野何某のように、許しを請い、わずかでも咎めだてを逃れようとするのが普通ではないか。
「奇妙よな」
「駿府の者らもそう考えたようで、御台様臨席のもと若君、龍王丸様と話したそうでございます」
詮議か、若君にか、などと諸将がざわめいた。
安房守がしかめ面で続ける。
「そこでどういう運びになったのか、近隣の僧と老臣たちが、徳と礼について講釈をしたとあります。
その中で若君は漢書のたとえを逆手に取り、仁でも徳でも信でも国はおさまらぬと言い負かしたと」
陣所の空気が、すっと冷えた。
その中で口を開いたのは朝比奈備中守だった。
「それは、ちと気になるな。兵庫殿はああいうが、駿河の留守役も武士。衆目で言い負かされては」
「ああ、失敬。言い負かしてはおりませなんだ。老臣らが言葉を失ったところで、浅知恵であったと若君が詫びたとありますな」
沈黙が痛いほどに陣中に広がった。
細やかな雨音と、それが水たまりをたたく音だけがそこにあった。
「分限を守り、諸方の顔を立てるが故、持て余すか」
安房守が読み終えた文を氏親に差し出した。
目を通せば、かなり安房守は気を使って話していたことがわかる。
文は最後の方になるほど、行間が詰まり、字が小さくなる。
そして最後の方は、報告というより詩のような情感が強く込められている。
なるほど冷静な安房守が顔をしかめるわけである、氏親は納得した。
また駿河の者たちの理性に感謝もした。
率直に不気味な童だ。鬼子だ。といわない慎み深さがある。
氏親は、床几に座したまま、じっと宙を見つめていた。
脳裏に浮かぶのは、自身の嫡男、龍王丸の、あの白蝋のように透き通った無表情な顔である。
決して泣かず、決して取り乱さず、ただ静かな瞳で大人たちを見透かすような、あの目。
出陣の折は声をかけなかったが、美しい子だと他人事のように思った。
「まだ幼かろう」
氏親は、呟くように言った。
「人の世の泥というものを知らぬゆえ、いささか早熟であるがゆえ、幾分異質に思うだけよ。
十、二十と年を重ねれば、凡庸の範疇に収まろう」
そんなことを言いつつも、氏親は自分の言葉を信用することができなかった。
ゆえに一瞬、駿府へ戻ることを考えた。
あの子を館の中に置いておくのが正しいことだろうかと。
だがすぐに考えを改めた。
いや、女傑という言葉が似合う自分の母、北川殿がいる。正室も線が細いが肝は据わっている。
きっと、問題はないはずだ。
視線を足元に落とせば、そこには遠江の泥濘がある。
目を離せば、先ほどの天野のように、すぐに反乱と裏切りの泥土と化す土地が広がっているのだ。
「駿府のことは、続けて報せよ。目を離すな」
氏親は安房守にそう命じると、再び未処理の書状の束へと手を伸ばした。
----
それからさらに半月ほど日が過ぎた。
すさまじい嵐、大雨、小雨と繰り返されるため、陣所の泥は一層深くなっていた。
氏親の毎日は、際限のない政務と調停の連続であった。
地侍同士の水利を巡る血みどろの争い。国人衆が隠し持っていた武器の没収。
斯波方に与していた寺社からの、所領安堵を求める哀願と脅迫じみた呪詛。
氏親はそれらを一つ一つ、事実関係を洗い出す。
特に骨が折れるのは、各々が出す所領の正当性を示す文書の精査だ。
一見して正当性があると思われるそれらは、経験の浅い者であれば素通ししかねない。
だが、目を凝らすと過去の将軍の名前と時期が一致しない。
ある将軍は何年何日に改名しているにも関わらず、それ以降の日付で改名前の所領安堵の書が作られている。
それだけなら、まだ扱いようもあった。
中には源頼朝公やら、聞いたことのないような公家やらを引き合いに出し、由緒正しきお家柄でござると、通そうとするものすらいる次第だ。
氏親はつくづく京で過ごした日々に感謝した。
氏親の母親の実家は、幕府政所の伊勢家である。各地のもめごと仲裁、文書作成、精査などは生業である。
家督争いの不利から京に逃れた後、叔父や祖父のそれらを見て育った氏親である。
遠江国人の文書、訴訟を捌くなどさしたる苦難ではなかった。
ただ、その作業の中で氏親の頭を支配していたのは別の事柄だった。
龍王丸。
文を読み解く範囲では、決して愚鈍ではないと感じられた。
癇癪はなく、我慢強く、礼法をはじめ様々な手習いの出来もよい。
しかし、妙に小姓らと間がある。
心を許していないのだ。どちらが、ではなくどちらも許していないのかもしれない。
ふと氏親の脳裏にかつての主君が浮かんだ。
氏親は守護大名であり、家中では頭を下げることは少ない。
実の母であっても、氏親には畏まる。
そんな氏親の主君とは、ほかでもない今川の本流であり、武士の棟梁でもある足利将軍家を指した。
常徳院様。
第9代将軍、生前は足利義尚の名前で呼ばれた。
叔父、伊勢新九郎盛時との縁が深い人物であり、京にて拝謁し、家督相続の件で助けを求めた。
幼くして将軍宣下を受けた人物で、優れた教養と美貌の持ち主でもあった。
その知性と能力に当人も自信があったのか、陰りを見せる幕府の権威を取り戻そうと親征を繰り返した。
人を引き付ける要素は間違いなくあった。氏親のひいき目ではないと、今も思う。
実際、近江国の義尚の陣には諸将が集い、日本の中心として機能していた時期もあった。
だが、若くして没した。討ち死にではない。暗殺でもない。
いっそ、そのどちらかの方がよかったかもしれない。それほどに人の心に食い込むことができていた方が救いになった。
義尚は才を生かしきれず、俗世の泥におぼれた。
飾らずにいえば、義尚は思う通りに行かず、自棄になって酒におぼれただけだ。
佞臣に囲まれ、叔父の諫言も届かず、大酒を飲んで卒中で病死した。
この世を生きぬくために必要なのは、眩い才がすべてではないと、氏親は思う。
事前の根回し、阿諛追従、袖の下、約定破り、そういった行為に手を汚してでも、群臣をまとめ切る力がいる。
好き勝手ばかりする、敵とも味方とも言い切れぬ者たちの腹を読み、つまらんやつらめと笑い飛ばす器がいる。
龍王丸。
自分と同じ名を持つ、聡明な、美しい子。
危ういか。
常徳院様の轍を踏むか。
くく、と氏親は喉を鳴らした。
胸に広がりつつあった懸念を拭い去る。
駿河の者たちを小心と笑えない。自分も龍王丸に囚われているではないか。
急ぐ必要はない。まだ幼いのだ。
----
氏親の考えを笑うように、翌朝、また駿府より早馬が来た。
雨は止んでいなかった。
細い雨である。陣幕を叩くほどの力はない。
ただ、長く降り続け、布に染み、革に染み、泥の上にさらに薄い膜を作る雨だった。
氏親は、その朝も遠江国人の訴えを聞いていた。
その日の訴えは寺領の境をめぐる争いであった。
片方は古い安堵状を持ち出し、片方は近年の寄進状を掲げていた。
どちらも紙は古び、墨もそれらしく褪せている。だが、どちらの文にも、都合の悪いところだけ筆が乱れていた。
氏親は、それらを脇へ置いた。
焦らし、揺らし、どう動くか見ようと決めた。
「細部は後で見る」
それだけ言った時、陣所の外で馬が嘶いた。
泥を跳ねる音が近づいてくる。
近習が入ってきた。
昨日の者ではない。肩で息をし、袖口に泥をつけている。顔色からして、ただの定時の報せではなかった。
「駿府より、重ねての御報告にございます」
陣中の者たちが、一様に顔を上げた。
朝比奈備中守が片眉を上げる。
福島兵庫助は、不快そうに鼻を鳴らした。
庵原安房守は、すでに立ち上がっていた。
「また若君か」
兵庫助が吐き捨てるように言った。
「駿府の者どもは、よほど暇と見える。幼子の手習い一つ、くしゃみ一つまで遠江へ送るつもりか」
備中守は笑わなかった。
安房守が書状を受け取り、封を切った。
一通ではなかった。
留守居からの報告。
御台様付きの女房衆を経た内々の書き付け。
そして、もう一つ。
安房守は、それを見て、少しだけ眉を動かした。
「由比方より、礼状が添えられております」
「由比」
氏親は、低く繰り返した。
由比は駿河衆である。
古くから今川に仕え、海辺にも山にも縁を持つ。軽んじてよい家ではない。
「読め」
氏親が命じると、安房守はまず留守居の報告に目を落とした。
「由比千代丸、病にて死去」
そこで、わずかな間が落ちた。千代丸の名を知る者は少ない。
氏親とて千代丸なるものに思い当たるところがなかった。
挨拶は受けたはずであるが、当主嫡男でもない目立ったところもない幼子は今川の当主の記憶に留まらなかった。
だが、龍王丸の側に置かれていた由比の子であることは察した。
「たしか、若君の近くにいた子であったな。年は五か、六か、それぐらいよな」
その備中守の言葉で、氏親は千代丸を思い出した。
年の割に小さい子で、大丈夫かと心配になったのだ。
「まあ、それぐらいでしたな。ちと体が弱いので、若君から離すべきかと議論もいたしました」
安房守が答える。
「安房守、続きを」
安房守は、いかぬ、いかぬとでも言いたげに、文を読み上げた。
「病中、若君、水、敷物、同室の者、医師の有無、薬湯のことなど細かく御尋ねあり。されど死去の報を聞かれし折には、一言のみ仰せられ候」
兵庫助が小さく笑った。
「さすがお館様のご嫡男よ。大人たちより肝が据わっておるわ」
だが、その笑いは長く続かなかった。
安房守の声が、次を読んだからである。
「その後、若君より、葬儀のこと、由比のこと、申しつけあり。
一つ千代丸の母を一人にするべからず、二つ急ぎ由比方へ正式に使者を立てるべし。
三つ、僧を呼ぶべし。四つ、遺骸は余人の目に触れず出棺すべし。
五つ、水桶と敷物は改めるべし。六つ、弔いの費えは今川より出すよう、若君が御台様へ願い出、由比に恥をかかせることなきように取り計らうべし」
陣中に、雨音が戻った。
誰もすぐには口を開かなかった。
氏親は、床几に座ったまま、安房守の手元の書状を見ていた。
安房守はさらに続けた。
「御台様の御差配により、弔いの費えは今川の内蔵より出され、僧への布施、由比方への見舞い、母君への慰めも滞りなく相済み候。
なお若君は、由比方より礼を受けられし折、すべては御台様の御差配、と仰せられ候」
備中守が、初めて息を吐いた。
「道理である、あるが」
数え四つの子供がやることであろうか。
安房守は、そこで一度言葉を止めた。
次に由比方の礼状を取る。
紙の質はよい。
急ぎの文ではあるが、字は乱れていない。
由比の者が、感情だけで筆を走らせたものではないことが分かった。
「由比方よりの礼状にございます」
安房守の声が、わずかに低くなった。
「此度、病弱なる千代丸、若君の御側にて果報を得、早世いたし候。
されど、若君ならびに御台様の御厚情により、由比一門の面目も保たれ候。
ことに若君、格別のはからいかたじけなく、一門、骨身に染み入り候」
「安房守」
安房守はさらに読み上げようとしたが、氏親が止めた。
「はからいとはなんだ。あれは何をした」
由比は今川の家臣である。
龍王丸のものではない。
いくら不在といえど、氏親を飛ばし、勝手に恩を与え忠誠を誓わせるのは僭越である。
「由比方、千代丸の死により、若君の御側の奉公を欠くことを恥じ、代わりの若者を差し出したき由を申し出たようです。
これに対し若君は、今すぐ代わりを出すには及ばぬ、まずは千代丸を弔い、その母を休ませよ、とのみ」
それについては、御台様と重臣方に了承を取ったようです。と安房守が文の一部をなぞった。
ふむ、と朝比奈備中が頷く。福島兵庫は訝しげに書状を覗き込んでいる。
その差配にけちをつけようと思えばできる。
しかし、家臣への思いやりに沿った差配に見えなくもないため、頭ごなしに否定もしにくい。
「また、由比の忠節を疑う者はこの館には一人もいない、と若君が仰ったと」
そこまで読んで、安房守は書状を畳んだ。
やがて備中守が、低く言った。
「千代丸の不幸はあれど、由比家の忠は強くなった。ということでよろしいか」
「まことにめでたい、とは言い難いか。まあ、そうでしょうな」
聡明な子である、御家は安泰である、などとは喜べない。
「同じ子の話か」
氏親が、ぽつりと言った。
諸将の疑問の根はそこにあった。
一度目の報告では、龍王丸は駿府の大人どもに間違いなく恐れられていた。
人を見透かし、名を呼んだだけで下役を死なせ、老臣たちに言葉を失わせる子であった。
今度の報告では、由比を引き寄せている。
氏親は書状を受け取った。
留守居の文。
御台様の控え。
由比方の礼状。
三つを並べる。
どれも嘘ではないように見えた。
そして、三つとも同じ子について書いている。
氏親は、しばらくそれらを見下ろしていた。
「賢いというなら、分かる」
誰に向けた言葉でもない。
「危ういというなら、それも分かる」
氏親の指が、由比方の礼状の端を押さえた。
「だが、なぜ、同じ子がこうも違って見える」
安房守は答えなかった。
備中守も、兵庫助も答えない。
陣所の外では、雨が泥を叩いていた。
氏親は、昨日の己の言葉を思い出した。
急ぐことはない。
まだ幼い。
そう結論付けたはずだったが、幼子の行いと捨て置くにはあまりに違和感が強かった。
氏親は目を閉じた。
駿府へ戻るには、まだ早い。
遠江は泥の中にある。
天野も、飯尾も、寺社も、地侍も、目を離せばまた勝手に動く。
だが。
「安房守」
「は」
「これより、駿府よりの報せは、龍王丸の言葉をそのまま書くように」
安房守が頭を下げた。
「誰がどう受け取ったかも、隠すな。恐れたなら恐れたと書かせよ。感じ入ったなら感じ入ったと書かせよ」
「承知いたしました」
「御台にも伝えよ。若君を押さえるな。飾るな。ただ、見たままを寄越せ」
そこまで言って、氏親は再び由比方の礼状を手に取った。
伊勢家の屋敷でいやというほど嗅いだ、すえた陰謀の香りはしない。疚しさも感じない。
ただの礼状だ。
「駿府へ戻るには、まだ早い」
低く言った。
「だが、見ぬままで置くには、少し遅いかもしれぬ」
その声は雨に沈み、陣所の中にだけ残った。




