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駿河を焼き尽くすのでは、と危惧された甲斐の火。

これは結果として、大きく燃え広がることはなかった。


三浦次郎左衛門ら今川の兵が迅速に口を塞ぎ、道を押さえると、甲斐の武田勢はしばらく山の向こうに兵を置いたまま動かなかった。

果断な甲斐武田の若き当主らしからぬ、待ちの姿勢であったという。

そして互いに全軍を見せぬまま、深い霧と森を挟んでの睨み合いが続いた。


そのうちに、またも雨脚が強くなった。

山道は泥に緩み、谷を流れる川は茶色く濁った。双方、進むにも退くにも難しい空模様となった頃、武田の陣が動いた。

三浦次郎左衛門曰く、乱れたといってもよいものだったそうだ。


後々知らせをつなぎ合わせると、武田の乱れは伊勢方の旗が武田から見えた頃合いと一致する。

とにかく武田は退いた。これに対して、次郎左衛門は優れた判断と、武田の当主を褒めた。


これ以上駿河へ深入りし、時を費やせば、伊勢方に背後を脅かされる。

また、ぬかるむ山道に足を取られて甲斐へ帰れなくなる。

これをもって果断と思慮深さを両立す、と次郎左衛門は武田を称した。


また今川の軍勢も、退く武田を追わなかった。

追えば、今度は自分たちが山と雨を敵に回す。

甲斐と駿河の境は、再び重い雨音だけの静けさを取り戻した。


一方、氏親が本陣を置く遠江でも動きはあった。

遠江に古くより根付く、いくつかの家が潰えたのだ。


甲斐口の危機の報せを受けた氏親は冷静であった。

駿河からの知らせの中に、遠江と武田の連動を疑う旨を読み取ると、意を得たりとばかりにこれを利用した。

わざと陣をわずかに乱した後、影武者を立て、いくらかの騎馬を先に出した。

そして、それを待っていたとばかりに兵を出し、牙を剥いた国人たちがいた。


結果は語るに及ばなかった。


氏親は悠々と軍の乱れを戻すと、守りを固めていた兵と挟撃した。

数でも策でも劣勢に立った国人衆は、文字通りすり潰されたのだ。


逃げた者もいたが、それらの城は落ち、所領は召し上げられた。

この豪雨の中の騒動が終わる頃には、いくつかの名が今川の国人帳から消えていた。その中には、先の陣所で遅参の言い逃れを弄した、犬居の天野の名もあった。


それから幾月かして、遠江に今川の重石を乗せ直し、国人たちの不穏な芽を摘み取った氏親の軍勢が、ようやく駿府へと帰還の途についた。


---


今川修理大夫氏親の帰還は、華やかな凱旋ではなかった。


戦に勝ち、遠江の不穏を鎮めて戻った軍勢には違いない。

だが、兵たちの背に立つ二つ引両の旗は、長雨の泥と埃を吸って重く垂れ下がり、具足はくすんでいる。長い遠征を終えた将兵の顔には、遠江の泥臭い戦と長旅の疲労が色濃く刻まれていた。


駿府の留守居や町衆は恭しく当主を出迎えたが、駿府館を包む空気はどこか重く、晴れやかさとは無縁であった。


理由は一つ。


今川の嫡男である龍王丸のことがあった。

ここ数か月で評価が二転三転し、いまだ何と称するべきか判断がつかない幼子。それがいまだ館の奥の一室で、固く蟄居を命じられたままだったからである。


氏親は、すでに駿府での出来事について報告を受けていた。

わが子が何を言ったか。それに対して家臣たちがどう感じたか。正室が、自分の母親が何を案じたのか、すべて報告を受けていた。


ゆえに、館へ戻った氏親は、留守居たちから改めて報告を聞くという余計な儀を省いた。

氏親は具足も脱がぬまま、泥に汚れた姿で大広間の上座に座すと、傍らの近習にただ一言、命じた。


「呼べ」


家中に、張り詰めた緊張が走った。


若君は、甲斐口の危機を的確に見抜き、駿府を救ったとして褒められるのか。

それとも、当主の権限を侵し、軍議を動かした罪で厳しく罰せられるのか。

あるいは、すべては幼子の戯言であったとして、何もなかったことにされるのか。


居並ぶ重臣たちの誰にも、当主の腹の内は読めなかった。


四半刻ほどして、龍王丸が大広間に現れた。

その幼子は、日に当たっていなかったせいか、幾分顔色が薄くなっていた。もともと白い肌が、いっそう白蝋めいて見えた。幼い輪郭に、不気味なほどの静けさを漂わせている。


だが、衣服に乱れはない。

長い蟄居を強いられた童にありがちな、大人の顔色をうかがって怯える素振りもない。自分の進言が当たったことを誇る色もなかった。


年に見合わぬ知性をたたえた切れ長の目を細め、薄い唇を一文字に結び、感情を滲ませない。

いつも通りの龍王丸であった。


龍王丸は大広間の入り口で恭しく頭を下げる。

それから下された沙汰を受け入れるように、音もなく下座に座った。


広間には、氏親を正面に、左右に朝比奈や福島、三浦、庵原といった重臣たちが控えている。

北川殿、中御門殿は御簾の奥。完全な公開裁きではない。だが、間違いなく今川の屋台骨を支える衆目があった。


氏親は、しばらく無言のまま龍王丸を見ていた。


泥にまみれ、血の匂いを纏った武将たち。御簾の奥に控える母、祖母。具足姿の父親。

これらに囲まれても心の奥をさらさぬ息子を、氏親はじっと厳しい眼差しで見た。


---


「龍王丸」


氏親の低く通る声が、静まり返った広間に響いた。

龍王丸は、深く頭を下げる。


「久しいな。大きくなった。舅殿の面影があるかもしれん」


「は」


「舅殿は面立ちの涼やかな方でな。連歌会など開けば、女房衆がのぞきに来たものだ」


「ありがたく」


ありがたくは変だったか。そんなことを龍王丸は考えながら、頭をさらに深く下げた。


「世間話は好かんか」


御簾の奥で扇の音が鳴った。

おそらく、北川殿だろう。龍王丸は我の強い老女を思った。

氏親は顔を引きつらせ、くく、と喉を鳴らした後、にわかに表情を消した。わずかに見せていた父親が引っ込んだのだ。


「そなたが今、蟄居を命じられ、こうして衆目に出されたのはなぜか分かるか」


龍王丸は頭を下げたまま、淀みなく答えた。


「一つ、軍議の場に入り、過ぎたる口を挟みたること。二つ、御屋形様の御命を待たず、甲斐口の沙汰という大事に踏み込みたること。

三つ、御屋形様を駿河へお戻しせぬよう図ったこと。四つ、御台様、留守居の諸将、そして北川殿の面目をつぶしたること、以上にございます」


なかったことになったが、五つ目もある。


今川の恩人である伊勢新九郎盛時と、その子を疑ったことだ。

いや、伊勢新九郎が総大将として来るのであれば、龍王丸は軍勢を受け入れたかもしれない。しかし、その子がどこまで今川に譲歩してくれるかという点に疑問があった。


当主が不在、北に武田軍となった時、どう動くだろうか。

野心が持ち上がり、駿府を占拠するとまでは思わない。しかし、多大な貸しを押し付けるかもしれない。あえて、今川が傷を負い、伊勢がいないと立ち上がれないように持っていくかもしれない。


龍王丸は戦国の歴史にそこまで詳しくない。

前世の記憶とて、戦国の細かな縁戚や同盟まで頼りになるものではない。幼い頃に見た断片的な知識では、今川と北条、というより伊勢が永劫に蜜月であったとは出てこなかった。


薄くなっていく血のつながりだけを頼りにはできない。

それゆえに、どう転ぼうが損の少ない道を選んだ。仮にそれで伊勢が激怒しても、龍王丸を除けば誠意も伝わる。


この選択肢は効果の割に安い、と龍王丸は今なお思っている。


氏親は挙げられた罪一つ一つに納得したようだった。

ただ彼の目が、一度御簾の奥、母親の手元を見た。扇は動かなかった。

伊勢については何もなかった、という確認及び合意と龍王丸は受け取った。


氏親は、わずかに顎を引いた。


「では、功は何か」


龍王丸はこれも悩まなかった。


「一つ、甲斐口に対する駿府の初動を早め、武田の駿府への深入りを防ぎたること。

二つ、遠江の御屋形様に危難を伝え、遠江鎮撫の一助としたこと。以上にてございます」


氏親が頷く。

不足はなかった。情を排し、事実だけを切り取れば、龍王丸の策は働いた。


「ならば」


氏親は、具足の膝に置いた拳にわずかに力を込めた。


「それらを踏まえ、そなたに最も相応しき沙汰は何だ。申してみよ」


広間の空気が冷えた。


龍王丸は、ここで初めて少しだけ黙った。

言葉に迷ったのではない。臆したのでもない。自らの口から出すべき結論の形を、整えていた。


やがて、静かに顔を上げ、氏親の目を真っ直ぐに見て言った。


「廃嫡、その後、出家」


「ほう、それだけか」


伝わっているのであれば、口に出す必要はない、龍王丸はそう考えた。

しかし、嫡男が言葉にすることに意味があるのだろうと思い直し、続けた。


「今後、今川の家名を名乗ることを許さず。駿河、遠江に足を踏み入れること許さず。早々に領内より退去させるべきにございます」


座敷の空気が、重く沈み込んだ。

居並ぶ重臣たちが顔を固くし、御簾が揺れた。龍王丸の口から出た沙汰は、固く寒々しいものだった。


しかし、法理に照らせば誤りではない。

兵を私物化して蜂起したわけではない。だが、当主の不在に、軍議を動かした。これは一歩誤れば謀反に近い専横である。

そして、その中に、当主を本拠から遠ざける意図が明確に含まれている。


龍王丸めは、御屋形様の寵愛を失ったと自棄を起こし、武田を引き込もうとした。

盟友たる伊勢を近づけさせず、今川本軍を遠江にて隔離した。

難癖であるが、そういう見方もできなくはない。


結果的に武田は退き、遠江は再平定され、伊勢とは物別れにならなかった。だから良し、とはならないのだ。

結果を重んじるあまり、法度や当主を軽んじる芽が生まれかねない。


家を保つ理屈として、この芽は確実に摘み取らねばならない。


寒々しい空気の中、一人氏親が龍王丸の言葉を咀嚼し、それから短く言った。


「正しい」


龍王丸は、顔を上げなかった。己の論理が肯定された以上、役目は終わったと知っていた。

それは今生での、今川での役目だ。


「だが、その沙汰は許さぬ」


その言葉に、龍王丸の美しい眉が、わずかに動いた。


「なぜか、分かるか」


龍王丸は思案した。

わずかな間。されど、確かな熟考。その後、浮かんだのは確度の低いものだった。


「弟たちが、いまだに幼きゆえ」


「違う」


短い否定。


龍王丸は、再度熟考する。今度は少し長く考えた。


氏親の言う通り、己の答えは正しい。そこはずれていない。

軍議を動かし、御屋形を駿府へ戻さぬ形にし、留守居と御台の面目を越えた。廃嫡、出家、追放。いずれも過分ではない。


だが、沙汰は正しければ済むものではない、ということだろう。


自分は幼い。幼い嫡子を廃せば、父が子を捨てたように見える。

才を恐れて潰したと見る者も出る。正室の子を退けたと見る者も出る。伊勢方への配慮が過分とする者も出るだろう。

奇しくも龍王丸が懸念した通り、伊勢方の風下に立ちかねない。


そこまで思案したが、やはり確信が持てない。

弟たちの幼さが理由でないならば、廃嫡の方がなお利がある。少なくとも、龍王丸にはそう見えた。


ゆえに、


「龍王丸めには、分かりかねます」


そう素直に答えた。


「分からぬか」


「は」


「ならば、なおさらよい」


龍王丸の脳裏を困惑が埋めた。

よい、という言葉の意味が分からなかった。


「そなたに今、言葉で聞かせても詮なきことだ」


氏親は、低く言った。


「遠江へ行け」


氏親が放った言葉に、龍王丸は押し黙った。

重臣たちの間にも、かすかなざわめきが走る。


「遠江には、此度の戦で召し上げた地がある。天野をはじめ、今川に刃を向けて潰えた家々の跡地だな。

そこには、討たれた旧主を慕う者がいる。今川を深く恨む者もおろう。だが、長雨による不作で皆一様に餓えておる」


氏親は、手元にあった帳の表を指で打った。

帳を見る顔は苦々しい。


「そして、長引いた戦の余波で、誰がどれだけ餓えているかすら分からぬありさまよ」


気配を殺していた庵原安房守が深く嘆息した。

氏親は、冷ややかに続ける。


「遠江はいまだ苦難の中にあり。遠江を預かる身として面目もない」


ゆえ、と区切り、視線が再度龍王丸に注がれる。


「米に直せば、およそ五千石ほど。だが、これをそなたに預ける」


龍王丸は、すぐにその意味を取れなかった。

なにが、ゆえ、なのか頭の中でつながらなかった。


駿府を救った褒美にしては、あまりに質が悪い。


越権の罰にしては、五千石という規模は大きい。

一国一城の主のような扱いは、形が整いすぎているのだ。


しかし、世継ぎの試しにしては、命の危険が大きすぎる。


龍王丸は、自分自身の疑問を埋めるために確認した。


「私に付ける兵は」


「多くは付けぬ。ごくわずかな供のみだ」


「田を興し、地を治めるために使える者は」


「遠江の者を使え。使えぬとあれば、そなたが耕せ」


御簾が揺れた。

龍王丸は、向こう側の中御門殿の顔を思った。氏親も同様だったようで、少し顔をしかめて見せた。


「して、入用となる銭は」


「最初は出そう。しかし、そのあと足りぬ分は、すべてその地から出せ。駿府からの借銭は許さぬと心得よ」


ここで、龍王丸は一つの冷えた結論に達した。

そして、ようやく腑に落ちた。


なるほど、と。


天野の旧領。

今川に強い恨みを持つ者たち。

与えられない兵。

乱れた帳。

今川に潰された家の旧臣。

駿府からの援助はない。


ここまで言われれば、察しもつこうというものだった。

自分がその地へ赴き、不手際から旧臣たちの恨みを買って討ち取られるまでが沙汰なのだ。

今川は嫡男を殺されたという強固な名分を得て、遠江の残党を根絶やしにできるではないか。


廃嫡とも言わず、処刑とも言わず、今川はこの手に負えない危うい嫡男を処理できる。

越権の罪も清算され、駿河の家臣に釘を刺し、同時に遠江も鎮められる。

ああ、なんと理に合った沙汰であろう。


見事、見事なり、修理大夫氏親。

やはり、龍王丸など不要なのだ。


龍王丸がそう考え、わずかに納得しかけた、その瞬間であった。


「馬鹿者」


呆れたような声が大広間に響いた。

唐突な叱咤に、その場の皆が訝しむ。


「違う」


氏親はため息をつき、つぶやいた。

出来の悪い子に言い聞かせるようにだった。


違うのか。

これ以上があるというのか。


「では、いかなる意味にございますか」


龍王丸は、敬意とともに尋ねる。


氏親は、少し黙った。

そして、具足の鳴る音を響かせて身を乗り出し、言った。


「遠江で死ぬな」


それだけでは、龍王丸の理屈には、まだうまくはまらなかった。

氏親は続ける。


「己の持つ力も知恵も、すべて使え。遠江の御料を整えてみせよ。

泥にまみれ、汗を流し、歯を食いしばり、百姓に頭を下げてでも役目を全うせい」


良いのか。

そんなことをすれば、今川の家格が下がるのではないか。

乱世において、権威の崩れは長く尾を引く。人は、一度低く見た者を、容易には仰ぎ直さない。


「思う通りにいかぬことに頭を抱え、なぜ分からぬ、分かってくれぬと、項垂れ、嘆け」


そして、最後に氏親は言い渡した。


「それでも、生きて役目を終えよ。さすれば此度の一件、許す」


龍王丸はやはり分からなかった。

役目を果たすこと、それが望まれていることは理解した。だが、なぜ生きて帰ることを望んだのか分からなかった。

諸将の前であれば、わが子であろうと死んでもことを成せ、そのように命じなければならない。


断ち切ったはずの懊悩が、胸の奥に戻ってきた。

捨てたはずの何かが、喉元までせり上がってくる。


龍王丸の美しい貌に、初めて、理解できぬという人間らしい戸惑いの色が浮かんでいた。


---


遠江御料の沙汰が下された日の夜。

氏親は、奥の座敷で北川殿と対座していた。


「遠江とは、いかなる仕儀にございますか」


北川殿が、静かに問うた。

声音は穏やかであったが、機嫌がよいわけではない。

いまだに龍王丸への対応に納得がいっていないのは明白だった。


「なるほど、天野をはじめ、いくつかの家が力を失ったことは疑いありませぬ。

なれど、家は潰えても、そこに住まう天野らの被官、山方、民らは残っておりまする」


氏親は、茶の入った椀を傾けながら聞いていた。

北川殿はそんな息子の態度が気に入らないようだった。


決して表には出さないが、北川殿は孫の中で龍王丸を最も高く見ている。

可愛がっているのではない。今川を支えていくかもしれぬ者として、甘やかす気がないのだ。


北川殿は、龍王丸にだけは甘い声を使わない。

膝の置き方が半寸ずれれば直させる。返答が早すぎれば、軽いと叱る。遅ければ、鈍いと叱る。視線を伏せすぎれば卑しいと言い、上げすぎれば驕りだと言う。


だが、年の近い妹や弟が同じことをしても、北川殿はただ笑って頭を撫でた。

菓子を与え、疲れたなら下がれと言う。龍王丸には決して許さない甘えを、他の者には許す。


本来ならば、龍王丸が北川殿に隔意を持って当然の扱いである。

だが、当の龍王丸は一切気にしない。それどころか、北川殿の求めるものをやすやすと超え、なお何かあれば、という顔をしてのける。


ついには北川殿に、可愛げのない孫である、などと言わせる始末だった。

そのような孫であるからこそ、粗略に扱えば北川殿は氏親であろうと責める。


「田は荒れ、食うや食わずの者も多ございましょう。そこへ、あの青白き龍王丸を、ほとんど徒手空拳で送りつける。

何が起こるかは自明にございます」


「いけませぬか、母上。可愛げのない孫です。よい薬になると納得いただけると思っておりました」


「まあ」


北川殿が、呆れたように声を上げた。

まるで孫思いの老人のようだ。らしくない、と考えつつ氏親は椀を置いた。


「思われるほど危うくはありませぬ。今川の目は置く。手も置きましょう。

代官もこちらで腹心を選んで付けます。重しとなる将も近くに移しましょう。いや、さて、過保護と叱られる気がしてまいりましたな」


冗談めかして言うが、北川殿は責めるような顔をやめない。


「遠江の者たちは、この沙汰をどう見ましょうな」


「今川が、召し上げた地をただ奪うだけでなく、決して見捨てぬ証と見る者もおりましょう」


北川殿は、少し目を伏せた。

今川にすでに心から膝を折った者ならば、そう解釈し得る。だが、そうでない者は別の解釈をする。


若君を置くほど、今川は遠江を疑っている。

若君を餌に、残党を釣り出すつもりである。

あるいは、若君を遠江へ押し込めた。


どの見方も、成り立たぬわけではない。


「では、伊勢方はいかがいたします。甥なればこそ遠慮は無用。

お家の危機を救った嫡男を、非難を恐れて外に出したとなれば、伊勢に頭が上がらぬと笑いものになりましょう」


「笑いたければ笑わせておけばよい」


氏親は、あっさりと言った。


「ただ、問われればこう答えます。

龍王丸は浅慮にて、軍議において過ぎたる口を挟んだ。ゆえに、遠江の難地にて実地の政を学ばせる、と」


龍王丸が伊勢に懸念を持っているという話は、もはや内だけに留めきれなかった。

ゆえに、どうとでも答えられる沙汰を選んだ。伊勢を軽んじてはいないと察することもできる。

若君を咎めたと見ることもできる。だが、対外的には罰などではなく、若君の初政だと言うこともできる。


「褒美にも、罰にも見えまするな」


「どちらにも見えねばならぬのです」


「まこと、立派な御屋形様におなりになりましたこと」


褒めたのか、刺したのか。

氏親は口角を上げただけで、答えなかった。


長く言葉にする必要はない。

九代将軍を引き合いに出す必要は猶更ない。

ただ、龍王丸を泥の中で鍛えねばならぬという意思が、氏親の胸中にはあった。




翌日、氏親は家中へ正式な沙汰を示した。

短い沙汰であった。


龍王丸は、遠江の召し上げ地五千石を預かること。

古くより付く側付きの多くは駿河に置いていくこと。

遠江における沙汰は、あくまで氏親の命を受けてのものであり、みだりに若君の名を用いて騒ぎを起こす者は許さぬこと。


沙汰の意図が伝わった者は、等しく背を伸ばした。


いかなる者であろうと、駿河、遠江において今川家当主の上に立つことは許されぬ。

たとえ、血を分けた嫡男であろうとも。


この沙汰が広まると、若君の処遇について軽々しく口にする者はいなくなった。

御屋形様が若君の才覚を恐れた。伊勢に頭が上がらぬ。


そうした声は、出ぬわけではなかったが、いずれも長くは続かなかった。


---


龍王丸の出立は、それから半月後と決定された。

身の回りの物、供、遠江までの旅費、遠江でしばらくの間の費えなど、必要なものは瞬く間に用意された。


龍王丸はそれらの手際を見て、やはり廃嫡ではないかと思った。

しかし、いまだ氏親の意図が読み切れない。それゆえに、考えを打ち切り、ただ遠江のことを考えることにした。


そして、月日は瞬く間に過ぎ、出立の日が訪れた。

日の出よりも早くに、龍王丸は駿府の館を発った。


次期当主の初政と呼ぶには、あまりに静かな出立である。

供は多くない。荷も少ない。そして、見送りに集まる者もいない。

夜番であった者が、遠巻きに様子をうかがうばかりだった。


龍王丸を乗せた小輿が、館の門を出ようとしたときである。

門脇に、一人の小姓が平伏していた。


「与一郎か」


龍王丸は、小輿を止めさせた。

なんとなく、この男は来るだろうという予感があった。


声をかけても、与一郎は頭を上げなかった。

雨上がりの土に額が触れそうなほど、深く伏している。

与一郎を引っ立てようとする供回りを目で制し、少し距離を置かせる。それから、ささやくように切り出した。


「どうした」


刺客はそなたか、とちらりと思ったが、口には出さなかった。

岡部の一門で、生真面目な男だ。使い捨てなど許したくなかった。


「お尋ねしたき儀がございます」


「申せ」


与一郎は、そこでようやく顔を上げた。

生真面目な顔はいっそう強ばっていた。怒っているようにも、心細さを堪えているようにも見えた。


龍王丸に意外であったのは、彼の目にあの仄暗い情念がうかがえなかったことだ。


「なぜ、なぜあのようなことを」


「何のことだ」


どれのことだ、と思い返し、あの夜のことに思い当たった。


「弥七と千代丸のことか」


与一郎の顔が、わずかに歪んだ。


「弥七は、思っていたところに落ちなかった。死なぬはずだった。だが、死んだ。自分が追い詰めた」


前々から龍王丸の周囲は寒々しかったが、あの時からさらにひどくなった。


「千代丸も、そうだな。助かるように手を打った。由比にも、千代丸にも、御台様にも、恥をかかせぬように整えた。それでも死んだ」


龍王丸の声は静かだった。


「そなたらも、自分を見限ったな」


龍王丸は、与一郎の心の動きを責めるつもりはなかった。

むしろ、今までよく辛抱強く仕えたものだと、褒めてやりたかった。


そのような思案を、与一郎の声が遮った。


「違います」


与一郎の声は、思いのほか強かった。

龍王丸は黙った。与一郎が何を言いに来たのか、問いに来たのか分からなかった。


刺客でないことは分かる。

弥七や千代丸のことを責めに来たのでもないらしい。ならば何か。龍王丸には見当がつかなかった。


「では、何だ。何を申しに来た」


与一郎の眉間にしわが寄った。

それから臓腑を絞り出すような声で言う。


「どうして、今川の御曹司でありながら、御身を大事になさらぬのです」


龍王丸は、少しだけ目を細めた。

与一郎の訴えには、反論の余地があったからだ。


「御身を大事にせぬ、か。自分は今川の嫡男だ。言葉は常に選んだつもりだ。

そうは見えぬかもしれぬが、ついこの間までは、その名に傷一つ付けぬようにしていた」


口に出し、龍王丸は後悔した。

これでは弁明になっていない。


多くの場面で周囲をざわつかせ、疎まれた。

今川嫡男としての振る舞いを心がけていたが、駄目だったのだ。

足利一門、今川の名を大事にしていないと言われれば、頭を下げるしかない。


「嫡男のことではございませぬ」


与一郎は、すぐに言った。


「今川の名のことでもございませぬ。若君御自身のことにございます」


龍王丸は、少しだけ首を傾げた。


「同じことだろう」


「違います」


与一郎は、強く首を振った。

それから、言い過ぎたと思ったのか、一度唇を噛んだ。だが、引かなかった。


「若君は、分かっておられませぬ」


「そうだ。分からない。御屋形様の沙汰も、自分がどうしてしくじったかも、何も分からない」


失態の共通項を探す。

なぜその失態を行ったかの動機を明確化する。なぜその失態を見逃したのか分析する。こうすれば次は防げると対策を立てた。

だが、何もよくならない。


ならばこれはもう、龍王丸という人間の性能が著しく劣っていることの証だ。


「今すぐに消え失せるべき愚物である」


「それも、それも違います」


与一郎は、言葉を探すように俯いた。


「若君は、ご自身がどれほど人に残るかを、分かっておられませぬ」


龍王丸は黙った。


「若君に見られれば、苦しゅうございます。言葉をいただけば、その重さに息が詰まることもございます。

けれど、見られなくなれば、なぜこちらを見てくださらぬのかと、また苦しゅうございます」


「それは、今川嫡男の言葉だからであろう。自分でなくとも、同じ座にある者ならば同じことになる」


放逐も栄達も、同じ座にある者なら命じ得る。

緊張するのが普通だろう。


「同じではございませぬ」


「なぜだ」


与一郎は、すぐには答えられなかったようだった。

うまく言葉にならぬものを、必死に探している顔だった。


「若君だからでございます」


龍王丸は与一郎を見る。

その違いが分からなかった。見限られたことと、怖がられたこと。捨てられたことと、遠ざかられたこと。それがどう違うのか、うまく掴めなかった。


だが、与一郎が嘘を言っていないことだけは分かった。


「分からぬ」


ようやく、それだけ言った。

与一郎は、もう一度深く頭を下げた。


「今は、お分かりにならぬと承知しております」


龍王丸の胸に、申し訳なさが溢れた。

この生真面目な男が、決死の思いで行った諫言を、まるで受け止め切れなかったことが心苦しい。

すまぬ、と頭を下げようと思った。しかし、遠江行の供が近づいてくる。


日が昇りだしていた。

人目に触れる前に旅立つには、もはや猶予はなかった。


「遠江でも、お健やかに」


与一郎はそのことを察し、一言だけ述べる。

それだけで、龍王丸の前から下がり、平伏した。


話の終わりを見計らっていた小輿の担ぎ手が、静かに姿勢を改める。

龍王丸は小輿に乗りながら、与一郎に声をかけた。


「与一郎、そなたの言葉、考えてみる」


与一郎は顔を上げなかった。

小輿が駿府の門をくぐり、城下へと進んだ。


龍王丸の一行は遅れを取り戻さんと、足早に城下を抜け、街道へと進む。

雨上がりの街道を進む列の前に、見渡す限りの泥濘が広がっている。


「泥にまみれて生きれば、多少分かるか」


揺れる小輿の中で、龍王丸は一人つぶやいた。


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