11
甲斐と駿河を隔てる山道は、深い霧に沈んでいた。
数日前から降り続く雨は、細く、しつこく山肌を濡らしている。
足元はぬかるみ、木々の葉から落ちる水滴が、笹藪を重く打った。
視界は白く濁り、半町先の尾根すら定かではない。
その霧の向こうから、地鳴りにも似た響きが、かすかに這い寄ってきていた。
国境近くに潜んでいた駿河方の物見は、泥の中に身を伏せ、尾根の向こうを凝視した。
霧が風に流され、一瞬だけ薄くなる。
そこに、旗があった。
雨水を含んで重く垂れ下がっていたが、その紋は見て取れる。
武田菱であった。
甲斐の名門、武田である。
それだけなら、まだよかった。
甲斐の国境が騒がしいという噂は、数日前から駿河にも届いていた。
だが、物見の男は息を呑んだ。
武田の旗の周囲に、いくつもの旗が立っていた。
板垣。甘利。飯富。小山田。穴山。
甲斐の国人、武田に近い者たちの旗である。
さらに、大井の旗。
今井の旗まで見えた、と誰かが叫んでいた。
物見の男には、それが本当かどうかまでは分からない。
そもそも、どれが大井何某の旗か、今井何某の旗かすらも知らない。
山間にあるぞ、という声が霧のどこからか聞こえてきたのである。
そうこうしている間に、事態は膨らんでいった。
山を下りて逃げてきた村の者が、「小山田も穴山も来た」と言うのを聞いた。
荷を捨てて引き返してきた商人が、「大井の陣を見た者がいる」と震え声で言うのを聞いた。
近くの寺の者が、蔵を閉じながら、「甲斐の全軍が下ってくる」と噂しているのも耳にした。
見たもの。
聞いたもの。
逃げてきた者の声。
商人の噂。
寺の者の恐れ。
物見たちは事ここに至って、一つの認識を共有した。
すわ、一大事である。お家の存亡の危機である。
その幾重もの恐れが雨と霧の中で混ざり合い、一つの急報になっていく。
「武田勢、甲斐口に現る。諸将の旗、多数。大軍なり」
早馬が山を下った。
泥を跳ね上げ、駿府へ向かって走った。
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同じ頃、駿府館の奥は、雨音だけが支配していた。
今川当主の正室、中御門殿は、縁側の近くに座し、目の前に置かれた半紙を見ていた。
座敷には、数え年四つになる龍王丸が控えている。手習いの時間であった。
彼女は最近は可能な限り、龍王丸の手習いには顔を出すようにしていた。
遠江からの返信を見てから、そのようにするようになった。
最初は少し場に緊張があったが、回数を重ねるうちにみな慣れた。
中御門殿自身も、聡明な息子の成長を見ることに、楽しさを見出していた。
「筆が、少し柔らかくなりましたね」
龍王丸の手はまだ小さく、筆を握る指先にも幼さが残っている。
だが、半紙に落とされた墨の跡は、童のものにしては整いすぎていた。
中御門殿は、わずかに微笑んで言った。
以前の龍王丸の書は、どこか硬かった。
刃物で刻んだような、冷えた線であった。
だが、今日の一枚には、墨の滲みにわずかなゆとりがある。
中御門殿は先の葬儀以降、少し柔らかさを持つようになった息子に安堵を覚えていた。
「ありがとうございます」
龍王丸は姿勢を正したまま、短く礼を言った。
だが、嬉しそうではなかった。目を輝かせるでもなく、恥じらうでもない。
ただ、褒められたので礼を述べた。それだけである。
中御門殿は、その顔を見るたび、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。
幾分柔らかくなった、それは事実だが、まだ固い。
その固さが踏み込むのをためらわせた。
わが子ながら喜びや悲しみが、この小さな器のどこにあるのか。
母である中御門殿にも、測りきれない。
どうしたものか、と沈黙の中思案した。
だがその静けさを裂くように、障子の向こうで廊下が騒がしくなった。
走る足音。
低い声。
金具の擦れ合う音。
ここは奥座敷である。平時であれば、武骨な具足姿の者など近づくことすら許されない場所であった。
そこへ、文箱を抱えた者たちや武装した者が急いでくる気配がある。
中御門殿が顔を上げる。
龍王丸も、静かに筆を置いた。
「甲斐口より、急報にございます」
障子の外で、先触れの武士が声を絞り出した。
その一言で、座敷の空気が変わった。
中御門殿の表情から温もりが消える。
母から守護大名の正室へと変わる。
龍王丸は、その変化を察していたようだった。
すっと音もなく立ち上がる。
「下がっております。本日はありがとうございました」
淡々と告げ、踵を返そうとした。
龍王丸は出しゃばらない。
自分に聞く権利がないこと、大人たちの政の場で自分がどこに置かれるべきかを、恐ろしいほど正確に理解していた。
中御門殿は息子の聡明さに感謝した。
この年の男子は、勇ましいことを好むと聞く。だが火急の時に言って聞かせる必要がない、それは良いことだった。
「残りなさい」
その背に、凛とした声がかかった。
中御門殿はすぐに上座を空けた。
奥の部屋から姿を現したのは、北川殿と呼ばれる老女であった。
先代当主の正室であり、現当主氏親の母である。
相模の伊勢新九郎盛時の姉でもあった。
今川の幾多の修羅場を見てきた老女である。その眼光は、鋭かった。
北川殿の登場に、周囲の人間が姿勢を正した。
もはや自分の出番はないと、息子夫婦に主役を譲った北川殿はほとんど表に出てこない。
その彼女がわざわざ群臣を引き連れ、広間にやってきた。
おそらく大事である、と理解した中御門殿の喉が上下した。
祖母の呼びかけに、龍王丸は足を止めた。
母親と違い、こちらは平静そのものだった。
龍王丸は別段孫として可愛がられてはいなかった。
むしろ常日頃、余計なことはするな、今川の嫡男らしくあれと圧をかけられている。
しかし、そのような熱のこもらぬ間柄であっても、龍王丸は北川殿に腰が引けたところがない。
そのことが少し中御門殿を心強くした。
「そなたは、今川の嫡男」
北川殿は、ゆっくりと座敷へ歩み入りながら言った。
「当主不在なれば、いざという時はそなたが陣頭に立つこともあります。聞かずにどうしますか。母君に任せますか」
「いえ、聞く機会を賜り、感謝いたします」
龍王丸は小さく頭を下げ、座り直した。中御門殿の脇、少し下がった位置に己を置いた。
北川殿は、まあ、かわいくない孫、とでもいう風に鼻を鳴らした。
障子が開き、雨で肩を濡らした留守居の重臣たちが入ってきた。
三浦次郎左衛門、葛山、老臣たちが、血相を変えて平伏する。
その中には由比美作守もいた。
彼は龍王丸を認めると、にわかに驚き、深々と頭を下げた。
「武田勢が甲斐口に現れました」
重臣の一人が、震える声で報告を始めた。
「甲斐口の国境付近に、武田菱の旗が多数。板垣、甘利、飯富の旗が見えたとのことにございます」
座敷がざわめいた。
「武田の当主自ら動いたというのか」
「板垣、甘利が揃っているのなら、武田の本隊でござろう」
「お館様が遠江へ出ておられる隙を突いたか」
報告は続いた。
「加えて小山田、大井、今井の旗まで見えたとの報せにございます。
また武田方は国境で兵粮をかき集め、対陣する動きを見せているとのことです」
「小山田、穴山まで動くなら、小競り合いでは済まぬ。あ奴らお館様と一戦交える気やもしれん」
「いや、駿府を総攻めにする気であろう」
「待て」
老臣の一人が眉をひそめた。
「大井の旗まであると申したか」
「そのように」
「大井が、そう易々と武田五郎の下に並ぶものか。今井も同じだ。甲斐がそこまで一つになったというのか」
座敷は騒然となった。
武田五郎信直に才覚があること。それは甲斐と接し、その動向を探る駿河勢だからこそ疑いはない。
しかしまだ若い。
いずれ武田は甲斐をまとめるが、まだまだ先の話。それが駿河勢の考えだった。
それゆえに駿河に押し寄せてくるとは、考えにくかった。
しかし、大井や今井まで本当に武田の下に並んだなら、話の前提が変わる。
武田五郎信直はその才覚で甲斐をまとめあげ、一つの国として駿河へぶつけに来たということになる。
その事実が駿府の大人たちをざわつかせた。
兵数、兵粮、進軍の総大将、迎え撃つ場所など言葉が行き交う。
その中には公家を通じての和睦、などという話もあった。
唐突に始まった軍議の中で、龍王丸だけが黙って聞いていた。
誰も、数え四つの幼子に意見など求めない。
聡明な若君は最後まで黙って勉強している、と皆が考え、意識の外へやっていた。
だが、龍王丸は目を細め、息を深く吸い、吐くことを幾度か繰り返した。
それから、かすかに笑った。
笑ったように、見えた。
その後、にわかに軍議へ口を差し挟んだ。
「旗は、誰が見たのか」
声は大きくなかった。
しかし、騒ぐ大人たちの声を断ち切るように響いた。
場が止まる。
留守居の老臣が、慌ててたしなめた。
「若君、これはもはや軍議にございます。若君が案じられることではございませぬ。過ぎたる問いにございます」
龍王丸は素直に頭を下げた。
「過ぎたる問いであること、承知した。諫言感謝いたす」
そこで終わるかと思われた。
だが、終わらなかった。
龍王丸は頭を下げた姿勢のまま、淡々と続けた。
「話がはっきりせぬゆえ、まず見た旗と、聞いた旗は、分けるべし」
場が静まった。
老臣たちが顔を見合わせる。北川殿の目が、すっと細くなった。手元の扇を大きく鳴らす。
中御門殿は息子の小さな肩を抑えた。
龍王丸はなおのこと止まらない。
顔を上げ、報告を持ってきた武士を見た。
「物見がその目で見た旗。逃げてきた者が申した旗。商人が恐れから聞いた旗。寺の者が噂した旗。
それらがすべて同じものであるならば、まごうことなき大軍よな」
幼子の声であるはずなのに、その響きに幼さは薄かった。
「皆の言う旗が異なるならば、旗は道の上で増えている。武田が増やしている」
その一言が、大人たちの頭に冷水を浴びせた。
武田本陣の旗は見たのかもしれない。板垣や甘利も見た者がいるのかもしれない。
だが、大井や今井の旗は。
誰かが恐怖で足したのか。
武田が意図して流した噂なのか。本当にそこに全軍がいるのか。
「若君、そこまでにございます」
留守居の一人が、顔をこわばらせて声を張った。
「胆力お見事にございます。されどこれ以上は、幼き御身が軽々に申されることではござらぬ」
中御門殿も、不安そうに名を呼んだ。
「龍王丸、もうよいのです」
龍王丸は今までわずかでも制止されれば引いた。決して今川の御曹司としての分限を超えなかった。
だが、この日は様子が違った。
「先に言う。お館様を遠江より戻すこと、罷りならぬ。
大井川より東の兵で、この難を受ける」
場が凍りついた。
提案ではなく、今川の血を引くものの口から発せられた命である。
しかも、今川の当主である氏親の進退、軍略の根幹を命じた。
数え四つの幼子が、当主の帰還の行軍を差し止めようとしていた。
「若君。それは、あまりにも過ぎたる御言葉にございますぞ」
老臣が怒気を含んだ声で言った。
龍王丸は、深く頭を下げる。
「重ね重ねの諫言。ありがたく思う」
しかし、上げられた顔は変わらない。
気負いはないが、遊びもない。
「されど、遠江の軍を戻すことはいかぬ」
大人たちは絶句した。
沈黙を破ったのは、北川殿であった。
「最初から申せ、孫殿。まさか、今この場でお館様の代わりを務めるつもりではありますまいな」
「一つ、時期が悪いにもかかわらず旗の量が多すぎること」
龍王丸はためらわず答えた。
また旗の話か、という空気が座敷に流れる。
龍王丸は続ける。
「本当に駿府を落とすほどの大軍であるならば、旗より先に道が詰まる。
おびただしい数の飯が動き、馬が動く。だがこの雨では、荷も遅れる。
なぜ今、武田は軍を動かすのか。納得いく理由がない。
そもそも、甲斐は駿河よりも貧しい。田に人が要る時期に大軍を動員することも納得いかぬ」
じっと事の成り行きを見守っていた、重臣の三浦次郎左衛門が問う。
「甲斐をまとめ終えた時だからこそ前に出たのでは。甲斐が貧しいがゆえに駿河に来たのではござらぬか」
「一つ目は否定できない。だが、甲斐を一つにしたばかりで大軍を動かせば、今井や大井の反抗を招く。
使いつぶすつもりで今井、大井を先鋒とするならばまだしも、そうではないとのことだ」
仮に先鋒の役を与えたのであれば、物見がはっきりと今井、大井の旗を見たはずだった。
「二つ目、もし飢えた甲斐衆が来るならば刈り入れ後であろうよ。もしくは武田は駿河を丸ごと手に入れ、秋まで待つという考え。
これはない。侵略はうまくいっても、相模の伊勢とお館様の軍に挟まれる」
龍王丸は、小さな手を膝の上で固く握った。
「なればこれは、駿府を攻め落とすためではなく、お館様を遠江から戻すためのもの。おそらく武田と遠江の一部は繋がっておろうよ」
大人たちは押し黙った。
遠江は、まだ平らいだばかりである。
国人衆は従ったように見えても、腹の底までは分からない。
氏親が駿府の危機を救うために軍を返せば、その隙に一部の遠江国人が動くこともあり得る。
次郎左衛門は頷きながらも、重ねて問う。
「理はそこそこにございます。されど、確証はござるか。
もし外れていれば、武田の全軍がなだれ込み、駿河は燃えまする。遠江州をいたずらに疑うのも危ういですぞ」
次郎左衛門がずいと近寄った。
「若君、お家の行く末は賽子遊びではござらぬが、このこと、理解されておられるか」
次郎左衛門殿、と由比美作守が制止した。
しかし、次郎左衛門は頭も下げず、龍王丸と視線をぶつけ合う。
さきに視線をそらしたのは龍王丸だ。
だが、逃げたのではない。変わらぬ表情で北川殿に視線を向けた。
北川殿はやがて短く息を吐く。
「ならば、相模方へ知らせなさい」
北川殿は留守居たちへ命じた。
自然な判断である。
氏親を遠江から戻すことに不安があるならば、血縁であり、今川と縁の深い相模の伊勢方へ急使を出す。
援けを求め、武田を牽制させる。
定石であった。どう転ぼうが損は小さい。
次郎左衛門はその差配を聞いて、ようやくうむうむと納得したようだった。
「それもおやめください」
だが龍王丸の声が、その命令を遮った。
座敷の空気が、さらに冷えた。
留守居たちが、声を失う。
北川殿の目が細くなる。
「なぜです、そなたはそれを望んでいるのでは?」
ここで龍王丸は、押し黙った。
目を閉じて、また深い呼吸を繰り返し、その後、かすかに笑った。笑ったような顔をした。
その顔を見た北川殿の瞼が小さく痙攣した。
「失礼。されど相模方へ知らせることは、無用とは申しませぬ。されど、駿河に兵を請う文はおやめください」
「なぜ」
「駿府の門を、外の兵に開くことになります」
気を遣った言い方だった。
重臣の多くは小首をかしげた。
しかし、三浦次郎左衛門、由比美作守は難しい顔で顎をさすった。
龍王丸は暗に、相模方を信用ならぬと言っていた。
今川の当主が不在の今、駿府に他家の軍勢を招き入れるという危険を冒したくない。
その意図が込められた言葉は迂遠だった。
だが、分かる者には分かる。
北川殿には、龍王丸が何を警戒しているか分かった。
だからこそ、北川殿は許さなかった。
「龍王丸」
低い声であった。
龍王丸は頭を下げる。
「そなたは、自分が何を申しているのか、本当に分かっておりますか」
今川を支えてきた女、その弟と甥が疑わしいということの意味。
氏親、家督相続の大恩人である、伊勢新九郎盛時を粗略に扱う意味。
分かっているかと北川殿は龍王丸に言った。
北川殿は、龍王丸を見据えた。
「お館様の不在に、今川の嫡男が、軍略に口を出し、大方針を押し通そうとしているのです」
場が、静まり返る。
「今川の血を引く者は、そなた一人ではありませぬ」
北川殿の言葉は、刃のようであった。
「当主の血を引きながら、当主になれなかった者など、この乱世にはいくらでもおります。
血を引くということは、無条件に守られるという意味だけではありません。聡明よ、麒麟児よとおだてられ、自らは安泰だとでもお思いか。
この身が、孫可愛さに血迷うとでも思うておられるのか」
中御門殿が、顔色を変えた。彼女の手はもはや、龍王丸の肩から離れていた。
だが、北川殿は続ける。
「軍議に口を挟み、もしその判断が誤っていた時。今川の屋台骨を揺るがした時。そなたは、ただの幼子では済まされぬ。
その意味が分かりますか」
「無論のこと」
「分かっていて、なお申すのですか」
「はい」
龍王丸は、目を逸らさずに答えた。
そして、平らな声で言った。
「北川殿のおっしゃる通り、龍王丸ごときの代わりは、いくらでもおります」
中御門殿が息を呑み、袖で口元を覆った。
重臣たちも言葉を失った。
「それは今川にとってまこと、ありがたいことにございます」
その言葉は、周囲の大人たちには覚悟として聞こえた。
廃嫡されても構わない。
遠ざけられても構わない。
今川の家が守られるなら、己など惜しくはない。
そのように聞こえた。
それが異なる意味合いを秘めていると察したのは、その場では二人。
母である中御門殿。
そして、今日も仄暗い目で龍王丸を見ていた岡部与一郎だけだった。
二人とも、龍王丸の胸中を掴み切れてはいない。
ただ、それが若君の美しい覚悟などではないことだけは、なぜか分かった。
北川殿は、しばらく龍王丸を見つめていた。
この幼子の瞳の奥にあるものを、どう呼べばよいのか分からないようだった。
「して、孫殿、どうする。伊勢を頼らぬとあらば振出しに戻ったように見えまするが」
北川殿は問うた。
「頼らぬとは申しておりませぬ。ただ甲斐口を救うために、甲斐口へ走るは悪手と存じ上げます」
龍王丸は答えた。
大人たちは眉をひそめる。
「唐土の書物に、趙を救うに、趙へ走らず、魏を囲むという話がございます」
囲魏救趙。
「甲斐口に兵を寄せれば、こちらは甲斐口へ引き寄せられます。お館様を戻せば、遠江が揺れます。
相模方へ兵を請えば、駿府の門を開くことになります」
龍王丸は、一語ずつ区切るように言った。
「ならば、甲斐の別口を詰めるべきにございます。旗のあるところではなく、旗を戻したくなるところへ」
そこまで言うと、三浦次郎左衛門が地図を文官からひったくり、床に広げた。
戦慣れした重臣たちは広げられた地図に指をさし、あれやこれやと話を広げていく。
頭が冷え、状況が整理されれば、迅速に動き出していく。
龍王丸はそれ以上その場で何も言わなかった。
静かに目を閉じると、耳だけで事の成り行きを窺うだけだった。
最終的に決まったことは、いくつかあった。
一つ、氏親を遠江から戻す文は出さない。ただし、状況報告のみを急ぎ遠江へ送る。
二つ、相模の伊勢方へは事態を知らせるが、兵を請う文にはしない。駿府への入城は軍勢を伴わぬ使者であれば受け入れる。
三つ、甲斐口の守りは固めるが、過剰に兵を寄せて手薄を作らない。
四つ、富士川筋、河内筋へ探りを出し、甲斐の別口を探る。
五つ、大井、今井の旗が実見か伝聞か、至急確認を取る。武田本隊の荷と道の動きを探る。
そして、最後に、これらは表向きは、あくまで留守居と奥の大人たちが判断したことにする。
若君の進言で国が動いたなどと、口にしてはならない。
ただ、若君が軍議で求められてもいないのに口を出したこと、武田勢の迫る駿河にお館様の帰還を妨げたこと。
これらはしっかりと文にしたためて、遠江に送ることになった。
すべての沙汰が下り、重臣たちが慌ただしく廊下へ去っていった後。
北川殿は、静かに龍王丸へ向き直った。
「龍王丸」
「はい」
「そなたは、しばらく奥に控えなさい」
蟄居の命であった。
中御門殿が小さく息を呑む。
だが、北川殿の表情は動かなかった。
軍略と大方針に口を出した以上、たとえそれが理にかなっていようと、何もなかったことにはできない。
それが正しいかどうかではない。
策が当たるかどうかでもない。
今川の嫡男といえど、まだその権を持たぬ者が、越えてはならぬ線を越えたのだ。
龍王丸は、少しも抵抗しなかった。
当然とばかりに、穏やかな声色とともに頭を下げた。
「承知いたしました」
中御門殿が何かを言おうとして身を乗り出したが、北川殿が目で制した。
龍王丸は、そんな母に向かって深く頭を下げた。
次いで、北川殿へ頭を下げる。
そして、誰もいなくなった下座に向かっても一礼した。
音もなく立ち上がり、座敷を退がる。
龍王丸は、駿府館のさらに奥にある一室へ移された。
粗末な扱いではない。
文机があり、手習いの道具も揃えられていた。
だが、一歩も外に出ることは許されなかった。
薄暗い部屋の中で、龍王丸は静かに座っていた。
外では、雨が降り続いている。
廊下の向こうから、絶え間なく足音が聞こえた。
甲斐口へ向かう武士。遠江の氏親へ報告に走る早馬。
相模の伊勢方へ向かう使番。富士川筋へ出立する物見。
外では、今川の者たちが走っていた。
龍王丸の放った言葉だけが、外へ、外へと運ばれていく。
だが、龍王丸自身は、閉じられた障子の内で、ただその足音を聞いていた。




