2章_1
駿府の夜は、海から吹き込む風のせいで、常に微かな湿りを帯びている。
空を覆う鈍色の雲が星の光を遮り、ぬかるんだ土の匂いが路地を這うように漂っていた。
岡部与一郎は、手にした提灯の薄明かりだけを頼りに、自邸へと続く夜道を歩いていた。
足取りは重い。今日一日、表向きの取次、国人衆から届く細かな書状の下読み、評定へ上げる前の書付の整理に追われた。
日が落ちるころには、すっかり精気を吸い取られていた。
あの日から、早くも三年が過ぎている。
三年の間に、与一郎もただの小姓ではなくなった。
かつて、今川の若君に振り回され、訳も分からず畏怖するばかりであった若侍も、緩慢でありながら忙しない日々の中で、少しずつ己の役目を持つようになっていた。
今の与一郎は、今川家中の実務を担う歯車の一つとして、日々の政務に追われている。
生来の太々しさまで消えたわけではない。だが、武士としての分別と、複雑な人間関係の中で黙るべき時を知る程度の忍耐は身についた。
まだ正妻こそ迎えていないが、有望な若手として一門の者から縁談を持ち込まれることも増えている。
それでも、与一郎の胸の奥底には、決して消えることのない一つの影が棲み着いていた。
ふとした夜の静寂や、雨の匂いを嗅いだ瞬間に、どうしても西の空、遠江の方角を思ってしまう。
三年前に、遠江の泥の国へと出された今川の嫡男、龍王丸。
あの白蝋のように整った顔と、どこまでも静かな目が、今もまぶたの裏に焼き付いて離れない。
千代丸のことに納得がいき、あの長雨の季節を思い返すことができるようになった。
だが今でも、若君のことだけは軽々に扱うことができないでいる。
「代わりはいくらでもおります」
己の命すら、冷えた部品のように扱った幼い若君。
今、あの泥の中でどのような顔をして生きているのか。
その問いは、決まって帰り道に思い出された。
与一郎は、息を吐きながら自邸にたどり着いた。
岡部庶流の若輩者にしては、立派な門構えの屋敷である。
もとは、御台様の口添えで与えられたものだった。
駿府なりの配慮、というより口止めの意が強いと与一郎は考えている。
ゆえに実家より大きな門を見るたび、与一郎はいまだにわずかな居心地の悪さを覚えた。
自邸の門をくぐると、奥の座敷に煌々と灯りが点っているのが見えた。
出迎えた下働きが、恐縮しきった様子で小声で告げる。
「与一郎様。本家より、左京進様がお見えにございます。ずっとお待ちになられておりまして」
与一郎はわずかに眉を寄せた。
岡部左京進親綱が、わざわざ夜更けに自邸を訪れている。
しかも、事前の触れもない。
尋常の用向きではない、と与一郎の勘が警鐘を鳴らした。
一方で、期するところもあった。
まさかと思い、すぐに否定する。否定したはずの期待が、与一郎の喉を上下させた。
与一郎は急ぎ足で足を洗い、衣の乱れを整えてから座敷へと向かった。
上座には、岡部左京進親綱が難しげな顔で座り込んでいた。
与一郎より幾つか年嵩で、老臣というほどではない。
だが、座にいるだけで、若い者の軽口を許さぬ硬さがある。
質実剛健という言葉をそのまま人にしたような男で、岡部一門の中でも早くから駿府に出入りし、御屋形様の覚えも悪くない。
同族の与一郎には人当たりのよい兄替わりでもあり、会えばなにかと気を遣ってくれる。
だが、今日に限って、その顔にはいつものような労いの笑みはなかった。
左京進は、まんじりともせず、茶が注がれた椀をにらんでいた。
一口も手が付けていない茶は、すでに冷え切っているようだった。
「夜分遅くに申し訳ございませぬ。お待たせいたしました」
与一郎が平伏すると、左京進はゆっくりと頷いた。
「大儀であったな、与一郎。遅くまで役目ご苦労である」
「は。御屋形様の御為、微力を尽くしております」
左京進はまたも頷く。それだけであった。
左京進は思い出したように冷えた茶を一啜りし、低い調子で切り出した。
「今日、駿府に客が来た」
与一郎は顔を上げた。
「客、でございますか。いずこの大名、あるいは国衆の使者にございますか」
「武家ではない。商人だ」
左京進の目が、蝋燭の火に照らされて微かに光った。
「堺の商人だ。それも、堺でも名の通った商家の手代どもが、わざわざ駿府へ頭を下げに来た」
与一郎は、言葉の意味をすぐには測りかねた。堺の商人が駿河に顔を出すこと自体は珍しくない。
東海道の要衝を握る今川家である。年賀、季節の挨拶、商荷の通行についての礼。そうしたことはあって当然だった。
「今川家への、日頃の商いの御礼でございましょうか」
「表向きはそうだ。今川の庇護への礼。ただ、聞き慣れぬ名があった」
「と申しますと」
与一郎は聞きつつも、不思議と察しがついた。商人とのつながりは薄い。
与一郎の役目は、どちらかといえば今川家中の内向きの仕事である。
それでも、胸の奥に、ああ、ついに来たかという思いが浮かんだ。
「遠江の若君御料だ」
やはり、だった。
左京進は、茶の椀の縁を指でゆっくりとなぞりながら、ふと視線を上げた。
「掛塚へ回す材木荷、三河筋から入る実綿や布、若君御料を通した商荷の扱いについての礼と相談。そういう話を、堺の者が駿府まで持ってきた」
与一郎は、しばらく悩みこんだ。
材木は分かる。御料の範囲内、天竜川の近辺は材木で知られている。
だが、木綿とはどういうことだろうか。三河の産物のそれが、遠江の御料にどう結びつくのか。
そして、どうして堺の人間が駿府に確認しに来るのか。
「解せんよな、与一郎。駿府の重臣たちは皆、首を傾げておる」
「確かに、あまり腑に落ちませぬ。ですが、三河から流れてくるものを掛塚へ回した、それだけにも思えますが」
湊の扱いに手を入れるのは悪くない、と与一郎は考える。
今川による再制圧が終わった今、遠江の旧来の権益は半ば崩れている。
そこを今川御曹司の名で整理できれば、かなり大きな力になるであろう。
「流れる木綿の量を考えてもみよ。あまりに小さな取引であろうよ。
それに若君は、甲斐口の一件で遠江へ出された。外から見れば、駿府の中枢から遠ざけられた御方だ。
与えられたのも、五千石の泥の地に過ぎぬ」
左京進は、冷えた茶の椀を置いた。
「その程度の商いのために、なぜ堺の商人が駿府まで頭を下げに来る。腑に落ちぬ話よ」
座敷が、しんと静まり返った。雨戸の向こうから、夜風が草を揺らす音だけが聞こえてくる。
さすが左京進、と与一郎は思った。
若君の処遇については、家中であっても口に出しにくい。
だが左京進は、下った沙汰は下った沙汰として扱い、言葉を濁さない。
だが、受け止める側の与一郎には準備ができていない。
与一郎は若君のことを、軽々に口に出せない。そんな与一郎を知ってか知らずか、左京進は続ける。
「若君の御料が伸びておるのは知っているか、与一郎」
「漏れ聞こえるものであれば。確か、八千石ほどに見えると」
遠江に置かれた龍王丸の御料が、順調に立ち行っている。
そのことは駿府の役人たちの間でも風の噂として耳に入っていた。
当初、五千石の召し上げ地として与えられたのは、決して豊かな米どころではなかった。
天野の旧領をはじめとする荒れ地や、馬込川筋の低湿地。
そこには旧主を慕う者や今川を恨む者が残る、火種のような土地である。
手練れの能吏を送り込んでも、それが今川の者であれば一筋縄ではいくまい。
若君の御料のことを知った者は、氏親の厳しさに身を震わせた。
それが、今では八千石ほどの実入りに見えるという。掛塚の湊から荷が動き、天竜川の上流から材木が切り出される。
定期的に市が立ち、商人が集まり、逃げた百姓たちも戻ってきている。
ありていに言えば、予想外の発展を遂げているとのことであった。
その報告を聞いた時、与一郎は素直に感嘆した。
荒れ果てた五千石の泥の国を、わずか三年で八千石ほどに見えるまで戻す。
普通の国人や代官であれば、それだけで大いに褒め称えられる。
御屋形様からお褒めの言葉をいただけるような名能吏の所業である。
実際、家中の者たちも、「若君は遠江ですっかり大人しくなられ、まじめに政に励んでおられる」と、胸をなでおろしていた。
若君は、遠江の地で見事に領主としての手腕を発揮し、今川の益となる働きをしておられるのだと。
だが、ここ数か月、様子がおかしいという風聞が混じるようになった。
遠江の国人が若君を畏れている。
そうした言葉が駿河に届くようになったのである。
当初は若君ではなく、今川を畏れているのだと否定もできた。
しかしそこへ、左京進の言う通り、堺の商人が駿府まで動いた。
こうなると、話は噂では終わらない。
「八千石ならば見事だ。それで終わるならば、御屋形様も御満足なさろう。
だが、堺の者から見れば、八千石の土地など砂粒のようなもののはず」
左京進は、与一郎に言うというより、自分の考えをまとめているようだった。
「それなのに、奴らは若君御料の荷を気にしておる。
掛塚へ下す材を気にしておる。荷の納め日を気にしておる。これは異な話よ」
「若君御料の荷が、そこまで商人の目を引いたと」
「荷そのものではあるまい。三年で作れる布の出来など、大したことはなかろう」
与一郎は息を吐いた。
自分の椀の茶を飲み、冷静さを取り戻す。若君とて、領民の技量を一足飛びに高めることはできない。
であれば、堺の商人を唸らせるほどの品が、遠江の小御料から急に出たとは考えにくかった。
では、なぜ堺の商人は来たのか。
その自問の末、与一郎の中に浮かびかけていた疑問が、かえって形を取った。
「布の話ではなく、それ以上となりますな。しかし、ますます分かりませぬ」
「うむ、分からん」
左京進は、あっさりと言った。
「天竜川の材木も、掛塚の荷も、三河から入るらしき木綿も、それぞれは商人同士で話をつければよい。
若君御料がその間に立ったとしても、それだけなら駿府まで来る話ではない」
「堺の者と話した方は、どのように見ておられるのです」
「庵原安房守殿は、筋を通しに来たのだろうと見ておられる」
左京進は、短く言った。飲み込めぬ与一郎をちらりと見て、言いかえた。
「つまりな、若君御料と取り交わした約束が、今川本家にとって何であるか。
それを確かめに来たのだろう、ということだ」
与一郎は黙った。
ようやく、話の重さが変わった。
品物の話ではない。商いの話だけでもない。
若君御料が外の商人と交わした約束を、駿府がどう扱うのかという話である。
「いや、それは、御料が駿府に咎められるような商いをしていると、暗に伝えに来たということでは」
「それはもう調べた。帳面の上では、そうではない」
左京進の声は低かった。
「若君御料に、不審な点は見つかっておらぬ。今川の名を騙って商いをした形跡もない。
無理な借銭を商人に負わせた様子もない。御料の収支も、少なくとも帳面の上では破綻しておらぬ」
左京進は、そこでわずかに苦い顔をした。
「年々厚くなる若君の報告書を、その日のうちに読み合わせ、数字の齟齬を洗った。
遠江の重臣である朝比奈殿にも確認を取った」
「結果は」
「帳面の上では、不審なし」
「では、何も問題ないのではないでしょうか。今川の若君に貸しを作ろうと、商人が寄ってきただけでは」
一瞬、今川の後継という言葉が出かかった。まだ氏親は嫡男の扱いを決めかねている。
軽々しく後継と口に出すのは僭越に当たった。
「それなら、それでよい。商人が若君の将来を見て寄ることはある。珍しい話ではない」
左京進は、茶の椀を置いた。
「だが、そもそも我らが報告書を読み取れているのか、そこが疑わしいのだ。
御屋形様へ届く遠江からの報告も、ここ一年ほどで調子が変わってきておる。
帳面だけを見て問題なしとするには、どうにも気持ちが悪い」
事実だ。
以前は、米の高、荒田の復旧、年貢の見込み、戻った百姓の数。そうした話が中心だった。
駿府の御屋形様や重臣たちは、特に人の増減を報告として受けたがった。
若君はそれを受け、その部分に関しては詳細な記載を行った報告を上げていた。
二年目までは、時間を巻き戻すかのように復旧していく領地や、それ以上に発展していく様に、皆が喜んだ。
若君はよくやっておられる。それで済んだのだ。
「最近は、材木、掛塚の荷、商人の出入り、借銭の返り、船手への手付。そういうものが混じってきた。
いや、混じるというより、近頃はそちらの書付の方が厚くなってきた。申し訳程度に概略が添えられるが、
その概略が正しいかどうかを読み切れる人間が、駿府にほとんどおらん」
「算術達者な者もおられるでしょう。それに、遠江に移された重臣方はなんと」
「数字に矛盾はないとのことだ。ただ、なぜそうなっているかは分からんそうだ。
それに、遠江の者たちに、若君御料の帳をすべて見せろとは言えんよ」
左京進は、そこで言葉を切った。
「ただ、朝比奈備中殿は」
珍しく、左京進が言葉を濁した。
重臣、朝比奈備中守泰煕。御屋形様の信任も厚い宿老格である。
駿府と若君の微妙な関係も把握しており、多少ほかの国人に聞きにくいことも問える。
「朝比奈様はなんと」
「若君に世話になっている、と」
世話になっている。
あの歴戦の宿老がそのように評した。
予想外の言葉に、与一郎は口を閉じた。
「材と人足の差配、国人衆との調整、普請の段取り。細々としたところで、若君御料に助けられている。遠江の役目も、いくらか楽になった。
だが、何がどうしてあそこまで伸びたのかは分からん。そう文が来た」
左京進は、そこで初めて苛立ちを見せた。
「与一郎、もう分かろう。遠江で何が育っているのか、駿府は報告でしか知らぬ。そしてその報告も、腑に落ちんのだ」
与一郎は、背筋に冷たいものを覚えた。
「若君は、何をしておられるのでしょうな」
与一郎は、思わず呟いた。
「それをそなたに聞きに来たのだがな」
左京進の言葉に責めるような響きはなかった。
念のためというようなものであったのか、落胆の色も見られない。
与一郎は静かに頭を下げた。
「ただ、そうなるとやはり、遠江への視察は急ぎ行わねばなるまい」
ややあって、左京進が言った。
「目付、にございますか」
「そうだ。表向きは御料の現況見分だが、実態は違う。此度の懸念、払拭せねば駿府の腰も据わるまいよ。
御屋形様のご了承もいただけている」
御屋形様のご了承。
その言葉に、与一郎はわずかに息を呑んだ。
今川修理大夫氏親は、ここ数年、目に見えて体調を崩すことが増えていた。
かつてのように自ら軍勢を率いて陣頭に立ち、遠江の泥へ踏み込むことは難しくなっている。
駿府館の奥で床に臥せる日も少なくない。
だからこそ、遠江のことを訝しんでも報告書を読み込むしかなかった。
龍王丸を呼びつけることはできた。だが、どういうわけか氏親自身が、それをよしとしない。
その結果、遠江の地の実態を誰もつかめない。
ただ月日が経つごとに大井川の向こう側で何かが育っている。
育たせているのは、今川の嫡男龍王丸。
話に聞く限りでは、神童とうたわれた才覚に陰りは見えない。
このまま目を離せば、御料は若君一人の手の内で、さらに形を変えていく。
その不安が、駿府の奥に薄く広がり、堺の一件で初めて形を持った。
与一郎は思わず身を乗り出した。
「なれば、某が参りましょうか。若君の御側にお仕えした経験もございます。御料の現況、必ずや」
お会いしたい。
話してみたい。
そんな思いがないかといえば、嘘になる。
変わられたのか。変わられないのか。
人になったのか、龍のままか。
己の目で確かめてみたかった。
「ならぬ」
左京進は、冷たく、そして断固として首を振った。
「今の態度を見て、なおさらそう思う。そなたは行かせられぬ。やはり視察役には、安房守殿が推す由比小次郎を立てる」
由比小次郎。
三年前の長雨の季節、命を落とした千代丸の縁者だ。
与一郎にとっても気心の知れた同輩であり、互いの邸を行き来することも多い。
小次郎は決して愚かではない。胆力、機転、忠誠、家格、どれも不足はない。
本来ならば、文句など一つも出ない人選だった。
だが、
「理由をお聞かせ願いますか」
「聞いた範囲では三つある」
左京進はしぶしぶと指を立てて見せた。
「一つ、あやつは算術に明るい。
そなたより小次郎の方が適任だ。若君が何をしておるのか、数字の裏を読み解かねばならぬ。
本来は御倉役、帳面役を揃えて送り出したいが、駿府も空けられん。ゆえに小次郎」
与一郎は黙った。
戦場の将になりたかった与一郎と違い、小次郎は幼少期より算術と帳面に親しんだ。同年代でも、小次郎の目は図抜けている。
「二つ、若君とまったく無縁ではないが、与一郎、そなたほど若君に対して情に寄っていない。これが特に大きいとされた」
心覚えがあるだろう、と左京進が顎で与一郎を指した。
図星であった。
見たい、話したい、確かめたい。
それで染まった心では、若君に面と向かって問答などできない。
昔日の別れを繰り返すだけだろう。
「三つ。気に入らぬが、小次郎には由比の縁がある。御料側も由比の縁者を表立って粗略には扱えまい。
何かを隠そうとしても、無碍に追い返すことはできぬ」
「千代丸の縁を使うと」
「由比の縁だ。由比美作守殿の忠勇を軽んじるかという話だ」
左京進の声は硬かった。
建前としては苦しく、事情も気に入らない。そんなところだろうか。
左京進は与一郎よりも硬骨な男である。内心は透けて見えた。
だが、非情であっても、極めて合理的な政治的判断であると飲み込んでいる。
与一郎には、反論の余地はなかった。
本家の左京進が飲み込んだ話を、庶流の与一郎が掘り返すことはできない。
それに小次郎ならば、少なくとも感情を差し挟むことなく、事実を拾い上げてくるはずであった。
「そなたは、駿府に残れ。小次郎からの報告を待つがいい」
最後に左京進は、与一郎を一瞥した。
一瞥に込められた、余計な真似はするなという意図ははっきり与一郎に伝わった。
「夜分、邪魔をした」
そして、それだけを言い残し、足早に屋敷を出ていった。
座敷に一人残された与一郎は、灯りの揺れる文机を見つめながら、静かに目を閉じた。
小次郎が、遠江へ行く。
帳簿と数字の理に明るい男が、あの若君が三年かけて作り上げた御料の実態を見に行く。
それはもうよかった。左京進の言葉で納得することができた。
残った懸念は、一つ若君のことだけである。
若君は今、何を考えておられるのだろうか。
遠江で何を築き、何を得られたのだろうか。
いままで何度も繰り返した言葉が頭を埋め尽くした。
夜風が、再び雨戸をがたりと揺らす。
その夜、与一郎はなかなか眠れなかった。
雨戸が鳴るたび、遠江の泥の中にいるはずの若君が、この駿府の座敷にまで音もなく手を伸ばしてくるような気がした。




