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2章_2

由比小次郎が駿府館へ呼び出されたのは、夜が明けて間もない頃であった。


朝の駿府は湿っていた。庭の砂は色を濃くし、軒先から落ちる雫が、細く乾いた音を立てている。

東の空だけが白み、館の奥にはまだ夜の冷えが残っていた。


小次郎は、奥へ通される前から、用件が軽くないことを察していた。

遠江筋の書付が前回の報告よりも増えていた。

増えている報告の大半は良い知らせだ。

溜池の掘削に手を出せた、今年は逃散人数が減ったなどだ。

また細々とした国人同士の訴訟も減っている。


あえて懸念を挙げるならば、それらの陰に一人の人間の名前が見え隠れすること。

そして、それをはっきりと掴み切ることができないことだ。


御屋形様の体調が思わしくないこともあって、駿府は遠江を紙の上で見ることが多くなった。

それによって得たのは霧がかった遠江の状況だ。

より詳細に、より具体的に書くようにといっても、土地土地で微妙に異なる報告が来る。

これは現地の代官の能力が足りないというのも否定しきれない。無論、細々とした誤魔化しもあるだろう。

しかし、小次郎の考えでは、まだ駿河が遠江を制御しきれていないというのが根っこにあるとみていた。


本来ならば腰を据えて遠江の統治に力を入れなければならない。

だが、今は駿河から重臣を出したくないという事情が足踏みをさせている。


気が重い。


小次郎が思案に暮れていると、入室の許しが出た。


通された部屋には、庵原安房守と岡部左京進親綱がいた。


岡部与一郎の姿はない。


若君の件ならば、あの男も呼ばれてよさそうなものだった。

呼ばれていないということは、呼ばぬ理由がある。

小次郎はそこだけを心に留め、一礼して畳に手をついた。


「由比小次郎、参上つかまつりました」


安房守は、手元の書付から顔を上げた。


「遠江へ行け」


ちょうど思案していた事柄だけに、小次郎は思わず上役の言葉を遮ってしまった。


「若君御料にございますか」


安房守の眉が、わずかに動いた。

怪訝な表情であるが、怒りは浮かべていなかった。


「なぜそう思う」


「堺の者が駿府へ参ったと聞いております。遠江筋の書付も続けて上がっております。

年貢の不審だけなら、御倉方で済みましょう」


左京進が小さく息を吐いた。話が早い、という顔であった。


「察しの通り、若君御料の見分である」


若君御料。


彼の地を任されたのは遠江へ出されて三年になる今川の嫡男、龍王丸。

小次郎は、龍王丸を深く知っているわけではない。

与一郎のように、幼い若君のそばで日々を過ごしたわけでもない。

唯一の接点はただ、あの長雨の季節に名を呼ばれただけだ。


それだけであった。それだけなのに、妙に記憶の底へ沈んでいる。

自分の名を覚えているのかという、小さな感動とともにだ。


安房守は、書付を一枚、小次郎の前へ滑らせた。


「そなたも以前見分したろうが帳は破れておらぬ。そこが厄介だ」


小次郎は目を落とした。駿府が掴んでいる御料の概要であった。


はじめに並んでいるのは、米の高、荒田の戻り、百姓の数である。

五千石とされた御料が、今は八千石ほどに見える。

荒田を起こし、百姓を戻し、市を立てた。そこまでは、むしろ見事な働きであった。


だが、読み進めるにつれて、書付の性質が変わっていく。


掛塚へ出した材。船手へ渡した手付。三河筋から入った実綿。御料で仕立てた米袋と荷布。

倉に入った荷と出た荷。市に出入りした商人の名。戻った借銭。人足へ前渡しした銭。荷置き場で起きた揉め事。


どれも御料の政に関わるものではある。

だが、五千石の土地の実高を見るための書付としては、外へ広がりすぎていた。


「望外の発展にございます。また破れがないなら、咎める筋は立てにくうございますな」


「咎めるために行かせるのではない」


「承知しております」


本当に若君を咎めるつもりならば、病床の御屋形様か北川殿を連れ出す必要がある。

そうでなければ、咎めなど駿府のほかのだれにもできるはずがない。


「で、何を見ればよいか見当はついたか」


安房守の問いに小次郎は書付を伏せた。


「破れがないまま、外へ広がっている。見るべきは、そこにございましょう」


「外か。若君の内側は見通せんか」


左様にございます、と小次郎は頭を下げる。

小次郎に言わせれば、金の使い方、人の使い方にこそ本性が出る。

逆に言えば、本性のつかめぬ人間の内情など見ようがないのだ。


安房守はため息をついた後、西、遠江に視線をやった。

見かねて左京進が続きを引き取った。


「そなたが選ばれたのは、算術に明るいからだ」


左京進の指が書付を叩く。


「帳の嘘を見抜く目が要る。米の高も、倉の出入りも、人足に渡した銭も、見れば妙なところは拾えるはずだ。

蔵へ入る前の荷、宿で待つ商人、川で止まる材。帳に載る前のものを見てこい」


「承知いたしました」


一つということはほかにもある。

残念なことに、小次郎は察しがついていた。


「もう一つは、由比の縁だ」


小次郎は、わざとわずかに眉を動かした。

察しの悪い、世間知らずのような顔をして見せた。


由比の縁。それが何を指すか、すぐに分からぬほど鈍くはない。

三年前、長雨の季節に命を落とした千代丸。

その葬儀に、若君が手を差し伸べたという話は、由比の中でも忘れられていない。


ただ、小次郎にとって、千代丸の死を深くとらえてはいない。

その死を喜ぶなどはないが、同族といっても命日すら忘れる程度の関係だった。

いや、小次郎はあの千代丸が元服できるとは思えなかったため、あえて感情を寄せなかった。


それでも小次郎が、千代丸のことを記憶にとどめているのは、若君と関わった切片であったからだ。

おそらく若君が千代丸を覚えていると、予感がしていたからだ。


当然、この予感は駿府の重臣たちも共有しているのだろう。

それでこのような切り出し方をした。


「由比の名で門が開くなら、使うべきにございます。ただし、門が開いたからといって、中が見えるとは限りませぬが」


小次郎の言葉に、左京進が憮然とした表情を見せ、黙り込んだ。

代わりに安房守の目に、わずかに笑みのようなものが浮かんだ。


「左京進よいではないか。小次郎、そのくらいには疑って行け」


また深々と頭を下げる。

その頭に言葉が降ってきた。


「ああ、それと、若君を昔話で見るな。昔日の思い出は駿府において行け。おいて行けぬのなら、与一郎と同じく行かせられぬ」


わかったか、と安房守が言い聞かせるように言った。

小次郎は一段、深く頭を下げることで答えた。


「よし。それと分からぬものは、分からぬままでよい。分かったように整えて帰るな」


「心得ました。一つ、帳と物、双方見ること。二つ、内情ではなく外を見ること。

三つ、私心、己の解釈どれも不要であること。これら決して忘れませぬ」


まとめて言い切ると安房守が安心したように息を吐いた。左京進も異論はないようだった。


小次郎は頭を下げたまま、しばし待った。

そして、何も言付けられぬのを確認すると、もう一度深く頭を下げ、部屋を辞した。


----



駿府館を出ると、門の脇に岡部与一郎がいた。


待っていたのだろう。顔色は悪く、目の下には薄く影が落ちていた。

だが、口は堅く結ばれ、目は今にも切りつけてきそうなほど剣呑である。


「聞いたな」


「ああ。遠江へ行け、と」


脈絡のない与一郎の言葉であるが、小次郎は動じなかった。

示し合わせたように、二人で朝焼けの中を歩く。

与一郎はしばらく黙っていた。小次郎にはそれが言葉を選んでいるように見えた。


無言で歩いている最中も、朝の駿府は動き始めている。

下男が水を撒き、馬を引く者が通り、遠くで店の戸が開く音がした。


「おぬしが行くものと思っていた」


小次郎が言うと、与一郎は自嘲するように小さく笑った。

それでようやく与一郎の剣呑さが薄れた。


「止められた」


「まあ、その顔では送れぬわな」


与一郎は返さなかった。

少しだけ目を伏せ、それから西の空を見た。

気が付けば道をそれ、人通りの少ない場所にいた。

朝の喧騒から切り離され、嫌になるほど静かだった。


「俺を切っても、遠江には行けんぞ」


小次郎が冗談めかして言うと、与一郎は破顔した。


「考えたこともなかった。いや、そう見えたのか」


「気を張りすぎだ。あの方の報が届くと、そなたは気がそぞろになるが、今回は特に酷いな」


「言うてくれるな。さすがに今回はものが違おう」


まあな、と小次郎は先ほどの言いつけを思い出す。


「今までも肝を冷やしていたが、堺の一件だ。駿府ものんきに褒めていられぬということよ。

して、この難事にかつての小姓殿はなにか助言があるか」


切りに来たのでなければ、助言であろうと水を向けた。

与一郎は、そうだったと、思い出したように頷く。


「内情はおそらく読めん。外を見るほかないが、さてこれも厳しいように思う」


「何事も内に秘める方であるが、外は違おうよ。必ず緩みが出る」


「以前のあの方であればそれでよい。だが、三年もあれば、あの方なら外を縛る術も身に着けていると思うべきだろう」


小次郎はその助言に素直に頷けなかった。

聡明な人間が、最初からすべて自分の身の内に備えている人間が、外に関心を持つだろうか。

加えていうのであれば周囲にいるのは遠江の人間。

胸の内を秘する方向に成長する方が、小次郎には自然に思えた。


「いや、小次郎、忘れてくれ。そなたの任だ、思うようにすればきっと良い方向に行く」


で、あればよいが、と小次郎は眉を寄せた。

考え込んでいると、与一郎が大きなあくびをした。


「与一郎、少しでも寝たほうがよいぞ」


「ああ、心配無用だ。今日は休みをもらった。少し眠らせてもらう」


喧騒が徐々に近づいて来る。

日が昇り、駿府が目覚めだしている。

小次郎と与一郎は元の道に戻り、しばし道を共にした。

互いの屋敷への分かれ道に差し掛かったところで、与一郎がふと足を止めた。

何事か見れば、なぜかまた神妙な顔をしていた。


「どうした、忘れ物でもしたか」


小次郎は与一郎を見た。

与一郎は、ん、と心ここにあらずという様子だった。

視線の先を見れば、遠江への道があった。


「頼まれごとがあるなら聞く。御役目に障りのない範囲ではあるが」


与一郎の眼が小次郎を射抜いた。

だが、与一郎はなにも言わなかった。


苦しそうに口を開閉させた後、何かを喉の奥に押し込んだ。


「いい、御役目に邪魔になりうる」


「そうか」


「ああ、私情にすぎん」


小次郎もそれ以上問わなかった。

ただ、無言のまま岐路で別れた。

その背を見送りながら、小次郎は、与一郎が飲み込んだ言葉の方を覚えておくことにした。


-----



三日後、小次郎は下役二人と数名の護衛を連れ、駿府を発った。


よく晴れた日の旅立ちであったが、見送りは老僕だけの寂しいものだった。


遠江への道中、初めのうちはいつもの道であった。

駿府から西へ向かう商人、米俵を積んだ馬、国人の使い、寺へ向かう僧、荷を担いだ百姓。

往来は忙しないが、無秩序ではない。

東海道の要所を押さえる、富強たる今川の領内では珍しくもない光景である。


だが、遠江に近づくにつれ、道の様子が少しずつ変わった。


掛塚へ向かう荷が増える。駿府に向かう物より、多く見えるほどであった。米俵、筵、油紙で覆った小箱、川筋へ戻す空の樽、山方へ向かう鉄の道具。材木を載せた荷車もある。荷そのものは珍しくない。だが、荷の流れが途切れない。


「由比様、皆、忙しゅうございますね。こう、われらまで急かされている気がいたします」


下役のうち一人が、額の汗を拭いながら言った。


確かにそうだ、と小次郎は思った。


流れが早い。荷駄も人足も、それを裁く者も、すべてが急ぎ足だった。

気づけば一行の馬も、その流れに押されるように進んでいる。


「予定はあるが、急ぎではない。このあたりから見るべきものがある。足をゆるめよ」


気がつけば、遠江口に入り、しばらく進んでいた。予定の上では、遠江入りは翌日のはずであった。


小次郎は、いかぬ、今から飲まれてどうすると、笠の紐を緩めた。

そして、あえて道々の田畑や街道の端へ目を向けた。


「思ったより、整っておりますな」


下役のうち、年嵩の方が言った。


実際、遠江口の街道は整っている。街道脇には、真新しい木杭を打った荷置き場があった。

泥の上には筵が敷かれ、濡らせぬ荷は低い棚に上げられている。


また、近ごろ修復されたであろう水路には細い板橋が渡されている。その上を人足が荷を担ぎ、足元を見ながら順に渡っていた。


田の状態も悪くない。


すべての田畑に手入れがされているわけではない。いまだ戦の跡を残し、葦の茂る場所もある。

だが、大きな田には人の手が入り、その脇では畦が直され、細い溝に水が流されている。

近くの農家には薪が積まれ、木綿袋が並び、人の生活が戻りつつあった。


気の利いた代官を置けば、一息に栄えそうな村がそこにあった。


「そうでしょうか。そこかしこで揉めごともあるようです。やはり駿府には及びませんな」


若い方の下役が指をさす。

水路にかけられた板橋の上で、幾人かが声を張り上げていた。


「馬鹿、それは掛塚へ回せ。こっちは政所の倉だ」


商家の者らしき男が、雇いの人足を叱り飛ばしている。


「なぜ布を下に置く。濡れれば戻されるぞ。そうなれば、その代わりをおまえが用意できるのか」


商家の男が、人足の尻を蹴った。


「ああ、もう、その材は混ぜるな。印が違う。字が読めずとも、印くらい見えるだろうが」


人足の一団は辟易しているようだった。


もうやっていられぬ、という顔をした若い人足が、袋を荷車へ投げかけた。

商家の男が目を剥き、怒鳴りつけようと息を吸い込む。


だが、先に動いたのは、別の年嵩の男だった。おそらく、その一団の頭目なのだろう。

年嵩の男は若い人足の腕を掴むと、腹に沈むような声で一言だけ言った。


「口が裂ける」


若い人足は唾を飲み、袋を持ち直した。


それを見ると、年嵩の男は何事もなかったように一団の中へ戻っていった。


「遠江はずいぶんと荒っぽうございますな」


若い下役が眉をひそめた。


「さてな」


そう返しつつ、小次郎は筆を取った。


遠江口、田畑戻りつつあり。道良し。

商家、護衛なく積み替えなど行う。

頬こけたる子、剣呑な民なし。

若君の影、商家の荷にあり。


---


その日の夕刻、一行は宿に入った。


宿は混んでいた。奥の一間が用意されたが、板戸の向こうからは商人たちの声が聞こえてくる。

飯の匂い、濡れた草鞋の匂い、馬の汗、煮た大根、油の切れかかった灯明。

旅の宿特有の湿った臭気の中に、干した木綿の匂いが混じっていた。


小次郎は膳を前にしながら、隣の部屋の声を聞いていた。


異なる商家のすり合わせというより、愚痴に近いものだった。

奇妙な縁もあるもので、片方は昼間に見物した、あの怒鳴り声の男であった。


「うちの方は卸し先を見つけたが、そちらはまた政所へ寄せるのか」


「まあ、物が物だ。政所より許しを受けておるうちが、直に売らねばならんのよ。直に掛塚へ持っていっても、向こうで待たされるでな、政所へ寄る方が早い」


「袖の下は利かんからな。正直にやるしかない。こういうところが、ちと面倒だ」


「だがよ、荷が迷うよりましじゃろう。ほれ、井筒屋の件があったではないか。抜け道を見つけたなどと言って、遠江の国人衆に食われ、えらい損をかぶった」


椀を置く音がした。


「大目玉で、看板も持っていかれるという話か。まあ、評判も悪かったからな」


「木綿の件よ。ありゃあ駄目だ。質も悪ければ、売り方も悪い。以前の大河内様の頃のように、少し手癖で儲けようとしたのじゃろうが」


おお怖、と商人たちが笑い合った。


そこに、短い咳払いが響いた。


それだけで声が途切れた。あの年嵩の男だろうと、小次郎は思った。


小次郎は箸を止め、また筆を取った。


商家、掟を畏れること大。

されど掟、利を損なうものにあらず、利を守るものと覚えられけり。

これをもたらすは、


そこまで書いて、筆が止まった。


これをもたらすのは何なのだろうか。


小次郎は、部屋の隅で丸くなっている下役人たちを見た。彼らの仕事は多岐にわたる。

必要に応じて、辻商人を叱りつけ、場合によっては商品を取り上げることもある。

商人たちにとっては腹に据えかねることだろう。しかし、それでも商人は駿府に店を開く。


御屋形様に忠義を尽くしているからではない。そこでしか生きていけないからだ。


隣室の商人たちは、辻商人たちとは少し違うように思えた。


その違いについて、小次郎は思考を巡らせようとした。

だが、しばらく考えても、うまく言葉が浮かんでこなかった。


「分からぬことは分からぬままに、か」


これをもたらすは、未だ分からじ。


そう締めて、その日の日誌を閉じた。


----


翌朝、宿を出る前に、小次郎は荷を積み直している商人たちをしばらく見た。

やはり、先日から縁のある商人の一団であった。

人足、商家の者、近隣の農夫らしきものらが一塊になって、荷台を整理している。

少しでも多く積めるように、荷崩れが起きないように、隙間なく荷を詰め込んでいっている。


ようやく起床した若い下役が、その有様を見て小声でささやいた。


「昨日も橋で積み荷をいじってましたが、なんだって今日もやっておるのでしょうか」


「さて、な」


よくよく見れば作業は分担されている。

俵縄を結び直す者、荷布の端を畳み直す者、濡れた木箱を開け、中の油紙を確かめる者。

彼らは一通り荷を確認し終えると、商人の頭目に合図を送った。

頭目は重々しく頷くと、小さな紙片に何事か書き込み、荷に結びつけた。


小次郎はそれが嫌に気になった。


「もし、少しよろしいか」


頭目が怪訝な顔で振り返る。

笠をとると、小次郎が身分のあるものとわかったのか、一団が恭しく平伏した。


「忙しい中すまん。手を止める必要ないが、少し聞きたい」


頭目は、一団の幾人かのものに目配せをし、作業に戻らせる。

一団はこちらを気にしているようだったが、いつでも出発できるように馬の準備に取り掛かった。


「はい、駿府の御役人様。遠江の田舎者で、無作法やもしれませんが何なりと」


「わかるか」


小次郎に駿府よりの者だと名乗った覚えはなかった。


「まあ、あれだけ色々と見て回られておりますと、いささか目立ちますゆえ。それに遠江の方はわかりやすうございます」


「他国者は違うか」


「三河者だともう少し剣呑ですな。信濃者も似たようなもの。ただ甲斐者は餓えておるのか殺気立っており、皆避けます。

じっくり見聞なさるのは大抵遠江の方です」


余裕があると褒められているのか、呑気にすぎると責められているのか分からなかった。

小次郎は苦笑しながら、紙片を指した。


「そなたの申す通り見聞したが、すこし分からん。その紙はいったいなんだ」


ああ、これですかと頭目が結んだ紙片を手渡してきた。

細かな数字、それに付随する木綿、麻だの品目。二つの地名、最後に名前が載せてある。


「まあ、どこの湊、市でもやってはおられますな。

どの品をどれだけ積んでいるか、どこから積んでどこに持っていくか、あとは責任者の名前です」


「それはそなただけの工夫か。そなたの商家の流儀かなにかか」


「あえていわば、御方の工夫。御料の流儀かと」


紙片をのぞき見していた下役が、ふと口を挟む。


「いささか面倒では。どこかで手癖の悪いものが悪さすれば、書いたものと食い違いが生まれますし。

むしろもめ事の種になるのでは」


口を挟んだことは無作法だと思ったが、おおよそ小次郎も同感だった。

さらに言うならば、紙も似たもの用意し、品を盗んだ後、帳尻を合わせればよい。

手間だけがかかり、損をするのであれば若君が整えた湊を商人は避けるのではと考えたのだ。


「そういう向きもございますな。手続きに時間もかかりますし、その分荷の保管料も必要となります」


「では、御料に無理やり使用を命じられていると」


唇を尖らせた若い下役が続けると、頭目は皺を深くして笑みを浮かべた。


「いえいえ、実際これはこれで良いものでございますよ。

それに荷の保管料もそう高くはございませぬし、市にかかる銭もありませぬので、やはり御料での商売はやりやすうございます」


小次郎は積まれたいくつかの木綿を指さした。

数反の木綿はまだ染められていなかったが、乱れやむらもなく、丁寧に織られている。


「話は変わるが、これは三河のものか」


ずいぶん質がよかった。ただ、気になるのはそこではない。


「これは遠江の作にて」


「畳まれたところしか見えぬが、全て同じ長さかね」


頭目の細い目が見開かれた。

意外、という感情がはっきり見て取れた。


「ご明察にございます。長さも織も可能な限りそろえております」


「それも御料と御方の指図であるか」


頭目は深く頭を下げた。

小次郎は、次から次へ気になることが頭に浮かんだ。

さて、何から聞くべきか、そう思い懐の帳を取り出そうとした。

だが、その時、商人の一人が申し訳なさそうに声をかけてきた。


「仁平どん、こっちは終わったけど、もういいかね。そろそろまずかないか」


ちらちらと小次郎を伺い、遠巻きに言う。

頭目はすでに万全の準備が終わった荷を見やり、さてどうしたものかと思案顔だった。


「いや、こちらはよい。急ぎなのだろう、手間取らせたな」


「これはうちの者が申し訳ございませぬ」


商家の頭目、仁平は一礼をした。

しかし、内心は相当に刻限を気にしていたのか、素早く立ち上がるとそのまま一団に合流していった。

一団は各々小次郎に礼をしながらも、足を止めず、そのまま霧の立ち込める街道へと消えていった。


「よろしいので、商人どもは、若君御料のことをよく存じておるようでしたが」


「あれが御料の商人すべてというわけではなかろう。それに駿府の役人に足止めされた、商いの邪魔をされたなど商人に噂されるとかえって困る」


ははぁ、と下役は唸った。


「もう一人を起こし、朝餉にしよう。今日は山道もゆかねばならぬ。力をつけねばな」


そういって再度宿に足を向けた。


-----


三日目の昼頃、小次郎たちは御料の境に近づいた。

ずいぶん見聞に時間を使ったつもりだったが、それでも半日ほどは予定より早かった。

この行程の理由の一つは、小次郎たちが周囲の流れに押されたこともある。

御料への道は人がひたすらに忙しない。

荷を背負った農夫、女子供にまで抜かされると、さすがに急ぎ足にならざるを得なかった。


もう一つは道の状態にあった。

遠江の道は整えられ、可能な限り直線にしようとする意図が見えた。

駿河であっても、城や要地へ近づく道は意図して曲げられている。

敵が攻め入った時、少しでも足を鈍らせるためである。

だが、ここでは違った。

村々をつなぐ道は踏み固められ、荷車がすれ違えるほど広い。

さすがに山間や川辺では曲げざるを得ないが、それでも平野部では道の先を見通すことができた。


「ようやっと天竜川ですな」


年嵩の下役が言った。

小次郎らの眼前には竜の名を冠する川が広がっていた。

川には真新しい橋が架けられている。

橋は駿河では見ない構造だった。

木杭の橋脚を何列も打ち、短い桁をいくつも渡し、その上に斜め材で三角に固めている。


一目で若君の指図によるものとわかった。明らかに異質である。


「川が落ち着いていてよかったですね。雨が降れば、さすがに足踏みしたかもしれません」


若い下役が言う。

この日の天竜川の水面は陽を受けて穏やかに光っている。

だが、この大川は雨が降ると様相をがらりと変えることでも有名であった。

川幅が広がり、濁り、流木などで到底近寄れなくなる。晴れた日の顔だけを見て、侮ってよい川ではなかった。


「橋も架かっているが、雨の後だと近寄れんな」


小次郎が相槌を打つと、近くにいた子供が笑う。

それを見た下役がむっとした顔で一歩踏み出した。

母親らしき人物が即座に子供を叩き、子供と一緒に頭を下げた。

身なりからして近隣の農村の親子であり、御料に何か売りに行くところとうかがえた。


「やめよ。そちらも気にするな」


小次郎は下役を制した。

だが、ちょうど良いと、その親子に尋ねることにした。


「もの知らずで済まぬが、少し教えてほしい。この橋、雨でも渡れるのか」


異形の大橋を見て聞く。

子の母親は戦々恐々としながら、口を開いた。


「は、はぁ。半年ほど前の大雨で、川が荒れたときもびくともしませんで。なんともまあ、名前通りだと皆話しております」


半年前の大雨は小次郎の記憶に新しい。

そういえば、その折も御料からの報告は遅れなく届いた。

その時は疑問に思わなかったが、この橋が要因の一つなのだろう。


若い下役が橋に彫られた名前を見て顔をしかめていた。


「ずいぶんと、まあ、大層な名前だ。京の大橋でもつけますまいに」


「ですが、雨の日も渡れますし、びくともしませんでした。

御料様は崩れても直せるようにしたと仰せですが、うち等は直さんでも案外それくらいもつかもしれんと皆感謝しております」


子供の方は問答に飽きたのか、母親の手を振り払って橋の方へ駆け出して行った。

橋の中ほどで数人の子供が手を振って、その子を向かい入れる。

待っていた子供は身なりからして御料の町に住む子供たちだろう。


「あ、こら」


「よいよい、行ってくれ」


小次郎が言うと母親が急ぎ子供を追いかけた。


「本当にこの橋、雨でも大丈夫なのでしょうか」


若い下役が訝しげに橋を踏んだ。


「さて、一目でわからぬ工夫があるやもしれん」


小次郎はまたも帳面と筆を取り出した。

この度の橋のこと、近隣の農村と町の交流が深いこと、絶対に書かねばならぬことがあった。

だが、帳面の空きを探しても、ちょうどよい空きがない。


「だいぶ埋まりましたな」


年嵩の下役がいう。

初日の商人のこと、村のこと、木綿のこと、麻袋、紙片、田畑、治水と溜池など目についたものを全て記載してきた。

同じ事柄でも人によって違う意見があり、それらも重要だと考え、ことあるごとに帳に載せた。

気が付けばほとんどの項が字で埋め尽くされている。

まさか予備のもう一冊も埋まるとは小次郎も予測していなかった。


「替えのものがいるな。御料で手に入るとは聞いているが」


御料は紙も扱っている。正確には作っているのだ。

まだ少量だが上質な紙とのことだった。


「われらも用意した帳を埋めてしまい申した。着き次第少し店を回ってみましょう」


そうするしかあるまい、と小次郎は帳面と筆をしまった。

今聞いたことが書かぬうちに薄れることを少し惜しく思った。


ではと、一行は橋に足をかけた。

異形の大橋は、意外なことに地面と変わらぬほどに固い踏み心地である。

小次郎は歩みの中で橋のたわみは感じなかったほどだ。


大したものだ。御料を伸ばしながらこれを拵えたか。

いや、これを拵えたから御料が伸びたのか。


考えながらも橋の至るところが目に付く。緊急時はおそらく外せるであろう橋板。

斜めにかみ合わされた材。ほかにも色々と気になるところがあった。

それらに気が付くたび、小次郎の手が帳面に伸びた。


「急ぐぞ」


ぜひ日の高いうちに橋を見たかった。

その思いが足を速め、幾つかの荷駄を抜かし、一息で橋を渡り切る。


「由比様、あれを」


橋を渡り切った先。御料の門のすぐそこで、一人の男が待っていた。

年の頃は、小次郎よりかなり上。

日に焼けた顔に、山の者らしい硬さがある。

衣は上等ではないが、着崩してはいない。腰に差した刀も、飾りではなかった。


男は小次郎の前へ進み、深く頭を下げた。


「おお、由比様にございますな。御案内を申しつけられております。天野宮内にございます」


小次郎は、その名を聞いて目を細めた。


天野。


かつて今川に抗し、滅ぼされた家の名である。

その男が、今は若君御料の案内役として、御料の門前に立っている。


「予定より早かった。もしやずっと待っておったのか」


「まさか、駿府の方はおおよそ三日で着かれるので勘でござるよ。

それに商人たちが駿府からの見分だ、今はどのあたりだ、と騒いでおりましたので凡その目星もつきまする」


「天野はよう土地のものを手懐けておるな」


小次郎は、あえて嫌な言い方をしてみせた。

だが宮内と名乗った男は笑みを崩さない。


「いやはや天野の名など大したものでは。ただ御料は駿府に比べれば狭く、話が広がりも早いだけでござろう」


気を害したところはないようだった。旧主も家名も今はどうでもよいという風に見える。

だが、小次郎はこの天野宮内を知っている。

かつて氏親の遠江再平定の折、天野の名代として陣を訪れご容赦を願った。

何度も蹴飛ばされ、追い返されても平伏し、主命を果たそうとした人物である。


小物と見るのは危ういだろう。小次郎は喉を上下させた。


「おお、話し込んでしまい申し訳ございませぬ。ささ、この先が、御料にございます」


宮内は少し大きな身振りで、御料の本拠へ続く道を示した。

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